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大和源氏 後深草少将記

清和源氏の一流、大和守源頼親を祖とする
大和源氏に関する情報ページ。

大和源氏諸氏の家紋

2006-03-26 17:28:22 | 大和源氏諸家譜
 氏族別の代表紋と云えば一般的に、清和源氏の「笹竜胆」平家の「蝶」藤原氏の
「藤」橘氏の「橘」嵯峨源氏渡辺氏の「三つ星に一文字」宇多源氏佐々木氏の
「四つ目結」村上源氏の「竜胆」桓武平氏千葉氏の「月星」等の紋が有名であろう。
 『雲上明覧』や『寛政重修諸家譜』掲載の清和源氏諸氏の代表紋を見てみると
下記のような事となるが、大名や幕臣の家の使用紋であるから掲載されて無い
諸氏の使用紋を考えると全てが正しいとは云えぬであろうが、基本である。
 義家流「蔦」 松平氏「酢漿草」。新田氏「桐」「一つ引両(大中黒)」。
         足利氏「桐」「二つ引両」。
 為義流「竜胆」。 義時流「竜胆」。 義高流森氏「鶴」。
 義光流 武田氏「菱(花菱・割菱・松皮菱)」。小笠原氏「三階菱」「松皮菱」。
 頼清流村上氏「上文字」。 頼季流「雁」。 頼光流土岐氏「桔梗」。
 頼親流「鷹の羽」。 満政流「沢瀉」「永楽銭」。 満快流「梶の葉」。
 清和源氏支流 「巴」「桐笹」「九曜」。   『家紋大図鑑』丹羽基二著参考
 
 大和源氏頼親流の代表紋が「鷹の羽」と云うのは、宇野氏流豊島氏系高木氏が
河内国丹南一万石の大名であり、美濃国の高木氏が交代寄合、三河・尾張・美濃
出身の高木氏が旗本・御家人に多くいる為に『寛政重修諸家譜』に掲載されて
統計上、高木氏の使用紋である「違い鷹の羽紋」が代表紋となってしまった。
 そこで更に大和源氏諸氏の使用紋を調べてみる事とするが、判明してる一部の
家の使用紋だけなので、御存知の方がいらっしゃれば御教授願いたい。
     
     頼房流宇野氏十六家 
 宇野氏「唐花菱」「横木瓜」「二引両」「五三桐」「一巴」
 豊嶋氏「四菱」
 土方氏「左三巴」「菱内左三巴」「五三桐」「九曜」「三銀杏」「揚羽蝶」
 大森氏「丸に銀杏」「杏葉三枚」「五三桐」「柏」
 村垣氏「角餅に左巴」「一輪牡丹」
 依田氏「丸に三蝶」「蝶花形」
 幸田氏「丸に三階松」「五枚笹」「杜若」「花菱」「剣菱」「四目結」「万字」
 片山氏「松輪の内三巴」
 小倉氏「梅鉢」「三本瓜」「二柏」
 奥村氏「八角蛇目」「蔦」
 江川氏「井桁に十六菊」「五三桐に二引両」
 広瀬氏「丸に打違い鷹羽」「三生鷹羽」「桔梗」「鏑矢打違」
 花村氏「藤丸」「丸に花沢瀉」
 宮永氏「丸に十文字」
 米田氏「茗荷丸」「抱き茗荷」「臼字杏葉」
 高木氏「高木鷹羽(点紋付)」「丸に打違い鷹羽」「三竪鷹羽」「鷹裏尾打違」
     「万字」「木字」「菊字」「八重菊」「五八重梅」「五梅」「五三桐」
     「三引両」「蔦」「横木瓜」
     頼房流陸奥氏六家
 陸奥氏「五三桐」「横木瓜」
 愛子氏「五三桐」「横木瓜」
 朝日氏「丸に一文字」「横木瓜」「万字」
 曲淵氏「横木瓜」「披傘」「篭目」
 大野氏「九曜」「沢瀉」
 大田氏「鳩酸草」「釘抜き」「違い竹節」
     頼遠流石川氏八家
 石川氏「向い鶴」「七曜」「割菱」「四菱」「花菱」「剣花菱」
 市橋氏「割菱」「向い鶴」
 成田氏「割菱」
 河尻氏「割菱」「四菱」「丸に二引両」
 柳津氏「割菱」「向い鶴」
 曲木氏「松喰舞鶴」「丸に平角」
 小高氏「割菱」「向い鶴」「二引両」
 沢井氏「丸に三つ巴」「五三桐」
     その他諸氏七家
 戸坂氏「四菱」
 峯田氏「割菱」「向い鶴」
 岸本氏「石餅に剣花菱」「五枚笹」
 幡野氏「六丁子」
 神尾氏「曼柏」「蔦」
 井関氏「剣梅鉢」「輪梅鉢」
 杉岡氏「丸に剣鳩酸草」
 1 「桐紋」と「引両紋」は賜与された紋と考えられるから本来の家紋
   としてカウントしない方が良いであろう。
 2 宇野氏流の代表紋は「花菱」や「四菱」等の「菱紋」である。
 3 陸奥氏流の代表紋は「横木瓜」である。
 4 石川氏流の代表紋は「向い鶴」と「割菱」である。
 5 畿内に基盤を持った頼親次男頼房流(宇野氏)も陸奥を基盤と
   した三男頼遠流(石川氏)も共に「菱紋」を多用してるので
   大和源氏の代表紋は「菱紋」であると思われる。
   
  


千年の時を越えて

2006-03-24 03:18:19 | 雑記所 赤面の武士
 「後深草少将の宝物殿」に大和源氏宇野氏流大森氏のライト氏より
書込みがありました。ライト氏は現在、千葉県に住んでおられるそう
ですが、備前国上道郡中井村大庄屋の大森氏だそうです。
 うちは宇野氏流豊嶋氏系高木氏ですから御先祖様は京都か摂津で
会ってたかもしれませんね。
 
 宇野頼治ー豊嶋親弘ー宇野親治ー宇野義治ー大森茂治ー行治ー
   盛治ー頼宗ー宗光ー光清ー光時ー宗武(中井村大森氏初代)
 宇野頼治ー豊嶋親弘ー豊嶋基弘ー高木信光

 「源頼親ー頼房ー頼俊ー頼治ー親弘」は共通の御先祖様ですから
四月からの頼房・頼俊・頼治に関するブログを楽しみにお待ち下さい。
実はここ三ヶ月ばかりブログに大和源氏諸氏の系図をアップしようと
色々試みたんですけど上手くいかないんです。ワープロだと系図の
縦線横線が簡単に引けるのにパソコンだとパソコン初心者の私だと
無理があり、ワープロでプリントした系図を画像でアップしようと
しましたが字が読み難い。取敢えずは文章で書ける範囲で頑張って
みます。
 ライト様、これからも宜しくお願い申し上げます。

杉村春子先生との写真

2005-12-03 01:01:23 | 雑記所 赤面の武士
 杉村センセーと云えば衆議院議員であるが、杉村先生と云えば今は亡き演劇界の大御所であった杉村春子先生である。
つい先日、フジテレビで放映された女の一代記シリーズ第三夜「杉村春子」を見てて思い出した事があった。
亡き母の嫁入り前の古いアルバムに母と杉村先生との写真があった事である。
 今から五十年以上昔の事ではあるが、神田猿楽町生まれの母は近所の
高級天婦羅店「天政」で働いていた。「天政」には芸能界や角界のお客様
も多く、他にも鶴田浩二・佐田啓二・坊屋三郎・栃錦や宝塚のお姉さん達
との写真がアルバムにある。
 最近では、と云っても20年くらい昔だが小説家のつかこうへい氏の
結婚式に出席した際に撮った女優の松坂慶子さんとのツーショットがある。
ちなみにつかこうへい氏の小説では、痩せてる母は「鶏がらのような女将」
と書かれ、父親にいたっては「背中に彫り物があるボディーガード代わり
の近所の親父」と云う事になっている。で私はと云うと両親の仕事が忙しく
父兄参観日に来て貰えぬと知りつつも校門前で両親を待つ可哀想な小学生
として書かれている。
 父にも母と同じ頃に杉村先生と直接電話で話したと云うエピソードがある。
当時、文学座の若手俳優であった伯父は実家で両親や兄弟と同居していた。
ある日、稽古日なのに時間になっても稽古に来ない伯父に杉村先生自ら家に
電話が掛かって来たのだ。「あらやだ、キンさんまだ家にいるの!とっくの
昔に稽古は始まってんのよ!!今すぐ来なさいよ!!!」実は声の似てる父
が杉村先生の電話に最初に出たのだ。
 昨年亡くなった伯父は演劇界や親戚の間では怖い存在らしく、葬式では
「キンさんにはよく怒鳴られました。」「先生には叱られました。」と云う
友人の俳優や弟子達と「先日も兄さんにラーメン屋で注文が遅いと叱られた
ばかりです。」と話す伯母や「小さい頃は叔父さんに叱られて怖かった。」
と云う甥や姪達の間で話が盛り上がっておりました。どうやら親戚中で
私だけが一度も伯父に叱られた事が無い事が判った次第です。
 その伯父も若い頃は杉村先生にはだいぶ叱られたみたいで何度も文学座を
辞めさせられそうになったそうですが、その度に長岡輝子先生に助けて貰った
そうです。まぁ結局は芝居に厳しい伯父も芝居に厳しい杉村先生に鍛えられた
って事なんでしょうね。
 そして先日の第23回トリノ国際映画祭にて伯父の最後に出演した映画
「美式天然」が「グランプリ」と「観客賞」を見事受賞して、伯父も天国で
杉村先生に「キンさん良かったわよ。」と褒められた事でしょう。

韓国SF映画「ロスト・メモリーズ」

2005-10-18 02:02:37 | 雑記所 赤面の武士
 ケーブルTVで韓国初の近未来SFアクション映画「ロスト・メモリーズ」を観た。
主演は仲村トオルとチャン・ドンゴンの日韓合作映画である。
 ストーリーは、1909年にハルピン駅で暗殺されたされたはずの伊藤博文が
映画では暗殺の失敗で第一代朝鮮総督に就任する事から始まる。当然、1910年
以降の歴史は変わる。征韓論者を抑えてた親韓派の伊藤博文が統治した為か、独立
運動は歴史通り起きたもののスムーズに日韓併合は行われ満州国すら併合した。
更にアメリカと同盟を結び太平洋戦争も起こらず対独戦の戦勝国となり、国連
理事国にもなった。勿論、広島長崎への原爆投下も無く太平洋戦争で失った人的
経済的精神的被害も無く、日本は繁栄を極め1988年には「名古屋オリンピック」
が開かれ、サッカーワールドカップも韓国が存在しないので日本の単独開催である。
 時は2009年、東京・大阪に次ぐ日本第三の大都市「京城」で美術展襲撃テロ
が発生した。テログループは「朝鮮独立派」である。それを鎮圧したのが「日本
特殊捜査局京城支局」の日本人捜査官(仲村トオル)と朝鮮系日本人捜査官
(チャン・ドンゴン)である。
 「朝鮮独立派」の襲撃目的は美術展に展示されてたハルピン郊外で発掘された
古代の遺物で、時空を超える事の出来る携帯タイムマシン?であり、これを使い
過去に戻りハルピン駅での伊藤博文暗殺を成功させようと云うのだ。
ラストの落ちは計画通り過去に戻り暗殺に成功して現在の歴史通りになるのだが
韓国・朝鮮の歴史のリセットって、それで良いのか!?と韓国の映画製作者に
牛丼でも食べながら小一時間ほど問いたい。
 日帝36年・南北分断・朝鮮戦争・南北双方の軍事独裁による大量粛清などは
歴史通り起きてしまう道を選ぶ彼等の真意がわからない。
勿論、朝鮮(大韓帝国)と云う祖国の方が、日本に併合され繁栄するよりも
重要だ!と云う考えは理解出来る。しかしそれならば、日帝時代よりも統一新羅
以降の中国・モンゴルに支配された悲惨な対中関係を考えるべきである。
唐朝から清朝までの千何百年も宗主国である「大中華」の過酷な要求に従い、
最後のプライドで自ら「小中華」と称しても肝心の中国からは「琉球王朝」
よりも格下に扱われている。
 どうせタイムマシンで歴史をリセットするなら三国時代の高句麗に味方して
百済・日本と手を結び新羅を滅ぼし「統一高句麗」を建国するべきである。
そんなに古い時代に時空移動出来ないならば、せめて李朝末期の金玉均に
味方して朝鮮の近代化をはかるべきである。このストーリーなら日韓合作
第二弾で、日帝36年や南北分断の無い「韓国」を映画化出来る。
 基本的に韓国の「もしもシリーズ」(日本相手の架空戦記)は竜頭蛇尾で
話の落とし所が突っ込み所になってしまう。
タイムスリップ・タイムマシン系のSFは、パラドックスが付き物なので
作品化は大変難しいが、この映画はそれ以前の歴史観がパラドックスに
陥ってる感がある。

13 勾当について

2005-09-26 02:36:29 | 大和源氏諸家譜
 大和源氏の中に「勾当」と云う聞き慣れない官職にある者がいるので説明する。
「勾当(こうとう)」とは律令制度の一職名で平安中期以降に「民部省」「大蔵省」
「大膳職」の内に見え、「大宰府」管下の諸司、郡職員、摂関家政所にも勾当の職
が存在するが、いづれも中級職員である。
 とは云えそもそも勾当とは、長官である「別当」が本来の任務とは別に担当する
官の次官であり勾当の意味は「専任で担当(勾は句の俗字で任に当たるの意)」
をする官であり、軍隊の階級で云えば経験の浅い中尉や少尉を助ける経験深い
准尉や曹長と云った所であろう。
 また東大寺・醍醐寺・金剛峰寺などの諸大寺では「三綱(さんごう)」たる
上座・寺主・都維那の下に置かれる例が多い。
 頼成流四世満房(九条右大臣勾当)や頼成流七世定親(三条左府勾当)とある
から彼等の場合は摂関家政所の職員であった事が判る。また『尊卑分脈』に勾当
とだけ記されている頼成流四世満宗も九条右大臣勾当満房の弟であり、曾孫が
三条左府勾当定親なので彼も摂関家政所の職員である勾当であったであろう。

12 院と女院と斎院 その4

2005-09-25 03:35:27 | 大和源氏諸家譜
 宮中において神への崇敬を表す儀式として、未婚の皇女を神の御杖代として
差し遣わし、この皇女を「斎王」と称して歳時の御奉仕をした。
 古くよりの伊勢神宮の斎王制(斎宮)を弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願
により、伊勢に倣って第八皇女有知子内親王を奉られたのが賀茂の斎院制の
始めで、伊勢神宮を「斎宮」、賀茂社を「斎院」として区別した。なお斎院は
「いつきのみや」とも云う。
 斎王は、天皇即位の度に未婚の内親王の内よりト定(ぼくじょう)され
(内親王がいない場合は女王の内よりト定)、斎王の退下は天皇の譲位や
崩御の場合が原則であった。
 ト定された斎王は、雅楽寮や宮内省などを占いにより「初斎院」と定め
禊祓(みそぎはらえ)を済ませた後にそこに入り三年間の潔斎生活の後、
4月上旬(旧暦)吉日に愛宕郡紫野に設けられた斎院(紫野院)に入られ
賀茂川にて御禊を行った後に初めて祭事の奉仕が許された。
 斎院には事務処理の為に「斎院司」や「蔵人所」が置かれた。
「斎院司」 斎院長官(従五位下)→次官(従六位上)→判官(従七位上)
      →主典(従八位下)→宮主→史生→使部
「蔵人所」 女別当→内侍→宣旨→女蔵人→采女→女孺
 賀茂祭の当日、斎院は御所車にて出御され、勅使以下諸役は供奉して
まず下賀茂神社へ次いで上賀茂神社へ参向・祭儀が執り行われる。
上賀茂神社にては本殿右座に直座され行われ、その夜は御阿礼所前の神館
に宿泊されて、翌日に紫野の斎院へ戻られた。
 なお賀茂神社の斎院制は、後鳥羽天皇皇女禮子内親王を最後に絶えた。
よって賀茂に斎院の置かれた期間は弘仁元年(810)から建暦二年(1212)の
およそ四百年間で斎王は35代に及んだ。
 その斎院後期に斎院長官・斎院次官となった大和源氏は以下の通りである。
斎院長官 頼成流五世満俊・頼成流四世仲光・頼成流五世定満
       頼房流六世基弘・頼基流四世仲重・頼基流四世忠光
斎院次官 頼房流七世有治・頼基流五世基房・

11 院と女院と斎院 その3

2005-09-23 19:52:25 | 大和源氏諸家譜
 大和源氏諸氏が「女房」「蔵人」「判官代」などの院司として仕えた「女院」一覧。

1 「陽明門院」禎子内親王(1013~1094)三条天皇第三皇女、母中宮藤原妍子。
        後朱雀天皇皇后、後三条天皇母。1069年2月17日宣下。
2 「二条院」 章子内親王(1026~1105)後一条天皇第一皇女、母中宮藤原威子。
        後冷泉天皇中宮。1074年6月16日宣下。
3 「待賢門院」藤原璋子(1101~1145)権大納言藤原公実娘。鳥羽天皇中宮。
        崇徳天皇・後白河天皇母。1124年11月24日宣下。
4 「美福門院」藤原得子(1117~1160)権中納言藤原長実娘。鳥羽天皇皇后。
        近衛天皇母。1149年8月3日宣下。
5 「上西門院」統子内親王(1126~1189)鳥羽天皇第二皇女、母待賢門院璋子。
        1159年2月13日宣下。
6 「八条院」 子内親王(1137~1211)鳥羽天皇第五皇女、母美福門院得子。
        1161年12月16日宣下。
7 「九条院」 藤原呈子(1131~1176)太政大臣藤原伊通娘。近衛天皇中宮。
        1168年3月14日宣下。
8 「建礼門院」平徳子(1155~1213)太政大臣平清盛娘。高倉天皇中宮。
        安徳天皇母。1181年11月25日宣下。
9 「殷富門院」亮子内親王(1147~1216)後白河天皇第一皇女、
        母権大納言藤原季成娘藤原成子。1187年6月28日宣下。
10 「七条院」 藤原殖子(1158~1228)修理大夫坊門信隆娘。
        後鳥羽天皇母、後堀河天皇祖母。1190年4月22日宣下。
11 「宣陽門院」覲子内親王(1181~1252)後白河天皇第六皇女、母丹後局高階栄子。
        1191年6月26日宣下。
12 「陰明門院」藤原麗子(1185~1243)太政大臣大炊御門頼実娘。土御門天皇中宮。
        1210年3月19日宣下。

 1 「陽明門院」 頼房流四世頼風(判官代)頼房流五世頼安(判官代)      
 2 「二条院」  頼基流三世義仲(判官代)頼基流四世仲親(蔵人)
 3 「待賢門院」 頼房流六世基親(判官代)頼房流六世基重(判官代)
 4 「美福門院」 頼成流七世定長(蔵人)
 5 「上西門院」 頼成流三世仲綱(蔵人)頼成流三世成綱(蔵人)
          頼成流六世光賢(判官代)頼成流六世満長(蔵人判官代)
          頼成流七世成長(蔵人)頼成流六世憲長(蔵人)        
 6 「八条院」  頼成流六世資国(蔵人)頼成流五世盛隆(蔵人)
          頼成流五世光親(判官代)頼房流八世伊与局(女房)
          頼房流七世信光(蔵人判官代)頼房流七世頼清(判官代)
          頼基流六世盛親(蔵人)頼基流五世朝光(蔵人)
          頼基流五世光親(蔵人判官代)頼基流七世親兼(判官代)
 7 「九条院」  頼成流五世資頼(判官代)頼房流七世頼清(判官代)
          頼基流五世仲義(蔵人)
 8 「建礼門院」 頼房流七世信弘(判官代)
 9 「殷富門院」 頼成流七世頼康(蔵人)頼成流七世宗長(蔵人)
 10 「七条院」  頼成流八世惟長(蔵人)頼基流六世親基(判官代)
 11 「宣陽門院」 頼基流七世為仲(蔵人)
 12 「陰明門院」 頼房流十世義員(蔵人)頼房流九世義資(蔵人)
 「上西門院」「八条院」の院司となった大和源氏の数を見るといかに院司が
縁故採用かが伺われる。八条院庁に至っては本家の冠婚葬祭の席並に親戚一同
が揃っており、保元・平治・治承・寿永の乱においても彼等は女院庁の中に
あって動乱期を過ごした為に源平の勝敗に関わらず生き残った。
 逆に保元・平治の両乱に深く関わった大和の在地豪族化した宇野親治流は
敗戦の憂き目にあい大和国内での勢力を分散されてしまった。
しかし最終的には平家の滅亡、源氏の勝利によって鎌倉幕府成立後は、都や
摂津の大和源氏も大和の宇野氏流大和源氏も地方での新たな所領の獲得や
本領安堵によって小規模ながら勢力を保つ事となった。

10 院と女院と斎院 その2

2005-09-22 01:29:33 | 大和源氏諸家譜
 「院」とは上皇や法皇等の太上天皇であり、「女院」とは院に準ずる
待遇を受けた女性で、「三后」(太皇太后・皇太后・皇后)や三后に
準ずる身分の女性に宣下された称号で平安中期から明治維新まで
続いた制度で、院に倣って院庁を置き「別当」「判官代」「主典代」
その他の諸司を任じて殿上を定め蔵人を補した。
 后妃の待遇(后宮職)は后妃の出家に伴い停止されてたが、一条天皇
の母である皇太后藤原詮子が落飾の際に皇太后宮職の停止と同時に
「東三条院」の院号が贈られ「女院」が誕生した。
 このように初期の女院号宣下は天皇の母たる国母となった后妃に限られ
たが、後冷泉天皇の中宮章子内親王は国母でなくとも後一条天皇第一皇女
と云う尊貴な出自を以って「二条院」の女院号宣下を受け女院号を得た。
 また皇女を尊称の皇后に立てる制度が白河天皇第一皇女のてい子内親王
(ていの字は女偏に是【女是】)の時に初めて確立して女院号宣下の対象
が「尊称皇后」にまで拡大して「郁芳門院」の女院号が宣下された。
 更に鳥羽天皇第五皇女(母は美福門院)子内親王は后位を経ずに
「八条院」の女院号を宣下された。
 「院政」において莫大な荘園による富と強力な武士団を持つ受領層を得た
上皇の権勢は、やがて夫である上皇や父である上皇の財産を相続した后妃や
内親王等の女院にも移り、鳥羽上皇皇后「美福門院」中宮「待賢門院」など
には更に荘園の寄進が集中して富が富を生む状態であった。
 その代表的な女院が、父「鳥羽院」と母「美福門院」の莫大な荘園と院司
を相続した「八条院子内親王」である。安元二年(1176)の所領目録
によれば、八条院庁領41ヶ所・鳥羽安楽寿院領31ヶ所・歓喜光院領19
ヶ所・その他合わせて102ヶ所の荘園を管領したとある。 これら莫大な
八条院領は鳥羽院・美福門院に仕えた女房や武士を通じて集められ、その子
や孫など一族へと伝領されていった。
 頼親親子の失脚により力を失い受領としての富の蓄えや地方への勢力拡大
の機会を失った頼親四世五世以下の大和源氏諸氏も上皇や女院の女房や蔵人、
判官代などの院司として仕え、院政期において僅かながらではあるが勢力を
持つ事が出来るようになった。

9 院と女院と斎院 その1

2005-09-08 23:07:51 | 大和源氏諸家譜
 『尊卑分脈』の大和源氏の官職を見ると始祖の頼親の孫辺りまでは
国司に任官した者もいるが、興福寺との争いにて頼親父子が遠流など
の処分を受け中央での勢力を失うと国司への任官が困難となり、頼親
三男の頼遠一族が奥州石川の地に移住した例を除き、頼成流・頼房流・
頼基流は、大和や摂津など都の近くに住みながら女院の蔵人や判官代、
斎院の長官・次官になった者が多くいる事がわかる。
 そこで「院」「女院」「斎院」について少し説明をする。
 1 上皇や法皇、女院の家政機関である「院庁」において諸務を処理
   する職員が「院司」である。
 2 その院司は基本的に四つに分類出来る。
  A 院司の中核として院中の庶務を統括する院司で「別当」以下
    「判官代」「主典代」「庁官」の順である。
  B 上皇や女院身辺の諸事に奉仕する院司が「蔵人」「非蔵人」。
  C 各種の職掌(召次所・仕所・別納所・御服所・御厨子所・進物所・
    文殿・御厩・細工所)を分担専当する院司。
  D 上皇の身辺警護にあたる「御随身所」「武者所」「北面」の武者。
    北面の武士とは「院の北面」と云う詰所に参集した武士団を持つ
    受領層や中級官僚、衛門府の武官などで構成され、四位五位の
    「上北面」と六位の「下北面」があるが、官職ではない。
    即ち大和・摂津に小規模ながら武士団を持つ大和源氏の蔵人や
    判官代が北面の武士である場合もある。
 3 大和源氏が院司として仕えた上皇・法皇の院庁は以下の通りである。
   A 後白河院 蔵人  頼親四男頼基五世 盛仲
   B 高倉院  判官代 宇野氏流豊島氏豊島親満ー親季ー親長
   C 後鳥羽院 蔵人  頼親四男頼基五世 盛仲ー基仲
                 判官代 基仲弟家仲 

8 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 8

2005-09-01 01:39:00 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼基流

288 頼基 2世 頼親001子 従五位下 左京少進
289 義仲 3世 頼基288子 従五位下 二条院判官代
290 仲親 4世 義仲289子 太郎 二条院蔵人
291 仲隆 5世 仲親290子 太郎 勾当
292 仲重 5世 仲親290子 従五位下 源大夫
293 盛仲 6世 仲重292子 右兵衛尉 後鳥羽院蔵人
294 基仲 7世 盛仲293子 後鳥羽院蔵人
295 為仲 8世 基仲294子 宣陽門院蔵人
296 仲義 5世 仲親290子 二郎 九条院蔵人
297 義守 4世 義仲289子 五郎 従五位下 式部少丞
298 宗頼 5世 義守297子 従五位下 源大夫 
299 頼員 6世 宗頼298子 左衛門尉 能登守
300 為基 7世 頼員299子 左兵衛尉 
301 為綱 8世 為基300子 
302 仲房 4世 義仲289子 勾当
303 親房 5世 仲房302子
304 家親 5世 仲房302子
305 基房 5世 仲房302子 斎院次官
306 仲遠 4世 義仲289子 蔵人 斎院長官
307 盛仲 6世 盛仲(光重)307子 元は光重 後白河院蔵人
308 光方 6世 盛仲(光重)307子 左衛門尉 後鳥羽院蔵人
309 親兼 7世 光方308子
310 盛親 6世 盛仲(光重)307子 八条院蔵人
311 基仲 6世 盛仲(光重)307子 藤原宗賢の子となる。
312 家仲 6世 盛仲(光重)307子
313 盛宗 6世 盛仲(光重)307子
314 仲光 4世 義仲289子 勾当
315 信親 5世 仲光314子 二河冠者「二河氏祖」
316 頼致 5世 仲光314子 右衛門尉
317 仲重 4世 義仲289子 蔵人 斎院長官
318 成仲 5世 仲重317子 盛仲に改名 後白河院蔵人
319 元仲 6世 成仲318子 左衛門尉 後鳥羽院蔵人
320 為仲 7世 元仲319子 宣陽門院蔵人
321 家仲 6世 成仲318子 後鳥羽院蔵人
322 清仲 6世 成仲318子
323 盛季 5世 仲重317子 
324 忠光 4世 義仲289子 斎院長官 麻生別当
325 朝光 5世 忠光324子 八条院蔵人
326 親賢 6世 朝光325子 左近衛将監
327 基光 7世 親賢326子 雅楽助
328 光貞 7世 親賢326子
329 元国 7世 親賢326子
330 範仲 4世 義仲289子(右馬大夫基遠の子)麻生別当「麻生氏祖」
331 光親 5世 範仲330子(源仲親の子)蔵人所雑色 八条院蔵人
332 光賢 6世 光親331子 上西門院蔵人
333 親兼 7世 光賢332子 八条院判官代
334 遠氏 8世 親兼333子 
335 親賢 7世 光賢332子
336 基光 7世 親賢335子 雅楽助
337 親基 6世 光親331子 七条院蔵人
338 親忠 7世 親基337子 
339 頼氏 8世 親忠338子

7 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 7

2005-08-24 02:55:36 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼遠流(石川氏)

245 頼遠 2世 頼親001子 福原三郎
246 仲重 3世 頼遠245子 先生大夫
247 盛仲 4世 仲重246子 院蔵人
248 親仲 5世 盛仲247子
249 宗仲 5世 盛仲247子
250 盛宗 4世 仲重246子
251 有光 3世 頼遠245子 初め摂津国柳津に住み柳津源太を号し、
                   後に陸奥国石川に住し石川冠者を号す。
252 基光 4世 有光251子 石川三郎
253 光義 5世 基光252子 石川太郎 澤田を号す。
254 光治 6世 光義253子 成田を号す。承久の乱の功により美濃国市橋庄地頭。
255 義季 6世 光義253子 石川三郎
256 広季 7世 義季255子 石川小二郎
257 光貞 8世 広季256子 石川小太郎
258 光長 9世 光貞257子 石川又太郎
259 光盛 10世 光長258子 石川太郎四郎
260 盛義 11世 光盛259子 石川小太郎
261 季光 7世 義季255子 石川三郎 木工助
262 景光 8世 季光261子 石川助太郎
263 光氏 9世 景光262子 石川又太郎
264 光房 10世 光氏263子 石川弥太郎
265 光忠 10世 光氏263子 石川弥二郎
266 秀康 5世 基光252子 石川二郎 河尻を号す。「河尻氏祖」
                   右大将家(源頼朝)に誅される。
267 光家 4世 有光251子 母佐竹進士源義業娘 石川四郎
268 光盛 5世 光家267子 石川太郎
269 光重 6世 光盛268子 石川小太郎 坂地を号する。
270 光時 7世 光重269子 石川三郎
271 光行 8世 光時270子 石川彦三郎 大炊助
272 光広 9世 光行271子 石川又三郎
273 兼光 10世 光広272子 石川三郎太郎
274 光廉 6世 光盛268子 石川五郎 河尻を号す。「河尻氏祖」
275 助廉 7世 光廉274子 河尻修理亮
276 助光 8世 助廉275子 河尻太郎
277 俊助 9世 助光276子 河尻又太郎
278 俊光 10世 俊助277子 河尻孫太郎
279 光胤 7世 光廉274子 河尻五郎太郎
280 宗光 8世 光胤279子 河尻四郎太郎
281 胤村 7世 光廉274子 川尻又五郎 
282 師光 8世 胤村281子 川尻彦五郎
283 光方 8世 胤村281子 川尻六郎
284 光村 6世 光盛268子 河尻七郎 矢澤を号する。「矢澤氏祖」
285 光高 7世 光村284子 六郎
286 光治 5世 光家267子 大寺二郎 「大寺氏祖」
287 光助 5世 光家267子 小高三郎 「小高氏祖」

6 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 6

2005-08-22 23:22:18 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼房ー頼俊ー頼景流(愛子・陸奥・大田・大野・朝日氏)

198 頼景 4世 頼俊084子 愛子(あやし)六郎・陸奥六郎
199 惟風 5世 頼景192子 本名惟光 陸奥弥六
200 頼明 6世 惟風199子 愛子太郎 陸奥太郎
201 頼遠 7世 頼明200子 
202 頼資 8世 頼遠201子 雑色
203 頼基 9世 頼資201子 太田太郎
204 頼康 9世 頼資201子 大田三郎
205 義員 10世 頼康204子 縫殿助 陰明門院蔵人
206 頼成 7世 頼明200子 皇后宮侍長
207 頼清 7世 頼明200子 九条院判官代
208 頼元 7世 頼明200子 美濃国墨俣にて源平合戦時に討死。
209 頼満 6世 惟風199子
210 惟光 6世 惟風199子
211 頼友 6世 惟風199子
212 頼章 6世 惟風199子 陸奥弥太郎 一所勾当
213 頼康 7世 頼章212子 皇后宮侍長 治承五年三月十日、美濃国墨俣
                   にて討死。
214 頼清 7世 頼章212子 八条院大野判官代 承久の乱にて後鳥羽上皇方
                   につき討たれ、鎌倉方に尾張国大野庄以下
                   数ヶ所の所領を没収される。
215 頼重 8世 頼清214子 大野太郎 承久の乱にて後鳥羽上皇方につき討死。
216 頼時 8世 頼清214子 朝日二郎「朝日氏祖」
217 頼連 9世 頼時216子 朝日四郎太郎
218 信時 9世 頼時216子 大野又二郎 朝日二郎
219 親頼 10世 信時218子 朝日弥二郎
220 頼氏 11世 親頼219子 朝日孫二郎
221 頼高 12世 頼氏220子 朝日小二郎
222 頼長 13世 頼高221子 朝日又二郎
223 範氏 12世 頼氏220子 朝日小三郎 岩井を号す「岩井氏祖」
224 貞頼 11世 親頼219子
225 基氏 11世 親頼219子
226 仁範 4世 頼俊084子 荒禅師
227 基輔 5世 仁範226子 楊梅九郎「楊梅氏祖」
228 基親 6世 基輔227子 右近衛将監
229 頼隆 7世 基親228子
230 頼重 8世 頼隆229子
231 頼賢 9世 頼重230子
232 頼遠 6世 基輔227子 太田二郎
233 頼資 7世 頼遠232子 太田太郎
234 頼元 8世 頼資233子 太田又太郎
235 頼康 8世 頼資233子 太田二郎
236 義員 9世 頼康235子 陰明門院蔵人
237 頼兼 8世 頼資233子 太田三郎
238 義資 9世 頼兼237子 陽明門院蔵人
239 季頼 7世 頼遠232子 左近衛将監
240 基輔 6世 基輔227子 227と重複
241 基親 6世 基輔227子 228と重複
242 円尋 4世 頼俊084子 大和禅師
243 仁尋 4世 頼俊084子
244 頼慶 4世 頼俊084子        

5 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 5

2005-08-22 02:24:36 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼房ー頼俊ー頼治ー親弘(頼弘)ー基弘流(豊島氏・木氏)

171 基親 6世 親弘118子 待賢門院判官代 
172 基重 6世 親弘118子 待賢門院判官代
173 基弘 6世 親弘118子 斎院長官
174 信弘 7世 基弘173子 九条院蔵人 建礼門院判官代 摂津国豊島に住す
          豊島蔵人と号し「豊島氏祖」
175 朝弘 8世 信弘174子 豊嶋蔵人
176 経朝 9世 朝弘175子 右近将監 蔵人 豊嶋右近蔵人
177 重任 10世 経朝176子 豊島太郎
178 経弘 10世 経朝176子 豊島二郎
179 弘氏 9世 朝弘175子
180 女子 8世 信弘174娘 八条院女房 伊与局
181 盛弘 7世 基弘173子 豊嶋蔵人
182 信光 7世 基弘173子 八条院蔵人木判官代 「木氏祖」
183 信治 8世 信光182子
184 光治 8世 信光182子
185 親満 6世 親弘118子 豊嶋と号す 高倉院判官代
186 惟満 7世 親満185子 右兵衛
187 親季 7世 親満185子 高倉院判官代
188 親長 8世 親季187子 高倉院判官代
189 親家 9世 親長188子 豊島十郎
190 基親 6世 親弘118子 左近将監
191 女子 6世 親弘118子 伊与内侍 
192 親通 5世 頼治115子
193 満親 6世 親通192子 蔵人
194 仲房 7世 満親193子 従五位下 右馬助
195 親家 8世 仲房194子 大鳥冠者
196 親房 9世 親家195子 近江守 歌人『千載集』作者
197 勝実 7世 満親193子

4 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 4

2005-08-21 15:07:05 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼房ー頼俊ー頼治流(宇野氏・大森氏)

115 頼治 4世 頼俊084子 母藤原宗輔娘 中務丞 宇野冠者「宇野氏祖」
         土佐国配流(史実では康和二年に佐渡に配流)
116 頼澄 5世 頼治115子 太郎
117 頼賢 5世 頼治115子 奥二郎
118 親弘 5世 頼治115子 頼弘に改名 対馬守 下野権守 摂津国豊島に住む。
           「豊島権守」と号し「豊島(てしま)氏祖」
119 親治 6世 親弘(頼弘)118子 宇野七郎 大和国宇野に住む。 
120 有治 7世 親治119子 宇野太郎 斎院次官
121 信親 8世 有治120子 宇野孫太郎
122 俊治 8世 有治120子 広瀬七郎 「広瀬氏祖」
123 光治 8世 有治120子 入野屋八郎 「入野屋氏祖」
124 義治 9世 光治123子 蔵人
125 宗治 10世 義治124子
126 朝治 10世 義治124子 二郎
127 氏治 11世 朝治126子 正四位下 内蔵権頭 蔵人 左近衛将監
128 氏義 12世 氏治127子 正四位下 丹波守 蔵人 右馬権頭
129 氏基 13世 氏義128子 
130 仲治 12世 氏治127子 蔵人 山城守
131 清治 13世 仲治130子
132 和治 13世 仲治130子 従5位上 山城守 遁世
133 家治 11世 朝治126子
134 基治 10世 義治124子 入屋蔵人八郎 「入屋氏祖
135 義基 11世 基治134子 判官代
136 頼基 12世 義基135子 蔵人
137 行治 11世 基治134子 蔵人 二条院侯人
138 貞治 12世 行治137子
139 範治 10世 義治124子 花徳門院蔵人 木工助
140 清治 7世 親治119子 宇野二郎
141 俊治 7世 親治119子 宇野三郎
142 満治 7世 親治119子
143 義治 8世 満治142子
144 宗治 9世 義治143子
145 朝治 9世 義治143子
146 義治 7世 親治119子 宇野四郎
147 秀治 8世 義治146子 土方太郎「土方氏祖」
148 茂治 8世 義治146子 大森二郎「大森氏祖」 下総大掾 建保七年誅される。
149 治員 9世 茂治148子 大森三郎
150 行治 10世 治員149子 従5位上 左衛門尉
151 盛治 11世 行治150子 大森彦二郎
152 頼続 12世 盛治151子 大森彦二郎
153 頼明 12世 盛治151子 宇野弥三郎
154 頼直 12世 盛治151子 大森彦四郎
155 頼宗 12世 盛治151子 大森彦五郎
156 康治 10世 治員149子 大森弥三郎
157 光治 11世 康治156子 大森小三郎
158 遠治 11世 康治156子 大森又三郎
159 頼房 11世 康治156子 大森彦六
160 頼行 9世 茂治148子 辛川四郎「辛川氏祖」
161 俊治 10世 頼行160子 大森彦三郎
162 貞治 11世 俊治161子 大森三郎二郎
162 頼氏 11世 俊治161子 大森孫二郎
163 胤治 10世 頼行160子 大森五郎
164 頼重 11世 胤治163子 大森四郎
165 明治 11世 胤治163子 大森九郎
166 光治 7世 親治119子 宇野三郎
167 親家 7世 親治119子
168 業治 7世 親治119子 宇野三郎
169 頼基 7世 親治119子 宇野冠者
170 季治 7世 親治119子

3 『尊卑分脈』における大和源氏名簿 3

2005-08-18 23:38:11 | 大和源氏諸家譜
 頼親ー頼房ー頼俊ー頼風流
083 頼房 2世 頼親001次男 「荒加賀」と号す。従五位下 蔵人
        兵庫助・民部丞・加賀守・肥後守・肥前守。
         承保三年(1076)山門(興福寺)の訴えにより肥前国に
         配流され配所にて死亡。
084 頼俊 3世 頼房083子 従五位下 左衛門尉 陸奥守・上総介。
         歌人『後拾遣和歌集』作者。
085 頼風 4世 頼俊084子 母藤原宗輔娘 従五位下 陽明門院判官代
         天下名誉武勇
086 頼安 5世 頼風085子 陽明門院判官代 天下名誉武勇悪党
         法華経持経者 号「法華経太郎」
087 信実 6世 頼安086子 法橋興福寺上座 日本一悪僧武勇
088 玄実 7世 信実087子(実は弟、頼安086子)興福寺法橋
         一天第一武勇精兵
089 昌実 8世 玄実088子 本名性実 興福寺甲斐上座
090 重実 9世 昌実089子 興福寺弁公
091 兼実 9世 昌実089子
092 全実 9世 昌実089子
093 算実 9世 昌実089子
094 満実 8世 玄実088子 興福寺上座
095 繁実 8世 玄実088子
096 実遍 8世 玄実088子 陸奥寺主
097 住蓮 9世 実遍096子 法然上人弟子 後鳥羽上皇の逆鱗に触れ
           安楽と共に斬首
098 正実 8世 玄実088子 得業 寺主
099 長実 9世 正実098子
100 仲房 7世 信実087子 本名性房 右馬助 大和守
101 親家 8世 仲房100子
102 親房 9世 親家101子 大嶋冠者「大嶋氏祖」
103 頼兼 5世 頼安086子 加賀冠者「加賀氏祖」
104 義忠 6世 頼安086子 蔵人
105 仲重 7世 義忠104子 勾当
106 盛仲 8世 仲重105子 蔵人
107 範仲 7世 義忠104子 伊賀守
108 惟光 5世 頼風085子 
109 頼清 5世 頼風085子 伊豆国配流
110 清高 6世 頼清109子 竹田冠者「竹田氏祖」
111 清兼 7世 清高110子 岑田源次「岑田・嶺田・峰田・峯田氏祖」
112 頼兼 8世 清兼111子 岑田蔵人
113 源雅 9世 頼兼112子 峯田蔵人 法橋
114 頼弁 10世 源雅113子 伯耆房