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小松基地問題研究会

バタビア・スマラン事件と能崎少将について

2013年12月11日 | 歴史観
バタビア・スマラン事件と能崎少将について

 2007年安倍首相は米CNNのインタビューに「慰安婦の方々に大変申し訳ないと思っている」と答え、昭恵夫人は「同じ女性として本当にお気の毒だと思う」と答えた。CNNは「あなたのご主人は慰安婦の強制連行はなかったと言ったのだが」とたたみかけると、昭恵夫人は「えっ、あなた、そんなこと言ったの」と醜い猿芝居をしていた。(梶村太一郎著『「慰安婦」強制連行』より)

 そして第2次安倍内閣も「強制はなかった」という発言を撤回していない。ここに、インドネシアジャワ島のスマラン事件をレポートする。

やっと情報公開
 法務省はこれまでに「スマラン事件(69号事件)、スマラン事件(106号事件)、桜倶楽部事件(5号事件)」の3件の要旨(A4版4枚)を「調査報告書」として出していた。この3件の全文が国立公文書館に移管され、強制連行真相究明ネットのご努力で、2913年9月に530ページの全文書が開示された。

 69号事件の被告は旧日本軍の軍人8名と慰安所経営者4名で、106号事件の被告は能崎少将1名で、5号事件の被告は慰安所経営者1名の合計14名である。

 106号事件の被告能崎清次は日本で別の戦犯事件の審理がおこなわれており、その裁判が終了した後、インドネシアに送られ、分離裁判がおこなわれた。能崎は金沢出身の職業軍人であり、見過ごすことはできない。

スマラン事件の概要
 オランダ政府の調査報告書には、1944年2月、インドネシア・ジャワ島のスマラン郊外の3ヶ所の民間人抑留所から、17、8歳から20代のオランダ人女性が選び出され、4ヶ所の慰安所に「力ずくで連行」され、そこで「少なくとも24名」の女性が性行為を強制されたと記載されている。

 バタビア裁判の公判記録によれば、1944年1月、南方軍の能崎少将が、I大佐とO大佐からの要望で新しい慰安所開設を話し合い、第16軍司令部に新しい慰安所設置を提案したことから始まる。この時、能崎少将は第16軍司令部の認可を条件に、部下のO少佐に、軍司令部との認可交渉に当たらせた。

 この時、第16軍司令部からは、「自由意志の者だけを雇うこと」(兵站担当の少佐の供述)を注意され、O少佐は女性を集める手配と4軒の慰安所開設の準備を指示した。

 1944年2月下旬、スマラン郊外の数カ所の民間人抑留所から女性が集められた。その際、オランダ人女性には読めない日本語で書かれ、「仕事の種類が記されていない同意書」(I大佐の供述)に署名させた。さらに女性に対し「抵抗すれば家族に最も恐怖すべき手段をもって報復する」(起訴状)と脅迫も行われた。

 2ヶ月後、この事件は発覚し、慰安所は4月下旬に閉鎖された。しかし、事件の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、事件の関係者は誰一人として処罰されなかった。それどころか責任者の能崎少将は、事件後の1944年に旅団長になり、1945年3月に陸軍中将に昇格し、4月には第152師団長と出世し、6月には勲1等瑞宝章を受勲している。

能崎少将の経歴
 能崎は1890(M23)年に石川県金沢市で生まれ、1912年に陸軍士官学校を卒業(24期)し、満州、中国に派遣され、1942年にジャワ島の第16軍南方軍幹部候補生隊隊長(少将)となり、1944年には独立混成第56旅団長、第152師団長に昇進し、敗戦を迎えた。1945年、能崎は中将に昇進し、勲1等瑞宝章を受勲している。

戦犯裁判の経過
 戦後1947年11月に、12人がバタビア臨時軍法会議に起訴され(69号事件)、1948年1月に11人が有罪判決を受けている。(①陸軍大佐 懲役15年//②スマラン支庁陸軍司政官 無罪//③陸軍少佐 死刑//④陸軍少佐 懲役10年//⑤軍医少佐 懲役7年//⑥軍医大尉 懲役16年//⑦陸軍大尉 懲役2年//⑧陸軍曹長 無罪//⑨軍属 懲役20年(スマラン倶楽部)//⑩軍属 懲役15年(日の丸倶楽部)//⑪軍属 懲役10年(青雲壮)//⑫軍属 懲役7年(将校倶楽部))

 能崎は第152師団長として千葉県で敗戦を迎え、1947年3月に、「1945.06.23千葉県佐原町事件」で戦犯として逮捕され、1年2ヶ月間拘留された後、1948年5月に、無罪判決がくだされた。しかし、能崎は釈放されず、スマラン事件の疑いで、チビナン刑務所に移送・拘留された。

 1948年12月、能崎も起訴され、69号事件とは別に審理され(106号事件)、1949年2月に死刑判決が下された。量刑に意見の対立があり、高等軍法会議に回付された。

 1949年11月に、能崎は高等軍法会議の判決を受けないまま、69号事件の受刑者とともに、巣鴨刑務所に移された。1951年8月になって、「禁固刑12年」の通知が届けられた。(日本政府はこのバタビア裁判の判決を、1951年のサンフランシスコ平和条約で受諾した)

 その後、能崎少将がいつ釈放となったのかを示す資料がなく、1966年4月5日に、石川県庁厚生部次長室で法務大臣官房司法法制調査部による面接調書が作成されている。この面接調査で、能崎は「軍司令部の参謀に抑留婦人を慰安婦とする件を話したが、反対意見は出なかった」「整列させた婦人(不承諾者も含む)から、中尉が勝手に選定して連れてきた」「連行後、各人から承諾書をとる際も、若干の人々には多少の強制があった」と証言している。
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