アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

戦前石川県内での朝鮮人動員について

2009年12月31日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
戦前石川県内での朝鮮人動員について

(1)石川県内で、統計上、在日朝鮮人が確認されたのは、1910年:3人、1920年:529人、1930年:2477人、1942年:6225人、1945年:11047人である。
 1930年代から増加しているが、特に戦争末期の労働力不足を補うために、1944~45年にかけて急増した。

(2)石川県の「募集(割り当て)認可数」によれば、1939年:30人、40年:210人41年:210人、42年:660人、43年:860人、44年:960人となっている。

(3)1945年の地域別の居住人数は、江沼郡:2141人、金沢市:1930人、小松市:1561人、能美郡:1420人、石川郡:1197人、その他の順である。

(4)1942年の在日朝鮮人の居住数は6225人であるが、労働者人口はその内の2482人となっている。就業先は、精神労働:18人(教師・事務員など)、商業:461人(屑買い・雑業が434人)、農漁業:104人、肉体労働:1867人(鉱業:347人、繊維:365人、土木・建築862人、その他)、その他:32人である。無職:3648人(配偶者、学生、生徒、児童など)。

★1940年3月24日付け「北国新聞」
  「1940年2月24日30名、3月18日30名、計60名の朝鮮人青年が朝鮮半島より「募集」によって動員」
★1944年5月12日「北国毎日新聞」
  「続々移入の半島人部隊」
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尾小屋鉱山(小松市)への朝鮮人強制動員

 1945年の「特高月報」によれば、「管下に於ける労計移入鮮人労務者は株式会社小松製作所、日本鉱業尾小屋鉱山及び舞鶴海軍施設部の三箇所に於いて就労し居るものなるが」と書かれており、1945年10月15日付け「北国新聞」には、「戦時中徴用で石川県へ移入された朝鮮労務者は尾小屋鉱山に約300名、電気冶金に20数名であった」と書かれている。小松製作所、尾小屋鉱山、小松基地、電気冶金が朝鮮人の強制連行先であった。

 尾小屋鉱山は銅の主要産地であり、軍需物資そのものであり、3K(きつい、汚い、危険)労働であり、戦時下の労働力不足を確保するために、不二越よりも一足早く、1939年から「徴用」が始まっている。1940年(142人)、1943年(597人)が尾小屋鉱山で働いている。

 強労働と居住条件の劣悪さに逃亡が大量に発生した。1940年から43年までに、「徴用(強制連行)」で働かされていた朝鮮人642人中、263人(42%)が逃亡した。統計中の「減耗数」(364人)の中に、逃亡者、期間満了、不良送還、其の他とあり、其の他(57人)は死亡者ではないかと推測される。

★1945年10月15日付け「北国新聞」
  「戦時中徴用で石川県へ移入された朝鮮人労務者は尾小屋鉱山に約300名、電気冶金に20数名であった。」

★「在日朝鮮人史研究」創刊号(1977年)長沢秀「第2次世界大戦中の植民地労働者について」より
・強制連行朝鮮人鉱員現在数
 尾小屋鉱山 1942年6月末(253人)、1942年9月末(244人)、1943年3月末(224人)
・民族別職種別鉱員数(1943年3月末現在)
 尾小屋鉱山 日本人726人(坑内237人、坑外489人)、朝鮮人224人(坑内196人、坑外28人)
・民族別職種別賃金(1943年3月末現在)
 尾小屋鉱山 日本人(坑内:4.110円 坑外:2.446円)、朝鮮人(坑内:3.394円 坑外:2.405円)

★「尾小屋鉱山写真集(銅に咲く華)」の「鉱山の想いで」より
 「昭和17年ごろから坑内に入っていく人たちの数が日本人と朝鮮の人たちの数が半々ぐらいになってきたように思う。…朝鮮から徴用されて半島の人たちが来たものと思います。」

★尾小屋鉱山殉難病没者の墓(写真)
 
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コマツ(小松製作所)への朝鮮人強制動員

 コマツ(小松製作所)小松工場の閉鎖(2010年3月)が決まった。470人の労働者は金沢工場や協力企業に移すという。コマツは工場敷地内にあった木造本社社屋を「記念館」として残すことにしている。この記念館にコマツ(小松製作所)の歴史を刻むとすれば、朝鮮人強制連行・強制労働について書き記されねばならない。

 コマツ(小松製作所)の創業は1921年であり、当初の業績は低迷していたが、1931年「満州事変」以降の戦時経済の進展に伴って、軍需部門を強化することによって業績を伸ばした。1943年度下期の出荷額の内、陸海軍向けは66%に達した。1944年1月には、軍需会社法によって、不二越とともに軍需会社に指定された。
 戦時経済下の小松製作所の主な製品は機械部門(プレス、工作機械、ブルドーザ、戦車、砲弾弾体、削岩機、ドリル、コンベア、など)、鋳鋼部門(覆帯、錨鎖、バルブ、戦車部品など)であった。
 小松製作所の従業員数は1930年(559人)、1940年(5283人)、1944年(7079人)である。戦争で肥え太った企業である。
 小松製作所に朝鮮人を動員(徴用か)していた記録は「石川県知事報告」(1945年2月26日)にしかない。「一、移入労働者の概況 管下に於ける労計移入鮮人労務者は株式会社小松製作所、日本鉱業尾小屋鉱山及び舞鶴海軍施設部の三箇所に於いて就労し居るものなるが」「小松製作所粟津工場に於いても、客年九月二九日受け入れたる五〇名移入労務者中、現在迄に既に偽計帰鮮者並逃亡者等計二九名を算し残余二一名の者は事実に口実を設けて怠業しつつ」と記載されている。
 小松製作所に強制連行・強制労働させられていた朝鮮人50名の内、29名が逃亡し、21名は怠業(ストライキ・サボタージュ)でたたかってる。

★1939年8月23日付け「北国新聞」
  「小松町小松製作所などでは率先して有為な半島青年を雇用している」

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日本冶金
小松基地建設

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