腹話術人形けんちゃんの日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

仲里朝章・1957年4月首里・戦争責任胸に再出発・No2・2109年6月29日(土)

2019-06-29 13:42:09 | 日記
   仲里朝章・1957年4月首里・戦争責任胸に再出発・No2
 
 「A級戦犯者はすでに裁かれて絞首刑台上に露と消えた。しかし吾らはB級C級D級の戦犯者ではないか」。

多くの教え子が戦争に駆り立てられ、戦場に命を散らしていった。自らの教育の結末を見た仲里朝章(故人)

は戦争責任を感じていた。

 1950年7月、仲里は糸満教会発行の伝道誌「ゴスペル7号」で自己批判した上で「平和を希求する前に、

吾らの魂の中に潜在する戦争を生む罪のバイキンを殺菌する必要がある」と指摘。教育者として人格教育

に取り組む覚悟をにじませた。

 沖縄戦から12年たつ57年4月、首里当蔵町の首里教会内。キリスト教を基に「沖縄を国際的平和の島に」

とうたう各種学校「沖縄キリスト教学院」が開学した。教会を間借りし仮説感は拭えなかったが、

設立に奔走し初代学長に就いた仲里にとってキリ学は戦後沖縄を照らす光だった。学校では経済学を担当。

郷土復興の在り方を説き続けた。毎朝4時に起きてキリ学の発展を祈り続けたという。

 45年6月、米軍に収容された仲里の戦後は現宜野座村の収容所で始まった。生き残った教師らの協力を

得て現在の宜野座高校を立ち上げ、校長に就いた。

仲里が作詞した宜野座高校歌に当時の思いが託されている。「正義と愛の誠持て、我らの使命果たさなん、

いざ起て友よ永遠の、平和の業にいそしまん」

 教育者としての役目を果たそうと意気込んだが、47年に辞職。戦争を挟み大きく揺れ動いた価値観の中、

これまで信じてきた教育勅語という柱が否定されたことの挫折感は大きかった。

48年手記に「教育の目標を何辺に措くか全く混沌状態に陥れり」とつづっている。

 戦後教育への苦悩の末に、仲里は新たな教育の柱をキリスト教に見いだした。

「平和を貫く道は宗教以外にはない。国の対立に愛と慈悲を」との思いがキリ学設立につながった。

 仲里は教育者としての反省を家族にはほとんど語らなかった。長男朝治(71)=那覇市は

「父は多くを語らなかったが、過去の反省を教育者として行動で示した。」と振り返った。

 キリ学は59年には短期大学に昇格。2004年には4年制学部も設け、総合大学に発展した。

 沖縄戦で失った教え子の命を胸に、戦後教育者として独自のアプローチで教育に挑んだ仲里。

73年2月に82歳で逝去した。あまたの犠牲の反省の上につくったキリ学が、本土復帰後も

引き続き存続できたのを見届けた直後だった。
 (本文敬称略)
 (知念征尚)

 


仲里朝章・1955年3月首里・悔やんだ「うその教育」No1・2019年6月29日(土)

2019-06-29 10:57:39 | 日記
     仲里朝章・1955年3月首里・悔やんだ「うその教育」No1
 
 「すまん、許してくれ。戦時中自分があんな教育をしたことを許してくれ」

1955年3月、首里教会の畳の間。牧師だった仲里朝章(1973年死去)は、訪ねてきた

かっての教え子の城間祥介(83)=中城村=を前に居住まいを正し、床に両手を

ついて深々と頭を下げた。仲里は39年、那覇市立商業学校(同私立商工学校を経て

県立那覇商業高校)校長に就任。

 キリスト教徒でありながら皇民化教育を行い、多くの教え子を戦場で亡くした。

城間は、「自分の教育で若者の命が散ったことへの後悔の言葉だ」と振り返った。

 米軍の沖縄本島上陸を間近に控えた45年3月25日。

「商業学校生は首里市の仲里校長宅へ集合するように」と通信隊編成のため生徒の集合

を命じる新聞広告が掲載された。31日には軍から鉄血勤皇隊の編成命令が出され、

仲里は当日の招集に応じられる首里近郊の生徒に呼び掛けた。

 同校からの動員生徒数は不明だが、114人が亡くなった。当時同校5年生だった城間は

仲里の許可を得て熊本に疎開し、命をつないだ。

 教え子の動員を見届けた仲里は、米軍から逃げるため家族もろとも南部へ避難。

摩文仁村(現糸満市)で艦砲弾の破片で後頭部を負傷しながらも生き延び、

6月19日、喜屋武村(現糸満市)で米軍に収容された。だがひめゆり学徒隊にとられていた

三女・光子は摩文仁村伊原で亡くなった。

 仲里は学校で「修身」を担当した。国家に忠誠を尽くす人材が求められた時代、

皇民化教育の中核を担った授業だった。

 授業はテニスコートを撤去して作った「修養道場」で行われた。中央には白木造りの

祭壇があり、観音開きの扉の中には天皇皇后の「御真影」が置かれていた。

 糸を張ったような緊張感の中、生徒が整然と正座すると仲里は白い手袋をはめ

神妙な面持ちで祭壇の扉を開き、拝礼が行われる。終わるとともに扉を閉め、講話を始める。

教育勅語や軍人勅諭の話が中心だった。

 城間は「今思うと生徒は洗脳されていた。当時は社会全体がそういう流れで、

嫌だとは思わなかった」と語る。

 城間は敗戦や多くの学友を失った衝撃から牧師を目指した。首里教会で戦前の教育を

謝った仲里は、城間の神学校進学を喜び「自分はうその教育をしてしまった。

罪滅ぼしのために、神様へのおわびのためにこれからは本当の教育をしなければならない。

あなたも祈ってほしい」と語った。
 
 沖縄キリスト教学院が設置される2年前だった。(本文敬称略)(知念征尚)明日に続く!