みっちり、ねっとり、どっぷり幻想一色。
幻想建築術
著者:篠田真由美
発行:PHP研究所
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もはや望みもないほど病み衰え、緩慢に、しかし確実に死へと向かっている老人が、まず登場します。
序章となるのは、病苦と近づく死が彼にもたらす酩酊と、彼の人生、そして彼が終の棲家とするべくつくりあげた館についてが語られる長い長い独白。
いかにも幻想小説らしい、くらくらするような字面の言葉たちが並ぶページが続くその中で、最初の問いはなされます。
「神とは?」
突然、老人の横たわる棺桶にも等しい寝台の上に現れたもの、美しいけれど、誰とも何とも定かではないその存在からの問いかけと、老人の答えによって、老人自身が贅と趣向を凝らし、心血、妄想、ありったけの美意識でつくりあげた館は、名も明かされぬ<都>となり、世界をひとつ、つくりあげます。
迷路のような石畳の小路の薄暗さ、澱んだ水の臭いを想像させる<都>。
そして、<都>を中心とした世界の創造主として人々が信仰する<至高神>。
いやでも中世ヨーロッパを連想させる都市で、得体のしれない闇やら蜜やらが滴るような悪夢が連なり、登場人物たちが、繰り返し繰り返し神の存在について問い、問われるうち、次第に世界の秘密が明かされていきます。
みっちり、ねっとり、どっぷり幻想一色の作品。
もし、同じように贅を凝らし、美意識のすべてを注いだとしても、老人の館が、総檜の書院造や数寄屋風だったら、こういう夢にも、世界にはならないよねぇと、思ってしまいました、読みながら。
ある意味、作品を台無しにする想像ですが。
そもそも、創造主としての<神>を想像しにくいのですよね、純和風だと。世の<理>は意識しやすいのですが。
建築物をみるとき、どうしてもそれを望んだ土地、ひいては文化・思想を思わずにいることはなかなか難しいですからねぇ。
逆から言えば、ひとつの建築物をデザインすることはひとつの世界をつくりあげること、ということでしょうか。
いや、ひさしぶりでこんなに、どっぷりなものを読みました。
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