無宗ださんの記事「天皇陛下は靖国神社に参拝するか?」によると、今年7月3日に発行されたメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻3011号に掲載された「読者の声」に、天皇陛下が靖国神社に「行幸」することはあっても「参拝」することはありえないと述べられているという。
興味深い話である。
メルマガ本体から問題の「読者の声」の部分を引用する(太字は無宗ださんが記事中に引用している箇所)。
無宗ださんは、
としながらも、
として、同サイトの記述を挙げた上で、
と結んでいる。
なかなか面白い点に目を付ける方がおられるものだ。
検索してみたが、同様の主張は見つからなかった。この千葉のSTさん独自の見解だろうか。
富田メモの参拝云々の記述とは、よく知られた、これのことだろう。
天皇陛下が「参拝」などという言葉を使うはずがない、だからこの「私」は陛下ではない、と言いたいのだろう。
これが本当に天皇の発言なら、
となるはずだとでも言いたいのだろうか。
しかし、「行幸」とは、この千葉のSTさんも書いているように、天皇がどこかへ行くということを、敬意をもって表現する場合に用いられる。
つまり、天皇の周囲をはじめ、国民一般が用いる言葉ではあっても、天皇自身が用いる言葉ではない。
したがって、「私あれ以来行幸していない」などという発言は有り得ない。
そして、天皇の靖国「参拝」とは、新聞に限らず、左右を問わず幅広く用いられてきた表現である。
それが正しくないとすれば、これまでの先人たちは皆、目が節穴だったということになる。
そんなことがあるものだろうか。
無宗ださんは「直感的に正しい」と感じたそうだが、私はまずそのような疑問を抱いた。
手元にあった大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984)を開いてみた。
本書の第三章「靖国神社信仰」の冒頭に、靖国神社の前身である招魂社の時代に、明治天皇が全国各地の神社を訪れた記録が『明治天皇記』から列挙されている。
これによると、招魂社には三回「御拝」している。
この間、ほかに三回の「御拝」があったのは、賀茂両社(上賀茂・下鴨)と氷川神社のみであるという。大江は、これはいずれも社格制度の制定とともに官弊大社に列格された、京都と東京の総鎮守であり、天皇が両京から移動するたびに「御拝」しているから、「招魂社の位置づけがいかに大きなものであったかが知られる」という。
また、格下の神社においては、「御拝」ではなく「一揖」(いちゆう)と記されているという。一揖とはYahoo!辞書(大辞泉)によると「軽くおじぎをすること。一礼。」とあるから、社格による扱いの差は確かにあったのだろう。しかし招魂社には「御拝」しているのだ。
さらに、靖国神社に改称されてからは、天皇は「親拝」したとの表現を大江はとっている。そして招魂社時代の三回の「御拝」も「親拝」に含めて計上している。
この「親拝」という表現の根拠は明記されていないが、何かしらあるのだろう。
大江は天皇の靖国「親拝」を次のようにまとめている。
では、「親拝」の内容は、どのようなものだったのだろうか。
これについても、次のような記述がある。
「御拝」なのだから、90度だかどうだか知らないが、拝むのであって、会釈ではないだろう。
それも、「相当に長い時間」。
したがって、
といった千葉のSTさんの主張は、勝手な思いこみによる誤りか虚言である可能性が極めて高いと考える。
興味深い話である。
メルマガ本体から問題の「読者の声」の部分を引用する(太字は無宗ださんが記事中に引用している箇所)。
(読者の声1)以前から気になっていましたが、天皇陛下の寺社への行幸に関しての世上に広がっている大きな誤解をまたみてしまいました。しかも、天皇と皇室に関しての誤解を解くこと標榜しているメルマガの中です。
斎藤吉久氏の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.143にある以下の部分です。これは、日本人の多く、そして真正保守の日本人言論人の多くも冒している間違いなので指摘させてください。
(引用はじめ)
「たとえば昭和7年のいわゆる上智大学生靖国神社参拝拒否事件のとき、学長の代理として陸軍省当局におもむいた丹羽浩三の回想(『未来に向かって』所収)は、大きな示唆を与えてくれます。
小磯大将(丹羽の回想では陸相だが、次官の誤りと思われる)が「天皇が参拝する靖国神社に参拝しないのは不都合ではないか」と詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は何か」と逆に問いかけたのでした。「日蓮宗だ」と小磯が答えると、丹羽は重ねて「浄土真宗や禅宗の寺院に参拝するか」と質し、小磯が「他宗の本山には参拝しない」と返答すると、「陛下はどの本山にも参拝します」という問答が重ねられ、やがて小磯は「書生論を取り消します」と切り上げたというのです。
(引用終り)
天皇陛下がどこかを訪問されることを「行幸」といいます。つまりこれは天皇陛下向けの「訪問」の尊敬語です。訪問先で「拝む」場合、一般人の場合は、「参拝」といいますが、天皇陛下の場合敬語表現で「親拝」(シンパイ)あるいは「御親拝」(ゴシンパイ)ともいいます。
尊敬語か一般語かの違いを除いて、字義の上での本質的な違いは、行幸は単なる訪問であり、相手に対して挨拶として会釈をお行いになられ、参拝(親拝ないし御親拝)では、90度の礼をして拝まれます。
「挨拶」と「拝」は本質的な違いです。
天皇陛下は、参拝あるいは親拝、御親拝を天皇家のご先祖様の祀られているところ(神社あるいは御陵)に対してしかなさいません。これは現御神として地上における天照大御神様の代理である天皇として当然のことです。
靖国神社を天皇陛下が行幸(訪問)されるときは、地上おける天照大御神様の現われとして、英霊達の功を嘉したまえます。
英霊達を天照大御神様が拝むはずはありません。したがって天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。
サイパンで韓国系日本人が崖から飛び降りて自決なされたところを行幸された天皇陛下の写真をご覧になれば、90度の礼つまり拝ではなく会釈をなされていたことがわかります。御霊様も天照大御神様の現世での現われである天皇陛下の会釈をこそ歓ばれたことと確信致します。
それを「参拝」と書いた新聞の不見識は言語道断です。天照大御神様に拝まれたら英霊も韓国系日本人自裁者たちも恐縮のあまり昇天できないことでしょう。
このことを理解すれば、富田元宮内庁長官のメモにあった「参拝」の主語が天皇陛下でないことも、天皇陛下が寺社を行幸されたときに会釈されることが参拝でないことも明白です。
「行幸」と「参拝(親拝、御親拝)」の違いが戦前の小学生用教科書に書かれているのを読んだことがあります。それを小磯氏も丹羽氏も斉藤氏も忘れてしまわれたのでしょう。
Y染色体は男系、ミトコンドリアは女系で伝わると高校の生物の教科書の書かれていることを有識者会議とよばれた老人ボケ者の集まりの参加者達が知らなかったのと同様です。
また、宗旨によって信仰の対象が、釈迦、阿弥陀、エホバ等とことなるに反して、全ての日本人が崇敬する対象の天照大御神を配する神道という日本の伝統を区別することができなくなります。
これは中国から日本に到着したばかりのシナ人が生活保護を受けるのを容認することと同様です。
こういったことを区別できるエントロピーの高い意識を持つことが、今後日本が生き残る必須の要件です。
(ST生、千葉)
無宗ださんは、
この「読者の声」に書かれた内容を読み、直感的に正しい情報だと感じる。
としながらも、
しかし、これらの内容はどのようにして裏づけすればいいのだろうか?
なにしろ、靖国神社のWEBサイトにおいてすら、
明治天皇が初めて招魂社に参拝された折に
との表現が見られるのだから。
として、同サイトの記述を挙げた上で、
個人的な感触として、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が適切である可能性よりも、
「読者の声」に書かれた内容が正しく、
靖国神社のWEBサイトの「参拝」の表記が不適切である可能性が
圧倒的に大きいと考える。
と結んでいる。
なかなか面白い点に目を付ける方がおられるものだ。
検索してみたが、同様の主張は見つからなかった。この千葉のSTさん独自の見解だろうか。
富田メモの参拝云々の記述とは、よく知られた、これのことだろう。
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
天皇陛下が「参拝」などという言葉を使うはずがない、だからこの「私」は陛下ではない、と言いたいのだろう。
これが本当に天皇の発言なら、
だから 私あれ以来行幸していない
それが私の心だ
となるはずだとでも言いたいのだろうか。
しかし、「行幸」とは、この千葉のSTさんも書いているように、天皇がどこかへ行くということを、敬意をもって表現する場合に用いられる。
つまり、天皇の周囲をはじめ、国民一般が用いる言葉ではあっても、天皇自身が用いる言葉ではない。
したがって、「私あれ以来行幸していない」などという発言は有り得ない。
そして、天皇の靖国「参拝」とは、新聞に限らず、左右を問わず幅広く用いられてきた表現である。
それが正しくないとすれば、これまでの先人たちは皆、目が節穴だったということになる。
そんなことがあるものだろうか。
無宗ださんは「直感的に正しい」と感じたそうだが、私はまずそのような疑問を抱いた。
手元にあった大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984)を開いてみた。
本書の第三章「靖国神社信仰」の冒頭に、靖国神社の前身である招魂社の時代に、明治天皇が全国各地の神社を訪れた記録が『明治天皇記』から列挙されている。
これによると、招魂社には三回「御拝」している。
この間、ほかに三回の「御拝」があったのは、賀茂両社(上賀茂・下鴨)と氷川神社のみであるという。大江は、これはいずれも社格制度の制定とともに官弊大社に列格された、京都と東京の総鎮守であり、天皇が両京から移動するたびに「御拝」しているから、「招魂社の位置づけがいかに大きなものであったかが知られる」という。
また、格下の神社においては、「御拝」ではなく「一揖」(いちゆう)と記されているという。一揖とはYahoo!辞書(大辞泉)によると「軽くおじぎをすること。一礼。」とあるから、社格による扱いの差は確かにあったのだろう。しかし招魂社には「御拝」しているのだ。
さらに、靖国神社に改称されてからは、天皇は「親拝」したとの表現を大江はとっている。そして招魂社時代の三回の「御拝」も「親拝」に含めて計上している。
この「親拝」という表現の根拠は明記されていないが、何かしらあるのだろう。
大江は天皇の靖国「親拝」を次のようにまとめている。
すでにのべたように、明治天皇の靖国神社「親拝」は、招魂社時代に三回、日清戦争後の臨時大祭の二回、日露戦争後の臨時大祭に二回、合計七回であった。
招魂社時代は別として、日清戦争後、日露戦争後の「親拝」時の服装はいずれも陸軍式の通常礼装であり、大元帥としての資格における「親拝」であった。〔中略〕
大正天皇の「親拝」は、二回であった。第一回は、一九一五(大正四)年四月二九日、第一次世界大戦(日独戦争)戦死者合祀の臨時大祭である。第二回は、一九一九年五月二日、靖国神社創建五〇周年に際してである。なお、一九二五年四月二九日、第一次世界大戦とそれに引きつづくロシア革命干渉のシベリア出兵の戦没者合祀の臨時大祭に、大正天皇の摂政として現在の天皇が参拝している。
現在の天皇の「親拝」は、一九二九(昭和四)年四月二六日、山東出兵の戦没者合祀の臨時大祭が最初である。第二回目の「親拝」は、一九三二年四月二六日、満州事変・第一次上海事変の戦没者合祀の臨時大祭である。第三回が翌年四月二六日、おなじ事変の戦没者合祀の臨時大祭である。以後、太平洋戦争開始前の一九四一年春の臨時大祭までに第一二回目の「親拝」が行われている。とくに日中戦争が本格化して以来、一九三八年四月二六日に日中戦争関係者合祀の最初の臨時大祭に「親拝」して以後、毎年の春秋の臨時大祭への「親拝」がおこなわれるようになった。このことは、太平洋戦争開始後も変わらなかった。(p.132-133)
では、「親拝」の内容は、どのようなものだったのだろうか。
これについても、次のような記述がある。
「親拝」の具体的形式については、一九三八年四月から一九四五年一月まで靖国神社宮司の職にあった陸軍大将鈴木孝雄(敗戦時の総理大臣・海軍大将鈴木貫太郎の実弟)が「靖国神社に就て」(『偕行社記事 特号(部外秘)』第八〇五号、一九四一年一〇月)と題する文書で紹介している。〔中略〕
これによると、天皇「親拝」のときは、大臣以下供奉の全員はすべて本殿の廊下にとどまり、天皇は侍従長だけを随えて本殿の御座につき、「御拝」をするという。天皇の玉串は、宮司がこれを侍従長に捧呈し、侍従長はそれを天皇に奉り、天皇はその玉串を暫し手にしてもっとも鄭重な「御拝」をする。相当に長い時間の「御拝」であるという。そののち、玉串を侍従長に手渡し、侍従長はそれを捧げて宮司に手交し、宮司はそれを頂戴して階段を上り、神前に捧げる。
天皇の「親拝」すなわち公式参拝は以上のような形式で行われた。(p.134-135)
「御拝」なのだから、90度だかどうだか知らないが、拝むのであって、会釈ではないだろう。
それも、「相当に長い時間」。
したがって、
天皇陛下が靖国神社を参拝あるいは親拝、御親拝されることはありえません。
といった千葉のSTさんの主張は、勝手な思いこみによる誤りか虚言である可能性が極めて高いと考える。
こちらでも
もう少し調べてみます。
あのメルマガに「読者の声」を投稿するにはどうすればいいのか、ご存知ですか?
はっきりとはわかりませんが、
メルマガに対して、返信すればいいのではないかと考えます。
ちなみに
trans_g0g0iQiq6265735c
あっとマーク
melma.com
です。
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靖国では、
人霊を招魂し、
奉告祭を行い、
正殿に祭ることにより
人霊が神霊になるのですね。
したがって、天皇陛下が親拝するのは、人霊に対してではなく、神霊に対してというわけですね。
私は、以前戦前の小学校の教科書のコピーを見てそこに、陛下は靖国神社に行幸されると書いてあるのをみたことがあります。残念なのは現在の有識者と言われる人のほとんどが小学校で学んだことを忘れてしまっていることです。
私の記事を一通り読んでいただいた上でのご感想でしょうか?
記事中にも書きましたが、「行幸」とは、天皇がどこかへ行くということを指す尊敬の表現です。
ですから、戦前の「小学校の教科書」に「陛下は靖国神社に行幸される」と書いてあっても全くおかしくはないと思います。
私が本記事で批判しているのは、
・天皇陛下は靖国神社において「挨拶」はすれども「拝む」ことは決してしない、故に天皇陛下の靖国「参拝」あるいは「親拝」「御親拝」といった表現は誤っている
という千葉のSTさんの主張です。
その根拠は、記事中に述べたように、大江志乃夫『靖国神社』及び同書が引用している『明治天皇記』、鈴木孝雄「靖国神社に就て」にあります。
仮に、千葉のSTさんがおっしゃるように、「行幸」と「参拝(親拝、御親拝)」の違いが戦前の小学生用教科書に書かれていたとしても、それだけでは前述のSTさんの主張の根拠にはならないと思います。
問題は、
1.靖国神社において、天皇陛下は「挨拶」するのか、それとも「拝む」のか
2.戦前において、天皇陛下が靖国神社に「参拝」あるいは「親拝」するという表現は用いられていなかったのか
の2点です。
私は、上記の根拠に基づいて、
1.「拝む」
2.用いられていた
と判断しました。
反論がおありならこれらの点についてお願いします。
、そして、
しかし、もしそうだとすると、たとえば宮中三殿での天皇の祭祀はどう理解すべきですか。
賢所には皇祖天照大御神がまつられ、皇霊殿には歴代天皇・皇族の御霊がまつられていますが、神殿は国中の神々がまつられています。
御説に従えば、神殿については陛下は行幸しているだけだ、という結論になります。
また、神嘉殿で行われる新嘗祭はどういう理解になりますか。宮中第一の重儀は皇祖神を祀るだけではありません。
記事をまともに読めばおわかりになると思うのですが、その「指摘」は私深沢によるものではなく、宮崎正弘のメルマガに掲載された、千葉のSTなる人物によるものです。
その内容について反論したいのなら、当人宛にお願いします。