次の島は、有福島です。ここへは、橋ではなく、防波堤と一体となった道路を進んでいきました。このような渡島は、初めてでした。
(有福島へ)
有福島は、「若松島の西方に位置し、漁生浦島・日島とは漁港の臨港道路で結ばれている。漁生浦橋を利用すれば若松島、さらに中通島まで通行が可能だ。弥生式土器が出土、江戸時代には五島藩の藩牧がおかれていた。延宝年間(1673~81)には鯨突組がつくられ、捕鯨が始められている。文政年間(1818~30)に神ノ浦村(現・西彼杵郡外海町)から203人が入植して以後、キリシタンも増え、カトリック教徒の多い島になっている。昭和2年には教会も建てられた。島の周囲は好漁場で、一本釣りやタコ漁が営まれている。」と書かれています。学校が見えましたが、まだ、生徒はいるのでしょうか。
(有福島)
海岸沿いを進んでいくと同じような防波堤と一体となった道路があり、日島へ渡島となります。日島は、「若松島の西方に位置し、有福島、漁生浦島を経て若松島と臨港道路で結ばれている。江戸時代は、異国船の来航を見張った島であったといわれている。また日島は「火の島」が変化したものともいわれ、標高244mのバンヤノ峠は、「肥前風土記」にある「烽火の処三所あり」の一つと推定されている。室町時代には朝鮮貿易の根拠地として、江戸時代には漁業の基地として栄えた。現在も近海の豊かな漁場で一本釣や養殖が営まれている。野生鹿が多く生息。最近、曲埼一帯で数十基の中世の石塔が発掘され、注目を集めている。」と書かれています。
早速、野生鹿がお出迎えしてくれました。
(出迎えてくれた野生鹿)
しばらく海岸線を進んで車が止まりました。そこには、海の上に小屋がありました。そこへは板で造られた桟橋を渡りました。
(海の上に小屋)
岸と小屋の間にエイが優雅に泳いでいました。住み着いているようです。
(エイが優雅に)
(写真撮影:2011.11)
(有福島へ)
有福島は、「若松島の西方に位置し、漁生浦島・日島とは漁港の臨港道路で結ばれている。漁生浦橋を利用すれば若松島、さらに中通島まで通行が可能だ。弥生式土器が出土、江戸時代には五島藩の藩牧がおかれていた。延宝年間(1673~81)には鯨突組がつくられ、捕鯨が始められている。文政年間(1818~30)に神ノ浦村(現・西彼杵郡外海町)から203人が入植して以後、キリシタンも増え、カトリック教徒の多い島になっている。昭和2年には教会も建てられた。島の周囲は好漁場で、一本釣りやタコ漁が営まれている。」と書かれています。学校が見えましたが、まだ、生徒はいるのでしょうか。
(有福島)
海岸沿いを進んでいくと同じような防波堤と一体となった道路があり、日島へ渡島となります。日島は、「若松島の西方に位置し、有福島、漁生浦島を経て若松島と臨港道路で結ばれている。江戸時代は、異国船の来航を見張った島であったといわれている。また日島は「火の島」が変化したものともいわれ、標高244mのバンヤノ峠は、「肥前風土記」にある「烽火の処三所あり」の一つと推定されている。室町時代には朝鮮貿易の根拠地として、江戸時代には漁業の基地として栄えた。現在も近海の豊かな漁場で一本釣や養殖が営まれている。野生鹿が多く生息。最近、曲埼一帯で数十基の中世の石塔が発掘され、注目を集めている。」と書かれています。
早速、野生鹿がお出迎えしてくれました。
(出迎えてくれた野生鹿)
しばらく海岸線を進んで車が止まりました。そこには、海の上に小屋がありました。そこへは板で造られた桟橋を渡りました。
(海の上に小屋)
岸と小屋の間にエイが優雅に泳いでいました。住み着いているようです。
(エイが優雅に)
(写真撮影:2011.11)