トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

天羽声明と重光葵

2009-04-29 23:45:22 | 日本近現代史
 オンライン書店ビーケーワンで服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)の書評を見ていると、次のような記述があった。

本書では、もう一つ、重光葵という極めて独善的な外交官がなした大いなる罪についても明らかにされている。日本を国際的孤立へと導いたターニングポイントが1930年代にはいくつかあるが、その一つ「日本によるアジアモンロー主義宣言」と欧米から非難された「天羽声明」は、実は外務大臣広田の部下たる重光外務次官が勝手に起草し、重光のパシリである天羽英二外務省情報部長に発表させたものだったのである。この声明は重光が広田の頭越しに勝手にやった独走だが、広田は重光の独断をいさめることはせず、これを追認してしまうのである。その背後には、右翼広田が夢想する「アジア人によるアジア支配」という自己中な「アジア主義の妄想」が隠れていた。


 本書はしばらく前に読んだが、そんな記述、あったかなあ。

 読み返してみると、あったあった。付せんまで付けていたのに忘れていた。

まずまず順調にきていた広田の外交にとって、天羽声明は最初の大きな失策であった。なぜ広田は、天羽声明を十分に感知できなかったのだろうか。かつて広田は、創成期の外務省情報部で次長を務めたこともあり、情報の扱いには慣れていたはずである。
 実のところ天羽声明の背景には、重光外務次官の存在があった。中国に対して排他的な方針を進めがちな重光は、広田より九歳も若かったが、広田の外相就任以前から外務省の対中国政策を主導していた。しかも重光は、中国に対する列国の介入について、広田以上に敏感だった。そのことが、天羽声明にも反映されたのである。(p.76-77)


天羽が読み上げたのは、一九三四年四月一三日に広田の名で有吉明駐華公使に宛てた第一〇九号電報のほぼ全文だった。第一〇九号電報を起草したのは亜細亜局第一課長の守島であり、広田にとって守島は修猷館の後輩に当たった。守島に外務省入りを勧めたのが広田であったことはすでにふれた。だが、この第一〇九号電報を守島に書かせたのは、広田ではなく重光次官であった。つまり重光は、広田の頭越しに対中国政策を掌握していたのである。
 駐華公使のころから重光は、部下の堀内干城を通じて守島と連絡していた(『満州事変と重光駐華公使報告書』)。次官となった重光は守島との連携を強めており、そこから広田は排除された。
 守島によると、「私(守島――引用者〔深沢注:服部〕注)の作った電信案は次官(重光――引用者〔深沢注:服部〕注)の気に入らず、シカラレ、シカラレ二度も書き直した。(中略)電信案がやっと次官をパスしたので、改めて桑島東亜局長、重光次官のサインを取って、広田大臣の所に持って行った。大臣は変な顔をされたが、兎に角サインを得たので、直ぐに電信課から発電した」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』)という。発電された第一〇九号電報は形式的に広田名だが、内容的には重光の電報といってよく、それを読み上げたのが天羽声明であった。
 広田と重光の関係について守島は、次のように振り返る。
「重光氏は広田外相の下で、余り従順な次官ではなかったように思う。同氏はともすると自分の対支外交をやる傾〔深沢注:かたむき〕があった。しかし広田氏はズルイと云うか、人物が大きいと云うか、重光氏独特の対支外交に、余り干渉されなかったようである」
 外相でありながら広田は、重視していたはずの対中国政策において、実質的な権限を重光次官に握られていたのである。このため広田よりも強硬な重光の主張が、はからずも天羽声明として公表されてしまった。(p.77-78)


 しかし、以前読んだ同じ中公新書の渡邊行男『重光葵』には、こうあった。

天羽声明はその重大さにかかわらず、天羽情報部長独断で行なわれ、大臣にも次官にも、東亜局にさえなんの事前連絡もなく行なわれた。いずれも十八日朝の新聞を見て驚いた。


 どちらが正しいのだろうか。

 服部がことの経緯を詳細に述べているのに対し、渡邊の記述は実にあっさりしている。
 私は最初、渡邊が重光を弁護するために(渡邊の筆致は重光に好意的である)、天羽の独断であったと書いているのではないかと思った。
 しかしよく考えてみると、服部は、天羽声明の元は重光が実質的に起草させた第109号電報であると述べているに過ぎず、天羽がそれを発表したことまでが重光の指示によるものだとまでは述べていない。
 天羽がそれを何故発表したのかについて服部は言及していない。
 だから、それはおそらく、渡邊が言うように、天羽の独断によるものなのだろう。
 ただ、それを明記していないがために、ビーケーワンの書評者のように、重光が発表させたなどと誤認をしてしまうおそれがある。
 この書評者がそそっかしいのはもちろんだが、服部の表現にも問題があると思った。

 重光と言えば、東郷茂徳と並んで、戦前の外交を担った重要人物である。外交官時代に爆弾テロで片脚を失い、敗戦時にはミズーリ号上で降伏文書に調印し、また親軍派でも親独伊であったわけでもないのに、東京裁判では最短ながら禁固7年の実刑に処せられたこともあって、悲劇的なイメージがある。著書『昭和の動乱』や残された日記などからは真摯な人柄がうかがえる。戦後の政治家としての活動はともかく、戦前の外交官、外相としての重光の評価は概して高い。
 しかし、その重光にしても、広田以上の対支強硬派であったことは、もっと認識されていいのではないか。

 大杉一雄が『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)で次のように述べているのを見つけた。

このころ〔深沢注:1935年ごろ〕外務省は何を考えていたのだろうか。満州事変が起きて幣原喜重郎が霞が関を去ってから、外務官僚のなかに白鳥敏夫(一九一四年入省)を中心とする軍部協力派が現れたが、なお中心はそれに批判的なグループすなわち有田八郎(一九〇九年)、重光葵(一九一一年)、谷正之(一九一三年)らが主流を形成し、その頂点に広田(一九〇六年)がいた。彼らはすでに満州国の建設がそれなりに軌道にのりつつあった一九三五年頃ともなれば、その既成事実の上で政策を立案するしか官僚の存在理由はあり得ないと考え、独自に新情勢に即した外交の理論付けを行いつつあったのである。
 たとえば前三四年四月に問題になった「天羽声明」などはそれである。〔中略〕これは一種のアジア・モンロー主義を謳ったものとして、中国及列強間に大きな反響をまき起こした。それが余りに大きかったので、外務省は弁明にこれつとめたが、その真意は大陸より英米勢力を排除しつつ、日本の進出を独占的に進めようとするものであった。これはもちろん軍部から歓迎されたが、軍部の圧力によってつくられたものではなく、外務省の独自に決定した政策であった。このように外務省の政策は、非常にクリティカルな結果が予想されたり、あるいは手段が過激にわたるものなどのほかは、基本的には軍部のそれと一致するようになった。この意味において日本の対中国政策に関しては、外務省も、当然のことながら、責任を有するものである。(p.28-29)


 そういうことだろう。

堀端勤さんの「冒険人生」

2009-04-25 11:39:01 | ブログ見聞録
 堀端勤さんのブログが3月の終わりに新装開店している。

 いったんやめる気になったがまたやる気になったということらしい。

 内容は相変わらずで、何のための新装開店やら全然わからないが、ちょっと気になったのがこの記事。

しばらくブログを更新しなかった理由


私がこの週末からブログの更新を活発に始めましたが、その理由に新しいパソコンを接続するのに往生した事があります。


 相変わらず日本語が変。

我家で7年間頑張ってくれたパソコン君が、昨今の配信データの容量激層に付いて来れず、今年初めからダウン。相次いで末っ子の長男が、幼稚園の学習教室で今年春からパソコンを通じた学習を始めることになり「いよいよ買い時か?」と妻と相談しながら、4月初めに遂にニューパソコンを買い足した訳です。

今まではCPU=1ギガ、HDD=80ギガと言う年代物に対して、新しくやってきたパソコンは、CPU=4ギガ、HDD=500ギガと言う「化け物?」。


 CPUを何ギガって言い方するんですかね。
 それと、私のパソコンも古いんでよく知らないんですが、最近のパソコンのCPUのクロック周波数は4G(Hz?)もあるんですかね。

置き場所を今までのパソのところでなく、ピアノの上を置き場所に定め、な・何と無謀にも無線LAN接続としたために、初日から接続を巡って悪戦苦闘。ソフトが入らない…通信が上手く行かない…挙句の果ては、ネットに入らない等…。


 ピアノを持ってるぞと自慢したいのか?

 ソフトが入らないのは無線LANと関係ないだろ。

遂には有給を取得して、プロバイダーを呼び出してアレコレ設定を変えた挙句「パソのファイヤーウォールやセキュリティソフトを落として下さい。最近、敏感になって通信を阻害するんです。」


 プロバイダの人は「パソの」なんて言わないと思う。
 「最近、敏感になって」こんな言い方もしないと思う。
 勝手にカギカッコでくくるな。バカかと思われるだろ。

はて…悩みながらもセキュリティソフトを全て落して…さァ繋がるか??…。


 悩まずに素直に落とせ。

や…やった!繋がったぞ!!。見事に二台共に無事繋がったのが、何と一昨日の深夜でした(恥)。いやいや久々死ぬほど疲れた。窓を見るともう夜明け。


 いつから始めたのか書いてないから、読者はどれほど時間がかかったのかわからず、共感できないだろ。

 「深夜」につながって何で「もう夜明け」なんだよ。

「これじゃ仕事にならん」と上司に叱られながらもう一日有給を貰い、やっと繋がったネットを前に、

オレ、仕事辞めて本格的にジャーナリストになろうかな?。」なんて…。


 ネットとつながったらジャーナリストになれるのか?
 ネットとつながらないとジャーナリストにはなれないのか?

 だいたい、再開した記事「ふたたび・・・歩き始める前に」では、

二つ目には「市民ジャーナリスト」としての立場を明確にして、記事の充実を図ると共に、どんどん既存のマスコミとも交流して、逆にマスコミを「堀端色」に染めてやろうと言う考えです。


 と、ジャーナリストを自任してたんじゃないのか? 

まァ無理ですね…もう40代。転職も無理…自分の「老い」を心配しなければならない年代。一体私の冒険人生は、何時終焉を迎えるのでしょうか?。


 40代でこんな理由で事前申請もなく連日有給を取得できるとは、優雅な職場だなあ(単にこの人が必要とされていないというだけかもしれんが)。
 それにあぐらをかいて反体制気取りの文章をネットに垂れ流して、ジャーナリスト気取りか。
 大した「冒険人生」だな。

「2島」は4島の半分ではない

2009-04-12 14:53:52 | 領土問題

 先に北方領土問題についての記事を書いたが、2島返還論の根本的な問題点について触れるのを省略していたことに気がついた。
 北方領土問題についてある程度知っている人にはよく知られたことだが、あまり詳しくない人には必ずしも知られていないように思われるので、少し補足しておく。

 2島返還論と聞くと、いわゆる北方領土4島(歯舞は群島なので正確には4島ではなく数多くの島々があるのだが、ここでは便宜上4島としておく)の半分が返ってくるような印象がある。そして、わが国が4島を要求しており、ソ連・ロシアは1島たりとも返さないという立場なのだから、間をとって2島とするのが現実的ではないかと考える方もいることだろう。
 しかし、地図を見ればわかるように、2島返還論で言うところの2島、すなわち色丹島と歯舞群島は、残る国後島と択捉島よりはるかに小さい。色丹と歯舞の面積は、国後と択捉の面積の1割にも満たない(ちなみに、国後、択捉はともに沖縄本島よりも大きい。北海道、本州、四国、九州を除けば、択捉島はわが国最大の島である)。
 「2島返還」は決して両者の主張の中間点ではない。


 そして、ソ連にはそもそも歯舞、色丹を併合する根拠がなかった。


 ソ連は、ヤルタ協定により、北方領土を取得する権利を得たとしている。さらに、サンフランシスコ平和条約で日本は千島列島を放棄しているではないかと主張している。


 ヤルタ協定には、たしかに
 

三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ


との文言がある。しかし、ヤルタ協定は、米英ソ3国の秘密協定であるから、わが国の関知するところではない。わが国の降伏時、ヤルタ協定の存在は公表されていなかった。


 わが国は、ポツダム宣言を受諾して降伏した。ポツダム宣言第8項には次のようにある。


八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 カイロ宣言とは、1943年に米英中3国の首脳会談を受けて発表された、連合国の対日方針を宣言した文書である。
 その文中に、次のような記述がある。


三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ


 北方領土4島は、ロシアとの間で最初に国境が画定されて以来のわが国固有の領土であるから、「暴力及貧慾ニ依リ」「略取シタル」地域には当たらない。
 また、カイロ宣言では、米英中3国は「領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」とされている。
 カイロ宣言の条項はポツダム宣言においても履行されなければならないのだから、ソ連が参戦にかこつけて領土拡張を企図することは許されない。


 そして、歯舞、色丹は、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」だろうか。
 歯舞は、地理的に見て、北海道の一部だろう。色丹も、千島列島の並びから見てずれた位置にある。


 明治2年に行政区分として「北海道」が置かれ、その下に11の「国」が置かれた際、国後と択捉は「千島国(ちしまのくに)」とされたが、色丹と歯舞は「根室国(ねむろのくに)」に属するとされた。
 明治8年に樺太・千島交換条約が締結され全千島列島がわが国の領土となったが、わが国は新領土の先住民であるアイヌ人を色丹島に強制移住させ、明治19年、色丹島は千島国に移管された。
 したがって、色丹島は終戦時に「千島国」に属していたが、だからといって、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」に属するとは言えない。
 地理的に見て、また歴史的経緯からも、歯舞群島同様北海道の一部と見るべきではないか。

 サンフランシスコ平和条約には、次のようにある。


第二条(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。


 わが国は、当初、この放棄した「千島列島」には、国後、択捉も含まれるとしてきた。それが現在のように国後、択捉は含まれないとの見解に変わるのは、先の記事で述べた1955年の第1次ロンドン交渉以後のことである。その点で、わが国の主張には矛盾がある(1961年に小坂善太郎外相は、占領下の状況を反映したものだと述べている)。
 しかし、歯舞、色丹については、わが国は一貫して、放棄した「千島列島」には含まれないとの立場をとっている。


 以上のことから、歯舞、色丹は、ソ連が領有権を主張する「千島列島」に含まれるとは言い難い。
 つまり、不当性が明白であり、返還されて当然のものなのである。
 だからこそ、ソ連が一時はその引き渡しに応じようとしたわけだ。

 いつ返ってくるとも知れぬ4島を待ち続けるよりも、2島返還をもって平和条約を締結し、ロシアとの交流を深める方が、長期的に見てわが国の国益にかなうという考え方に私は同意しないが、そうした考え方自体は選択肢として当然あっていいと思う。
 しかし、2島返還とは、4島と0島の中間にある妥協案ではなく、元々返還されて当然のものでしかないということは、よく理解しておく必要があるだろう。