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『パリ モダニティの首都』を読んで、モダニティの神話を崩す

2009-05-31 18:59:32 | 基本的なコト
『パリ モダニティの首都』 デヴィット・ハーヴェイ著

フランス革命後、1821年の第2帝政期から1871年のパリ・コミューンに至るパリでの社会変動を、歴史地理的に明らかにすることで、当時の人の行為と考え方が推測されている。理念やイデオロギーなどで割り切られたモダニティの実態や神話が、多様な分野で観察され・意図され・記録された行為の手がかりにより、解明されている。

章立ての視点をメモすると
Ⅰ 表象 
1830年から1848年、バルザックによるパリの生活描写、フランス革命以後のブルジョワと労働者の共闘の終わりまでのモダニティの文学での描写から
Ⅱ 空間
都市計画によるパリの都市改造、
貨幣・信用・金融という資本市場社会のエネルギー、
地代・地主階級:王侯・貴族の経済力の衰退、国家の役割、
労働の変質、女性の状況変化、労働力の再生産、
大量消費・スペクタクル・余暇:近代生活の欲望、階級とコミュニティの不整合:自然との関わり、科学と感情の短絡・
モダニティのなかの権威・伝統、レトリックと表象の混沌によるモダニティ、モダニティを映す都市の地政学、
Ⅲ コーダ
サクレ=クール寺院の二重の象徴性
それは、1871年、パリコミューン内での処刑された政府将軍の追悼であり、最後の200人が追い詰められ殺された現場として、2万人の死者の象徴の地でもある。
ここはモンマルトルの丘、エッフェル塔とともに、モダニティの都市:パリを表象している。

<所感>
バルザックの近代文学で始まり、今もエッフェル塔とともにパリの景観を代表するモンマルトルの丘に建つサクレ・クール寺院で、この著作は終わる。
「・・・モダニティの神話と都市の神話の脱神話化だけでなく、ブルジョワの自己理解の物質的な性質に関するそのラジカルな暴露という脱神話化においても、提示された明快さ」、バルザックのパリを舞台とした小説を取り上げ、問題提起する。締めくくりは、サクレ・クール寺院。人間にとっての宗教と理念の相克、他我と自我の二重性が、モンマルトルの丘である。そして、その後のエッフェル塔は、技術が解き放った資本の自律的な運動の始まりの象徴。人間の欲望が、この地球を掘り起こしながら市場を拡げて自らの増殖をはかり、より大きな変化をもたらす資本とは、地球の自律的な運動の課程なのかもしれず、もはや肉眼では見えない。

Ⅱにおける、様々な分野の記述は、その時期・場所でに生きた人の行為や考え方の違い・混乱により複雑系としての社会を実感させてくれた。
フランス革命の自由・平等・博愛という伝えられてきた理念も、
その立場・状況によって、多様な意味を持ち、困窮と欲望による感情の高さにおうじて、
残虐な人間性をあらわにしてきた。
自由は、誰が、いつ・どこで・なにをする自由という限定が必要なように、
平等が、誰と誰の、何に関する、同じ状態或いは可能性であり、
博愛が、同胞愛と言い換えられ、同胞とは誰かとの問いを伴ってしまうことなど。
このフランス革命後の100年の中で、どのように使われ、どのような結果をもたらしたのかを、その実態の一端を知ることができた。
しかし、
日本では、明治維新以後に輸入され、翻訳造語された外来語として、
大正時代に多用され、太平洋戦争敗戦後に再度丸呑みしてきた。
戦後の高度成長は市場社会での資本の自律運動を早め、
感情が欲望を個人化する一方で、
概念が喚起する、人が共有する希望が育たない。
「希望とは、欲する記憶である」とは、文中、バルザックの言葉。
溢れるメディア刺激に概念・理念の風化が進む中、
もはや、公共性とは高齢世代の手慰み、
懐かしむ言葉になってしまったのかもしれない。

本書P.40、バルザックは、「階級区分と階級闘争がなくなることはなく、運動の多様性によって生産される外観上の反感・・・にも関わらず共通の目的のために労働する」
都市の「相貌に、趣の異なった諸タイプが寄与すること」で、社会的差異や階級区分間の対立が、全体的な趣をもった特徴によって調和させることになる」と云うと書かれている。彼があこがれた貴族制とは、社会の共通の目的を考える立場・経済的なゆとりがあり、君主にに対して進言する人々がリードする社会を意味していたのだろう。
プルードンなどの多様な階層・職業の互助社会を意図したプルードンは、フーリエのユートピアと伴に人気を失い、生きながらえた’共産主義’は、ベルリンの壁とともに消えた。しかし、今、自由と市場の国、米国が、銀行や企業を国家の管理に置こうとしている。
市場社会での資本の自律的運動は、人間の希望と恐怖の感情を糧に、さらに激しくなっている。
グローバルな交通・通信・情報の流動化がさらにすすむ資本の市場社会では、
大都市に集散する、多様な立場・職能の人々が、地域と時間を共有して、対応・分担しあう互助関係が、
大きな社会変動・断絶に対応しつづける可能性も持つのではないか?

とにかく、日本の近代は、明治維新、太平洋戦争敗戦という二つの断絶を越えて、
追いつくまでは、勝つまでは、あるいは復興するまでと、新たな概念を消化するゆとりはなかった。
敗戦のあとの忘却と沈黙は、さらに概念を軽く、賞味期限を短くした。
階級や職業、都市や地域が、概念と論理により、変革されてゆくよりは、
それぞれの対立が、地域的な共存・互助へと、関わりを深める気がしている。
それは、バルザックからプルードンの記憶が、欲望された先の希望!
多様な立場や通信手段の違いも、重なり合う時間・空間、つまり地域生活の記憶が、欲望されれば、市場社会と互助社会の共存の希望へとつながるのではないか!
それは、大きな政府、社会主義的な上からの施策ではなく、
多様な個人の自主活動を重ねあう仕組み・しかけによる。

<バカボンの叔父:これでいいのだと言い切れない、納得したがりのナルシスト>
参考「公共性の喪失」リチャード・セネット著 *同時期のパリ、モダニティを、心理学的に分析した著作。
「中心の喪失」、「孤独な群衆」なども思い出す。
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