「九条自由広場」

「昭和区九条の会」(名古屋)のブログです。会と市民の皆さんとの交流の広場です。ぜひ「コメント」をください。

平和百人一首 (十九)       まもる

2009-04-01 06:57:26 | 平和詩歌・俳句・川柳など
広島の焼野ににたちし棟長屋
   ゆふべ点く灯のあたたかく見ゆ    広島  加藤賓作

焼けはてし街にかへりて大工われ
   まごころこめて握るのみかも     静岡  浅野高夫


★私の住んでいた長屋は名古屋大空襲にも奇跡的に罹災せず家の周り一帯だけが焼け残りました。空襲時に二歳だった私はずーと母方の田舎に疎開していました。
ですから、名古屋の街が焼け野原になっていて名古屋駅からは松坂屋や鶴舞の公会堂も見渡せたというのは記憶にありません。
 しかし、戦地からの引き上げや、疎開からの帰りに自分の住んでいた街が焼き尽くされて荒涼としていたなったら、どんなに落胆・絶望することでしょう。
 しかし、この歌の作者は両方とも健気に受け止め未来を信じて歌ってみえて感動しました。

平和百人一首 (十八)       まもる

2009-03-25 11:46:40 | 平和詩歌・俳句・川柳など
琴焚きて雪夜も寝ねず引揚げし
     かの日思へばなに耐へざらむ    大阪 香島八重子

 ふたたびはくりかへさじと悔深く
     軍事法廷の記事を読みつぐ     三重 宇城直一

★夢多き植民の地へ夫とともに渡り、一転石持て追われる身となった夫人が肌身離さなかった琴を暖をとるために燃やした凍える異国の吹雪の夜・・どのような思いで思い返してみえるのか。
 また、思えば兵士として悔い深き体験を見聞きされた方が、自責の念を込めて軍事法廷の記事を目をそむけず読み継いでみえる姿に感動しました。
 諸悪の根源は引き起こされた戦争ではないか。
 しかも最も責任のある人間が罪を逃れた・・・・。

平和百人一首 (十七)       まもる

2009-03-12 10:51:13 | 平和詩歌・俳句・川柳など
万国に呼びかくるてふ平和塔
   われも積ままし清し小石を     岡山  太田資美

さむざむと舗道に孤児の佇つ見れば
   ふたたびかかるいくさなからしめ  新潟  南雲末子

・・・ 昭和21(1946)年のできごと ・・・・・・・・・・・・

 1月 新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)。
  マッカーサー元帥、極東国際軍事裁判所の設置を命令する。
  NHKラジオ「のど自慢素人音楽会」放送始まる。
 3月 政府、憲法改正草案要綱を発表(主権在民・天皇象徴・戦争放棄)。
  東京六大学野球連盟が復活。
 4月 第22回衆議院議員総選挙、39人の女性議員が誕生。
 「サザエさん」連載開始(夕刊フクニチ)。
 5月 メーデー復活(第17回)
  吉田茂が自由党総裁を受託、 組閣命令下る。第90臨時議会招集。
 8月 衆議院、憲法改正案を修正可決。
 9月 日本赤十字が旧満州に残された日本人引揚者ら収容所の人々の帰国移送
 11月 日本国憲法公布。
 12月 南海地震が和歌山県潮岬沖で発生。死者1443名。



敗戦と希望 ②        塩田丸男   

2009-03-05 10:32:15 | 平和詩歌・俳句・川柳など
明日ありやあり外套のポロちぎる   秋元不死男

敗戦直後の混乱の中で生まれた句だ。そのころ私は中国の捕虜収容所での日々を送っていたので国内の現状は知らないのだが、日本の近代史のなかで、最も悲惨な状態だった時期だろう。そのような状況の中で「明日」に明るい、大きな希望をもつこのような句を詠める人ってどんな人なのだろう、とこの句を初めて目にしたとき私は強い感動を抑えることが出来なかった。
 秋元は戦時中、新興俳句運動に参加したため、反戦・コミュニズムを理由に弾圧を受け、二年間を拘置所生活を送った。そんな彼が敗戦、新しいデモクラシーの盛り上がりを素晴らしく感じたのか想像はつくが、それにしても十分な食事もできず、住まいも衣服も極悪だつた日々の中で、このような句が詠める精神というのは見事とか言うほかはない。
 不本意なこれまでの人生の中で私を支えてくれたのがこの一句である。

★写真は秋元不死男氏 

敗戦と希望と      まもる

2009-03-02 12:27:05 | 平和詩歌・俳句・川柳など
★今このブログに終戦後の「平和百人一首」の連載をしていますが、俳句の世界でも敗戦に生きた人々の気持ちが詠まれています。

 週刊日本の歳時記に評論家塩田丸男氏が、忘れられない俳句として次の二句をあげています。
  
   明日ありやあり外套のポロちぎる   秋元不死男

   てんと虫一兵われの死なざりし    安住 敦

 そして、忘れえない自句として

   敗兵となりたる汗を掌で拭ふ     塩田丸男

を記し、この時代の男たちが皆体験した戦争・敗戦・希望について語っています。
 そこでこれらの句についての思いを三回に分けて紹介したいと思います。

平和百人一首 (十三)       まもる

2009-02-22 14:52:16 | 平和詩歌・俳句・川柳など
幾千万の命安らぎおほらかに
    新憲法は史をかぎるなり     千葉  角田博子


たたかひに死なざりし命還り来て
     桜狩する春に逢ふかも     和歌山 橋爪 啓


■昭和22年ごろから、菊池章子の「星の流れに」が売れはじめた。吹き込んだのは1年前で、闇の女と呼ばれた街娼に転落した満州が帰りの女性が新聞に投書しているのを見た清水みのるが、憤りをこめて書き上げた詩に利根一郎が曲をつけた。歌い手には社会性が出せると、菊池が選ばれたというが、最初は淡谷のり子に持ち込まれ、パンパン歌謡はいやだと、淡谷がけったとの説もある。
「最初は自分でも歌うのが恥ずかしかった。特にステージに立つときは演出の都合上、ネッカチーフをかぶり、肩にショルダーバックというスタイルをとらされて、抵抗がありましたが、マキノ雅弘さん(映画監督)に絶対に流行する歌だからと、激励されて」と菊池は語っている。
ただし、菊池によれば23年ごろから、NHKの放送では「星の流れに」が禁止された。”こんな女に誰がした”と開き直る部分が忌避されたというのである。




平和百人一首(十二)      まもる

2009-02-21 23:45:06 | 平和詩歌・俳句・川柳など
 焼け跡の瓦れきの中につはぶきの
     芽吹き初めしか土割の見ゆ     静岡  田中龍子

 街並は焼けて変れど目に触るる
     すべてなつかし還り来れば     兵庫  片岡忠行


★ 戦争は終わったものの、「ひもじい」という言葉が世の中を覆いつくしていた。配給の食料だけでは足りず、栄養失調死する人も少なくなかった。大蔵省は1946年、5人家族をモデルに「月500円の標準家計簿」を発表したが、当時の毎日新聞は、「標準家計簿で生活すると、実際に摂取できたカロリーは1109カロリー。成人男子の必要カロリーの半分以下」との試算を紹介している。

 人々は焼け残った着物や家財を元手に、買い出しとヤミ市に頼る「たけのこ生活」を強いられた。政府の統制を逃れて物資が売買されたヤミ市は値が高く、農家から直接食料を手に入れるための農村行き電車は「買い出し列車」と呼ばれ、混雑を極めた。しかし、買い出しは庶民であっても経済統制違反。当局に見つかれば没収されることもしばしばだった。(毎日新聞の終戦記念日の記事より)



俳号への思い          まもる

2009-02-19 20:06:30 | 平和詩歌・俳句・川柳など
私の参加している俳句のブログにこんな文章が載りました。やさしい女性の心に響いた句会を思い起こしました。
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 昨夜は早春の息吹がいっぱいの楽しい句会となりました
 初参加の結宇(ゆう)さん。

  春寒や塔婆の文字のささくれて    結宇

 いきなりのトップ賞でその実力もさることながら、
 俳号の「結宇」についての紹介に一同深く胸を打たれました。
 海外で戦死されたお父様が宇品軍港(今の広島港)から出征されたことを
知ってつけたのだそうです。
 お父様との見えない絆を俳号にされていたのでした。

 この句会に他の方が出された

   未来見る瞳のぞきて春隣      愚足

の句のように、我が子の未来ある無垢な瞳をのぞくこともできず、海外で命を落とされた結宇さんのお父様のような多くの犠牲の上に今があるということを昨夜の句会で改めて実感しました。

(麗子)

平和百人一首 (十一)       まもる

2009-02-17 10:33:13 | 平和詩歌・俳句・川柳など
 かへり来ぬ人のいのちの恋ひしきに
      なほ祈らるるいくさなき世を    秋田  高橋園子

 還りきし父にだかれ眠る子の
     やすけき見れば思ふことなし     兵庫  井上弥生


★ 切ないですね。
  幾万の高橋さんその後幸せに生きられたのでしょうか。

  「父にだかれ眠る子」は今私たち団塊以降の世代でしょう。感慨が胸を去来します。

平和百人一首 (十)       まもる

2009-02-15 12:25:37 | 平和詩歌・俳句・川柳など
夢にさへ恋やまざりし青畳
    ただうれしくて足伸ばしけり      東京  三澤正男

 大陸の野戦にひとり病みし日を
    吾子抱きつつ夫は語りぬ         愛知  瀬尾文子

★先回の(九)の紹介の折、読者の「混沌」さんから次のようなコメントをいただきました。

「平和百人一首の連載を読ませていただいています。
戦争直後を想像しておおよそを推察することはできます。戦争をくぐり抜けた安堵、未来への希望。
理解に多少の時間がかかるのは、戦後世代には実感のない当時の事情をかなり想像しなければならないことや、新生日本の未来像が漠然としていることから来るのでしょうか。
今でも私たちの心に飛び込んで来るような、鮮やかでわかりやすい短歌はありませんでしたか。
まもるさんのイチオシは?」


読んでいただいているとのお知らせに嬉しく思いました。
 たしかに、その時代の人々の感情を共感するのは難しいなあと思っております。
 終戦直後の人々の解放感や安堵感もいまいち伝わりにくいと感じますし、とりわけ戦争中の人々の死をも顧みない愛国心などは理解しがたいものです。
 その辺り国民感情の高揚をもっと評価し、戦争の必然性や、合理性を認めるべきだという歴史家もいます。
 
 しかし、今回のような平和百人一首をまとめて読むと時代の感情をひしひしと想像することができます。
 そうした自分の感性を信じて平和運動を続けたいと思っています。

 今日、紹介しました二つの短歌などは、鈍感な私にも最も心にひびいてくる歌です。まだ二十首を紹介させていただいた所ですので、今後もお読みいただき、感動する短歌に出会っていただきたいと思います。
 そうした短歌に出会われましたら是非コメントをお寄せください。
 また姉妹ブログに「九条バトル」
 http://blog.goo.ne.jp/9vs9qvsq/
 もありますので合わせてご愛読く、参加くたさい。