阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

永遠の命の価値

2017-10-25 20:08:29 | Weblog

2017.10.22.永遠の命の価値

聖書  ヨハネ3:16

題   永遠の命の価値

暗唱聖句

(マタイ7:13,14)

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

 

はじめに

 先々週から、宣教に関するテーマでメッセージをしています。先週はアンデレが兄のシモン・ペテロをイエス様の所に導きました。次はピリポがナタナエルにイエス様を紹介しました。ナタナエルは最初イエス様がメシア(救い主)であることを否定しましたが、イエス様との会話の中で、イエス様をメシア(救い主)だと信じました。イエス様に特別な魅力を感じたからです。イエス様の働きには様々な病気の癒し、奇跡、悪霊の追い出し、てんかんの人の癒し、中風の人などの癒し、そして神の国の福音が語られていました。イエス様は神の御子ですから、当然、メシアだけができると言われていた癒しや奇跡が起こっていました。これらの働きは聖霊によって、今も継続されています。イエス様の働きは素晴らしいです。

 私は考えました。私たちはなぜ伝道するのでしょうか。イエス様の救いが素晴らしいからです。私の人生を変えてくださったからです。もし、イエス様に出会っていなかったら、私も暗く、弱弱しい、不平不満をかかえた女性の一人だったかもしれません。でも、イエス様に出会った私は、外国で宣教の働きをし、また阿南で宣教の働きを続けさせてもらっています。こんな年になってもなお、元気で働かせてもらえるというのは、本当に神の恵みです。

今日は「救い」について考えてみましょう。救われる時に何が起こっているのでしょう。救われるとはどういうことでしょうか。

1.私たちは永遠に滅びる者でした。

「救われる」と言うのはどういうところから救われるのでしょう。溺れる人が救われるとは、水の中で沈みかかっている人が救い出されて、命を得ることです。そのままでは死んでしまいました。命はありません。聖書の救いとは、火の池に溺れかかっている人を神が助けてくださり、永遠の命を授けてくださることです。

人間の状態がどういう状態で生きているかを知らなければなりません。私たち、人間は滅びる者として、肉体の命を与えられて生きています。やがて、この肉体は死にます。それだけでなく、肉体が死んだ後、人間の魂はどこへ行くのでしょうか。ここで、「人間が滅びる」というのは、この魂が「第二の死」と言われる所に投げ込まれることです。「第二の死」とは黙示録では「火と硫黄の燃える池」(21:8)「火の池」(20:14)という表現で書かれています。

肉体が死んだ後、魂が「第二の死」に投げ込まれると、神様との関係が永遠に失われます。神様との関係が切れてしまう状態の事を「滅びる」というのです。人間は滅びに向かって走っているのです。

聖書では「生きている」と言うことは、神様とつながっていることを言います。逆に、神様と切り離されている状態は「命が無い」「死んでいる」ということです。神が人間を創造された時は、神に従順であり、神との関係が非常に良かったのです。アダムとエバが蛇にだまされて、神に不従順の罪を作った時から、人間は、神様と切り離された状態になってしまいました。ですから、不従順と言う罪を悔い改めないままでは、神様とつながることはできません。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、罪人である私たちは、アダムとエバの罪の結果、滅びてしまうはずでした。しかし、イエス様が、その罪の結果としての死を引き受けてくださったので、イエス様を信じている人は、この第二の死から救われています。

(マタイ7:13,14)「「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

(ピリピ1:28)「 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」

イエス様は、人間が一人も滅びないようにと、命を捨ててくださったのです。

滅びは神から出たのではありません。神は一人も滅びることを望んではおられません。人間を愛しておられるからです。ただ、人間の自由意志によって選択した自己中心の人生を無理やりに神に向けようとすることはなさいません。ですから、生きている時、「神様はいらない。自分だけで生きる。」と頑張ったら、死んだ後も神さまのいない世界に住むことになるのです。神が悪いわけではなく、自分で選んだ人生なのです。人間はこの世だけでなく、永遠の世界がある事実を、厳粛に受け止め、この世で生きているうちにその準備をする必要があるのです。私たちは永遠の世界の極一部分に生きて生活をしています。そして、死んだ先にさばきがあることを知らなければなりません。(ヘブル9:27)「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

人間が神様を知らないで生きるということは、まるでアリがアリ地獄に向かって進んでいるようなものです。アリはその先にアリ地獄があることを知らずに、行列を作って進んでいます。人間がアリに向かって「そっちは地獄だよ」と言っても通じません。誰かがアリに変身して、アリの言葉で伝えるしかありません。しかし、アリを救うために、アリの身分にまで下がりたいと思う人間はどこにもいません。

 しかし、神さまは私たちに「そっちは地獄だよ。」と伝えるために、人間の姿(イエス様)になって、この地上に来てくださいました。神様は、人間の身分にまで下がってでも、私たちを滅びから救ってくださったのです。しかも、命まで捨ててくださったほどに、私たちを愛してくださったのです。

2.神は御子イエス・キリストを与えてくださった。(キリストの神性)

私たち、人間の罪が赦される為には、いけにえが必要でした。出エジプトの時、イスラエルの民の命が救われる為に、傷の無い羊の命の犠牲が必要でした。同じように、全人類のすべての罪が完全に赦される為には、完全ないけにえが必要でした。それは、罪のない神の子イエス様の命です。全人類のすべての罪を赦すことができるいけにえは、神の子、イエス様の命だけです。天のお父様は、そのご自身にとって、もっとも大切な一人子の命を、罪人を買い戻す代価として払ってくださいました。それほどまでに、神さまは罪人である私たちを愛してくださっているのです。

(ヨハネ3:16)「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

イエス様は、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)。イエス様は神様です(ヨハネ20:28)。ですから、完全ないけにえとなって、私たちを救うことができたのです。次の数々の聖句が、イエス様が本当に神であることを証明しています。

1)イエス様は聖霊によって生まれました。(マタイ1:23、ルカ1:31,35)

2)イエス様は罪のない方です。(ヘブル7:26、1ペテロ2:22)

3)イエス様は奇跡を行われました。(使徒2:22,10:38)

4)イエス様は私たちの身代わりになって(または私として)十字架で死んでくださいました。(Ⅰコリント15:3、Ⅱコリント5:21)

5)イエス様は死からよみがえられました。(マタイ28:6、ルカ24:39.1コリント15:4)

6)イエス様は天のお父様の右の座に昇られました。(使徒1:9、11、2:33、ピリピ2:9~11、ヘブル1:3)

 

3.神は私たちに永遠の命を与えてくださった。(永遠の命について)

 イエス様は、十字架の上で死んでくださり、そして3日目によみがえられました。死に打ち勝ったのです。イエス様は、死の支配下にはおられません。(使徒2:24)ですから、イエス様は私たちに、永遠の命を与えることができるのです。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11:25~26)

イエス様を信じる人には、『永遠の命』が与えられます。

永遠の命を持つ人は、永遠に神様との交わりの中にいることができます。

(黙示録21:3~4)「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

肉体が死んだ後も、私たちは天国で神様と永遠に生きることができるのです。それだけではなく、やがて主の日が来ます。その時、ラッパの音と共に主が来られます。そして、よみがえりの主に出会い、やがて千年王国を主と共に治める者となるのです。

4.結論:神は御子キリストによって、私たちに永遠の命を与えてくださった。

(伝道者3:11)「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」人の心に「永遠を想う思い」が与えられているということは「永遠の世界がある」ということです。

永遠の御計画の中で御子を通して永遠の命を与えてくださいました。それはすべての人が救われて、永遠の命を与えられ、神のみ国で永遠に幸せに生きるためです。永遠の命はわたしたちの人生を変えます。素晴らしい人生に変えられるのです。

そのために教会には「宣教」と言う使命が与えられています。私たちはその使命を果たすものとして立てられています。主と共に宣教の業に励もうではありませんか。

(マタイ7:13,14)

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

 7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

日本人の多くは主を知りません。神中心ではなく、人間中心、そして物質主義の社会で苦しんでいます。主を知る喜びを持っている私たちから、行動を起こして、イエス様の偉大さを伝えるのです。まずは祈りましょう。そして神の知恵をもらって伝道しましょう。

 (イザヤ49:6)「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てまで、わたしの救いをもたらす者とする。」


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