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~サッカーを中心に日々の雑感など~

三岸節子

2005年04月25日 | Weblog
今年で生誕100年に当たるそうだ。1905年から1999年94歳で逝去するまで、旺盛な創作意欲を持ち続けた女流画家の先駆けとして、奔放なその生き方に目を見張った。

新進画家の三岸好太郎と19歳で結婚。しかし、夫は31歳で胃潰瘍の出血から急逝。10年の結婚生活で3人の子供がいた。ただ悲しむだけでなく「これで私は画家として生きられる」といったそうだから、なんともたくましいものだ。実際、結婚直後に書いたといわれる「自画像」を見ると、まっすぐ前を見つめた瞳が意志の強さを表し、印象深い。

子育てや家事に追われ、室内や静物画に限られていたが長男をパリに留学させていて、54年はじめて渡仏し、この風景、町並は油絵でしか描けないと感動したのが発端だった。1968年63歳で渡仏し、南仏の中世の面影が色濃く残る町カーニュで制作する。「南仏風景」や「城の道」「カーニュの家」など。

画面いっぱいに大きく力強く描きたいものを入れるという印象の絵。石段や石畳というのだろうか。実際の色はグレイかせいぜい黄土色なのだろうが、自分の感性で大胆に赤い色で着色しているのには驚かされる。

息子夫婦を呼び寄せ、すぐ近くで暮らしていた。息子の運転する車に乗ってアチコチに出かけてはモチーフを探すという生活だったらしい。行き詰まりを感じて帰国しようとしていた矢先、パリでの個展が好評で、フランスに残りたいという思いに突き動かされる。その帰り道、パリから南へ120キロ、ヴェロンという農村に気に入った家を見つけた。アトリエも作り、それから14年に渡って制作の拠点としたのだった。

丘の上に立つ一本の大木が気に入り、「ブルゴーニュの一本の木」「花咲くブルゴーニュ」などを連作している。絵の中に大きな木が一本とか、3本とかいう描き方だ。創作の為の行動力はすさまじく、出かけていっては「テアトルの廃墟」などやはり赤い色を使ったスケールの大きな風景画を描いている。

1989年84歳になり体調を崩して帰国を余儀なくされる。神奈川県大磯のアトリエで最晩年の10年を過ごすが、ここでも風景の後は人物に取り組みたいと探究心は衰えない。97年に描いた「鳥と少年」の背景は白と黒に分けた斬新さ。左の黒い色には鳥を抱く少年が。右の白い色にはあの連作を思い起こす一本の木が描かれていた。

絵は修業と同じ。人間を完成させる為に描いているといっていたそうだ。生前のインタビューの映像を見ると、話しかたは穏やかで今では誰も真似ができないような美しい日本語には感銘を受けた。息子が「なにしろ向こう見ずでしたいことをする」といっていたように、周りを巻き込む求心力があったのだろう。真っ赤に輝く太陽のような女性の一生だった。

全国でも順次美術館で見られるらしい。
朝8時とか夜8時とかの時間帯で中々日曜美術館を見られないことが多かった。いつか時間が一杯あるようになったら、絵を描きたいというのはこの先の「夢」ではある。そのときまで元気でいよう。いつか、きっと、必ずー。




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