鵯越の続きです。
このにしの木戸の場所によっても、逆落としに場所が違ってくるんですよ!
平家物語では、「熊谷次郎直実は先陣をとろうと、義経の一行から密かに抜け出塩谷を通って、
西の木戸・梅ヶ鼻に現われた。」となっています。
熊谷直実が、義経一行から離れたのはいつかと考えると、義経が軍を鵯越で二つに分ける少し前、
午前3時半頃とします。
そして、直実が西木戸に現われたのが午前5時ごろ。もし、塩谷・梅ヶ鼻に現われたとすると、
高尾山から15kmも離れ、おまけに道なき道を、暗闇の中を1時間半で目的地に到着するかは
疑問だそうです。
先駆けを焦っている直実がそんなおお回りをするとは考えにくく、妙法寺川を下って板宿に南下する
沢道を通ると案内人がなくても、福原南の一の谷の西に出られるのです。
そんなに簡単に行ける道筋を、平家が何の備えもしていなかったはずもなく、その妙法寺川東が
西の木戸であった可能性があるのです。
ややこしいですが、この場合の一の谷はあくまで、神戸市街の福原の南の一の谷であって、
現在の地名にある須磨一の谷とは別の場所と思ってくださいね!
西の木戸が、妙法寺川の東と仮定した場合、逆落としの場所は須磨ではあるはずがなく、
夢野説が有力になってくるのです。
最後に、義経の逆落としを陰ながら支えた人物で、摂津源氏の祖・多田行綱をご紹介します。
行綱は大江山の鬼退治で有名な源頼光の末裔です。
鎌倉から来た義経が何の準備もなしに、ただ思いつきで鵯越の逆落としを決行したとは考えにくく、
誰か協力者がいたに違いなかったのです。
行綱は摂津の山々の道筋に関する知識はかなり詳しかったのではないかと思われます。
この多田行綱は鹿ケ谷事件にいったん加担しながら、あまりの幼稚さにいやけがさし、清盛に
寝返るという経歴の持ち主で、義経に支援を行う事で汚名挽回しようとしたのかもしれませんね。
義経は、家来や協力者を使い居ながらにして情報を得、綿密な計画を立てた上での逆落としという
前代未聞の偉業をやってのけたのでした。
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小袖の歴史と趣味の部屋~大河ドラマ頼朝非情なりこちらから~
このにしの木戸の場所によっても、逆落としに場所が違ってくるんですよ!
平家物語では、「熊谷次郎直実は先陣をとろうと、義経の一行から密かに抜け出塩谷を通って、
西の木戸・梅ヶ鼻に現われた。」となっています。
熊谷直実が、義経一行から離れたのはいつかと考えると、義経が軍を鵯越で二つに分ける少し前、
午前3時半頃とします。
そして、直実が西木戸に現われたのが午前5時ごろ。もし、塩谷・梅ヶ鼻に現われたとすると、
高尾山から15kmも離れ、おまけに道なき道を、暗闇の中を1時間半で目的地に到着するかは
疑問だそうです。
先駆けを焦っている直実がそんなおお回りをするとは考えにくく、妙法寺川を下って板宿に南下する
沢道を通ると案内人がなくても、福原南の一の谷の西に出られるのです。
そんなに簡単に行ける道筋を、平家が何の備えもしていなかったはずもなく、その妙法寺川東が
西の木戸であった可能性があるのです。
ややこしいですが、この場合の一の谷はあくまで、神戸市街の福原の南の一の谷であって、
現在の地名にある須磨一の谷とは別の場所と思ってくださいね!
西の木戸が、妙法寺川の東と仮定した場合、逆落としの場所は須磨ではあるはずがなく、
夢野説が有力になってくるのです。
最後に、義経の逆落としを陰ながら支えた人物で、摂津源氏の祖・多田行綱をご紹介します。
行綱は大江山の鬼退治で有名な源頼光の末裔です。
鎌倉から来た義経が何の準備もなしに、ただ思いつきで鵯越の逆落としを決行したとは考えにくく、
誰か協力者がいたに違いなかったのです。
行綱は摂津の山々の道筋に関する知識はかなり詳しかったのではないかと思われます。
この多田行綱は鹿ケ谷事件にいったん加担しながら、あまりの幼稚さにいやけがさし、清盛に
寝返るという経歴の持ち主で、義経に支援を行う事で汚名挽回しようとしたのかもしれませんね。
義経は、家来や協力者を使い居ながらにして情報を得、綿密な計画を立てた上での逆落としという
前代未聞の偉業をやってのけたのでした。
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