桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

馬橋・萬満寺の終い不動

2010年12月29日 19時13分56秒 | 歴史

 昨日二十八日は不動明王の縁日。年内最後の縁日ですから、終い不動(しまいふどう)です。
 私には不動信仰というものはありませんが、近くにある馬橋・萬満寺の本尊が不動明王なので、どんなものだろうかと思って行ってみました。
 出かける前、念のため萬満寺のホームページを見てみると、確かに縁日とありましたが、午後三時に終わってしまう、とあったので、慌ててもろもろの用を済ませて家を出ました。



 萬満寺山門前に着いたのは、まだ終わっていないはずの三時前でしたが、山内は妙に静かでした。
 縁日、それも年内最後の縁日というからには賑々しい数の参拝客があり、露店の数軒も出ているだろうと思ってきたのですが、露店はおろか、参拝客すらおりません。
 赤地に「南無不動明王」と染め抜いた幟は、風に翩翻とはためいているけれど、もしかして一日勘違いしてない? と思ってしまいました。



 煙をくゆらせているお線香は私があげた一束だけ。
 香炉の灰に開けられた穴の数を数えてみるまでもなく、朝からの参拝者の数は知れています。お不動さんを信仰していない私がご利益を求めてきているわけではないけれど、確率からいうと、私がご利益に授かるのはかなり有望?
 といっても、萬満寺の本尊である不動明王のご利益とは中気除(ちゅうきよけ)ですから、ありがたいことに、いまのところはご利益を授からなくてもよいのです。




 本堂の右斜め後ろにある不動堂です。



 この日は扉が開けられていて、お不動さんを見ることができました。



 ただ、遠過ぎてよく見えず、カメラに収めようとしても、フラッシュが届かないので、萬満寺のホームページからこの画像を拝借しました。

 私がお不動さんと対面しているとき、背後から「失礼します」という声が聞こえました。私と同年齢と思われるご婦人で、本堂前でお札を売っている老人と長々と話し込んでいた人です。

 この萬満寺には、明治に入って廃宗になってしまった普化宗一月寺(いちげつでら)所縁の石があると聞いています。以前訪ねたときも捜したのですが、見つけられませんでした。そのときは境内に人影もなかったので、見るのは諦めて帰ったのです。
 この日は、寺の関係者がいた! と思ったものですから、お線香をあげたあと、話が途切れるのを待っていたのですが、なかなか終わる気配がありません。ついにしびれを切らして、割って入ろうとすると、老人が「いらっしゃい」と声をかけてくれたので、その所在を確かめることができましたが、「今日はお不動さんも開いているから……」と教えてくれたので、一月寺の石を捜す前にお不動さんにお参りしていたのでした。

 お不動さんは本当に遠過ぎて、これがお不動さんだと知っていなければ、何が祀ってあるのかわからないかもしれません。
 私がじっと坐り込んでいたので、ご婦人はここに一月寺ゆかりの何かがある、と勘違いされたようです。「北小金の一月寺には私が子どものころは虚無僧がたくさんきていたものですよ」と問わず語りに語り始めました。
 ん? 何歳ごろのことだったのかはっきりしないが、私が子どものころにも虚無僧が我が家の玄関前に立って尺八を吹いているのを見ています。
 改めてご婦人を見ると、この季節ですから、帽子にマスクを掛け、見えるのは眼の周辺だけ、という取りようによっては怪しげな姿でしたので、年齢を推測することはできません。虚無僧を見た、子どものころ、という二つのキーワードで私と同年齢と判断を下したのですが……。



 いわくありげな石はいくつかあって、これかあれかと思いながらカメラに収めたあと、ようやく説明板とセットになったものを見つけました。本堂裏手の墓所に遺されている旧一月寺の遺墨墳碑です。「雖為骨肉同胞 不許無案内入」と刻まれています。

 


 こちらは旧一月寺の開山塔。
 説明板には台石(画像下)に一月寺の由来が記されている、とありましたが、すっかり摩耗していて読むことはできません。

 一月寺の名を有名にしたのは、普化宗の本山だったということより、江戸時代末期に起きた大名家のお家騒動。世に「仙石騒動」と呼ばれる事件です。
 鍵を握るのは神谷転(かみや・うたた)という名の旗本・仙石弥三郎の家臣と一月寺の愛�也(あいぜん)という僧侶。
 ことは但州出石藩の第六代藩主・仙石政美が急死したことに始まります。文政七年(1824年)、参勤交代で出府途中に発病し、江戸到着後亡くなるのです。まだ二十八歳という若さ。

 政美の出府直前まで藩政を牛耳っていたのは仙石氏一門で、筆頭家老だった仙石左京という人物です。左京は藩財政建て直しのために、藩士の俸禄の一部を強制的に借り上げ、御用商人以外の商人を締め出す代わりに運上金を大幅に値上げする、などという改革を推進していました。
 しかし、成果はなかなか上がらない。一方では俸禄を減らされた藩士や藩から締め出された商人、多額の運上金を課せられた御用商人からも反発が出ます。
 政美は左京と対立し、失脚していたやはり一門で勝手方頭取家老だった仙石造酒を復権させ、左京に替わって藩政を執らせることにして江戸に向かいました。その矢先の病死だったのです。
 左京一派による暗殺? ということも推察されますが、真相はわかりません。

 後継を巡って一悶着起きるかと予測されたのですが、政美の弟・久利を藩主に立てるということですんなり治まって、造酒派の天下がつづくと思ったところ、造酒さん手際が悪い。側近の一人をあまりにも重用し過ぎたために、内部分裂を起こし、乱闘騒ぎまで起きる始末です。
 造酒さん、折角カムバックを果たせたというのに、あえなく隠居 ― ということになってしまいました。

 復活した左京は以前の政策をより強力に推し進めます。
 一方、造酒の嫡男・主計ら造酒派は、左京が自分の嫡男・小太郎を藩主の座に就かせんものと画策している、と先代藩主・政美と現藩主・久利の父親である先々代の久道に訴えます。ところが、久道は左京と通じていたとみえて、この訴えをまったく相手にしなかっただけでなく、烈火のごとく怒って、首謀者たちを蟄居処分に付してしまいました。
 その中に河野瀬兵衛という人がいて、彼は藩追放という処分を受けたのですが、江戸に上って、仙石氏一門ながら旗本に取り立てられていた仙石弥三郎に訴えを記した上書を届けることができた。どういう繋がりがあったのかわかりませんが、仲介の労をとったのが、先の神谷転です。

 この上書が弥三郎から江戸で暮らしていた久道夫人・軽子に渡った時点で、左京の運命はまた下り坂、ということになります。
 左京の緊縮政策によって、江戸屋敷の出費も抑えられ、耐乏生活を強いられていた軽子は上書の内容を頭から信じてしまうのです。
 左京は軽子への弁明に努めるとともに、江戸から藩内に戻っていた河野瀬兵衛を捕らえようとします。瀬兵衛は天領だった生野銀山へ逃げますが、ここで捕らえられてしまいます。
 しかし、天領での捕り物は幕府勘定奉行の許可が必要、というのが決まりでした。その禁を犯してしまった左京は老中・松平康任に揉み消しを頼みます。
 こういう事態になるのを予測していたとは考えられませんが、左京が次の藩主に立てようとしている(と、造酒派から見られていた)小太郎の嫁に迎えたのは松平康任の姪だったのです。
 老中と親戚関係にあることに図に乗り過ぎたのか、左京は瀬兵衛を弥三郎と軽子に結びつけることとなった神谷転まで捕縛しようとします。一度ならず、二度まで違法行為を働こうというわけです。

 ここでようやく一月寺が登場します。我が身が危険だと感じた神谷は一月寺に帰依し、虚無僧となって江戸の街に潜伏します。しかし、松平康任の命を承けた南町奉行所の手にかかってしまいます。

 自分の計画が着々と進んでいると思っていた左京には、大きな落とし穴が待ち構えていました。
 まず頼みの綱としていた松平康任を蹴落とそうと狙っている人物がいたことです。
 同じ老中の水野忠邦です。
 その小判鮫のようでいながら、切れ者と名高い脇坂安董が寺社奉行にいたことも、左京にとっては不運でした。一応は僧となっている神谷を寺社奉行ではなく、町奉行に捕縛させたというのも越権行為だからです。

 捕らえられた神谷の即時釈放を求めたのは一月寺の愛�也です。寺社奉行所に訴えたときに、神谷が持っていた上書の写しまで提出したので、違法行為の揉み消し事件その他、ことはすべて明るみに出てしまいました。
 軽子の実家が姫路藩だったというのも、左京の立場をより悪くしていました。姫路藩主・酒井忠学の妻は将軍・家斉の娘・喜代姫だったのです。
 姫路藩邸を訪れる都度、軽子は喜代姫に自家の騒動を愚痴っていました。喜代姫を通して家斉の耳にも入っていた、というわけです。

 この種の事件の処分は寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三者で構成される評定所で扱われますが、
実際に取り調べに当たったのは寺社奉行吟味物調役という役目に就いていた川路聖謨(としあきら=このころの名は弥吉)です。

 結果は仙石左京=獄門の上、晒し首。仙石小太郎=八丈島遠島。松平康任=隠居。
 川路さんはこの事件で名を挙げ、のちのち勘定奉行まで出世します。ライバルを蹴落とした水野忠邦は老中首座に就き、脇坂安董は外様大名から譜代大名に列せられて老中となります。
 ただし、藩主の久利にお咎めはなかったものの、出石藩は五万八千石から三万石に減封。

 直接関わった者たち ― 。
 敗者は当然のことながら、勝者といえどもいい目は見ず、水野、脇坂、川路という部外者だけがいい目を見た、ということで事件は幕引きとなりました。
 神谷転のその後はわかりませんが、先の遺墨墳碑は愛�也の死後、報恩のために神谷が建てた石碑なのだそうです。

 いま、我が国では別の仙石騒動が起きておりますが、こちらはどうなりますことやら。

  ― お不動さんの終い縁日で参詣したはずの萬満寺からとんだ脱線をしてしまいました。

 帰りは馬橋から北小金まで、JR二駅ぶんを歩いて帰ることにしました。二駅といっても、電車ならわずか四分と近いのです。



 歩いて帰ったおかげで、我が庵近くではこの時期になってもまだ花を咲かせている石蕗(ツワブキ)があるのを見ることができました。


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