『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

出雲へ

2010年03月28日 19時06分47秒 | 航海日誌

明日より3日間、島根県出雲へ雑誌の取材で出かけます。テーマは、「聖地巡礼」。出雲へは毎年のように行かせて頂いています。今回もまた御縁です。いつものように何も考えず、行って参ります!

未来の自分

2010年03月27日 13時59分25秒 | 航海日誌
私たちは、時間というものの流れの中で生きています。現在・過去・未来と、3つの区分で、時間を捉えています。過去は、すでに起こったこととして記憶の中にあります。未来は、これから起こることとして未定。そして、現在(今)にいます。過去~現在~未来。過去と未来に挟まれて、現在があります。

では、過去の自分にとって、節目だったと思える時を思い起こしてみます。入学式や成人式の日でも、その時、どんなことを思い、考えていたか。「自分は何をしてどう生き、何者に成るのか、成りたいのか・・・」

過去の自分は、未来を思い描き、どう思っていたか。未来の自分は・・・今、それを考えているのが、あの時からみた未来の自分ですね。過去の自分からみれば、今が未来となります。

さて、時間は進んでいます。たった今のことが、すでに過去です。過去が次々に過ぎ去っていきます。未来は先々に遠のいていきます。そして今は、次々に今です。アレ? 今だけがずっと今・・・

それを「今中(いまなか)」といいます。私たちは記憶で過去を捉え、想像力で未来を描いているわけですが、実態は、ずっと今です。ところが、過去を悔やみ、未来を想うことで、今が忘れ去られます。

遠離一切転倒夢想(真理から遠く離れている)が、三世(過去~現在~未来)を見通せば、永遠の今中に在る・・・ということを般若心経が云っております。その三世が消え去ったところが涅槃(ねはん)だといいます。ということは、私たちは既に涅槃にいるのでしょう。ならば思う存分、過去や未来の夢を愉しめばいい。三世に生きて居る間の、有り難い限定期間です。


縁のめぐり

2010年03月26日 10時17分35秒 | 航海日誌
昨日は、不思議な縁について書きました。

そこで、ちょっと過去を振り返ってみましょう。オギャーと生まれてこの方、寝て起きて、様々な事々の日々に生きながら、数え切れない選択をしつつ、これまで生きています。

「もし、あの時、違うほうを選んでいたら今の自分はいない」という節目は誰にでもあることです。大きくいえば、学校、就職、結婚などなど。私の場合でいえば、「東京の大学ではなく、地元の学校へ入っていれば、今ごろは田舎で暮らしているだろうな」です。

でも、そうはならなかった。選択しなかったからです。では、なぜ選択しなかったのか。もちろん自分なりの理由はありますが、そうなるような条件が整っていたから、そうできたと。その条件すべてを書き出すことは不可能です。無数にあるからです。受験当日インフルエンザにかかったら、違う学校へ行くことになったでしょうし、卒業後もある方の紹介がなければ最初の会社へ入ることもなかったと。面接当日、電車1本乗り遅れただけでも条件が変わります。遅刻をして来るような者はダメだとなるでしょう。もし・・・を書いていたら切りがありません。

とにかく、今へ続く道のりがあったと。その道のりを繋いでいるのが「縁」というものだと思います。つまり、理屈で説明仕切れない世界を、縁という一言で指し示している。「それは縁があったからだよ」といえば、大抵の日本人は理屈を超えて納得します。納得せざるを得ないのです。なぜ、そうなったのかを頭で考えてもわからないからです。「風が吹けば桶屋が儲かる」は、幾つかの不確定な要素が展開して、意外な結果が起こることの喩えですが、物事の成り行きは「偶然」が重なり合って出来上がっているわけではないようです。

以前、こんなことがありました。成田空港で数年ぶりの友人A君と出くわしました。彼はバリ島へ遊びに行くところでした。ターミナルで彼と別れ、数分後に今度は別の、やはり数年ぶりに顔を見た知人B氏と出会いました。その人もバリ島へ遊びに行くといいました。「いや、偶然ですね、さっき出会った友人もバリ島へ行くといってました」と話し、私は仕事でアメリカへ旅立つ飛行機に乗りました。それから半月後、友人A君から電話が入りました。バリ島行きの飛行機で知っている人と隣り合わせになり、奇遇な再会を喜んで島で夕食を愉しんだというのです。その相手は、私が空港で2番目に出くわした知人B氏その人でした。でも、なぜA君がB氏を知っているのかと思い、そのことを尋ねると、10年ばかり前にB氏が経営するペンションへ私がA君を連れて行ったではないかといいました。私はそのことをすっかり忘れていたのです。それを思い出し、私は偶然の重なりに驚きました。さらにA君もB氏も、その後まもなく人生の重要な転換期を迎え、あの時の邂逅には意味があったことを知りました。それは、「人生を大きく生きろ」というものでした。その時期が私にとっても大きな転換期となったのです。

やはり、目にはみえない世界の働きがあるとしか言いようがありません。


不思議と縁

2010年03月25日 11時51分17秒 | 航海日誌
時々に、このブログでは不思議を話題にしています。歴史・政治・神々・霊魂などジャンルは様々ですが、「まさか、そんなことがあるはずがない」といった内容です。

不思議とは、なんでしょうか。思議(考える)できないことですね。つまり、アリエナイとされる内容です。別名、オ・カルト(秘された世界)。世の中一般に共有される考えから逸脱した思考、それが不思議ということです。

では、不思議は語られないのか。たまに語られます。例えば、世間に名の知れ渡った科学者でも、個人的には、「いや、おふくろが夢枕に立ってねえ。気がついたら命日だった」などと話すことがあります。しかし、その科学者は公ではそんなことは語りません。科学者の立場は、証明されないことは非科学的であり、そんなことを信じているのかと、その人物の思考性が疑われてしまうからです。

それでも・・・不思議なことはあります。ただ、日常の中の不思議にフタをして、あまり、ほとんど考えないようにしてわれわれは生きています。不思議なことばかりに気を取られていると、変人になってしまいますからね。ただ、ルーティーンな毎日の中で、「あれ?」とたまに思い、その意味を自分なりに考えてみることは悪いことではありません。「たまたま、この日を選んだら、旅行先で偶然にも旧友と出会った」など、縁というものを思い、不思議に思いを巡らせてみる。私の場合など、何度もそういう経験があります。

これを「偶然」としてかたずけると、「縁」の意味を失ってしまいます。偶然は確率的に極めて稀な出来事です。一方、縁は人知を超えた結びの出来事です。偶然はたまたま起こった事。縁は約束どおり起こった事。どう考えるかは個人それぞれですが、私たちは偶然と縁の両方の世界に生きているのではないでしょうか。縁というものは、東洋独特の観念といわれますが、時々に縁を思い、出会いに感謝する心を大切にしたいものです。「袖振れ合うも多生の縁」といいます。今日、会った人とも縁あってのことと思えば、どんな相手であっても、有り難いことと成ります。


伊吹山と薬草湯

2010年03月24日 11時26分04秒 | 温泉へ行こう!
       コテージの前庭には琵琶湖の風景が

琵琶湖の眺め絶景ロッジ

滋賀県の伊吹山2合目に建つログハウスのロッジは、2年前に取材で訪れた絶景地の山小屋です。標高600メートル地点の高台にあり、眼前に米原市、その向こうに琵琶湖が眺められ、その雄大な景色にしばし見とれました。この景色はまさに神話的で、眺めていて飽きることがありません。このお山はヤマトタケルゆかりの聖地でもあります。

当ロッジは、母屋のログハウスは食堂と客室が2つで、別にコテージも2棟あり、家族や仲間で別荘感覚での宿泊が可能です。食事は、春はタケノコ、秋はキノコなど山の幸を中心とした和風料理で、地元の豆腐、天ぷら、ちらし寿司なども出てボリュームもあります。のんびり過ごしたくなる、まさしく隠れリゾートと呼べるロッジです。

7種の薬草で健康増進の湯

さて、伊吹山には温泉はありませんが、山麓は薬草の里として知られています。古くから宮中に献上され、薬草栽培が奨励されたといいます。米原市の文化センター内の「薬草風呂」は、地元客はもとより登山者にも人気。トウキ・ジュウタク・ハッカ・センキュウ・チンピ・シャクヤク・ヨモギの7種の薬草が袋で浸され、やや黄色がかった湯からは薬草の香りが漂い、冷え性や凝り、あせもなどに効果があり、芯から体が温まります。百名山の一つ伊吹山の登山後、ひと汗を流すのにおすすめです。


【データ】
ロッジ山(やま)
電話0749-58-1535
滋賀県米原市上野 営業/3月20日~12月24日 休/不定休 料金/1泊2食付き7500円~コテージ9000円~ 交通/JR近江長岡駅から伊吹登山口行き湖国バスで16分、終点下車、登山50分(車でも行ける)

伊吹薬草の里文化センター「ジョイいぶき」
電話0749-58-0105
滋賀県米原市春照37 開館/12時30分~19時30分(入場は19時15分まで) 休/月曜(祝日の場合は開館)、祝日の翌日 料金/400円 交通/JR近江長岡駅から伊吹登山口行き湖国バスで10分、ジョイいぶき下車すぐ


モノの価値

2010年03月23日 10時48分00秒 | 航海日誌

信州のある町の共同販売所では、地域の野菜、キノコ山菜の類だけでなく、山で採れた木の実や落ち葉、木材、庭石、はたまた古民具や農具など、農家の納屋に眠っていたような品々まで販売して注目を集めている。売る方は、こんなモノは売れないかと販売所に持ち込み、自分で値段を決め、販売者名を付けて置いてもらう。買う方は、こんなモノが欲しかったと喜ぶという。町営の共同販売所は、町民たちにとって宝探しの場ともいえ、どんなモノが出ているのか、覗くのが楽しみとなっているようだ。

その様子をテレビが紹介していて、なるほどと思った。これは大昔の物々交換の場に通じるのではないか。モノは山や納屋に転がっている時点ではタダのモノに過ぎないが、欲しい人の前に出せば、価値が生まれる。現代はお金が介在しているが、価値の交換は個々人のものである。野菜が欲しい人が、使わないバスタオルのギフト品と交換してもいいわけで、それなら全くの物々交換である。

そんなことを考えていて、親の世代から聞いた戦後の買い出しの話を思い出した。町の人は食糧難に苦しみ、農家に出向いて高価な着物などを米や野菜と交換したものだという。今なら何十万円もする着物が米一袋にしかと、悔しさまぎれにいうが、米は命を繋ぐ糧だったから、その時点で価値は同等だった。戦後は新通貨に切り替えられ、旧貨幣は紙屑と化していた。

「着の身着のままでも食べる物があれば人は生きていける」と、親たちの世代は語ったものである。もしも、物資が不足して困窮する事態が訪れた場合、やはり必要なものの筆頭は食料である。ルイヴィトンのバッグと米を交換する物々交換所ができてもおかしくはない。ブランド品がどうかわからないが、農家の人が価値を見出せるモノなら、米野菜に換えてくれるだろう。信州の販売所の例を見ていて、そんなことを思った。


ゴールド・リリー

2010年03月21日 21時28分43秒 | 歴史の断層
図書館で以前から気になっていた本が目に留まり、家に帰って一気に読んだ。

『天皇の金塊』高橋五郎著・学習研究社刊。天皇家が所有した(現在も)とされる隠し財産があるという噂は、少々聞き知っていたが、そんな生やさしいものではないようだ。金塊の総量、10万トンを超えるというのである。その金塊はどこから集められたのか? アジア諸国からの戦争略奪物という。誤解されるのは、天皇家の私有財産というところで、そうではなく、天皇存在を利用した軍部と明治誕生の老練金融家らの「本当の戦争目的」が、アジアの富の収奪だったという。しかも、国際金融資本グループとの合意のもとに、戦中戦後の「黄金ファンド」として戦費を賄い、利益を供与し、未だに機能し続けているという。つまり、先の戦争とは、連合国と日独伊の戦いは表舞台であり、裏ではアジアの黄金を収斂する目的があったという。10万トンの黄金を換金すれば、5000兆円とも1京円ともいわれ、それがそのまま金本位制を支える現物となる。世界経済を支える原資そのものだ。日本はその金を集める役を請け負ったということになる。それが天皇の黄金、「金の百合(ゴールド・リリー)」だという。

にわかに信じがたい話なのだが、歴史的舞台が描かれ、情報の出所が随所に明記されていて、なるほどそうなのかもと思わせる迫力がある。M資金とか、政府の埋蔵金の出所、行き着き先に「金の百合」が横たわっている・・・真実かどうかは無視して、一級のミステリとして読んでみても、面白すぎる内容だ。図書館で探して読んでみてソンはないと思う。


心の間合い

2010年03月19日 14時46分53秒 | 合氣道のすすめ

合気道で重要な所作となるのが、「間合い」を取るということです。間合いとは相手との距離のことで、手を伸ばして届くか届かないかの立ち位置が、ぎりぎりの間合いとなります。相手と対峙したときに、その間合いがさっと取れるよう、稽古をします。

ここで述べた間合いは、人と人の間隔のことですが、実は、もう一つの間合いがあります。「心の間合い」です。つまり、相手との心理的距離のことで、この間合いは目に見えません。ゆえに、なかなか気づかないものです。気づかないけれども、確かに心に間合いがあり、この間合いで、相手との状況が変化していきます。ですから、心の窓となる目線が重要で、目を泳がせたりせず、正眼に構えます。正眼とは、一点を注視せず、正面全体を広く観ることをいいます。つまり、平常心を保つということです。この常態が最も安定した間合いにいるということになります。

間合いの話は、なにも武道的な至言に限りません。生活全般、仕事にも、対人関係のすべてに関わってくることです。私は、合気道を通じて、心の間合いというものを知りましたが、日常の中でも心の間合いの有りようが、さまざまに影響すると感じています。近くにいる他者との、やり取りにおいて、どんな心の間合いがうまれているか、今すぐにでも確かめることができます。それは自分自身の心の動きを客観視するということになり、また同時に、相手の心中を察することになります。その両方がわかって間合いが取れます。そして、心の間合いを取ることがうまくなれば、人間関係もうまくなるということです。

誰しも、なりふり構わずグイグイ迫って来る相手に対しては敬遠するものですし、逆に知らんぷりの心の遠い人には無関心になりますね。頃合いのよい間合いを心がけたいものです。


花粉症

2010年03月18日 18時16分40秒 | 航海日誌
去年はなかったが、今年は花粉症の症状で、目がかゆいし頭が重い。数年前から発症して以来、このアレルギーの辛さがよく分かりました。今年はまだそうでもありませんが、酷くなると、沖縄へ逃げたくなります。頭の中に膜がはったようになり、鈍重くなって、原稿も書けないほどです。なる前は、花粉症? そんなのおれには関係ねえって調子でしたから、なっている人の痛みが分からなかったのです。やはり、経験せねば分からないものですね。

線香の意味

2010年03月17日 15時38分01秒 | 航海日誌

先週、友人のお母さんが亡くなられました。突然の脳溢血で倒れられ、そのまま眠るように他界されたとお聞きしました。私も大変、お世話になった方でしたので、長良川の出張からすぐにお通夜に駆けつけ、故人を偲んで友と語り明かしました。

そのとき、友人の家族とも話していて、なぜ、故人や先祖にお線香をあげるのだろうかという話になりました。誰しも、習慣的にお線香をあげるので、なぜなのかとは考えないものです。お葬式の場面で、参列者が順番に線香をあげるのを目の当たりにして、ふと、疑問が湧いたようでした。

私は、沖縄で聞いた話をしました。線香の煙があの世へ届いて、それが亡くなった人や先祖の欲しいものに変わるそうですと。お酒が好きな人なら、お酒に変わって、それを美味しく飲めると。だから線香が喜ばれるそうだと話しました。また、なぜ、そうするのかといえば供養のためですが、それは現世に生きる者の感謝のしるしでもあります。ですから、このたびの友人のお母さんに対しては、「いろいろお世話になり、有り難うございました。ご恩は忘れません」と念じつつ、お線香を手向けたのでした。合掌


長良川讃歌

2010年03月16日 16時02分39秒 | 航海日誌
            郡上八幡を流れる長良川

先週の10日~12日まで滞在した長良川は、ダムの無い河川として、マス類が遡上産卵する美しい川として知られてきました。20年ほど前、反対運動を押し切って河口部に堰が造られ、以来、下流域は流水の速度が遅くなり、鮎などの漁獲に大きな影響が出ていると聞きました。

一般の人にとって、鮎が捕れなくなったからといって生活に影響があるわけではないので、その後、広く問題視されることもなく、長良川の河口堰は忘れ去られたかのようです。ただ、中流域の川漁師さんからすれば、年間500万円の漁獲があった鮎が、一匹も捕れなくなったそうで、生活への大打撃です。

長良川中流から遡り、上流域の郡上八幡へ行きました。中流で淀んでいた流水が、活気を取り戻すかのように青くなり、そのエメラルドグリーンの美しさに息を飲みました。上流にダムが無く、水が堰き止められなければ、川に水量が多く青々とした水となるのです。もう、40年も前ですが、私の田舎の広島の太田川でも、上流へ行けば同じような水の色だったことを覚えています。遠い記憶の水の色でしたが、長良川で目の当たりにして、懐かしさを覚えました。河口堰は造られましたが、ダムが無いことで、長良川の半分は昔のままで、郡上八幡は水清き町でした。


長良川へ

2010年03月13日 12時30分46秒 | 航海日誌
       長良川上流と大日岳

昨日まで、川漁師さんの取材で岐阜県の長良川へ行ってました。河口堰問題から20数年、長良川がどうなったか。川漁師の話を聞きました。やはり自然は壊れ、魚類や生物の生態系に大きく影響が出ていました。

河口域は水が淀んでいましたが、長良川上流まで行き、青き水に身が洗われる思いがしました。源流の大日岳は雪をかぶり、その山を眺めて取材を終えました。ふと、気がつくと、そこは白山信仰の地であり、岐阜県側から入山するルート入口でした。長良川の古里は、白山の裾野につながっているのでした。

長良川の名物の魚は、サツキマスです。五月の頃、産卵のために海からマスが古里の川へもどってきます。そして、白山の裾野、白鳥地区あたりで産卵するそうです。驚いたことがありました。海へ出たサツキマスたちは、どこへ行くのか。伊勢湾を回遊するのだそうです。

それを聞き、なるほどと思いました。サツキマスは伊勢参りをして、白山の麓に戻り、生命を育むということでした。白山の麓で生まれ、伊勢へ行き、また戻ってくるというサイクルは、神秘です。「伊勢白山道」を魚が体現しているということを知り、驚くとともに、深く感得するものがありました。有名ブログの「伊勢白山道」をご存じの方なら、同じように驚かれるのではないでしょうか。自然に触れてわかった事実です。


八丈島・末吉温泉

2010年03月07日 16時05分00秒 | 温泉へ行こう!
       絶景温泉のひとつ、みはらしの湯

【末吉温泉・みはらしの湯】東京都八丈島

太平洋を眼下に眺め
気分壮快な島の天然温泉

伊豆諸島のひとつ八丈島は、東京から南へ約300キロの洋上の孤島。周囲59キロで、八丈富士と三原山の二つの火山を擁したひょうたん型の島です。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、この八丈島がモデルになったとも。江戸時代は、流人の島とされていましたが、その殆どが政治犯とされた武士や僧侶など。後には、町人も流されたが、案外職人が多く、その技能が伝承されて、島に根付いたようです。

さて、火山の島ということで、島内には7か所の温泉があります。滝を眺めて入る「裏見ヶ滝温泉」は無料の混浴です。なかでもその風景が素晴らしい「みはらしの湯」(大人500円)の人気がダントツ。地元の人も観光客もいっしょになって、暮れて行く太平洋を眺めて、あ~いい湯だな~。また、ゆっくり入りに行きたい温泉のひとつです。

[温泉データ]
泉質:ナトリウム-塩化物泉 効能:神経痛、筋肉痛、関節痛など


宇宙を知る数式

2010年03月06日 00時22分00秒 | 航海日誌
       博士の愛する数式

国立天文台で、理論天文学の先生に聞きました。
宇宙は膨張しているのですか?
膨張しています。
宇宙が膨張するということは、我々人間も一緒に膨張?
いいえ、惑星にいる我々は、変わりません。
安心してくださいとのことでした。
では、宇宙という器だけが膨張すると?
先生は何か難しい説明をしましたが、よくわかりませんでした。
まあ、小さな値ですから、問題ないそうです。

では、最近、騒がれている2012年問題は?
フォトンベルトがどうこうと聞いてくる人がいますが、
天文学的には、まったく話題になっていません。
そうですか、でも巷では騒いでいますが?
私たち研究者の間では何も問題になっていませんが?

宇宙的には何もないようです。やはり、社会学的な問題なのでしょう。
2012年問題は、世界的経済破綻問題なのかも。
そういうと、そうかもしれませんねといいつつ、
先生は、何か腑に落ちない顔をしていました。