トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

りんごのひとりごと

2008-11-15 00:44:14 | 未整理
 「りんごのひとりごと」という童謡を初めて聴く。

 そして思う。

 これは、東北あたりから花街に売られた少女を描いた歌ではないのだろうか。

 …………。

 という話を妻にしたら、

 一笑に付されてしまった。

 ……そうかなあ。


 歌詞がこちらのサイトに。
 昭和14年に作詞され、15年に作曲されてレコードが発売されたという。


一、
  わたしはまっかな リンゴです
  お国は寒い 北の国
  リンゴ畑の 晴れた日に
  箱につめられ 汽車ポッポ
  町の市場へ つきました
   リンゴ リンゴ リンゴ
   リンゴかわいい ひとりごと
二、
  果物店の おじさんに
  お顔をきれいに みがかれて
  みんな並んだ お店さき
  青いお空を 見るたびに
  リンゴ畑を 思いだす
   リンゴ リンゴ リンゴ
   リンゴかわいい ひとりごと


(3番もあるが私が聴いたのは2番まで)


 ネットで検索したら、可愛らしい歌だという評価があったが、私にはひどく物悲しく、そして諦念に満ちているように聞こえた。



「体たらく(ていたらく)」という言葉

2006-12-25 22:38:49 | 未整理
 とあるブログの記事に、以下のような記述があるのを読んで思い出したのだが、どうも最近「体たらく」という言葉の用法が変わってきているようだ。

《野党の体たらくは民主党だけではなく、社民党、共産党にも言えることだけど、野党第一党の体たらくは、近代民主主義にとっては良くないことだ。
 社民党が、共産党支持層の穏健現実派を取り込めるようになれば、もう少し民主、社民連合にも有利になるのだけど、社民党は他所様のことを言える義理ではなく、政党として一番体たらくである。》

 「一番体たらくである」・・・??。
 一番ダメだということかな?
 
 以前、ゆうきまさみのマンガ『鉄腕バーディー』(最近の方)にも、同様の用法があったような・・・。「ていたらくだなー、バーディー・シフォン。」とか何とか。

 どうも、「体たらく」というひと言で、「ダメダメ状態」といった意味で用いられているようだ。

 goo が辞書として提供している『大辞林』には、

《ていたらく 3 【体たらく/▽為▽体】
〔「体(てい)たり」のク語法。そのような体であること、の意〕ようす。ありさま。現代では、好ましくない状態やほめられない状態についていう。
「散々の―だ」「此の山の―、峰高うして/盛衰記 35」》

とある。
 
 Googleで「体たらく」の語で検索してみると、あるブログでの次のような記述がヒットした。

《和歌山県知事選挙で民主党は自主投票になった。
独自候補すら立てれないなんて情けないですね。
県連の中で足の引っ張り合いをしているんですから。
女性町議の名が挙がっていたのを無名だからという理由で引きずりおろす。
それで結局は擁立すら出来ないなんて県民を馬鹿にしてますね。
こんな体たらくでは民主党が政権取るなんて無理でしょう。》

 こうしたものが、本来の用法だろう。
 つまり、「体たらく」は悪いニュアンスで「有様」といった意味で使われるが、その悪さは別に示すものであり、「体たらく」という言葉単独で悪いということを示すものではない。
 
 はてなダイアリーには、「体たらく」の語について、次のような記述があった。

《また,一部では「本当に体たらくな自分だったと思います」(東横イン社長)や「拉致された人々の命すら守れない日本政府は体たらくだと指摘した」(朝日新聞。石原都知事の発言として)のように,本来の用法とは異なる使い方をされることがあるようである.》

 こんな偉いさんが使っているようでは、一般化するのもやむを得ないのかも。
 それにしても、石原慎太郎。この人は保守派で、しかも作家であったはずだが、日本語にはあまりこだわりがないのだろうか。
 それとも、関東の方ではこうした用法が浸透しているのかな? 関西人の私は日常会話で聞いたことがないが。

朝日社説「住基ネット 離脱の自由を認めよ」

2006-12-06 00:23:13 | 未整理
 先日の大阪高裁での違憲判決を受けて、『朝日新聞』が5日朝刊の社説「住基ネット 離脱の自由を認めよ」で、
 
《行政機関に勝手に個人情報を使わせないためには、第三者による監視機関を設ける必要がある。目的外に利用していいかどうかは、監視機関で審査する。自分の情報がどのように使われているのかを知りたい場合には、監視機関に問い合わせができるようにすればいい。政府はそうした対策を急がねばならない。
 だが、それでも不安がぬぐえないという人たちには、やはり住基ネットに加わらない自由を認めるしかあるまい。 》 

と、選択の自由を認めよと主張している。
 しかし、住基ネットとはそのような性質のものだろうか。

 私は、住基ネットについてよく知らない。政府が、電子政府による効率化に必要だとか広報していたので、ああそうなのかなと思っている程度だ。反対している人の論理も、あまりよくわかっていない。
 しかし、判決が、「自己のプライバシー情報の取り扱いについて自己決定する権利(自己情報コントロール権)は憲法で保障されているプライバシー権の重要な一つになっているとし」(朝日の本判決の記事から引用)、住基ネットを違憲と判断したことには疑問を覚える。

 行政機関が個人情報を扱うのはその性質上当然のことで、効率化のためそれを統一してネットで利用しようというのもよくわかる話だ。
 自己情報コントロール権なるものは、行政機関に対しても認められるものだろうか。それを認めれば、現在の住民登録や登記といった制度自体の是非が問われることになるのではないか。

 「具体的な漏洩の危険は認められない」(同)のに、「制度自体に欠陥があると断定した」(同)というのもよくわからない。

 社説はさらに妙なことも述べている。

《住基ネットをNHKの受信料集めに利用することも検討されている。視聴者の引っ越し先を突き止めようというのだ。これが認められれば、利用範囲がどこまで広がるか、不安はさらに募るだろう。 》

 これは本当だろうか。NHKが引っ越し先を把握するために住基ネットを利用できるというのだろうか。NHKは行政ではないので確かにこれは目的外使用だが、「検討されている」とのことなので実現するかどうかも定かではない。仮にこれが認められたとして、利用範囲がどこまで広がるというのか。何が不安なのだろうか。

 住基ネット導入のころ、反体制色の強い人々ばかりか保守派の櫻井よしこまでが反対していたのが印象に残っている(現在はどうだか知らない)が、何をそんなに危険視しているのかよくわからなかった。国民総背番号制で何がいけないのだろうか。先進諸国の多くが実施していると聞くが。

 もう一点。仮に選択制にすると、その差異により行政機関に何かと不都合が生じるばかりか、不参加者がかえって行政上不利な扱いを受けることにはならないか。秩序を乱す人間とのレッテルを貼られるおそれはないか。住基ネット自体の廃止ならともかく、選択制はおよそ検討に値しない暴論だと思う。