阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

荒野で叫ぶ者の声

2015-08-04 13:37:35 | Weblog

2015.8.2.荒野で叫ぶ声

聖書 ヨハネ1:19~23

題  荒野で叫ぶ声

 

暗唱聖句 マタイ3:1~2

「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣(の)べて、言った。

 『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」

 

はじめに

 7月19~21日に、私たちは、大洲青少年の家で開催された四国ファミリーキャンプに出かけました。当教会から5人参加しました。講師は長沢崇史先生で、北海道のカナン・プレイズチャーチのユースパスターです。彼は小学校6年から賛美歌を作り始め、作曲した多くの賛美歌は日本中で歌われています。現在まで20枚のCD制作に携わりました。長沢先生はいろいろなキャンプに呼ばれ、日本47都道府県を全部回って、若い人たちのネットワークを作っておられます。また、24時間の祈りの塔のディレクターもしておられます。

彼の自己紹介は「私はおバカです。」でした。バカと言うのは辞書によれば、①社会的常識に欠ける。②後先がわからなくなる。③限度がわからない。④バカとは一つのことしか見えない人。しかし、一つのこと、ただ一つのこと、イエス様のことに夢中になり、イエス様のことに心が向いたら、素晴らしい!僕はそういう意味で「おバカです。」

今日はバプテスマのヨハネの話を通して、今はどのような時代か、私たちはどのように生きるべきかについて、お話します。(これは長沢先生のキャンプの聖会Ⅱのメッセージです。)

1.今の時代はどのような時代か。

 今の時代はどのような時代でしょうか。「真理」と「偽り」が混ぜられています。教会の中にも、混ぜ物が入っています。真理を真理として、牧師が「これが真理だ」と言えない時代に入っています。

ある日、友人から電話がかかってきました。彼はひどく怒っていました。「これが怒らずにいられるか」と言って、話し始めました。

教会で賛美の練習をしていた時でした。統一教会(異端)の2人の婦人がきて、話がしたいと言いました。忙しかったので、時間が無いと言ったら、このDVDを見てくださいと言って置いて行きました。ちょっと時間ができたので、何のDVDかと思って、見てみました。するとクリスマス集会のものでした。一見、キリスト教会のクリスマス会のようでした。賛美もキリスト教会のものを使っています。しかし、「イエス様」の名前のところが「文鮮明氏」の別の呼び名である「父母様」に書き変えられていました。もっと驚いたのは「我が神」という長沢先生が作った歌が「イエス様」のところを「父母様」に書き変えられ、歌われていた、と言うのです。統一教会で使われている、偽りのものに使われている。友人はすごいけんまくで怒っていました。そして、この統一教会の人に、言ったそうです。このDVDの中の歌は友達が作ったのだから、これを配布しないでほしい。著作権侵害だと告げたそうです。

それから、アメリカでは「同性愛」の結婚が認められてきています。アメリカで、「同性愛は罪だ」と言ったら、刑務所に入れられるかもしれません。まず、人権団体がさわぐでしょう。しかし、聖書では同性愛は罪です。認めていません。日本でも「同性愛は罪です。」と言ったら、捕まるようになるかもしれません。そういう時代なのです。

 

 終りの日に神は神の軍隊を整えようとしておられます。私たちのゴールはイエス様と直接お会いすることです。イエス様の再臨を待ち望んでいます。イエス様が再び来られること、これが私たちの希望です。主が帰って来られる。その日まで走り続けたい。

 

2.ヨバプテスマのハネの自己紹介「私は声です。」

 バプテスマのヨハネはイエス様が来られるために、その道を整えた人です。ヨハネ1:19~23を読むとわかります。人々はバプテスマのヨハネがキリストかもしれないと思っていました。それで、ヨハネのところに使いを出して「あなたはどなたですか。」と尋ねさせたのです。私だったらこう答えます。「長沢崇史です。牧師です。」と。しかし、ヨハネは最初からこのように答えました。「私はキリストではありません。」人々は言いました。「キリストでなかったら、何ですか。エリヤですか。預言者ですか。」「私たちは遣わされてきた人々に返事をしなければならないのです。あなたは自分のことを何だと言われるのですか。」と聞きました。すると、ヨハネは言ったのです。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と言いました。

 

彼は「私は声です。」と言ったのです。私たちはいつ、声を使いますか。しゃべる時です。声は何を届けるのですか。声は気持ちを言葉にして届ける時に使います。声は言葉を届けるのです。そして、届けたら消えるのです。「ことばだけを残していく。」これが声の役割です。「ことば」は誰でしょう。それはイエス様です。バプテスマのヨハネは言いました。「あの方(イエス様)はさかんになり、私は消えなければなりません。」これこそ、主の道を備えていく者のあるべき姿です。イエス様のことだけが人々の心の中にとどまり、残されて行く、後は消える。それほど栄光に満ちたものはありません。

 

3.イエス様だけを求める。

 以前、大阪で若者の集会を開いたことがありました。ゲストや講師を呼びませんでした。若者だけを集めたのです。3日間で30の都道府県から1500人以上の人が集まりました。イエス様だけを求め、祈って、歌って、踊ったのです。この国が必要としているのはイエス様だけです。このような若者たちが増えているのです。

 

 ヨハネはどのような宣教をしたのでしょうか。実に簡単でした。マタイ3:1~2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」イエスさまも同じことを言いました。私たちの宣教は「あなたは愛されています。」から始まります。しかし、ヨハネは不義に対して、妥協しませんでした。人々の反応はどうだったでしょうか。彼が人々に水のバプテスマを授けている場所に、エルサレム中から、またイスラエルの国中から、大群衆が押し寄せてきたのです。

 

バプテスマのヨハネの言葉には力がありました。言葉と生き方が同じである時、その言葉に力があります。なぜなら、それは真実な生き方になるからです。マタイ3:4の姿、これがヨハネの生活スタイルでした。ラクダの毛の着物を着、腰には皮の帯をしめ、その食べ物はイナゴと野蜜でした。荒野だから、食べ物が無かったのかもしれません。ヨハネは祭司の家系に生まれた人です。祭司の家系は貧乏ではありません。そのまま、裕福な生活をして良かったのです。しかし、彼は荒野に出て行きました。荒野は、主を待ち望む生活の中で、主の言葉を聞く所です。皆さんの言葉に力があるとしたら、皆さんの生活が変えられた時です。

 ある時、私も行き詰まりを覚えました。夜、眠れなくなりました。仕方がないので会堂でポツンと座っていました。主は言われました。「あなたの一番の願いは何だ。」私は日本の救いを願っていましたが言えませんでした。すると、聖霊がある思いを思いおこさせてくれました。「私は、イエス様のそばにいたい。そのうるわしさを味わいたい。私はイエス様に献身する者になりたい。きっと神様の願いもそうだ。」と思いました。すると、主が「わたしもあなたと一緒にいたい。」と答えてくださったのです。それから、私の生活に変化が起こりました。主の臨在が楽しい。言葉に力があるようになりました。そのうちに教会の若者たちが祈り、24時間の祈りがささげられるようになりました。そして、彼らがメッセージをするようになりました。そのメッセージもヘブライ語から深いものが与えられています。

4.生活を変える。

私たちは生活を変える必要があります。メッセージに感動しても、それを実行しなかったら同じ所にとどまるだけで、変化がありません。私たちの生活を考えてみましょう。食生活を変える。これはわかりますね。前に「スーパーサイズミー」と言う映画がありました。ハンバーガーを食べすぎて肥満になったという女性の訴えから、思いついた映画でした。マクドナルドなどのファーストフードだけを食べるとどうなるかと言う実験をした映画です。肥満になる、身体はボロボロになる、歩けない、精神的にも生きて行きたくないと言ううつ状態になって行きました。この実験は、途中で医師から、「これ以上この実験を続けてはいけない、命が危ない。」と言われました。

食べ物は大切です。霊の食生活も大切です。霊も体と同じで、常に食事を必要としています。霊の食生活も変えなければなりません。霊の食事は目と耳から食べています。見る物、聞くものは聖別されなければなりません。ずっとテレビを見ている人、この人は聖書を読もうとは思いません。なぜなら、テレビを見ることで霊が満足しているからです。テレビは食事で言ったら、お菓子にあたります。お菓子で霊のおなかがいっぱいになって、神の言葉が入らなくなっているのです。アダルトサイトになると、目を通して、心にはいり、身体に入ってきます。テレビの映像は1秒間に24コマ入っています。一コマ、24分の1秒ですが、霊は見ているのです。その証拠に、その1コマに「コーラーを飲みましょう。氷を食べましょう。」と入れると売り上げが40%伸びたのです。肉眼では見えませんが、霊の目は見ているのです。コーラーは主食ではありません。主食はイエス様を見ることです。優先順位はイエス様をたくさん見ることです。

聞くことも変えなければなりません。耳に割礼を受ける必要があります。音楽を聞くだけで、多くの影響を受けます。ある韓国のプロジューサーはたくさんのアダルト作品を見て、それから受けたインスピレーションで音楽をつくるそうです。そうすると、それを聞く人はどうなるでしょうか。おかしくなるのです。この音楽を聞くと同じインスピレーションが働いておかしくなるのです。ですから、音楽をはじめ、耳で聞くことも聖別しなければなりません。ですから、まず、私たちの生活の中で変えなければならないこと、それは、目と耳を聖別することです。清くすることです。聞く音楽を選ぶ時、良い作品を選んで聞きましょう。また、読む本も霊的に良い本を選びましょう。

5.エリヤの霊の油注ぎ

バプテスマのヨハネは、自分から、荒野で叫ぶ者の声になったのでしょうか。いいえ、主の霊を受けて、主の道を整えました。

4年前にイスラエルに行きました。初めて行きました。行く先々で祈って、祈りの祭壇を築きました。あるテーマのところに行くと激しい主の臨在がありました。それはエリヤの名前が出てくるところでした。そこでは聖霊の臨在が激しくなるのでした。オリーブ山でのマラキ、ザカリヤなどの預言者の墓でも主の霊が激しく臨みました。

(マラキ4:5~6)「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

このマラキの預言の最初の成就がこのバプテスマのヨハネの出現でした。

(ルカ1:17)「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

主が再臨される前に、もう一度、エリヤの油注ぎをしてくださいます。エリヤの油注ぎは日本にしてくださるのです。東の果ての日本に、エリヤの霊を注ごうとしておられる。日本の教会にはやるべき使命があるのです。エリヤの霊の油注ぎを受けとりましょう。


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