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『ユリイカ』9月号 特集*安彦良和

2007-11-02 23:49:04 | マンガ・アニメ・特撮
(9月号のレビューなのに、ぼやぼやしていたら11月になってしまった)

 文芸誌『ユリイカ』が、近年『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(以下『THE ORIGIN』)が好評な安彦良和を特集している。
 安彦と伊藤悠(マンガ家。「皇国の守護者」という作品で著名らしい)との対談、安彦に対する更科修一郎のインタビューがメインで、ほかに呉智英などの論文が10本、それに竹宮恵子へのインタビューが掲載されている。さらに安彦による解説付きのイラスト集(カラー)、そして安彦の全漫画作品の解題が付されている。かなり読み応えがある。

 安彦良和といえば、「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイナー、作画監督を務めたことは知っていた。また、『アリオン』『ヴィナス戦記』『クルドの星』などのマンガ作品があることも。しかし、その後『THE ORIGIN』に至るまでの活動は、『虹色のトロツキー』ぐらいしか読んでいなかったので、本誌は大変参考になった。

 特に、安彦に対する更科のインタビューで、安彦が次のように述べているのが興味深い。

《『ORIGIN』を描こうと思った理由の一つとして、『ガンダム』二〇周年の頃に出た『G20』とかでボロクソに言われたから、というのがあるんですよ。「富野が笛を吹いて、安彦と大河原(邦男)が加わった『機動戦士ガンダムF91』はひどい出来だった。あの作品はもはや彼らが『ガンダム』に必要ないということを証明した」なんて言われていたわけです。
 確かにあれはひどかったけど、だいたいF91なんて手伝ったとさえ言えない程度の関わりなわけで。だけど、ファーストなら君らより知っているぞ、という気持ちもあって、『ORIGIN』を引き受けたんです。神話とか言われるようになったのは『ORIGIN』以降の話ですよ。》

 また、アニメ本編で触れられなかった「前史」部分について、

《サンライズの許認可という話もあるわけです。〔中略〕口はばったいけど、僕だから認めざるを得なかったというのはありますね。》

としながらも、

《始める前、サンライズに聞いたんですよ。「誰か前史を描いた奴はいないのか」って。そうしたら、誰もいないので「しめた!」と。「今なら俺のマンガが正史になるぞ」って。》

《でも、一方では、みんな前史に関心がないというのもあるんです。「ジオニズムとは?」と言っても、誰も真面目に答えたくないんですね。神話は神話でいいんだという。だから、本編でジオン・ズム・ダイクンは偉大な親父として認識されているけど、実は偉大でもなんでもなかった、と描いたわけです。くたびれたおっさんが持ち上げられることに疲れ果てて死んだと。暗殺ですらない。そういう切り込み方をこれまで誰もしようとも思わなかった。〔中略〕親父を暗殺したザビ家への復讐という、あまりにも大時代的なロマンが一番の人気キャラの背後にあるのに、その真偽には誰も触れないというのがね。
 ―― 不可侵の神話を崩すことが、『ガンダム』ファンへの回答である、と。
 安彦 そうです。》

 『THE ORIGIN』が始まった当初、私はこれに否定的だった。
 今さらファースト・ガンダムのコミカライズかよという思いに加え、作品自体にもさほど新味を感じなかったからだ。
 一応4巻まで読んだものの、それっきりになっていた。
 だが、安彦にこれほどの気概があるのなら、もうしばらく読み続けてみようと思い直し、今8巻まで読了した。9巻からいよいよ「前史」に入るようなので、期待している。

 二つ、書き留めておきたいことがある。

 『THE ORIGIN』を読んでいて、第3巻で、フラウ・ボウが敵兵に投げキッスをするシーンがやけに描き込まれているのが気になっていた(テレビ版の第8話「戦場は荒野」のエピソードに相当)。
 伊藤悠との対談で、安彦は次のように述べている。

《いま挙げていただいたフラウ・ボウが敵に投げキッスをするというのは詰まんない話なんですよ。あれは確か八話だったかな。ラストにジオンの兵隊が難民の親子を助けるっていうちょっといいシーンがあって、それだけで印象に残っている話数で、マンガにそのシーンを入れてやろうと思って観かえしたわけです。そうすると、窓からキスをしたりいろいろやっていて、あ、これテレビじゃ描けてなかったと思い出した。なんでこの時フラウ・ボウは窓からジオンの兵隊に投げキッスをするのか?
伊藤 さびしかったんですよね。
安彦 そう。まさにこの時、フラウ・ボウはメスになるんだよ。
伊藤 なかなか好きな子が振り向いてくれないから、誰でもよくなっている。
安彦 あの話数をやった演出家はそれがわかっていなかったんです。担当したアニメーターもわかっていなかった。だから最後のぽちっとしたいいシーン以外が全然ダメで。それで、観かえしてみて、この時フラウ・ボウはメスになってさびしかったんだということが何でわかんなかったんだと思って、それでいろいろ付け足したりした。》
 
 しかし、たまたま先日この第8話を私も見返してみたのだが、フラウ・ボウの描写について、そこまでの印象は受けなかったので、不審に思った。
 それらしき演出があるが、効果が出ていないというのなら、演出家やアニメーターが「わかっていなかった」という話も理解できる。
 しかし、第8話全体を通じて、フラウ・ボウとアムロはそのような描かれ方をしていない。ラストで「あの親子は、無事にセント・アンジェに着けたんだろうか……」とアムロがつぶやくシーンにはフラウが寄り添っている。
 たしかに、それまでにも、フラウ・ボウの想いに対してアムロが冷たいのではないかという描写はある(例えば、第7話で、避難民にフラウたちが人質にとられたのに動揺しないアムロをハヤトがなじるシーン)。しかし、この第8話自体にはそのようなものはない。そして、フラウが離れていくアムロを意識しだすのは、むしろマチルダの登場以後のことではないだろうか。
 第8話の投げキッスシーンは、フラウ・ボウがもともと持ち合わせていたおきゃんな部分の現れと私は受け取った。

 伊藤悠が「さびしかったんですよね」と応じているのは、テレビ版ではなく『THE ORIGIN』の印象から、そう述べているのではないか。
 「メスになる」云々は、本編終了後に安彦が物語全体を通して見て、そう読み取れるというにすぎないのではないだろうか。
 『THE ORIGIN』の人気は高い。ウィキペディアを見ると、「前史」部分も含め、これもまた一つの正史として認められていきそうな勢いがある。
 しかし、これはあくまで安彦版ガンダム、安彦による解釈に過ぎないのではないだろうか。
 ちょうど、貞本版エヴァが、あくまで貞本版にすぎないように。

 もう一点。
 「BSマンガ夜話」で、いしかわじゅんが、安彦のマンガは動きを描けていないと批判したのに対し、安彦があるマンガのあとがきでそれに反論したという。
 更科によるインタビューに、次のようなやりとりがある。

《――『BSマンガ夜話』のいしかわじゅんさんの指摘で、合気道で人を投げ飛ばすシーンの構図が静的で、マンガ家として必ずしも上手くはないという話がありましたが。
安彦 あれは白泉社版『王道の狗』四巻のあとがきでも書きましたけど、単なる言いがかりだと思います。いしかわさんはただ「ヘタクソ」とだけ言えば良かったんです。もともと彼は僕のマンガなんか好きではなくて、開口一番「興味ねえんだよ」と言っていたんだけど、パネラーとしては何か言わなきゃいけない。それで、李光蘭が描けていないとか動きが下手だとか言ったんだろうけど、ただの思いつきで的はずれな指摘だと思ったから、反論したんですね。ただ「ヘタクソ」なら、僕は「その通り」と認めていましたよ。興味のない時って、当たらずとも遠からず的なことを言ってしまうんですけれども、それはやっぱり外すんです。マンガ家いしかわじゅんは以前から好きだったので、ちょっと残念でしたね。
――いしかわさんは明大漫研出身でマンガの方法論をかっちりやっていた人なので、その枠内で判断してしまうというのもあるんでしょうね。
安彦 「安彦は動きが描けない」という言い方以外は、当たっていると思うんですよ。僕は動きを描いてメシ食ってきた人間だから、比較的、動きは描けると思っているんで。ただ、合気道を流れで描くのは難しいんです。〔中略〕
 アニメの時もそうだけど、動きを描くときに資料なんて見ないんです。そんな暇ないから。相手を殴る、馬が走るなんていうのは全部イメージで描くんですよ。でも、合気道はイメージがなかったんで、資料を見ちゃったんです。たしかに、そう言われればそれがいしかわさんがぎこちないと思った理由かもしれない。》

 「ヘタクソ」だと言われるのは甘受するが、「動きが描けない」と言われるのは承服できない。
 安彦の「動き」を描くことに対する強い自負がうかがえる。

 私はこの「BSマンガ夜話」を見ていないが、本誌に掲載されている論文、伊藤剛「まつろわぬ「マンガ」」が引用している上記の安彦の『王道の狗』4巻あとがきによると、いしかわは、大友克洋以前の旧世代作家である安彦は、その描く動きがリアルでなく、単なる記号でしかないと、例を挙げて述べたのだという。
 大友克洋以前、以後という分け方は、いしかわの著書『漫画の時間』(晶文社、1995)で述べられている、大友克洋と池上遼一のアクションシーンの違いといった見方に由来するのだろう。
(話がそれるが、この『漫画の時間』は、マンガ評論の傑作だと思う。私はいしかわのマンガやエッセイが面白いと思ったことはないのだが、マンガ評論は実に面白い。)
 この大友と池上の対比については批判もあるが、私はもっともな指摘だと思う。
 
 私は、「動きが描けない」とまでは思わなかったが、安彦のマンガは読みづらいところがあるとは思っていた。
 例えば、『THE ORIGIN』1巻に、ガンダム1号機がザクとの戦闘の末宇宙空間へ飛ばされるシーンがあるが、あのあたりを普通のマンガを読むペースで読んでいてスムーズに理解できる人は、そう多くはないのではないだろうか。私は、読み返さないと、何かどうなっているのかわからなかった。

 「動きが描けない」という点に注目して『THE ORIGIN』を読み返してみると、たしかにそのような印象を受ける。
 伊藤剛の論文によると、安彦は上記の「あとがき」で、「動きの中間過程をアニメの動画のごとく微分して描くことはできるが、しかしそうしなかった」(伊藤による表現)という趣旨のことを述べているという。
 安彦の反論は、いしかわに対してはやや的外れのように思える。というのは、いしかわが動きを描けている例として挙げる大友のケースは、動きの中間過程を敢えてカットすることにより、かえって動きを表現することに成功しているというものだからだ。
 安彦のマンガは、1つのコマで複数の動きを表現しようとする傾向が強いように思う。言わば、1コマでアニメの数秒間のシーンを表現しているような印象だ。そして、そのコマと次のコマとの「動き」が連動していない。私の言う読みづらさはおそらくそれに起因するものだと思う。
 上記の「あとがき」から察するに、安彦は敢えてそのような手法を選択したのかも知れない。しかし、それがマンガ表現として成功しているとは私には思えない。
 ただ、動きが描けているかどうかは、マンガの魅力の一部分でしかない。動きが描けていなくても、マンガとしての傑作はいくらでもある。だから、マンガ家自身がそれほど気にする必要はないと思うし、安彦の対応には大人気ないという印象を受けた。
 
 


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