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松前重義の「伝説」について

2008-09-15 23:55:09 | 日本近現代史
 少し前に、東條英機関連の記事を書いていて、松前重義について以前から気になっていたことを思い出した。

 松前重義(1901-1991)は東海大学の創立者であり、長期にわたって総長を務めた。また社会党の衆議院議員も務め、ソ連との民間交流のボス的存在であったことでも知られる。

 戦時下において、松前は逓信省工務局長という高官でありながら、東條と対立したため、年齢的に徴兵の対象外であるにもかかわらず、二等兵として召集され、危険な戦地へ向かわされたというエピソードは有名である。
 最近刊行された『別冊歴史読本 東條英機暗殺計画と終戦工作』に収録されている平塚柾緒「政策批判者を次々抹殺した東条英機首相の「憲兵政治」」においてもこのエピソードが取り上げられ、次のように述べられている。
松前の部下たちは先輩の召集解除に駆け回った。そして仕事の上で関係の深い、兵器行政本部長の菅靖次中将に解除を依頼した。菅中将は陸軍次官の富永恭次中将に松前の召集解除を求めた。すると富永は直立不動の姿勢をとり、きっぱりと断ったという。
「この事件については何も言わないでくれ。これは直接総理の命令であるから」
 このエピソードは、「竹槍では間に合はぬ」と書いて召集された毎日新聞の新名丈夫記者や、中野正剛の自決と並んで、東條独裁の悪しき面としてよく知られている。

 以前、保阪正康の『忘却された視点』(中央公論社、1996)を読んでいると、この松前のエピソードの信憑性に疑問があるとの文が収録されており、大変驚いた記憶がある。

 この件については気になってはいたのだが、その後、その保阪の本以外にそういった記述を目にすることはなかった。
 松前が、死後あっさりと忘れ去られていった人物だからかもしれない。

 『忘却された視点』を読み返してみた。
 『諸君!』1991年11月号に掲載された「松前重義の「伝説」」という文が収録されている(注1)。これは、松前の訃報に接した保阪による一種の追悼文である。ただ、掲載誌の性格もあってか、筆致は多分に揶揄的である。
 文中に、以下のような記述がある。
 松前重義という人物は多面体の人間であった。教育者、政治家、科学者、スポーツ振興の立役者、対ソ民間交流の実力者といった側面が次々に浮かんでくるが、その実像はよくわからない。ドンといわれ、黒幕といわれ、ときにフィクサーとも怪物ともいわれるのだが、実際にはどのような人物なのか。
 私は、深い関心をもってその解剖にあたってみた。
 松前には伝説、風評、噂の類がいくつも語られている。〔中略〕その実像が不明なために流言も飛びかった。
 たとえば、東條内閣に反対したために二等兵として南方に召集されたという伝説がある。昭和初期に劃期的な無装荷ケーブルを発明したという伝説。さらに社会党の衆議院議員であったが、その体質は社会党にあわなかったのではないかという疑問。東海大は四十八年間で巨大なマンモス私学に成長したが、そのプロセスでのさまざまな噂。昭和五十年代初めに社公民中道路線の旗振り役をつとめた真意。
 対ソ民間交流の前面にあって、ソ連との友好を進めたが、一貫して「ソ連のエージェントでは……」というデマゴギーも意識的にであろうが、政界などで流布されていた。
 どれをとっても、松前の素顔が明らかにならないための苛立ちから出発しているし、松前自身もそういう伝説を巧みに利用して、自己の影響力の拡大を図った節がある。
 本稿では、東條に反対して召集を受けたという「伝説」のみに話を絞る。
〔引用者注・松前の〕前半生には、重要なふたつのエピソードがある。ひとつは、無装荷ケーブルの発明であり、もうひとつは東條内閣に抗した反骨の士というレッテルである。後半生の松前は、このふたつのエピソードをフルに利用している。
 保阪によると、無装荷ケーブルの発明は専門家に高く評価されているという。
ところが、もうひとつのエピソードになると、松前神話はどうも不透明になってくる。
 例の「勅任官から二等兵」という反東條のエピソードである。これは東條内閣退陣の日(昭和十九年七月十八日)に召集令状を受けたために、東條の報復といわれているが、それを裏付ける正確な資料はない。
 保阪によると、戦後松前と政治行動を共にした松井政吉(当時、日本対外文化協会副会長)は、東條の仕業だと断言しているという。
二等兵召集の真相は、いまとなっては検証できぬもどかしさがあるが、松前自身はこのエピソードを巧みに使って戦後のアリバイにした。そのために、真偽とりまぜて不必要に語りすぎている面もある。自伝のなかでも語っているが、戦後すぐに逓信院総裁になったときに、下村定陸相が「陸軍からのお詫びだ」といって百万円をもってきたという。しかし、そんなことは、当時の事情を知っている者には考えられないことだ。現に前出の松井も「当時の陸軍の残党にそんなことができるわけがない」というのである。
 さらに松前の息のかかった書物やパンフレットでは「大東亜戦争に反対し……」とまでもちあげている。何やらその辺のいい回しは、少々自分に都合のいいようにできすぎている。東條内閣が倒れたのも、松前の生産力の数字を昭和天皇が目をとおして信任しなくなったからと自ら書いているのも昭和史の歴史的経緯とは異なっているのである。
 それは確かに歴史的経緯と違うなあ。

 ネットで検索してみると、なるほど、松前重義の長男達郎(現東海大学総長)による次のような文章が見つかった。
-父の”懲罰徴収”-

 やがてわが国は太平洋戦争に突入、科学技術と資源を基盤とする戦いが始まった。科学技術者である松前重義は、人間が体力や技能や精神力で戦ってきた過去の戦争は終わり、新しい時代の戦争は、科学技術を駆使した兵器や、それらを生産する技術と人材、資源量などによって優劣が決定すると主張、日本の将来を憂える代表的技術者と共に日米の生産力や資源量の調査を始めた。調査の結果は当時の政府が主張したデータとは全く異なる結果となった。 即ち、当時の日米の生産力を比較すると、日本は米国の約十分の一であり、とうてい大規模な戦争を行うことは不可能である。もしも、日本が米国と対等に戦争をするのなら、技術の格差は別にして、年間最低六百万トンの鉄鋼と三十万トンのアルムニュームと、十六万トンの銅、十三万トンの鉛等が必要であるにもかかわらず、当時の日本の生産実績は鉄鋼が約四百二十万トン、銅が七万八千五百トン、鉛が二万三千トン程度であった。しかも、アルミニュームやニッケルなどは原材料を海外に依存せざるを得ない。このような現実を隠蔽し、戦争を続けようとするのは無謀であるという結論である。当時の軍部(陸軍)にとって、松前重義の存在は目の上のコブであった。私達の家の周辺には憲兵が出没するようになり、やがて軍部により松前重義に対する懲罰召集が実行された。この召集を懲罰でないと言う人がいるが、当時四十三才、逓信省工務局長という勅任官であり、わが国の情報通信の責任者を召集令状も提示せずに東条内閣総辞職の代償として最後の権力を行使し電報一本で召集したのである。これは懲罰召集以外何ものでもない。この召集に関して高松宮殿下は日記のなかで次のように述べられている。
 『松前運通省工務局長が応召したとの話で尋ねたら、やはり熊本の西部22部隊に二等兵として召集された由、実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である』
 東海大学のホームページには、「松前重義と建学の精神」と題する文章があり、こう述べられている。
やがて第二次世界大戦が始まると、松前はわが国の生産力などの様々な科学的データをもとに戦争の早期終結を唱えたため、通信院工務局長(当時のわが国における通信部門の最高責任者)という国の要職にありながら、42歳で兵隊の位で一番低い二等兵として南方の激戦地に送られました。そのため望星学塾の活動も停止せざるを得なくなりました。
しかし九死に一生を得て帰国すると、やがて技術院参議官となり、原爆投下の翌日には広島の現地調査に入って、原爆の惨状を目の当たりにしました。そして終戦後すぐ逓信院総裁に就任し、廃墟となった日本の通信事業の復興に努めます。一方、1943年に開設した航空科学専門学校を前身とし、文科系と理科系の相互理解と調和を基本に掲げて東海大学(1946年旧制東海大学、1950年新制東海大学となる)を開設しました。
 ともに、松前重義が大政翼賛会の総務部長を務めたこと、また戦後公職追放を受けたことには触れていないのがほほえましい。

 一方、報復説の信憑性に疑問を呈するものは見当たらなかった。たまたま私が探し出せなかっただけかもしれないが、そう広く語られていないことは確かだろう。

 しかし、保阪も「それを裏付ける正確な資料はない」と述べるのみで、どこがどう疑わしいのか具体的に示しているわけではない。
 この話自体よりも、この話を政治利用した松前重義に対して、うさんくささを感じていたということだろうか。

 たしか、このエピソードは、細川護貞の『細川日記』(注2)にも取り上げられていたはずだ。
 確認すると、昭和19年10月1日の記述に、次のようにある。
尚余は旅行中にて知らざしりも、松前重義氏は東条の為一兵卒として召集せられ、去る七月東条内閣退陣後二日に発令、熊本に入営せりと。初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり。
 だから、少なくとも戦中にそのような説がささやかれていたのは事実だろう。

 ところで、『細川日記』には、便利なことに人名索引が設けられている。
 それで松前重義を検索してみると、次のような記述を見つけることができた。
 昭和18年11月16日の箇所には、こうある(太字は引用者による。以下同じ)。

五時、通信院工務局長松前重義博士を訪問。築地増田にて会食。博士は技術的方面より観察するに、現内閣の施策は総て上滑りの状態にて、極論すれば生産を減退せしむることのみに専念しつヽありとすら云ひ得る状態なりと。斯の如き状態にては、勝ち得る戦も敗れざるを得ず。一日も速やかに政府を転覆するを可とするも、その方法は東条の名誉欲を満足せしむる様な方法として、彼を元帥伯爵位に奏請すれば、恐らく彼も退陣すべく、国家を救ふ為には、之位の代価は実に安価なるものなりと。博士は当初より東条反対を以て知られ、且つ戦争前より南進論者なりしを以て、意見を徴したるも、要するに東条に対する反感は別として、今日の要務は生産の増強にあり。而も夫れが為に政治なかるべからずとの意見なり。若しその施策にて当を得んか、全体として二倍、個々の産業に於て十倍に近き増産を為し得べく、現在にては、個人当り生産能率が、独米の十分の一なるを以て、全体として倍加するごときは易々たることなりと。
 また、昭和19年1月31日の箇所には、こうある。
四時頃、近衛公訪問、富田氏も同席。富田氏は〔中略〕又人によりては(松前重義、長沼、石川海軍少将等は、)松岡元外相を偉人の如く称揚し、此の人のみが最適の首相なりと云ひ居る由を、笑い乍ら話す。
 昭和19年3月15日の箇所には、こうある。
正午、軍需省にて清水伸氏の紹介により、監理部長渡辺渡少将に面会、松前重義、清水伸四人にて会食。松前氏は此のまヽにては我国敗戦の他なきことを云ひ、〔中略〕若し東条を倒し、理想的なる内閣出現せば、国内の不急鉄道を取りはづし、又は各工場、殊に軍工場の不要品を集めて、百万噸の鉄を得べく、是で急場をしのぐこと可能なりと。又電波兵器の如きは、我国の技術のレベルが、米国に比し極めて劣り居るを以て、是が水準を高めざるべからずと。而して今理想的なる内閣を作らねば、四月の初めには重大なる危機来るべしとのことなりしを以て、余は、「四月と云へば後十数日を出でず。若し今東条内閣倒れ、理想的なる内閣出現するとするも、夫が実務につくを得るは、少くとも一ヶ月を要すべく、屑鉄の回収も、斯の如く速かには実現せざるべく、又技術の如きは、全体のレベルの問題なれば、一朝一夕のことに非ざるを以て、結局松前氏の議論は、理想的なる内閣出現するも、我国は敗北すとの見解に他ならざるごとく考ふるも、其点如何」と質問したれば、氏は言を左右にして、明答を避けたり。
 ここで示されている松前重義像は、上記の松前達郎や東海大学によるそれとはかなり異なると言えるだろう。

 しかし、それはそれとして、懲罰召集説が不透明であると言えるのかどうか、私には疑問である。
 富永恭次は戦後も存命していたはずだが、この件について見解を明らかにすることはなかったのだろうか。
 もし、懲罰召集説を認めていたのなら、保阪がわざわざこのように書くはずはないから、否定していたか、見解を明らかにしていないか、どちらかなのだろう。

 そして、独裁者というものは、通常、重要事項については全て把握しているはずである。
 些末的なことならともかく、重要事項について、独裁者のあずかり知らぬところで、下僚が独断で行うということはありえない。
 とすると、松前重義が東条にとってどの程度重要な人物であったかということになると思うのだが、このへんは正直断言ができないが、『細川日記』で挙げられている星野直樹書記官長のエピソードなどから考えても、かなり重要視されていたと考えていいのではないだろうか。

 私は、保阪正康という人物は、基本的に信頼できる書き手だと思っている。
 しかし、この「松前重義の「伝説」」におけるこのエピソードの扱い方については、やや不信感を抱いている。
 掲載誌の読者や編集者への迎合の気運が感じられる。

 ただそれでも、戦前の松前重義の行動が、必ずしも戦後松前自身がアピールしていたようなものではなかったということを知らしめたという点で、この文章には十分意義があると思う。
 あまり知られていない話だと思われるので、ここで紹介する次第だ。

注1 『忘却された視点』は版元品切れだが、収録内容をやや変更して、『昭和戦後史の死角』とのタイトルで朝日文庫から刊行されている。「松前重義の「伝説」」も収録されている。
注2 細川護貞は、細川護煕元首相の父。熊本藩主を務めた細川家の17代当主。近衛首相の秘書官を務めた後、戦時中、近衛の意を受け、天皇に国情の実際を知らせるべく高松宮に各種情報を報告する任務に就く。その間の昭和18年11月から21年10月までに書かれた日記が、1953年『情報天皇に達せず』とのタイトルで刊行された。1978年『細川日記』と改題されて中央公論社から再刊、のち中公文庫に収録。昭和史に関する一級史料の1つである。


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