青鬼と歩こうよ

ひろすけ童話「泣いた赤鬼」の青鬼です。青鬼と歩きませんか?
生きる元気を、さしあげたいのです。

今日はウツなり?

2007年08月27日 22時32分49秒 | 日記

橋本郵便局へ発心集のゲラを出しに行く。
不在預かり書籍小包も受け取る。
小包は、関口真魚和尚の『童話随想』だった。
そのまま街道歩きに出たかったんだけど、
結局、出家遊行の気分にはなれず。
会津行きは延期する。
それではと、ローヤルに寄り、
鉢底用軽石と、桔梗を買って帰宅。
夕方まで庭の下草刈り。
猛暑と下草が伸びすぎたせいか、今年は蟻の被害が多発?
枕木の階段と楓の古木と、
馬酔木と主木の沙羅にまで蟻の巣を発見!
馬酔木は虫も食わぬと聞いたが、
蟻には負けるらしい。
箱根から移植した熊笹も葉に斑点?
とにかく下草を刈って風通しだ。
桔梗は寂しくなったストロベリーポットに植え込む。
汗を流してシャワーを浴びたら、
少し気分が上向きになった。


川の光

2007年08月27日 00時28分33秒 | 日記
川の光
松浦 寿輝
中央公論新社

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日曜日の毎日新聞朝刊で、川の光の書評を読んだ。
夕方、橋本meweの寿司屋へチカラとルネさんの夕食会にご相伴したついでに、
有隣堂で探したけどまだ山積みコーナーには無かった。
ネズミの親子の冒険物語なんていうから、
相模原の本屋にはすぐには来ないのかな?
童話じゃなくて、東大での芥川作家の小説だよ。
昨日8月25日土曜日の夕方、イケヤから帰ったら、
四季社編集部からゲラが届いていた。
四月十五日に入れた発心集のゲラが、今頃だ?
担当の藤さんから、
校正したら26日の午前中までにFAXで送り返してください。
と達筆の添え書きが入っていた。
「え?26日って明日まで」
ホントは日曜から月曜日にかけて会津西街道へ行くつもりだった。
また、出かけられない?
昨夜は寝床で2時まで校正した。
14編(15編のうち1編カットされてた)の原稿だ。
そう簡単にできるわけがない。
途中で寝ようとしたけど、どうも終わりまでやらないと眠れない性分だ。
結局、何度も起き出して5時までで全編校正した。
久しぶりに表記辞典を引き直して、
校正と言うより推敲した。
とりあえずFAXしたが、
明日は一番で本局へゲラを投函しに行こうと思う。
その足で、会津西街道へ出かけるかな?

匂いのある童話2

2007年08月25日 02時17分49秒 | 俳句
その日は、すこぶる付きの上天気だった。
私は、久しぶりに一人で金時山に登ってみた。
澄んだ山頂の空気を吸うと、下界のしがらみを忘れる。
金時山頂で茶屋を営んでいる初代金時娘の小見山妙子さんは、
私と同年で中学時代からの友人だっだ。
 その時、金時茶屋の縁台に坐っていた客の一人が、私に声をかけた。
「失礼ですが、もしかしたら、あなたは沼津の盲学校へ
お話をしにいらっしゃったことがありませんか。」
妙子さんが、けげんな顔でその人を見た。
まだ二十歳を過ぎたくらいの青年だった。
「確かに十年ほど前に伺ったことがありますが。」
「やっぱりそうでしたか。連れが聞いてみてくれというものですから。」
青年の連れは、目の不自由な美しい娘だった。
娘は恥ずかしそうに私に向かって会釈をした。
「私たちは、沼津盲学校の同窓生なんです。
私は、あのとき六年。三洋子は五年生でした。」
「なぜ、私がわかったのですか。」
「三洋子が、あなたの匂いを覚えていたんです。」
「ぼくの匂いを。」
「実は私も、あなたのお話を聞いていたのですが、
後の席にいましたし、匂いまではわかりませんでした。
あの日、三洋子は一番前の席にいたのです。」
小学生も、十年たてば青年になる。
後天性の弱視だった青年は、手術のお陰で視力を取り戻したそうだ。
彼女は、光を感じる程度の先天性の光覚盲だった。

「三洋子は、幼いときから嗅覚の訓練をしていたのです。
彼女は先天盲でしたから、
両親が、聴覚に併せて嗅覚も鋭ければと考えたそうです。」
香水の香りを識別する人は、十万種くらいの匂いを嗅ぎ分けられるという。
記憶と匂いが結び付くことも実証されていた。
私の童話を、彼女は全身で聞いてくれたのだ。
「昨日から私たちは、新婚旅行で箱根に来たのです。
あなたの童話に出てきた金時山に登って
富士山をバックに写真を写そうって、三洋子が言い張るものですから。」
私は、自分の匂いに自信を持ってよいんだなと思った。
でも、いったい、私はどんな匂いがしたのだろうか。
私は彼女に尋ねてみた。娘は頬を染めながら私にこう答えてくれた。
「山の匂いがしました。先生の匂いは箱根山の匂いだったんだと、
此処へ来てわかりました。」
私の風土は、箱根山だったのか。
私は妙子さんに同じことを聞いてみた。
「そういえば、秀行さんは体臭が薄いみたい。男臭くないわ。」
しばらく前に結婚した純朴な旦那が、そばでもくもくと働いていたが、
男臭くないと言われては少々暗くなった。

茶屋の外で、二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、
私は、茶屋の奥にいた純朴な旦那と妙子さんに別れを告げた。
その時、妙子さんは、一人で下山口まで見送ってくれた。
そして、さよならの握手をした私の手を握り返しながら、こう言った。
「本当は、秀行さんの匂い、私もわかるんよ。
でも、この頃だいぶ薄れてきたけれど。」 

匂いのある童話1

2007年08月23日 18時16分25秒 | 俳句

                   ●台東区街頭巡回子供会                                             


「きみたち、お話きくかい。」
  私は、キャバレ―白馬車のネオンの下で、おそるおそる子どもたちにたずねてみた。
「どんなお話するの。」
  寿司初の美和ちゃんは、髪の長いいかにも浅草的な女の子だった。
午後八時をまわっていたろうか、浅草六区の映画街は、
最後の呼びこみで賑やかだった。
「恐いお話がいいな。」
  釜めし春の兄弟が、石だたみの上からメンコを拾いあげて言った。
「お兄さん、この路地からストリップショ―が見えるの知ってるかい。」
  角の水菓子屋の一男が、私を見上げて大人のように笑った。
  一週間後のメ―デ―の日に先生が出払ってしまう早稲田の小学校で、
私が所属する早大児研が総出で、教室童話をすることになっていた。
私は、この四月に入学したての新入部員だった。
「ストリップは、こんどでいいよ。お話、聞きたいだろ。」
「恐いお話ならね。」
  児研の先輩に「いくらせがまれても子どもに怪談を話すのはよくない」
と言われていた。
怪談ではないが、恐いお話。
小川未明の代表作「赤い蝋燭と人魚」、それが私の第一回街頭童話の演題だった。それから、一週間、毎晩私は「赤い蝋燭と人魚」の話をせがまれた。
怪談ではない恐い話を、それしか私は知らなかったのだ。
「先生。図書館つくるってほんと。」
  ある夜、五年生になった一男が真剣な顔で私にきいた。
いつの間にか私は、お兄さんから先生に昇格していた。
「図書館なんてもんじゃないけれど、
町内会事務所の二階にみんなの読む本を置こうと思ったのさ。」
「それなら、ぼくたちがその本を集めてくるよ。ぼくたちの図書館だものね。」
  私は、その言葉を生涯忘れないだろう。彼らは集めてきた。
当時人気一番の立川文庫が数十冊、
三か月位かかってわれらが本棚にずらりと並んだ。
「どこでもらってきたんだい。」
と、私は笑いながらみんなにたずねた。
「もらったんじゃないよ。」
と、一年坊主のたあ坊が言った。
「お兄ちゃんたちが、墨田公園や今戸まで行って勝負で勝ってきたんだよ。」
「勝負。」
「そう、勝負さ。」
  一男たちは、本当は秘密にしておきたかったんだという顔で私を見た。


  大学二年の夏、
私は、沼津盲学校小学部の全生徒三十四名の前に、こちこちになって立っていた。盲目の子どもたちは、私が教壇に立ったのに拍手をしないどころか、
まるで私に関心を示さなかった。
  生徒たち全員が、横を向いたり、下を向いたり、あらぬ方に顔を向けていた。
私の背後には、次に演ずる予定の人形芝居の濃紺の幕が、
同行した早大児研の仲間たちを隠して垂れていた。
幕の裏の仲間たちも緊張していた。
  私は、ますます固くなったが、勇気をふるって声をかけた。
「みなさん。」
  とたんに、子どもたちのうつろな目が、私をいっせいに見た。
「こんにちは。」
  次の言葉をかけた時、私は、目をつぶっていた。
光のない穴のような目の集団に見つめられた恐ろしさに、
目を開けていられなかったのだ。背筋に冷汗が流れるのを感じた。
  それでも、私は目を開いて、話を続けなければならなかった。
私は、右手の人差指で窓の外をさしながら、いつものようにこう叫んだ。
「あれ、あんなところに、・・・」
「黄色い蝶々が飛んでらあ。・・・と、三平ちゃんは、いいました。」
  私は、出だしから失敗だと思った。
目の不自由な小学生たちに、黄色なんてわかるわけがないじゃないか。
しかし、子どもたちは、笑いだした。
目の見える子どもたちが、いつもそこで笑うよりも、もっと大げさに、
蝶々が、まるでこっけいのかたまりででもあるかのように、手を叩いて笑っていた。
「あれ、こんどは、茶色い犬がくるよ。すてきな銀色の首輪をしてる。」
  もう、だめだった。
いっそう笑いころげる三十四人の子どもたちの前で、
私は、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
  愉快な話だった。
盲学校の生徒たちの目には、きっと、私が心に描いた蝶々や犬よりも、
もっと愉快な蝶々や犬が、映ったにちがいない。
背中を折り曲げて、隣の子の背中を叩いて笑っている女の子もいた。
もちろん、私の頬を流れる涙が、子どもたちに見えるわけはなかった。
私は、涙を左手の甲でぬぐうと、
再び、ゼスチュアたっぷりの、得意中の得意の愉快な童話を話し続けた。
「三平ちゃん。お母さんには何も言っちゃいけないよ。秘密だよ。」
「うん。わかった。ひ・み・つ・だね。」
「うん。ひ・み・つ。」
「・・・そして、善太と三平は、金時山の頂上に着くと
富士山をバックに写真を写しました。これで私の話はおしまいです。」
  その時、私は、最後の最後まで、
盲学校の生徒に理解出来ない口演童話をしてしまったのだ。
それから、しばらくして私は、自分の話している童話の価値について、
しきりに考えこむようになった。


それから、しばらくして私は、自分の話している童話の価値について、
しきりに考えこむようになった。

「いいかい、きみ。
大切なのは、学校教育はその他おおぜいをつくるけれど、
童話は、そうじゃないということだよ。
人は、パンのみに生きるにあらずだ。
パンは政治だよ。宗教、芸術は、おかずなんだ。
童話は、風だ。
子どもたちは、風といっしょにパンを食べるのだ。」
  私の話を聞いた、
平塚武治先生は、飄々とした顔で、こう教えて下さった。
「風といっても、ただの風じゃない。
香りのある風。きみの童話には、きみの匂いを出すんだ。
わかるかい。」
「個性のことですか。」
「個性といってはつまらない。
風土といってもらいたいね。
宮沢賢治は岩手。
新美南吉は愛知。
坪田譲治は岡山。
浜田広介は山形の匂いがする。」
  風土の匂いか。
そういえば浅草の子どもたちには、確かに浅草の匂いがした。
  しかし、私には自分の風土がわからなかった。
出生地も本籍地も、浅草一丁目になってはいたが、
生まれたのは東横線の綱島らしい。
それから下谷の根岸、上野桜木町、市川市北方、
疎開で吉野の大淀町、
戦後市川に戻ったが、
高校一年で兄と二人で浅草の店の二階に移った。
兄の結婚で浅草を離れて綱島へ。
早稲田、市ヶ谷、駒込、鎌倉、元住吉、保土ケ谷、強羅と、
幼い頃から転々と住家が変わった。
下谷の根岸小学校を皮切りに
小学校が二校、中学が四校、高校が二校、
大学が二校。転入学さえこれだけある。
「風土も、香りもない男か。
そんな男が、
どうやって作品に匂いをつけようというんだ
。」


演歌とポップスが逆転?

2007年08月20日 01時38分45秒 | 日記
猛暑が戻って来ましたね。
海水浴で今日も死人が出た。
川でも、山でも、帰省帰りの高速道路でも!
でも、でも、
何処へも行かないで部屋でジットしてた老夫婦が
クーラーがなくて死んだなんて話はひどすぎませんか?
阿久悠さんが亡くなって、
このところ新聞に阿久さんの話が時々出ます。
”現実の悲哀を描くのが演歌”なんですってね。
その反対にあるのがポップスで、
”憧れの世界を描く”のがポップスなんですって。
朝、目が覚めると紅茶の匂いがして、
白いレースのカーテンが窓辺で揺れている。
それが、今では、そんな生活は当たり前になった。
演歌の世界の方がメルヘンになったんだって、言うのです。
そう言われれば、阿久さんの名作、
”北の宿”や”津軽海峡冬景色”なんかは、
もう、現実の話じゃないのかも?
昭和がレトロの時代になって、
江戸や明治の町並みよりも
今では昭和の町並みが観光スポットになっているんだって?
変化してるのは自然だけじゃない。
日本人も温暖化し始めてるのだね?

ボクの8月15日

2007年08月15日 20時48分14秒 | 日記

終戦記念日と言わないで敗戦記念日と何故言わないのか?
あの頃は写真なんて、めったに写すことがなかった。
だから、この写真は貴重な写真だ。
市川市中山小学校4年1組。
ドッチボールで中山小学校最強のチームだった5年2組に勝った記念に、
写した写真だ。
5年2組は女子組だ。1組は男子組。
3組は男女組というキマリだった。
ドッチボールは、昔も今も女子が強い。
その5年2組に勝ったのだ。
嬉しかったんだろうな。先生も。
ボクの、いやボクたち4年2組のみんなが
大好きだった先生の名は、引田耕作先生だ。
先生は、ボクが3年生になったとき
師範学校を卒業して中山小学校に赴任した。
先生は、ボクたちの担任として3年、4年の2年間、
精一杯教えてくださった。
3月28日生まれのボクは、
クラスでも一番チビだった。
2年の新学期に上野の根岸小学校から転校して来たボクは、
まだ田舎だった中山小になじめなくて、
しょっちゅうずる休みをした。
2年生の担任は中年の女先生だった。
意欲がなかったのか、生活に疲れていたのか?
いつも自習にして、教室の右隅で先生用の机に肘をついて居眠りをしていた。
担任がそんなだったから、母も無理にボクを学校へ行かせようとはしなっかた。
隣町に私立の小学校があったので、
新学期には転校させようと、母は考えていた。
でも、3年生の担任が若い男先生と聞いて、転校の話は消えた。
引田先生は、母の期待通りの先生だった。
勉強はもちろんだが、
都会育ちのひ弱なボクが、
こんなに強くなれたのは先生のお陰だと思っている。
春秋は、僕たち3年1組は毎朝授業前にマラソンをした。
小学校から北に向かうと中山競馬場がある。
小学校からそこまで走って帰るのだ。
途中に山下清のいた八幡学園がある。        
冬になると、3年で柔道を。4年生で剣道を教えていただいた。
朝礼の後では、亀の子タワシで乾布摩擦もやった。
もちろん、引田クラスだけだった。
4年生の時は、中学進学希望者だけ残り勉強もしてくださった。
ボクのようなずる休み常習生徒は、先生の下宿に泊めて銭湯に行った記憶もある。母が、特別に頼んだのかも知れません。
4年生最後の授業の日に、黒板のまん中に一枚の半紙を貼った。
半紙には、先生得意の力強い”何糞”という墨の太い字が書いてあった。
先生は、いつもの通りに静かに話した。
「みんな、ドッジボール大会決勝戦の前の日に、
この字を全員で書いたのを覚えているな。
忘れるなよ。あの書道の時の気持ちを!
先生は、お前たちを守るために軍隊に志願する事に決めたんだ。
今日でお別れだ。この言葉が、5年生になるみんなへの遺言だ。
みんな、あと2年間、卒業まで助け合ってたくましく生きるるんだぞ。」
先生は、まだ二十歳になったばかりの若さだったと思う。
日本が、このままでは勝ち目がないと思っていたのだろうか?
きっと、招集令状を待ってはいられなかったのだ。
だから、志願兵として軍隊に入った。
5年生の時に、新しい担任の先生に、引田先生が予科練に志願して、
戦闘機の操縦訓練をしていると聞いた。
そして、6年生のある日。
先生の訃報が来た。
神風特攻隊員になって南の海で、敵艦に体当たりした。
わかるだろ?
8月15日になると、ボクが、先生を思い出すわけを。


ちょうちょう

2007年08月13日 23時47分16秒 | 俳句

   ちょうちょう


 ちょうちょう
 おまえは けむしだ        
 いやな けむしだ
 ほんとに まえには けむしだった

 だのに おまえは きれいな ちょうだ

 ちょうちょう
 かわいい はなを たべるなよ  
 けむしの うちにも 
 たべるなよ

きょうはお昼前に目黒へ寄って、
それから、神谷町まで出かけました。
虎ノ門4丁目の秀和神谷町ビル9階に、お金を借りに行ったのです。
WAMのお嬢さまは親切でした。
銀行は、預金する客より、借りる客に愛想がいいと、昔、父に聞きましたが、
でも、ここは銀行じゃあない。利子も安い。
さすが虎門のお嬢さまだからでしょうか?
もちろん、借りるのは、
新しい保育園の建築資金です。
虎ノ門は暑かったです。
地下鉄神谷町駅で、少し前までは六本木側から地上に出て、
かならず角の光明寺に行ったのですが。
靖子お母様は、もういません。
大好きな昭ちゃんも、もういません。
ですから、きょうは、虎門口を出て、
ビルの9階に上がりました。
もしかすると、きょうはお盆の入り。
二人とも帰ってきてるかもしれません。
けれども、お盆のお寺は大忙し?
南無阿弥陀仏は、ここからにしよう。
そう思いながら虎ノ門口を下り、
シャッターを半分下ろした長崎皿うどん屋の横に立って、
ちょっとだけ合掌して改札を抜けました。
地下から生温い風が吹いて、
汗が黒い帽子も濡らしました。
恵比寿のつばめグリルでランチを食べて、
目黒の設計事務所に寄りました。
権之助坂 も暑かったです。
旧のお盆の入りの日に、
汗を流すのも供養でしょうか?


 


よいこが

2007年08月12日 23時50分17秒 | 俳句

 
  よいこが

  よいこが とんぼを おいかけた
  とんぼは よいこが こわいから
  つうい つういと ひまわりの
  はなを かすめて にげていく

  かみきりむしの ながいひげ 
  ぶらりん ぶらぶら ぶらさげて
  よいこが あのこと はなしてる

  くわがた かなぶん かぶとむし
  よいこが むしかご さげてくる
  つくつくぼうしよ そらにげろ
  おしっこ かけて にげていけ 
  

一日、惰眠を貪っていたら、書くことがなくて、
若い頃に作った青臭い詩で誤魔化したんだ。
でも、青臭いと言うことは、いま読むとカビ臭いシャツみたいだ。
何だか、気負ってるのかな?形に囚われすぎてるのかな?
ボクとしたことが、添削する気にもなれない。
駄目だね。お茶濁しは? お茶汚しだっけ?             


鹿沢ゆり園

2007年08月09日 16時28分10秒 | 日記
湯の丸峠を越えて嬬恋村迄下る。
鹿沢スキー場のゲレンデに百合が七分咲き?
流石に見応えありだ。
登りはリフトに揺られゲレンデを百合の花を見ながら歩いて下りる。
暑い。
疲れないが午後の陽射しは汗を搾り出す。

峠の釜めし

2007年08月09日 15時08分57秒 | 日記
佐久インターの真っ正面に横川峠の釜めし本舗あづまやがある。
駅弁ならぬドライブインの二階で釜めしを食べる。
昔ながらの益子焼の釜の蓋は持ち手が退化して平らに変わっていた。
多分重ねるのに都合がよいのだろう。
釜めしは、杏や栗が甘みを増して美味だった。
信濃名物そば迄付いて峠の釜めしセットは大満足の量だ。
この店の近くに小雀保育園がある。
ただし、保育園訪問は明日だ。
今日の最初の見学場所、丸山晩霞記念舘に着いた。
晩霞画伯は、同行の佐野夫人の曾祖父だとか!
太平洋画会創立メンバーだったと。
晩霞は水彩画家として日本近代洋画に新風を吹き込んだという。
ボクの恋人も太平洋画会会友だった。
日暮里駅裏の太平洋画会の学校前で
彼女を待っていたことを思い出した。
バスは今、
鹿沢スキー場に先月オープンしたばかりの
百合園に向かって急坂を登っている。

ボクのエコ

2007年08月08日 22時29分41秒 | 日記

第2保育園の屋上に、涼風が吹き始めたらビオトープと野菜畑を作ります。
ビオトープの中には小さな池を作って、メダカやドジョウを飼おうかと思います。
今から六年前に、まだ屋上緑化が珍しい頃、
第1保育園の屋上にご近所に住む庭作り技能士の小嶋さんを
渋谷区役所別館の屋上へお誘いして、
”こんな庭を造りたいんです。一緒に作って見ませんか”
とお願いしました。
材料集めに時間がかかって、
作業を始めたのは七月半ばでした。
ちょうど今頃、炎天下の屋上で
ボクは、小嶋さんの操作するクレーンで揚がる黒土の袋や植木や、
太平洋に浮いていたという流動木を抱えて屋上に据えました。
真夏に植えた芝もソヨゴも、
ちゃんと枯れずに育ってくれました。
あの感激を第2保育園の屋上で、
今度は、子どもたちにも味わって欲しいのです。
真夏の庭造りの過酷さは、ボクには、もう無理だと思います。
だから、猛暑が過ぎて、少し涼しい風が吹き始めたら作業を始めます。
ご一緒に屋上のビオトープと畑造りをしませんか?


注:写真は完成した庭を眺めてホッと一息する小嶋の兄貴!撮影はボク。


ちびに絵を

2007年08月08日 02時14分04秒 | 俳句

アクセスが昨日は158人?
嬉しいです。
書類に追われてもブログを休めません。
暗いニュースばかりです。
そう言うときは、こんな歌もいいですね?

   ちびに えを あげたんですって いえ
   はじめに ちびの えを かいたんでした
   
   そのえを
   いぬごやの かべに ぼうやが はって あげたのです
   ほんとですとも
   いぬごやの かべに
   ちびの おすわり してる えが 
   はって ある

   ちびは ときどき えを みてる
   したで ぺろっと なめて みる
   クレヨンの かおは ちょっぴり あまい
   かあさん みたいな あじが する