俳優の藤田まことさんが死んだ。78歳。ドラマ「JIN-仁-」を降板したと聞いたが、死因は別だった。大物俳優なのに、現場のスタッフにも気を使う稀有な役者さんであった。
さらに訃報である。
北海道で将棋の普及に努めていた、新井田基信さんが亡くなった。僕と一つ違いの48。前日までブログを更新するなど元気だったのに、急性心停止だったらしい。
新井田氏とは面識があまりない。が、一度だけ話をさせてもらったことはある。
僕が明治大学の将棋部に入部した時、新井田氏は早稲田の2年であった。当時早稲田の将棋部は黄金時代で、学生強豪と呼べる人が何人もおり、層の厚さは他大学の垂涎の的だった。その中でも新井田氏は大将格で指していた。
関東A級リーグ優勝筆頭候補の早稲田に比べ、我が明治はA級とB1を昇降していた。
そもそも明大生は早稲田に対してコンプレックスを持っている。バンカラという校風が似てるせいもあるが、「早稲田に入れなかったから明治に来た」という生徒も多いためだ。
それゆえか、対早稲田戦となると妙に気合いの入る選手もいて、たまに早稲田に勝ってしまう番狂わせもあった。当時の明治は早稲田キラーだったのだ。
明治の大将はIさんという、新井田氏に匹敵する巨体の人。両者一歩も引かずに殴り合う盤上の応酬は、下手なプロの実戦よりよっぽど刺激的で、ギャラリーは至福の時間を過ごしたものである。
もっとも、両者の対決はそれほど多くなかった。リーグ戦は個人戦と違って星勘定の団体線であるから、強い大学の大将にはアテ馬をぶつけるチームもあり、それを読んで向こうもオーダーを変えたりする駆け引きがあったからだ。
一方僕はといえば部内でも下から数えた方が早いという実力。春と秋の個人戦は、7回出場して1度しか勝っていない。そんな他大学の弱い部員を、新井田氏が知る道理もなかった。
そんな新井田氏と言葉を交わしたのは十数年後。詰将棋全国大会の懇親会の席で。新井田氏がいたところを見ると北海道の大会だったのだろう。
新井田氏は柳田明さんと旧知だったようで、親しく話をしていた。僕は柳田さんの大学の後輩にあたり、「師匠」「弟子」と呼び合う関係だったから、酒の勢いも手伝って新井田さんに昔の思い出話をした。さすがに当時の明大のレギュラーの名前は(半分ぐらい)覚えていた。僕と同期で、間違って個人戦で新井田氏に勝ったOの名前も覚えていたようだ。
学生の頃は何となく怖いイメージがあったが、話してみると気さくで、よく笑っていた。確か2次会の居酒屋も一緒だったはずである。
思い出といってもわずかにそれだけで貧弱なものだが、詰将棋をやってなければそんな出会いもなかったかと思うと感慨深い。
まだまだ若いのに残念なことだが、信長の時代は「人間わずかに五十年」だったし、縄文人の平均寿命は三十歳前後だった。わしらも三十過ぎたら、いつあの世に召されてもおかしくないのだから、覚悟だけはした方がいい。自分も現世にはあまり未練もないのでいつ死んでもいいのだが、痛いのと苦しいのだけは勘弁してもらいたい。
さらに訃報である。
北海道で将棋の普及に努めていた、新井田基信さんが亡くなった。僕と一つ違いの48。前日までブログを更新するなど元気だったのに、急性心停止だったらしい。
新井田氏とは面識があまりない。が、一度だけ話をさせてもらったことはある。
僕が明治大学の将棋部に入部した時、新井田氏は早稲田の2年であった。当時早稲田の将棋部は黄金時代で、学生強豪と呼べる人が何人もおり、層の厚さは他大学の垂涎の的だった。その中でも新井田氏は大将格で指していた。
関東A級リーグ優勝筆頭候補の早稲田に比べ、我が明治はA級とB1を昇降していた。
そもそも明大生は早稲田に対してコンプレックスを持っている。バンカラという校風が似てるせいもあるが、「早稲田に入れなかったから明治に来た」という生徒も多いためだ。
それゆえか、対早稲田戦となると妙に気合いの入る選手もいて、たまに早稲田に勝ってしまう番狂わせもあった。当時の明治は早稲田キラーだったのだ。
明治の大将はIさんという、新井田氏に匹敵する巨体の人。両者一歩も引かずに殴り合う盤上の応酬は、下手なプロの実戦よりよっぽど刺激的で、ギャラリーは至福の時間を過ごしたものである。
もっとも、両者の対決はそれほど多くなかった。リーグ戦は個人戦と違って星勘定の団体線であるから、強い大学の大将にはアテ馬をぶつけるチームもあり、それを読んで向こうもオーダーを変えたりする駆け引きがあったからだ。
一方僕はといえば部内でも下から数えた方が早いという実力。春と秋の個人戦は、7回出場して1度しか勝っていない。そんな他大学の弱い部員を、新井田氏が知る道理もなかった。
そんな新井田氏と言葉を交わしたのは十数年後。詰将棋全国大会の懇親会の席で。新井田氏がいたところを見ると北海道の大会だったのだろう。
新井田氏は柳田明さんと旧知だったようで、親しく話をしていた。僕は柳田さんの大学の後輩にあたり、「師匠」「弟子」と呼び合う関係だったから、酒の勢いも手伝って新井田さんに昔の思い出話をした。さすがに当時の明大のレギュラーの名前は(半分ぐらい)覚えていた。僕と同期で、間違って個人戦で新井田氏に勝ったOの名前も覚えていたようだ。
学生の頃は何となく怖いイメージがあったが、話してみると気さくで、よく笑っていた。確か2次会の居酒屋も一緒だったはずである。
思い出といってもわずかにそれだけで貧弱なものだが、詰将棋をやってなければそんな出会いもなかったかと思うと感慨深い。
まだまだ若いのに残念なことだが、信長の時代は「人間わずかに五十年」だったし、縄文人の平均寿命は三十歳前後だった。わしらも三十過ぎたら、いつあの世に召されてもおかしくないのだから、覚悟だけはした方がいい。自分も現世にはあまり未練もないのでいつ死んでもいいのだが、痛いのと苦しいのだけは勘弁してもらいたい。
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