せつないというには、含むものが多すぎて唸ってしまう物語。
ツバメとトラネコ―ある愛の物語
著者:ジョルジェ・アマード
訳者:高見 英一
挿画:カリベ
発行: 新潮社
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始まりはちょっと神話のようです。
「風」の話す物語に夢中になって、皆が待っている太陽を登らせるのをしょっちゅう遅らせてしまう「朝」に、ちょっとお説教をしなければと思った長老の「時」。
でも、無限である彼はいつも退屈しているので、「朝」が夢中になってしまったという物語を語らせます。
その物語が気にいったら、今となっては珍しいものとなってしまった青いバラをあげよう。
そうして語られるのが、このツバメのお嬢さんと嫌われ者のトラネコの恋物語です。
強面で愛想のカケラもなく、さまざまな悪行が彼のものだと言われているもう若くないトラネコ。
一方、愛らしく、朗らかで、皆に愛されているツバメのお嬢さん。
なんの接点もなさそうな取り合わせです。
けれども、トラネコは噂されているような悪者ではなく、ツバメのお嬢さんもただ浮かれた小娘というわけではありませんでした。
心を通わせるツバメとトラネコ。
けれども、それはとうてい受け入れられることではありません。
それどころか昔からのタブーを犯して猫とつきあうなんてとウシにお説教をされる始末。
「でも、あのひと、わたしになんにも悪いことをしなかったわ……」
「相手は猫ですよ、そうじゃありませんか。それも、縞の雄猫ですよ!」
「猫だ、それも縞の雄猫だという理由だけで?でもわたしたちのようにハートを持っていて……」
「ハートですって?」
ツバメの言葉をきいた牛は怒って叫ぶのです。
「彼にハートがあるなんて、いったい誰に教わりました?誰がそんなことを言ったの?」
「あのう、私が考えて……」
「あなたはあいつのハートを見たことがあるの?さあ、返事をなさい!」
「たしかに見たというわけではないけれど……」
そもそもハートなんか見えるものじゃないだろ。アンタのハートは見えるのか?見せてくれるっていうなら同じ方法でトラネコのハートも見えるようにしてみせてくれるわ、と、ウシに言いたくなりますが、なかなか言えるものでもない。
ツバメはトラネコにハートが、しかも繊細で熱いハートがあることを知っています。でもそれをうまく言えないところへ怒涛の追い打ち。
偏見だというはたやすいけれど、ウシたちやツバメの親たちや他の動物たちが守ろうとする掟は彼らを守ってきた掟でもあって、それを覆すのは難しいことです。
それでも、この後も、ツバメのお嬢さんはがんばります。
ちょっとやそっとじゃへこたれなかったし、トラネコもいっしょうけんめいツバメを想うのです。
これがなんともいじらしく、愛らしいのですよ。慎ましやかで。
でも、どうにもならないことってあるのです。
まだ時間が足りない。
もっと時間がかかる。
手をつなぎ合うことになんの隔たりもない、とは、今、この時でさえ、言いきれはしないでしょう。
「住む世界が違う」。
よく見聞きする言葉ではありませんか。
額縁になっている「朝」や「風」、「時」の部分や、登場するのがたくさんの動物たちだということは、物語をおとぎ話のような印象にしますが、ウシが自分の住む町のお隣のおばさんであってもなんの不思議もなく、動物たちの掟は根拠があるのかないのかわからないまま人を呪縛する「常識」、この世界のいたるところに存在する有形無形の壁なのだと言えるのでしょう。
かわいいお嬢さんとうらぶれたおじさんの恋物語として読んだとしても、それはそれでやはりせつないけれども、せつないというには、含むものが多すぎて唸ってしまう物語でした。
追記:この本は「本が好き!」に登録されたベックさんの書評で知りました。Amazonにもベックさんのレビューがあります。残念ながら絶版。図書館からお借りました。