Dr.K と 優しさの夢物語

輝きの明日のために、思春期と思秋期の更年期障害の女性のための健康余話/ときには蕎麦談義とワン子のお話を

晩秋の九州路に紅葉は~

2015-12-04 15:49:44 | ゆるゆる旅日記

晩秋の九州路に紅葉を楽しみましょう と家人と連休に出掛けましたが

「 九年庵秋の一般公開と御船山楽園ライトアップ2日間 」1泊2日の小旅行です
【 第1日目 】
JR広島駅 = (こだま721号) = JR小倉駅 = 青の洞門 = 深耶馬渓 =
マリンセンターおさかな村(夕食) = 御船山楽園(たまゆらの夕べ) =
唐津ロイヤルホテル泊
【 第2日目 】
ホテル = 九年庵秋の一般公開 = 柳川(昼食) = 菊池渓谷 = 
観光会館はかた = JR博多駅 = (こだま764号) = JR広島駅

JR小倉駅から 早速BUSで廻ります
○耶馬渓
耶馬渓(やばけい)は大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷である
景勝地として知られており日本三大奇勝や日本新三景のひとつに選ばれている
新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩 熔岩からなる台地の浸食によってできた奇岩の連なる絶景で 1818年(文政元年)に頼山陽がこの地を訪れ 当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが耶馬渓という名前の起こりだそうな
凝灰岩や凝灰角礫岩の山には風食作用や河川の洗掘作用によってできた洞窟も多い
 本耶馬渓(ほんやばけい)は 青の洞門や競秀峰を中心とする山国川の上流一帯
青の洞門より500mほど下流にある8連アーチの石橋である耶馬渓橋は全長116mの日本最長の石造アーチ橋です
その西洋的な外見と石積み方式によることからオランダ橋の愛称があるそうな
大分県内には500を超える石橋が現存しているのが珍しい

○青の洞門
青の洞門(あおのどうもん)は 大分県中津市本耶馬渓町樋田に在る洞門いわゆる隧道・トンネルである
名勝耶馬渓に含まれ山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置している
全長は約342mで そのうちトンネル部分は約144m であるそうです
晩秋の紅葉時期には観光客が多いので人々の行列です
諸国遍歴の旅の途中に立ち寄った羅漢寺の禅海和尚が 断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのをみてここにトンネルを掘り安全な路を作ろうと托鉢勧進によって掘削の資金を集め石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれている
江戸時代の僧・禅海和尚がノミと槌をふるい掘ったトンネルの明かりとりの窓などの手掘り部分が残されており難工事であったことが伺えます
現在でも断崖絶壁を鎖を頼りに渡ることができないことはないそうですが 見上げただけでもご免こうむりたい!と思いました
1750年(寛延3年)に第Ⅰ期工事の完成後には通行人から人4文 牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており まぁこの洞門は日本最古の有料道路であったことになります
この禅海和尚の史実にもとずいて 大正8年(19191年)に発表された菊池寛の短編小説が『恩讐の彼方に』です 戯曲に書き直したのが『敵討以上』である
この小説とは別に 1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』でも教材として取り上げられ 青の洞門は広く知られるようになったそうです
~ 市九郎は 親の仇を名乗る実之助の前で 素直に斬られることを望むが 石工たちが必死に止めに入ったため 石工の統領の計らいで 洞門の開通まで敵討は日延べすることとなる
実之助は 本懐を遂げる日を一日でも早めるべく 石工たちに混じって掘削を始めた
市九郎が掘り始めてから21年目 実之助が来て1年6カ月 延亨3年(1746年)9月10日の夜九つ近く ようやく洞門は開通する
約束通り市九郎は実之助に自分を討たせようとするが 市九郎の大慈大悲に心打たれた実之助は仇討ちの心を捨て 市九郎に縋り付いて号泣するのだった ~
いわゆるラストシーンですね 敵討の是非を問うているのでしょうか
青の洞門 = 恩讐の彼方に とされてはおりますが 禅海和尚の逸話を基にして書かれた菊池寛の創作であることは言うまでもない

○深耶馬渓
深耶馬渓(しんやばけい)は山国川支流山移川支流に位置する渓谷
狭い谷に絶壁や石柱が屏風のように連なり壮観
耶馬渓一番の景勝地である一目八景があります
一目八景とは 海望嶺・仙人ヶ岩・嘯猿山・鳥帽子岩・雄鹿長尾嶺・鷲の巣山の8つの景色を一目で眺望できることから名付けられた
秋の紅葉はとくに美しい景観であるそうです 名物の手打ちソバが有名らしい

○虹の松原
虹の松原(にじのまつばら)は 佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原で 日本三大松原のひとつです
長さ約5Kmにわたって弧状にクロマツの林が続いております
この地は以前来たことがありましたので懐かしい記憶が未だ残っておりました
名所旧跡を再訪するのも悪くはないようです

マリンセンターおさかな村で早めの夕食です
呼子が近いせいかイカの活き造りをいただきました

○御船山楽園(みふねやまらくえん) - たまゆらの夕べ
佐賀県武藤市に在ります
鍋島藩第28代武藤領主の鍋島茂義が 狩野派の絵師を京都から招いて完成予想図を描かせ 約3年をかけて造られた池泉回遊式庭園で壮大で荘厳な美しさがあるそうです
東京ドームが10個分の広さがあるといいます
とくに御船山が湖面に映えるひょうたん池やふりむき坂での夜間の紅葉ライトアップの演出がみものですが
とは言っても陽がとっぷりと暮れてライトアップも薄暗く人が多すぎて見るものも見えないので早々と出口へ向かい休憩でした
どうやら家人も私もライトアップというものは苦手のようです
老齢には足元が危ない!のでした

さぁ 翌日は早や起きです

○九年庵
九年庵(くねんあん)は 佐賀県神崎市に在る数寄屋造りの邸宅及び日本庭園です
佐賀県出身の実業家伊丹弥太郎の旧別邸
神仏分離で護国寺が廃寺になった後 三十六坊のひとつ 吉祥院の土地を所有していたが 生き残った地蔵院の土地と交換
その土地を久留米の作庭家である誓行寺の阿(ほとり)和尚により1900年から9年の歳月をかけて築造したことから九年庵の名前で呼ばれることになったらしい
現在は土地は佐賀県が購入し建物は所有者から佐賀県に寄贈されており 11月の紅葉の時期に9日間だけ一般公開されているのです
この9日間だけ!と言う短期間であるのが人気のもとになっているのでしょう
小さな庵ですが話題になるのも その期間によるものでしょうか
早い時間にHotelを出たせいかあんまり待たなくてすみました
今日が一般公開の最終日なのだそうです
 九年庵の駐車場近くの広場で“猿廻し”が芸?をみせておりました 4才だそうですが人間では何才にあたるのでしょうか
来年は“申年”ですねぇ 私の干支です

※昼食は
柳川の 柳川藩主立花邸「御花」で“うなぎせいろ蒸し”をいただきました
ご飯が味付けしてあり美味
邸内と庭園を散策 西洋館に大広間と言う明治建築を代表する建築物です 
豊富な山石・海石と松の樹を配置した庭は目を見張るものがありました
資料館を見学します
 近隣に 北原白秋の生家がありますが行きそびれてしまいました
白秋と最もゆかりの深い酒造業北原家の広大な旧跡地に建設されている北原白秋記念館をも行きそびれました
詩集「思ひ出」の柳川版が買えたのに残念でした

○菊池渓谷
菊池渓谷(きくちけいこく)は 熊本県の菊池川上流その水源にある渓谷で阿蘇市と菊池市に位置している 紅葉の名所として近年訪れる人が多いのです
一帯は阿蘇外輪山を取り囲むモミ ツガ ケヤキなどの広葉樹の原生林に覆われている
阿蘇くじゅう国立公園の特別保護地区 菊池水源として名水100選に選定されている
水源の森100選でもある
ここは渓谷に沿った遊歩道を漫ろ歩くくまもと自然休養林で 癒しコースが約30分 マイナスイオン満喫コースが約1時間の歩道がありますがアップダウンがきつい山路で
もちろん?癒しコースをしかも片道半分で切り上げましたなぁ ゼーゼーです

紅葉狩りを楽しみに訪れた紅葉の名所でしたが 何処へいっても紅葉はさっぱりで枯れ葉もしくは落葉ばかりでしたなぁ
これも温暖化の為せる業でしょうか
まぁ それでも菊池寛の“恩讐の彼方に”に触れ「青の洞門」の岩穴のノミの跡に当時の
苦労を思い そして話題の九年庵を眺めたことで晩秋の行楽を楽しみました

そして心残りと言えば
今回もまた 北原白秋の詩歌に触れることができなかったことでしょうか

「曼球沙華」
     北原白秋作詞 山田耕作作曲
GONSHAN  GONSHAN  何処処へゆく
赤い 御墓の曼球沙華(ひがんばな)
けふも手折に来たわいな
GNSHAN  GONNSHAN 何本か
地には七本 血のように
血のように
ちょうど あの児の年の数
GONSHAN  GONNSHAN  気をつけな
ひとつ摘んでも日は真昼
日は真昼
ひとつあとからまたひらく
GONSHAN  GONNSHAN  何故泣くろ
何時まで取っても曼球沙華(ひがんばな)
曼球沙華
恐や 赤しや まだ七つ

この詩歌は 島崎藤村の「初恋」など 暗唱していたものでした 今でも諳んじることができます
私にも青春の頃の感性がまだ少しばかり残っているのでしょうか
もう戻れませんが

               

 

 

 


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