2009.9.27.剣を取る者は剣で滅びる
聖書 マタイ26:47~56
題 剣を取る者は剣で滅びる
はじめに
1. ユダの裏切り
2. 敵の兵士の耳を癒されたイエス様
3. 平和を作り出す者は幸いです。(沼野師の講演会より)
1.ユダの裏切り
イエス様は捕えに来た一行を迎えられた。その中にイスカリオテのユダがいた。ユダは親しくイエス様に近づいた。彼は、「こんばんは」とあいさつして、イエス様を抱きしめ、主にキスをした。このキスが逮捕の合図だった。ユダはあたかもイエス様を愛しているかのように見せかけ、裏切った。非常にひどいうらぎり行為でした。イエス様はユダのすべての行動をご存じでした。「お前のしようとしていることをしなさい。」と言われた。すると、人々はイエス様にとびかかり、イエス様をとらえました。
2. 敵の兵士の耳を癒されたイエス様
その時、イエス様と一緒にいたペテロが、さっと剣を抜き放ち、大祭司の部下の右の耳を切り落としてしまいました。するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われました。そして、耳にさわって、彼を癒してあげられたのです。その部下の名前はマルコスでした。ヨハネの福音書には、わざわざ、名前まで出ているのです。マルコスはイエス様をとらえに来た敵の兵士でした。しかし、イエス様はペテロに言われました。「剣を元に納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエス様は、剣や棒を持って自分を捕えに来た人に、剣で立ち向かうことを許しませんでした。「剣を使うものは剣によって滅びる」と言われました。ペテロは血の気の多い人です。ぱっと思ったことはすぐ行動にあらわしてしまいます。「イエス様を守らなくてはならない」と思って立ち向かったのです。しかし、イエス様の反応は違いました。
イエス様は自分の使命を心得ておられました。イエス様は神と人を和解させるために来られました。そして、人と人を和解させるためにも来られたのです。その使命を片時も忘れておられませんでした。人は自分が生きてきたとおりに死んでいきます。イエス様の生き方はそのまま十字架の死につながっていきました。人をののしることもなく、最後までとりなしの祈りをしながら、心美しい最期を遂げられました。
かって、イエス様が美しいガリラヤ湖を見ながら話された山上の垂訓を見てみましょう。
マタイ5:9~12「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
38~48「5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
イエス様は弟子たちにこのことを繰り返し、教えておられました。そして自分も同じように生きられたのです。
イエス様が捕えられるという出来事は、弟子たちにとっては本当にびっくりするような出来事でした。自分の命が危ない時でさえ、「平和を造りだす者は幸いです。」という生き方を変えられませんでした。
今日、世界の多くの場所で戦争が繰り返し行われています。アメリカの9.11事件と言われる、飛行機乗っ取りテロ事件があってから、目には目、歯には歯、剣には剣、戦争行為には戦争と考え方が広がっています。しかし、聖書はこのような生き方には反対しています。
この宇宙の大原則の中に大きな3つの原則があります。1つは「父と母を敬え。」二つ目は「播いたものを刈り取る。刈り取る時は種の時より量が多くなって刈り取ります。」3つ目は「さばくものは裁かれる。」という原則です。一つ目は親子関係です。親子関係がこわれていると祝福を逃がしてしまいます。できるだけ、早く回復しましょう。二つ目は良い種をまくと良い収穫を刈り取るのです。ですから、祝福の種をまきましょう。3つ目は聖書を読んでみましょうか。
マタイ7:1~2「 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」これは「剣を取る者は剣によって滅びます。」ということに通じるような意味です。だから「剣を取らないで、平和に生きなさい。」と教えているのです。
私たちの生活を振り返ってみましょう。自分のことはわからないで、人のあらさがしをしていることが多くあります。親をさばき、子供をさばき、友人を恨んだりしていたら、どこに平和が訪れるでしょうか。確かに手に剣はありません。しかし、人の言葉には心を刺しとおすほどの力があります。言葉は危険な剣と同じです。
ヤコブ3:8「舌を制御(せいぎょ)すること(おさめる)は、誰にもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒にみちています。9:私たちは、舌を持って、主であり、父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。10:賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことがあってはなりません。」更にヤコブは続けています。
ヤコブ3:13「3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」
イエス様は「人の罪を赦しなさい。限りなくゆるしなさい」とおっしゃいました。そして、マタイ6:14「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださいます。」と教えてくださいました。
ここで、耳を撃ち落とされた人の話に帰ります。イエス様はおそらく血が流れていたであろうマルコスの耳にさわって癒されたのです。マルコスの体には熱い神様の愛が電流のように流れました。激しい痛みがなくなり、自分の耳が元通りついている、何度も何度も触って確かめました。ここにも、敵を愛されるイエス様の愛が満ち溢れています。
剣は人を救うものではなく、滅ぼすものであることを教え、愛することを、癒すことを選んで、行われたのです。「汝の敵を愛せよ」と言われたイエス様の生き方がにじみ出ています。
旧約聖書にアベルとカインの話がありますね。カインは自分の捧げものが神さまに受け入れてもらえなかったので、祝福を受けた弟アベルをねたみ、嫉妬しました。そして殺してしまったのです。神さまはカインに言われました。「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
神はたとい罪の誘惑が心のどこかに潜んでいても、それを治めて罪を犯してはいけないといわれました。怒りがあってもそれを上手に治める訓練をしましょう。私は「怒っています」と十字架にその怒りを持って行ってつけるのです。そして、解放されるように祈り、聖霊に助けていただきましょう。ほかの人々には八つ当たりしなくても心を聖霊によって整えていただきましょう。決心して、訓練すればできるようになります。やってみましょう。そうすれば、言葉の剣で滅びることはなくなります。
箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」
3. 平和をつくりだすものは幸いです。
昨日、「生と死を見つめて共に生きる」という講演を聞きに行きました。沼野尚美先生という方がお話をしてくださいました。この先生はホスピスケアの専門家です。2500人以上の方々の生と死に関わってこられました。その中で心に残った言葉を分かち合いたいと思います。「幸せは自分で見つけるもの。幸せは心の持ち方で決まる。」「人生で一番苦しいのは生きていて何の楽しみもないことです。」朝、目が覚めて、「どうして今朝目が覚めたんだろう。また生きていなくてはならない」と思うそうです。
それから、病人に質問をしました「あなたの心は何によって支えられていますか。一つだけ答えてください。」そうすると「家族です。」と答えます。これがほぼ全員の答えです。しかし、最近、家族のきずなが薄くなって、危篤(きとく)状態(じょうたい)になってもなかなか集まらない。なぜか、これは心に触れる思い出があるかないかで決まります。いざという時に来てくれる人間関係を築くことです。今からでも遅くありません。心に触れる思い出を造りましょう。
それから、お金の話がありました。もう少しの命だからと言って、全部の貯金通帳、お金をお嫁さんに渡すのは待ったほうが良い。自分の自由になるお金を最後まで持っているほうが生きる楽しみがあります。孫にもお小遣いをあげられるし。・・・お嫁さんが感動して感謝するのは1カ月だけ。後は頭を下げてお金をもらわなければならなくなります。それよりも、お嫁さんがお見舞いに来た時、その都度、現金を持たせてあげるほうが喜ばれます。これは賢い生き方です。
人との関わりの中で大切なこと。
① 「あなたがそばにいてくれるだけで気分が良い」といわれるようになることです。「そばにいたらしんどい」と言われる人にはならないように。何もしなくても、何も言わなくても、「そばにいて欲しい」といわれる人になるように。「温かい顔の表情」が全体の存在感を造る。自分自身がそのような温かい心を持っていることです。
② 聴く
フランクルという人はアウシュビッツで生き抜いた人。この世で地獄を見て、生きて普通の社会に帰ってきた人。その人のことばの中に人間の共通の思いがある。それは、人間はどんなに苦しくとも生きていたいと思う。星野富弘さんは「心が死にたいと思っていても、身体は生きたいと願っている。」と言いました。「本人が生きたい」ということに気が付いて、それを口に出して話せるように聞いていく。「自分が生きたい」と思った人は、医師の予想を超えて長く生きることができる。
③ 悟ること・・・大事なことを伝えて、わかってもらう。日本人は言わなくても、相手はわかってくれると思っている。悟ってくれると思っている。これは間違いです。伝えなければ伝わりません。相手が愛されていると感じているかどうかは別です。
夫婦は愛していることをお互いに伝えあう。親子も同じです。
あと半年の余命といわれると確かめたくなるのは、「愛のきずな」です。「私はあの人にとって、重要な存在なのか。あの人は私と結婚して幸せだったのか」などと思い悩むそうです。これが知りたいと思うそうです。
ある人のケース。手術のため、あと一週間で意思疎通ができなくなる状態の夫を持つ妻。ためらったあげく、「あなた、わたしと結婚してどうだった?」と聞きました。すると、すでに声の出ない夫は紙を取りだして、3重丸を書いて、その横に、「あなたは妻としても、母親としても良かった!最高!」と書いてくれたそうです。
聖書 マタイ26:47~56
題 剣を取る者は剣で滅びる
はじめに
1. ユダの裏切り
2. 敵の兵士の耳を癒されたイエス様
3. 平和を作り出す者は幸いです。(沼野師の講演会より)
1.ユダの裏切り
イエス様は捕えに来た一行を迎えられた。その中にイスカリオテのユダがいた。ユダは親しくイエス様に近づいた。彼は、「こんばんは」とあいさつして、イエス様を抱きしめ、主にキスをした。このキスが逮捕の合図だった。ユダはあたかもイエス様を愛しているかのように見せかけ、裏切った。非常にひどいうらぎり行為でした。イエス様はユダのすべての行動をご存じでした。「お前のしようとしていることをしなさい。」と言われた。すると、人々はイエス様にとびかかり、イエス様をとらえました。
2. 敵の兵士の耳を癒されたイエス様
その時、イエス様と一緒にいたペテロが、さっと剣を抜き放ち、大祭司の部下の右の耳を切り落としてしまいました。するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われました。そして、耳にさわって、彼を癒してあげられたのです。その部下の名前はマルコスでした。ヨハネの福音書には、わざわざ、名前まで出ているのです。マルコスはイエス様をとらえに来た敵の兵士でした。しかし、イエス様はペテロに言われました。「剣を元に納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエス様は、剣や棒を持って自分を捕えに来た人に、剣で立ち向かうことを許しませんでした。「剣を使うものは剣によって滅びる」と言われました。ペテロは血の気の多い人です。ぱっと思ったことはすぐ行動にあらわしてしまいます。「イエス様を守らなくてはならない」と思って立ち向かったのです。しかし、イエス様の反応は違いました。
イエス様は自分の使命を心得ておられました。イエス様は神と人を和解させるために来られました。そして、人と人を和解させるためにも来られたのです。その使命を片時も忘れておられませんでした。人は自分が生きてきたとおりに死んでいきます。イエス様の生き方はそのまま十字架の死につながっていきました。人をののしることもなく、最後までとりなしの祈りをしながら、心美しい最期を遂げられました。
かって、イエス様が美しいガリラヤ湖を見ながら話された山上の垂訓を見てみましょう。
マタイ5:9~12「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
38~48「5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
イエス様は弟子たちにこのことを繰り返し、教えておられました。そして自分も同じように生きられたのです。
イエス様が捕えられるという出来事は、弟子たちにとっては本当にびっくりするような出来事でした。自分の命が危ない時でさえ、「平和を造りだす者は幸いです。」という生き方を変えられませんでした。
今日、世界の多くの場所で戦争が繰り返し行われています。アメリカの9.11事件と言われる、飛行機乗っ取りテロ事件があってから、目には目、歯には歯、剣には剣、戦争行為には戦争と考え方が広がっています。しかし、聖書はこのような生き方には反対しています。
この宇宙の大原則の中に大きな3つの原則があります。1つは「父と母を敬え。」二つ目は「播いたものを刈り取る。刈り取る時は種の時より量が多くなって刈り取ります。」3つ目は「さばくものは裁かれる。」という原則です。一つ目は親子関係です。親子関係がこわれていると祝福を逃がしてしまいます。できるだけ、早く回復しましょう。二つ目は良い種をまくと良い収穫を刈り取るのです。ですから、祝福の種をまきましょう。3つ目は聖書を読んでみましょうか。
マタイ7:1~2「 7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」これは「剣を取る者は剣によって滅びます。」ということに通じるような意味です。だから「剣を取らないで、平和に生きなさい。」と教えているのです。
私たちの生活を振り返ってみましょう。自分のことはわからないで、人のあらさがしをしていることが多くあります。親をさばき、子供をさばき、友人を恨んだりしていたら、どこに平和が訪れるでしょうか。確かに手に剣はありません。しかし、人の言葉には心を刺しとおすほどの力があります。言葉は危険な剣と同じです。
ヤコブ3:8「舌を制御(せいぎょ)すること(おさめる)は、誰にもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒にみちています。9:私たちは、舌を持って、主であり、父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。10:賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことがあってはなりません。」更にヤコブは続けています。
ヤコブ3:13「3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。」
イエス様は「人の罪を赦しなさい。限りなくゆるしなさい」とおっしゃいました。そして、マタイ6:14「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださいます。」と教えてくださいました。
ここで、耳を撃ち落とされた人の話に帰ります。イエス様はおそらく血が流れていたであろうマルコスの耳にさわって癒されたのです。マルコスの体には熱い神様の愛が電流のように流れました。激しい痛みがなくなり、自分の耳が元通りついている、何度も何度も触って確かめました。ここにも、敵を愛されるイエス様の愛が満ち溢れています。
剣は人を救うものではなく、滅ぼすものであることを教え、愛することを、癒すことを選んで、行われたのです。「汝の敵を愛せよ」と言われたイエス様の生き方がにじみ出ています。
旧約聖書にアベルとカインの話がありますね。カインは自分の捧げものが神さまに受け入れてもらえなかったので、祝福を受けた弟アベルをねたみ、嫉妬しました。そして殺してしまったのです。神さまはカインに言われました。「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
神はたとい罪の誘惑が心のどこかに潜んでいても、それを治めて罪を犯してはいけないといわれました。怒りがあってもそれを上手に治める訓練をしましょう。私は「怒っています」と十字架にその怒りを持って行ってつけるのです。そして、解放されるように祈り、聖霊に助けていただきましょう。ほかの人々には八つ当たりしなくても心を聖霊によって整えていただきましょう。決心して、訓練すればできるようになります。やってみましょう。そうすれば、言葉の剣で滅びることはなくなります。
箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」
3. 平和をつくりだすものは幸いです。
昨日、「生と死を見つめて共に生きる」という講演を聞きに行きました。沼野尚美先生という方がお話をしてくださいました。この先生はホスピスケアの専門家です。2500人以上の方々の生と死に関わってこられました。その中で心に残った言葉を分かち合いたいと思います。「幸せは自分で見つけるもの。幸せは心の持ち方で決まる。」「人生で一番苦しいのは生きていて何の楽しみもないことです。」朝、目が覚めて、「どうして今朝目が覚めたんだろう。また生きていなくてはならない」と思うそうです。
それから、病人に質問をしました「あなたの心は何によって支えられていますか。一つだけ答えてください。」そうすると「家族です。」と答えます。これがほぼ全員の答えです。しかし、最近、家族のきずなが薄くなって、危篤(きとく)状態(じょうたい)になってもなかなか集まらない。なぜか、これは心に触れる思い出があるかないかで決まります。いざという時に来てくれる人間関係を築くことです。今からでも遅くありません。心に触れる思い出を造りましょう。
それから、お金の話がありました。もう少しの命だからと言って、全部の貯金通帳、お金をお嫁さんに渡すのは待ったほうが良い。自分の自由になるお金を最後まで持っているほうが生きる楽しみがあります。孫にもお小遣いをあげられるし。・・・お嫁さんが感動して感謝するのは1カ月だけ。後は頭を下げてお金をもらわなければならなくなります。それよりも、お嫁さんがお見舞いに来た時、その都度、現金を持たせてあげるほうが喜ばれます。これは賢い生き方です。
人との関わりの中で大切なこと。
① 「あなたがそばにいてくれるだけで気分が良い」といわれるようになることです。「そばにいたらしんどい」と言われる人にはならないように。何もしなくても、何も言わなくても、「そばにいて欲しい」といわれる人になるように。「温かい顔の表情」が全体の存在感を造る。自分自身がそのような温かい心を持っていることです。
② 聴く
フランクルという人はアウシュビッツで生き抜いた人。この世で地獄を見て、生きて普通の社会に帰ってきた人。その人のことばの中に人間の共通の思いがある。それは、人間はどんなに苦しくとも生きていたいと思う。星野富弘さんは「心が死にたいと思っていても、身体は生きたいと願っている。」と言いました。「本人が生きたい」ということに気が付いて、それを口に出して話せるように聞いていく。「自分が生きたい」と思った人は、医師の予想を超えて長く生きることができる。
③ 悟ること・・・大事なことを伝えて、わかってもらう。日本人は言わなくても、相手はわかってくれると思っている。悟ってくれると思っている。これは間違いです。伝えなければ伝わりません。相手が愛されていると感じているかどうかは別です。
夫婦は愛していることをお互いに伝えあう。親子も同じです。
あと半年の余命といわれると確かめたくなるのは、「愛のきずな」です。「私はあの人にとって、重要な存在なのか。あの人は私と結婚して幸せだったのか」などと思い悩むそうです。これが知りたいと思うそうです。
ある人のケース。手術のため、あと一週間で意思疎通ができなくなる状態の夫を持つ妻。ためらったあげく、「あなた、わたしと結婚してどうだった?」と聞きました。すると、すでに声の出ない夫は紙を取りだして、3重丸を書いて、その横に、「あなたは妻としても、母親としても良かった!最高!」と書いてくれたそうです。