小袖城

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西の木戸はどこにあったか?

2005年07月22日 00時55分01秒 | 歴史&歴史小説
鵯越の続きです。
このにしの木戸の場所によっても、逆落としに場所が違ってくるんですよ!

平家物語では、「熊谷次郎直実は先陣をとろうと、義経の一行から密かに抜け出塩谷を通って、
西の木戸・梅ヶ鼻に現われた。」となっています。

熊谷直実が、義経一行から離れたのはいつかと考えると、義経が軍を鵯越で二つに分ける少し前、
午前3時半頃とします。
そして、直実が西木戸に現われたのが午前5時ごろ。もし、塩谷・梅ヶ鼻に現われたとすると、
高尾山から15kmも離れ、おまけに道なき道を、暗闇の中を1時間半で目的地に到着するかは
疑問だそうです。

先駆けを焦っている直実がそんなおお回りをするとは考えにくく、妙法寺川を下って板宿に南下する
沢道を通ると案内人がなくても、福原南の一の谷の西に出られるのです。
そんなに簡単に行ける道筋を、平家が何の備えもしていなかったはずもなく、その妙法寺川東が
西の木戸であった可能性があるのです。
ややこしいですが、この場合の一の谷はあくまで、神戸市街の福原の南の一の谷であって、
現在の地名にある須磨一の谷とは別の場所と思ってくださいね!

西の木戸が、妙法寺川の東と仮定した場合、逆落としの場所は須磨ではあるはずがなく、
夢野説が有力になってくるのです。


最後に、義経の逆落としを陰ながら支えた人物で、摂津源氏の祖・多田行綱をご紹介します。
行綱は大江山の鬼退治で有名な源頼光の末裔です。
鎌倉から来た義経が何の準備もなしに、ただ思いつきで鵯越の逆落としを決行したとは考えにくく、
誰か協力者がいたに違いなかったのです。
行綱は摂津の山々の道筋に関する知識はかなり詳しかったのではないかと思われます。
この多田行綱は鹿ケ谷事件にいったん加担しながら、あまりの幼稚さにいやけがさし、清盛に
寝返るという経歴の持ち主で、義経に支援を行う事で汚名挽回しようとしたのかもしれませんね。

義経は、家来や協力者を使い居ながらにして情報を得、綿密な計画を立てた上での逆落としという
前代未聞の偉業をやってのけたのでした。


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一の谷の合戦~鵯越はどこ?

2005年07月17日 14時22分44秒 | 歴史&歴史小説
先週の大河ドラマ義経は「一の谷の奇跡」でした。
一の谷といえば鵯越。
楽天のブログとかぶってしまう所もありますが、逆落としの場所を検証してみたいと思います。

一の谷の合戦は1184年 2月7日卯刻(うのこく)午前6時
夜明けと共に矢合わせを開始しました。
東の木戸・生田の森は平清盛の息子・知盛が守り、西の木戸・一の谷を守るは清盛の末弟・薩摩守忠度。
攻める源氏側は、大手の生田の森を源範頼が。搦め手の一の谷を源義経です。
夢野の鵯越下には、氷室神社を平教経が、古明寺を平盛俊が、妙法寺を平通盛が守ります。

三草山の合戦に勝利した義経は兵を二分し、西の木戸側は摂津源氏の多田行綱に主力を預け、自らは弁慶をはじめ子飼いの郎党七十騎を連れ、鵯越を目指すのです。
道なき道を進むにあたって、急遽家来にした、地元の山に詳しい鷲尾三郎の助力があったことは言うまでもありません!

私が学生時代からズーッと疑問に思っていたのは、鵯越と須磨一の谷は直線で8km、道をたどると10kmは離れていて、間に川があったり、山としては連なってないという事なのです。
鵯越については、平家物語では「一の谷後山鵯越」、源平盛衰記では「一の谷の後、鵯越へぞ向かひける」、
吾妻鏡では「着有于一の谷後山、号(なずく)鵯越」となっています。
須磨一の谷と、鵯越は8kmも離れてるのに後ろはおかしいですね。
そこで、謎を解決できるかもしれない本や文献を見つけましたので、ご紹介いたします。

義経がどのルートを通り、どこへ逆落とししたのか?は今だに分かっていないのです。
まず、最近発表された武庫川女子大学教授・野村貴郎氏の説による鵯越近くの難波一の谷へ降りた夢の説をご紹介したいと思います。

義経は現在の鵯越道を高尾山に上り、頂上から平家の軍を見下ろし、現鵯越墓地を通って南の烏原谷を直進し、夢野の西・難波一の谷へ逆落としします。
そして、氷室神社、古明寺、妙法寺の間をすり抜け陣の南背後に奇襲をかけたのです。

夢野説を有力とする資料は、義経が試しに馬二頭を崖から落とした時に、それに驚いて鹿三匹が山の手の古明寺の平盛俊の陣に飛び込み、そのうち二匹を盛俊の家来が討ち取ったと平家物語に記されているという事です。
関白藤原兼実の日記「玉葉」でも、この夢野の陣が一番先に落ちたと記してあります。

対する須磨鉄拐山から一の谷のコースは、鵯越から直線で8km離れた須磨の裏・鉄拐山から尾根続きの鉢伏山へと逆落としするものです。
これは今の地名の須磨・一の谷と近いということと、延慶本の「九郎義経は一の谷の上 鉢伏・蟻の戸という所へ打ち上げて見ければ、軍は盛(さかんなり)と見たり」と記してる所なんです。
この「鉢伏・蟻の戸」が今の鉢伏せ山ではないかと言われ、こちらのほうが有力視されています。
実際に見ても、鉢伏山は海の近くにそそり立っています。

さてさてどちらが本当かは、義経主従が知るのみですが、私は夢野説が正しいような気がします。
鵯越から須磨までは、後ろというには遠すぎるし、鉢伏山からでは海岸が近すぎて、陣を張る場所が少ないように思うのです。
そうすると、一の谷城の場所がネックになるのですが、一の谷城は今の須磨ではなく平家の心情から考えると福原に近い場所を選ぶと思います。
西の木戸の場所も少し違ってくるのですが、その件については後日お送りしましょう~(たぶん…)

                        参考文献 神戸新聞
                             源義経一の谷の合戦の謎 梅村伸雄
                             平家物語 森村誠一 



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