『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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釣り少年5(後編)

2011年01月04日 10時19分05秒 | 短編「釣り少年」

「タスマニアの鱒」


〈ロンドン・レイクスの大鱒〉

 ロッジは丸太づくりのがっしりした山小屋風の大きな建物だった。表のドアには真鍮製の鱒が取りつけてある。ここがフィッシングロッジだということは誰の目にも明らかだ。
「ロンドン・レイクスへようこそ。さあ,なかに入って」
 オーナーのジェイソンが、日本からまっすぐここに向かってきた客をていねいに出迎えてくれた。
 玄関ホールはタータンチェック柄の赤い絨毯が一面にひかれていて、その奥には大きな暖炉が据えられていた。すぐに案内された部屋は、やはりタータンチェック柄のベッドカバーが掛けられたツインの部屋だった。

 僕はツインの部屋をあてがわれ、どうも落ち着かない。シングル料金しか取られないとわかっていても、空のベッドをもったいなく思ってしまう。そういうときは、ワンベッドの部屋に変えてほしいと頼むのだが、ここではそれは無理のようだった。5部屋ある客室はすべてツイン。つまりここに釣りに来て泊まれる客は10名で、湖での釣りも、その10名に限られる。料金はちょっとしたリゾートホテルの倍もしたが、1泊2日の食事と釣りガイド料も含まれているのだ。

 ディナーが始まるまで、僕は片方のベッドに寝ころんで休むことにした。長旅だった。日本を発ち約10時間、太平洋上を飛んでシドニーに着き、それから国内線に乗り継ぎ、メルボルンを経由してホバートに3時間半かかって着いた。空港ではトラブルが待っていた。預けた荷物がターンテーブルに出てこない。しばらく小さな空港をぶらついて荷物を待っていた。
 旅行バッグは、結局、1便後の飛行機に載せられていた。胸をなでおろし、空港でレンタカーを借りて、ロンドン・レイクスのある中央高原までの2時間半のドライブをこなしてきたのだった。

 長旅の疲れは、すでに麻痺していた。肉体は精神と微妙にずれた状態で、体がワンテンポ遅れてついてくる。僕はあやつり人形にでもなったような調子で、宙を浮きながらディナールームへ向かった。
 そこには、ダイニングテーブルに着いた3人の客が、白ワインを飲みながら話込んでいた。僕より20年は歳を取った男たちだった。空いた席に着くとワインを勧められ、見知らぬ者どうしの挨拶程度の自己紹介をした。

「初めてタスマニアに来ました。ここで釣りをするのが夢だったんです」
 僕は、少し嘘をついた。夢だったのは、むしろTのほうだ。いつしかTの夢が僕の夢になったのだ。
 これでグループに入る儀式は終わりだ。あとは、釣り談義に聞き入っていればいい。
 3人の内のひとり、スティーブはシドニーの弁護士で、よく喋った。先ほどから聞き入ってばかりの僕に、話の矛先を向けたのは彼だった。
「私は年間、50週間働いて、そして12月になるとタスマニアに来て1週間釣りをするんだ。釣りは人生の妙薬だよ。これなしにはとても生きられない。君は、日本でどんな釣りをしているのかね」
「釣りは久し振りです。それに、フライフィッシングは初めてで」
 自分がまったくのビギナーだということを言うのに、ためらいがあった。ロンドン・レイクスは世界中の腕自慢が集まる場所である。どこかの大統領がヘリでやって来て遊ぶ場所でもある。僕はそのロンドン・レイクスで、フライフィッシングを一から習おうと思ってやって来たのだ。たったの1泊2日だけど。
「ここではフライフィッシングが楽しめるよ。この釣りは、古典的な釣りだが、未来の釣りでもあるんだ。魚との知恵くらべで、とてもゲーム性の高い遊びだし、自然のことも理解せにゃならん。たぶん日本でも、これからフライフィッシングに興味を持つ人が増えてくると思うね」
 彼は紳士的に話し、素人を見下すような態度は微塵もなかった。まだ一度もフライの竿を振ったことがない僕は、黙って彼の意見にうなづいた。
 メイン・デッシュにチキンのパイ包みをたいらげ、舌がとろけそうな甘い苺ソースのケーキを食べて、ディナーが終わった。席を立ち、皆が暖炉の方へ集まったので後に続いた。3人のお客たちは、ビデオでアラスカのサーモン釣りに見入っていた。僕はコニャックをもらい、薪の爆ぜる炎を見つめていた。

 暖炉の炎がちらちら揺れ、いつもの場末の新宿のバーが目に浮かんだ。
 Tの声がした。
「そこは釣り師の夢の城だ」
 台詞が耳の奥に残った。
 コニャックの甘い酔いがまわり、宙に浮いたあやつり人形のようになって部屋へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 闇の中にいた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
 ベッドサイドのライトをつけ腕時計を見ると、午前3時きっかりを指していた。釣りに出かけるのは4時過ぎだ。僕は静かな興奮を抱きかかえたままベッドの中でまんじりともせず、時の過ぎるのを待っていた。

 Tがくれた釣り竿を握りしめ、胸まであるゴム製の長靴をだぶだぶ鳴らしながら、ガイドのクリスについて湖の岸辺を歩いていた。クリスは190センチはあろうかという大男で、そのうしろをゴム長を引きづりながら歩く自分が、まるで子供のように思えた。あたりはまだ薄暗く、タスマニアは12月の真夏だというのに少し肌寒かった。やがて森がひらけ、湖面が広がっている場所に出た。クリスが指さすほうを見ると、水面に波紋が残っていた。そしてまたその近くで鱒が跳ねた。大男は僕の頭の上のほうで、
「ライズ、ブラウントラウトだ」
 と小さな声で言った。

 羽化した水生昆虫を狙って、鱒が水面を割って飛び上がる。鱒はそうして虫を食べていた。その様をジャンプというではなく、ライズと言った。朝もやの中に姿を見せた鱒の黒いシルエットがくっきりと目に残った。
 ブラウントラウトだ!
 クリスが、後ろから僕の肩をとんとんと叩いて、竿をかざした。まずは自分が竿を振るのを見ててくれと言った。
 ヒュン、ヒューン、ヒューン
 竿の先から伸びた太いラインを、2度、3度、前後に振ると、竿のしなりでまるでムチのようにスルスルと飛んでいく。そのラインの先端に毛バリが付けてあり、数10メートル先に、本物の羽虫のようにひらりと落ちた。手品かなにかでも見ているようだった。あまりに華麗なその一連の動きが見事で美しかった。

 今度はこちらの番だ。しかし見るとやるとでは大違いだった。ムチのようにラインを振るタイミングがわからず、目の前の水面にラインと毛バリが絡まって落ちた。「最初はこんなもんだ」と呟いた。それから何十回と呟き、竿を振り続けた。そんな調子でもなんとか毛バリが前へ飛ぶようになった。
 湖を半周はしただろうか、もう昼間近かで午前中のレッスンは終わった。ブラウントラウトは一度も顔を見せてはくれなかった。ロッジに戻り、サンドイッチを頬張ると、右手の上腕筋にだるい痛みを感じた。それは昔、テニスをやり始めたころの痛みに似ていた。テニスのときもそうだったように、僕は早くプレイを再会したい気分で落ち着かないランチタイムを過ごした。

 午後の湖は、姿を変えていた。風がユーカリの木立を揺すり、湖面を波立たせた。水に浮く毛バリが見え隠れしていた。いつ鱒が飛び出すかしれない。ずっと目が毛バリを追っていた。場所を少し動き、毛バリを飛ばし、また見つめ続ける。そうした動作を何度も繰り返し、30分が過ぎ、1時間が過ぎ、頭の中に空白の状態が続いた。ときたま息が切れたように竿を小脇に抱え、煙草に火をつけた。そしてまた毛バリを見つめ続けた。目玉だけが毛バリを見つめているような不思議な感覚だった。僕は目玉になって、湖面に浮いた毛バリを見つめ続けた。

 突然、黒い影が、水の中から現れた。
 バシャ、バシャ、バシッ
 竿が弓になり、一瞬でぷつりと糸が切れ、毛バリごと魚は姿を消していた。手が震えていた。
「ここ何週間かで釣られている魚で、今のが一番大きかったと思うよ」
 クリスは、自分のことのように肩を落としてそう言った。
 そして、
「今逃げたブラウントラウトは、口に勲章を付けてるんだ。つまり君の毛バリが勲章なんだよ」
 と、付け加えた。
「毛バリが勲章か」
 僕はひとりごちて、湖の鱒が顔を出したあたりをしばらく眺めていた。さざ波を立てながら風が湖面を吹き抜けていった。

 ロッジに戻ると、オーナーの甥っこが、すぐに釣りの成果を聞いてきた。両手を広げて肩を上げて見せると、麻袋の中から立派な鱒をつかみ出して、目の前に突き出した。いぶし銀のような体色に,オレンジがかった黒い斑点が目立った。顔にはギョロリとした目玉があり,顎と口が猛禽類のくちばしのように突き出して先で曲がっていた。生まれて初めて見るその鱒は、獰猛でかつ知恵者という印象を与えた。60センチを超えるブラウントラウトだった。       
「初めて釣ったんだ」
 少年は瞳を輝かせ、満面に笑みがこぼれた。
 彼はハイスクールの夏休み中で、ロッジの手伝いをしながら、フライフィッシングをマスターしようとしていた。そして、9日目にやっとのことで一匹の鱒を釣り上げた。15歳の少年は、この先、ロックミュージックや女の子に夢中になるだろうが、フライフィッシングの聖域は侵されることなく人生に君臨し続けるだろう。

 僕がロンドン・レイクスで鱒に勲章を与えて、翌日からは高原に点在する湖を巡り、覚えたてのフライフィッシングで釣り歩いた。島には3000もの湖があると聞いていた。そのほとんどに鱒がいるということだった。
 鱒はいっこうに釣れてはくれなかった。夏だというのに、ハイランドの湖は小雪がちらつき寒い思いばかりしていた。だれもいない湖の岸に立ち、飽きもせず、ひとり竿を振り続けた。実のところ素人の自分に、はたして釣れるものかどうか、確信などなかった。ただ、釣れてくれるような気がして、その気分を楽しんでいたといったほうがいい。夜は湖畔のロッジで泥のように眠った。

 5日目の午後だった。湖というより大きな沼のような場所で、鱒が、僕の毛バリをくわえた。弾丸のように水中に潜ったかと思うと、次の瞬間、鱒は宙を跳ねた。野生の生命は数分の間、爆発したかのような活力を見せた。その動きに翻弄され、竿を持っているのが精一杯だ。それでもなんとか岸辺に寄せて、メジャーで計ると45センチほどのブラウントラウトだった。この土地では決して大物と呼べるサイズではなかったが、僕にとっては夢のような鱒だった。
 やっと釣れたこの鱒はビギナーズ・ラック、幸運の賜物だ。脳の中の、空白だった部分に、赤い血が一気に流れ込んだような新鮮な感触が味わえた。流れ込んだ血は、僕のなかでずっと眠っていた野性の血とでも呼べそうなものだった。
 僕は、足元に竿を置き、顔を赤く上気させて、冷たい水が打ち寄せる湖のふちにしばらく立ち尽くしていた。

                ○
 蒸気船のやさしい揺れが好きだった。フロントデッキの上で、しばらく僕は浅い眠りに落ちていたようだ。蒸気船は出航した河口の桟橋に向かって煙りを吐き続けていた。同じ川を逆戻りしているわけたが、景色は違って見えた。初めて歩く道で、行きと帰りがまったく違った道に見えて戸惑うことがよくある。川もまたひとつの道ということか。いづれにしても道に迷うわけでもなし、また違った景色が見られるのだから、そのほうが良かった。流れゆく世界をぼんやりと眺めて、水辺の風景を楽しんでいた。バターカップの黄色い小花が、土手の草原に点々と咲いていた。男の子がそのなかに腰掛けて釣り糸を垂らしていた。絵のなかのような、のどかな風景だった。

 デッキで風に吹かれ、沈黙のまま座りつづけている僕に、ピーター船長が話かけてきた。
「ホバートの街の前を流れるダーウェント川は見たかい。あの大きな川では、捕鯨が行われていたんだよ。海から上がってきたクジラの潮を吹く音で眠れないほどだったんだ」
 その話は、無口になっていた僕の気を充分に引きつける内容のものだった。
「クジラが見られるの?」
「もうずいぶん昔の話さ。クジラの潮吹きがうるさいってのは、タスマニアの初代総督が日記に書いていたものだよ」

 クジラの話は、150年も前のことだった。クジラが大挙して潮を吹き上げる姿がビジュアルになって、頭の中を悠然と泳いでいった。
 満月の夜、クジラたちが仲間どうし唄を歌い合いながら、湾からダーウェント川へクルーズするのだ。それは愛の歌といわれるが、どんな歌なのだろう。人間が聴いて、その旋律に心がときめくだろうか。その歌と、時折、吹き上げる潮の息が、植民地の港街に鳴り渡る。巨大な水の生き物の存在が、闇のなかで空気を伝ってやってくる。ベッドの中で息をひそめ、その音を聴くのだ。

 この土地の天気は変わりやすかった。1週間いつもそうだった。晴れのち、どりしゃぶり、ときに雪、そして虹という天気。気温も8度から20度まで上下した。にぎやかな天候に一喜一憂しつつ、それを旅として楽しんだ。豊かな雨が、森にしみ、湖に湧き、川となって流れ、大海へと続く。そこに鱒やサーモンやクジラたちが群れ泳ぐ。オーストラリア内陸の砂漠とはまったく異なる水の世界。タスマニアは、水の国だった。

 またもやポツリ、ポツリと大粒の水滴がデッキを打ちはじめ、やがて大粒のシャワーとなった。しばらく僕はデッキの上でそのまま雨に打たれ、水と遊んだ。川下の遙か上空には青空がのぞいていた。
 船室に入り、シャツを脱いで手すりに掛けた。ポタポタとしずくが木の床に落ち弾け、小さな水たまりを作っていた。やがて水滴の量が水たまりとなり、床の低い方へひと筋の線を描いて流れていった。僕は曇った眼鏡をバンダナで拭き、窓越しに川を眺めた。川いちめんに、雨が無数の波紋を打っていた。湿った冷たい風が、川面を渡っていった。蒸気船は相変わらずのマイペースで、白い煙りを吐きながら、水性動物のようにゆったりとヒューオン川を下っていった。

(1991年)


短編・釣り少年5(前編)

2011年01月03日 06時59分58秒 | 短編「釣り少年」
釣り少年その後・・・

「タスマニアの鱒」


 青空を映し込んだ川面を、蒸気船が、微かな流れに逆らって滑り出した。煙突から白いスチームをシュッーと吹き出し、漏れ出た息のような響きが、タスマニアの高い空に消えていった。ときおりくり返す船の吐息が、あたりの静けさをいっそう際立たせた。
 蒸気船は、全長32フィート、10メートルそこそこの大きさしかなかった。定員12名の小型船だ。川幅もさほどなく、穏やかな流れのヒューオン川を上り下りする観光船としては、おあつらえ向きのサイズだ。船体は、目につくところすべてが木製で、柔らかな感触を与えてくれる。

 オーストラリアの島で、南半球では12月のサマーシーズンなのに、客は僕ひとりだけだ。週末にはバカンス客でにぎわうのだろうけど。たったひとりの客でもこころ良く乗せてくれた船長に、感謝だった。

 ブラウンカラーの船体に、白ペンキで、レディ・テレサ号と書かれていた。
「テレサは妻の名前なんだ」
 舵を取りながらピーター船長が微笑む。
 乗船するとき、ボートハウスで見送ってくれたテレサ婦人は、素朴な美しさを秘めた人だった。その姿が、この蒸気船のイメージと重なった。
 ストライプ柄のオーバーオール姿の彼は、40歳を過ぎくらいで、色白でほっそりとしていた。蒸気船の船長というよりも、どちらかといえば教師かエンジニアといったタイプだ。
 
 ピーター船長が、船を持った経緯を教えてくれた。以前は、街で小さなレストランをやっていて、地元料理を家庭風の味付けで出してけっこう繁盛していたそうだ。その店を手放して、長年の計画だった蒸気船づくりに夢をかけた。そして丸2年を費やし、自宅の庭で巨大な模型でも作るかのように、この船を手作りで完成させた。木造の船体だけではなく、蒸気エンジンも手製なのだと言った。古いアメリカ製の図面から再現したエンジンは、1時間に25キロの薪を燃やして、8ノットのスピードが出せるという。ディーゼル・エンジンの性能とは比較にならないが、アンティーク・エンジンの復活は、ゆったりとした旧時代の乗り心地というものを味合わせてくれる。彼は庭先でコツコツと手仕事を続け、頭の中の蒸気船を現実のものにしたというわけだ。

 その蒸気エンジンは、操舵室のすぐ真下でメラメラと薪を燃焼し、シャフトを回す鋳物の塊だ。煙りと潤滑油の匂いが立ち込めるレディ・テレサ号の心臓部は、力強く回転し続けていた。

 薪で動く、こんなエンジンがよく作れたものだ・・・
 マシンというのは、こういう物のことだ。コンピュータ制御で動くエンジンなど、僕には理解の域を超えた代物で、無表情な金属製品にしか思えない。そこへいくと、この薪のエネルギーが動力に直結した運動のさまを見ていると、生き物に対するような感情さえ芽生えてくる。
 鋳物の固まりが、両腕を勢いよく振り回し続ける。
「いいぞ頑張れっ!」
 僕はスポーツ観戦客のように声を弾ませ、マシンに声援を送った。

            ○
「ビール飲まない? チーズと生牡蠣もあるけど」
 真上から船長の声が聞こえた。
 クーラーボックスの中でよく冷えたタスマニア産のドラフトビールが、舌に甘さの混じった苦みを残して喉へ流れた。
 デッキに出ると川の風がここち良く、手に持ったボトルに午後の日差しが反射して輝いた。ラベルには、すでに絶滅してしまったといわれているタスマニア狼の絵が描かれていた。タスマニア狼は、それでもまだ奥地に生きていると信じて疑わない人もいる島の野性をシンボル化した幻の獣だ。

 船長はラベルを指さして、
「一度だけ見たことがあるんだ。ただし博物館の剥製だけどね」
 と言って肩を落とした。
 彼はタスマニア狼を見るのが夢だが、この夢だけはまだ果たせないと言った。

 タスマニア狼は、カンガルー、ウォンバット、フクロギツネといった有袋類の仲間だ。お腹の袋で子どもを育てる動物たちは、このオーストラリアにしかいない。
 そのなかでも変わり種は、全身針だらけのボールのような生き物だった。ユーカリの森で、全身の刺を逆立ててうずくまっていた。半身を土にもぐらせておけば、硬く鋭い刺で身を守れるという防備の仕種だ。このハリモグラは、乳で子育てするのに子を卵で産む。その昔「子どもは卵で産みたいの」といった日本の女優のせりふを思い出した。それならハリモグラになるしかない。
 世界中にそんな生き物は、もう一種だけいる。ビーバーのような体にアヒルのようなくちばしをくっつけた動物、カモノハシだ。つまりタスマニアにはその両者がすんでいることになる。そのカモノハシは、湖の果てに小さく点のような姿で泳いでいるのを一度だけ見た。

 タスマニアは、オーストラリア大陸の右下にぶら下がったリンゴのような形をした島である。けれども北海道ぐらいの大きさがある。かつては開拓の島で、1800年代初頭に、オーストラリア本土から多くの人間が入植し、広大な原生林がヒツジの牧草地に変えられている。人間が来る以前は、もっと数多くの動物たちが生きていたことだろう。自然保護思想が先進国の良識として掲げられる時代となって、今では島の面積の5分の1が国立公園となっている。
 だが、残念ながらビールのボトルに姿をとどめるタスマニア狼は、開拓時代の乱獲と環境劣化という歴史のなかで消えてしまった。肉食獣の頂点にいた彼らは、有袋類の代表として犠牲になった。


〈釣りのチャンス〉

 レディ・テレサ号が、それまでの舵取りを変え、ゆっくりと停止した。そこは川が左に大きく蛇行していて、川幅も倍の広さになった場所だった。
「ここでサーモンを狙ってみよう。運がいいとヒットするんだが」
 船長はそう言って、船首へ行って錨を水の中に沈めた。それから釣り具を2セット用意し、一本を僕に差し出した。竿はルアー釣りのもで、餌は小魚に模した鉄製の疑似餌だ。サーモンはこれを弱った小魚と思って食らいつくという仕掛けだ。
 運がいいと釣れる、と言った船長の言葉が耳に残ったまま、僕はリールを巻いて糸をたぐり寄せていた。濃紺のとろりとした水の中はのぞくことがならず、はたして魚がいるのかどうか見当がつかないままで、ただ運を信じてルアーを泳がせていた。
 船長の言う運とは、まだサーモン釣りのシーズンではなく、ひょっとしたら釣れてくれるかもしれない、という意味だった。そうだと気づいたのは、結局、運がないという答えがでて竿をたたんでからだったが、釣れようが釣れまいが僕としてはどちらでもよかった。

 ピーター船長は、
「チャンスはまた来るよ」
 とだけ言った。
 チャンス。いい言葉だった。釣りのチャンス、旅のチャンス、人生のチャンス。この次がまたきっと来る。そう信じることができるかどうかがチャンスを掴む分かれ目となる。大切なのは自分の感覚をシャープにしておくこと。釣りで言えば針先に磨きをかけておくことだ。

                 ○

 そもそも僕がこのタスマニアに来た目的は、釣りをすることにあった。それまでまともに釣りをしたことのない人間が、釣りのために外国を旅するというのも妙な話だ。
 だが、この旅は、釣り好きのTという友人の話から始まったのだ。彼とはたまに場末のバーへ行き、旅と釣りの話を酒の肴にして飲んでいた。Tは海外へもたまに釣りに出かけている。彼の釣りはフライフィッシングというやつで、その釣りの話には、異国の人間模様や土地の料理、酒の話が絡まって飽きさせない。僕はウイスキーに酔い、釣りに酔う。
 そして、最後には決まって、
「フライってのは,魚との知恵くらべだな」と言う、そのせりふで僕の耳はピクリッと動く。
 僕はTの話に聞き入り、昆虫に模して作った毛バリで鱒を釣るそのフライフィッシングに興味を持った。イギリスで誕生したその釣りには、餌釣りにはない、さらなる遊びの世界が開けているような気がした。ただし、そこには気軽に手を出せない深みのようなものが感じられた。いつか、何かのタイミングで、僕もフライフィッシングをするかもしれないという漠然とした予感が、妙にこころに引っ掛かっていた。

 久し振りにTとカウンターに並んで酒を飲んでいた。
「タスマニアって知ってるか」
 Tが、唐突に言った。
「オーストラリアの島だろう」
「お前、動物詳しいよな。有袋類ってのもいるらしいぞ」
「知ってるさ。あの島には、独自に進化した動物がいっぱいいるよ」
「今年、そこへ行こうと思ってるんだが」

 Tは、タスマニアでブラウントラウトを釣るのが夢なのだと言った。タスマニアへ行く日本からの観光客はわずかなもので、オーストラリアのなかでも遠い地に数えられるらしい。ひと通り話し終えると、キャンパス地のバッグから“タスマニア釣り天国”というタイトルの入ったパンフレットを取り出して、僕に渡した。
「ロンドン・レイクス」という名のフィッシングロッジが案内されていた。釣り専用の湖が二つあり、ロッジに泊まってガイド付きで釣りを楽しむ。オーナーはフライフィッシング歴40年とあった。必要な道具もすべてが完備されている。釣れる魚は、ブラウントラウト。1880年代にイギリスから卵のまま帆船に乗せられ、はるばるとタスマニアにやって来た魚の末裔ということだった。島に隔離されたお陰で、いまではヨーロッパの在来種よりも原種に近いとある。つまり純潔種。犬でいえばさしずめ血統正しき名犬というところか。
 パンフレットには、ざっとそんな内容のことが書かれていた。イギリス人というのは、世界中から香辛料や紅茶だけでなく、ありとあらゆる生物標本や民芸品の数々を自国の博物館に収集してきた民族だが、一方では移住先に鱒の卵まで運ぶのだから、恐るべき執念の持ち主だ。ともかく、卵で大洋を渡ったその鱒が、とても崇高な魚のようにも感じた。

「よし、行こう。その鱒を見てみたい」
 グラスの残りを飲み乾して、僕は言った。
「今年の12月、向こうは夏だ」
 Tが言った。
 そして僕が、結局はひとりでその歴史的な鱒の末裔に会いにいくことになったのは5カ月後のことである。直前になってTはこの旅に出られなくなった。
「彼女に、子供ができたんだ」
 僕はおめでとうを言った。彼は照れと嬉しさの交じった顔を作って、大きく溜め息をついた。彼にとって間もなく結婚生活が始まることを意味していた。
 Tは、思いつきを軽く口走るタイプではない。口にしたことは守る男だった。その彼が自分から言い出した約束を果たせなくなったのが辛そうだった。延期という手もあったが、旅に出る時間と金を用意した後だった。
「旅はタイミングだ。今がお前のタイミングだぜ。俺も絶対に行くから、代わりに偵察して来てくれ」
 と言って、Tは、フライフィッシングの道具をワンセット、プレゼントしてくれた。竿のグリップに銀色のリールを取り付けて振る真似をしてみた。手首を軽く動かすだけで竿は意思を持つ生き物のようにぷるぷると震えた。リールを巻くと、かりかりと小気味よい音が薄暗いバーに響き渡った。


(つづく)

短編・釣り少年4

2010年12月30日 16時43分00秒 | 短編「釣り少年」
ダム湖の狸

 日曜日の朝の山陽線各駅停車は乗客もまばらで、どの席も好きに座ることができた。右手のボックスに座れば瀬戸内海の眺めが目に飛び込むのだが、秀紀は反対側の席に座り、山並みを眺めていた。足元にはクーラーボックスとナップサックを置き、窓辺に釣り竿の袋を立てかけていた。

 いくつか港町の駅を過ぎ、小さな駅で五十がらみの男が乗り込んできた。醤油でも引っかけたのか、やけに染みの目立つセーターによれよれの縞のズボンで、足元はこれまたずいぶん履きこんだようなオンボロの長靴だった。車内を物色するような目つきをしてのろのろ歩き、秀紀を目が合うと、ニタリ笑い、すぐ反対側のボックス席に座った。ポケットから煙草を取り出してマッチで火を着けると、黄色い歯を見せ、皺枯れ声で言った。

「坊主、何釣る気じゃ」
 いや、まあと秀紀が曖昧な返事をすると、男は勝手にしゃべり続けた。
「いまの季節はのう、あれじゃ、アイナメか。それともクロダイでも狙うんかあ。どこの磯に行くんなら。仏岩の手前の磯がよう釣れるで。わしゃ、あっこでゴッツイのを上げたばかりじゃけえの。うそじゃないでえ」
「そうですか」
「ほうよ、こがあなの」と言って男が両腕を広げた。

 軽く一メートルの幅があったが、それほど大きな魚ならヒラマサかスズキのはずだが、クロダイであれば大物といってもせいぜい五十センチがいいところで男の話はまったく矛盾していた。それでも秀紀は男に気をつかい、首をこくりと振って、「へー、すごいですね」と言った。
「坊主、どっから来たんや」
「市内です」
「わしも、よう行くで市内へ。広島の飲み屋にゃあええ女がおるけえのう。坊主にはまだいらん話かあ、はっはっは。ほいで今日は何を釣る気なんじゃ」
「ブラックバスです」
「何んじゃ、そりゃ」
「魚です」
「聞いたことないのう」
「海じゃなく、山にいるんです」
「山?」
「ダムにいるんです」
「そりゃコイの仲間か」
「いえ、アメリカの魚です」
「アメリカの魚? 阿呆かあ、何でアメ公の魚が」

 男はブツブツと何か口ごもってそれ切り何も言わなくなり、煙草を吹かして窓越しに海を眺めていた。そして何かを思い立ったように手を叩き、「世も末じゃのう」と言って次の駅で降りていった。

 秀紀はさらに駅を二つばかり通り越して、小さな町の駅で降りた。駅前に古びた食堂兼みやげ物屋があり、そこで菓子パンを三つ買い、店のおばさんにダムへ行くバスを尋ねた。ダム行きは一時間に一本ということで、あと三十分は来ないようだった。所在なく駅前をふらふら歩いて時間を潰していると、スーパーカブに乗った男が秀紀に向かって大声を出した。電車で会った男だった。

「おう、また会うたのお」男は旧友にでも再会したかのように破顔して、愛想のいい声でそう言った。
「さっき言うとった魚が、なんとかバス言うんがこの山のダムにおるんか」
「ええ、まあ」
「どうやってダムまで行くんじゃ」
「バスに乗って行きます」
「バスでバス釣りにか。おもろいのう」
「釣れるかどうかわかりません。初めて行くんですから」
「ほうか、まあ頑張れや」

 スーパーカブのエンジンをばりばり吹かして男が走り去った。妙な男に二度も会ったことで今日の釣りはボウズではないかという予感が胸をよぎったが、すぐに頭から振り払いバスを待った。

 ダム行きのバスに客はだれもいなかった。運転手のうぐうしろの席に座り、くねくね曲がる山路に揺られた。途中で老婆がひとり乗ってきて、ふたつ先の停留所で降りた。降りるときに、運転手に向かって「お世話さんじゃったの」と言った。

 バス停に髪の長い女の子が立っていた。歳は秀紀と同じくらいで、なかなかの美少女だった。少女はバスに乗ってはこなかった。老婆の孫娘だろうか。バス停まで向かえにきたのだろう。すぐにバスが走り出し、秀紀は窓から少女の顔をもう一度見て、彼女が自分のガールフレンドだったらいいのにと想った。

 いよいよ急坂になり、バスはギアを落としてエンジンを唸らせながら上っていった。乗客は自分ひとりで、何だか申し訳ないような気分になった。ダム前で、先ほどの老婆を真似て秀紀も「お世話になりました」と言って降りた。

 バス亭に、男が立っていた。
「おう、わしじゃ」
 その顔を見て、秀紀はドキッとした。
「バスいう魚が見とうなっての、来たんじゃ」
 男の言葉にうそはなさそうだった。
「はあ」
「アメ公の魚いうんが気になる。どうやってアメリカから、こがあな田舎に移ってきたんか。そいつがどんな面しとるんか見てみたいんでの」
「いや、ここのはたぶん芦ノ湖からのものです」
「芦ノ湖?」
「神奈川県の湖です。大正時代にアメリカから運んで放流されたそうです」
「何でそれがまたここにおる」
「たぶんですが、釣りマニアが勝手に放流したんだと思います」
「ほいじゃあ、汽車で神奈川から、うんこら運んだ馬鹿がおるんか」
「いや、ひょっとしたらそうかと」
「まあええ、早よ釣って見せえや」

 湖岸に降りる秀紀のうしろを男がついて歩いた。警戒心をほどいたわけではなかったが、秀紀は男の好きなようにさせておいた。自分も初めてブラックバス釣りをするのだ。釣り雑誌で見た情報を頼りに、このダム湖まで来たのである。

 プラスチック製のミミズを針につけていると、男が不思議そうな顔をして秀紀の手元を覗き込んだ。
「それが餌か?」
「ルアーというんです。疑似餌の一種です」
「けったいなもんじゃのう」
「ぼくも初めて使うんで、ほんとうに釣れるかどうか自信はありません」
「ええから、やってみい」
 男に催促され、秀紀はリールの糸を調節して、湖面に向かって力いっぱいルアーを飛ばした。湖面に落ちるとすぐにリールを巻いてルアーを引き寄せ、また投げた。

 秀紀のようすを見ていた男が、「またえらい忙しい釣りじゃのう。投げちゃ巻き、投げちゃ巻きをくりかえすんかあ」と言って顎を突き出し、説明を求める仕草をした。
「ルアーを生きているように泳がせて、それに魚が食い付くんです」
「おお、海でいうバケみたいなもんか」
「そんなもんです」
「じゃが、ちーとも釣れんのう」
 話かけられて釣りに集中できないからだと思ったが、秀紀は何も言わずルアーを投げた。「消えろ!」とこころで叫んだが、男は一向に立ち去る気配がない。
 それどころか、
「一匹、釣れたん見せてくれたら、百円やるで」と言った。

 秀紀は困り顔になり、場所を変えるために岸辺を歩き始めた。男も秀紀のあとをついてきた。十メートル歩けばそのぶん男も歩いて横に立つ。男はただただ魚を見てみたい一心なのだが、秀紀には迷惑な話だ。かといって十五歳の秀紀が、この得体の知れない男を追い払うだけの勇気もない。男はすこし頭がおかしいのかもしれない。秀紀は男を無視して釣りに集中した。

 そのうち男がぼそぼそとしゃべり始めた。
「わしゃあのう、見たことがあるんじゃ。ありゃ、天気のええ日でのう。東の空からブーンいう音が聞こえてきての、空で銀に光ってから、そしたらバーン、バーン、高射砲じゃいや。それが当ってのう。走って見にいったら、バラバラになった飛行機があった。食いもんでもなかろうか思うて、ほしたらの、アメ公がの血だらけになって転がっとったんじゃ。手足がバラバラでのう」

 声が聞こえなくなったと思ったら、うしろの男が消えていた。辺りを見回しても姿が見えなかった。
「釣れたら言いますから!」と大声を出して辺りを見回したが返事もない。だれもいないダム湖で急にこころ細くなり、道路の上がり口まで戻ってバス亭まで駆け出した。男が乗っていたスーパーカブがあったのを見て、湖岸までまた戻った。

 するとそこに男が立っていた。
「おう、クソひったんじゃ。腹がゆるうなっての」男が笑ってから、釣れたかと言った。
「バスは簡単には釣れんのです。釣れたら声出しますから、どっかで待っててください」
「なら、そうするわい」
「そうしてください」
 男が手にもっていた包みを突き出し、「握りめし食うか」と言うのを断わり、秀紀は足早に岸へと降りていった。

 とんだ男につかまったと秀紀はほぞを噛んだ。ブラックバスを釣りに来たのに滅茶苦茶な気分だった。何としてでも一匹釣らねば気がおさまらない。力をこめてルアーを投げ、糸を巻き、手先に神経を集中させた。

 それから一時間はたっただろうか、コツンと当りがあった。竿を合わせると竿先に電流が走った。水中で何か重いものがノタ打った。コイの感触とちがう重さだった。
 釣れた! 
 大声を上げ、岸にたぐり寄せた獲物は、三十センチを超えたブラックバスだった。
 釣れたぞ!
 さらに大声を出した。今度は男を呼ぶためだった。

 だが、どこからも男の返事はなかった。また野糞か。肝心なときには出てこない男に秀紀は苛立ちを覚えた。しばらくたっても姿を現わさない男を諦め、獲物をクーラーボックスに入れて、また釣りを再開した。いましがた味わった釣りの興奮が、次の獲物へと駆り立てていた。勢いよくルアーを投げては繰り返し、どんどん岸を移動して釣り歩いた。

 それからまた二時間ほどそうしていただろうか、当りはまったくこなかった。湖面は日に隠れ、青から黒い水面に変化していた。秀紀は、ふと男を思い出し、「おーい、釣れたよー」と声を張り上げた。突然、男が現われる気がしたが、やはり姿どころか気配すらなかった。きっと用でも思い出して帰ったのだろう。そう思うと、魚を自慢する相手がいなくなってつまらなくなった。釣りというものは自己満足だけでは満たされない心理がある。たとえあんなわけのわからない男にでも、褒めてもらいたいと秀紀は思った。

 獲物が入ったクーラーボックスの蓋を開けた秀紀が目を剥いた。ブラックバスがいるはずだった。箱のなかは、も抜けの空になっていた。とっさに思いがよぎった。
 盗みやがった! 
 秀紀は気が狂ったように辺りを駆けまわり男を探した。男を見つけたら殴りかからんばかりの勢いだ。バス亭まで行くと、スーパーカブがまだそこにあった。
「馬鹿やろう! 出て来い!」
 それからしばらく声を上げても、どこからも男は現われなかった。

 日も暮れかけ、バス停で最終便を待った。二十分ほどして、うす暗い山道からライトを照らしたバスが下りて来た。車内灯がついていて中が見え、数人の乗客の姿があった。扉が開くと、その中のひとりが降りてきたのを見て、秀紀が目を丸くした。
「バス乗りとうなっての、うえの村まで行ってきたんじゃ」
「はあ」
「ほんで、釣れたんかアメ公のバスは」
「消えました」
「消えた?」
「ええ」
「そりゃ狸でも出たんかのう」

 バスの運転手がクラクションを鳴らせて乗車を催促したので、秀紀は慌てて飛び乗り、窓から男の顔を見た。男は何とも奇妙な愛想笑いとも何とも言えない表情を見せ、夕闇のなかに消えていった。
 男はズタ袋のなかの魚をちらっと見て、
「わしがその狸じゃがの」と言った。
 その夜、男は七輪でブラックバスをこんがり焼き、それを肴に焼酎をたっぷり飲み、上機嫌でふとんにもぐり込んだのだった。


短編・釣り少年3

2010年12月26日 00時39分31秒 | 短編「釣り少年」
婆の池

 あした行ってみるか、と和己が言った。
 独り言だ。
 土間の隅の炉で薪がパチパチとはぜる音がしていた。土間に続いて板間があり、秀紀は上がりがまちにちょこんと座っていた。煙があたりを燻し、秀紀が目をしばたかせた。
 もう一度、和己が秀紀の顔を見て言った。
「田植えもすんだけえの、あした婆の池へ鯉釣りに行くか」
 それから消防団の服を脱いで鴨居に掛け、濃紺のジャージ姿になった。柱時計の針が六時を差していた。
 ゴーン、ゴーンと、
 時計が鳴った。
 板間の食卓に皿が並び、芋の煮たのや、鯖の焼いたのがあった。白菜の漬物と野菜の煮物が山盛り出た。汁の具は大根だった。和己はそれらを飯といっしょに食べ、最後に茶碗に番茶を入れて、残っためし粒を箸を鳴らせてかき込んだ。爺さん、婆さんは、ゆっくりと食べていた。秀紀は和己に次いで食べ終えた。

「明日は朝早いで、山歩くけえのう」和己が番茶を飲みながら言った。
「遠いん?」秀紀が湯のみをふうふう吹くのをやめて聞いた。
「そりゃあ、遠いよの。婆の池じゃけえのう」
「どんくらい?」
「えっとえっと山歩いて、昼までには着く」
 そう聞くと、秀紀の胸が高鳴った。
「おじちゃん。わし早う起きる」
 婆さんが、握り飯をつくってやるから池に着いたら食べろと言った。爺さんが遠足じゃのう、と笑った。秀紀にとっては遠足どころではなかった。婆の池はかれにとって幻の池だった。親戚の家がある広島郊外のこの田舎に遊びに来ていて、物心ついた頃から話に聞いていた池である。ふだん誰もそんな山奥の池に行く者などおらず、足腰の達者な者でなければ行き着けぬ場所だった。
「明日の晩飯は鯉の洗いじゃ。おおけえのを釣って来たらあ」
 和己が威勢よく言うと、爺さんが膝をさすりながら、楽しみなことじゃと答えた。
 
 布団に入っても、秀紀はなかなか寝付けなかった。目をつむっても、頭がはっきりしてまぶたの奥に山の向こうの谷間に青あおとした水をたたえる池がみえた。水の底に自分より大きな鯉が沈んでいる。竿を握り、大鯉と引き合う。そんなことになったらどうなる。自分に釣れるだろうか。そう想うとまた興奮して眠れなくなるばかりだった。
 番茶を飲みすぎたせいだろう、布団の中で秀紀はブルッと身体を震わせ、我慢しきれなくなった表の便所小屋に立った。目の前の田んぼから蛙の大合奏が鳴り響いている。秀紀は蛙の声が好きだ。便所を出て、田んぼの端に立って音に耳を傾けた。ふだん、真夜中にひとりで表にいることなど恐くてできなかったが、その夜はちがった。明日、婆の池に行けることに胸が高鳴り、闇の恐さを忘れさせていた。

 空には満天の星がきらめき、ぱちくり、ぱちくり、瞬きする星ぼしを眺めた。流れ星が斜めにつーっと落ちていった。家のなかから声がした。「早う寝んとおいてくで」和己の声だった。秀紀はあわてて家に入り、布団にもぐり目を閉じた。
 枕元でラジオを聴いていた爺さんに、婆さんが話しかけた。
「婆の池、大丈夫かねえ」
「和己がいっしょなら平気じゃろう」
「あそこはもう、長いこと行っとらんから」
「行っとらんのう」
「昔のことじゃ」
「うちはいまだにいびせえ」
「迷信よの」
 爺さんはそれっきり黙り、ラジオのスイッチを切って布団に入った。婆さんが電球の首を捻り、明りを落とすと、黒塗りの仏壇が闇にとけ込んで消えた。

 鶏小屋から朝一番の雄鶏の鳴き声が響いても、秀紀はまだ夢のなかにいた。和己がその顔を覗き込み、起すのをやめようかと考えたが、肩をゆすって声をかけた。
「おい、行くで」
「婆の池!」がばりと秀紀が起き上がり、大声を出した。
「早よう着替えにゃ、おいてくで」
 外はまだうす暗く、草が朝つゆに濡れていた。山影はさらに暗く、目が慣れるまでにしばらくかかった。細い土道が少しずつ勾配を増していった。秀紀はズックの紐を強く縛っていたせいで、山道を少し歩いただけで足の甲がひりひり痛んだ。痛みをこらえてそのまま歩き続けた。栗林をすぎ、杉の森を抜けると、登りがいよいよきつくなった。そこからは山仕事のための斜面の小道だ。二百メートルほどの登りだが、秀紀の足にはきつい勾配だった。ひいひい言いながら登っている秀紀をみて、和己が竿と釣り道具を草に降ろし、ちょっと休むかと言った。それから水筒の番茶を秀紀に飲ませた。
「あと少し登りゃ、尾根じゃ。そっから峰を歩いてあとは下りになる」
 尾根というのがまずは目標だということが秀紀にもわかった。靴紐を結び直すと甲が楽になった。東の山の上に太陽が顔を出し、しだいに斜面が明るくなった。残りの斜面を登っている間に気温が上がり、汗が吹き出した。尾根に登り着いたときにはシャツが汗まみれになった。健脚の和己には何でもない登りだったが、秀紀にとってはまったくの登山だった。

 登って来た方角に目をやると、高さが実感できた。林の向こうに豆つぶのように小さく家が見えた。さらにその先の山々を眺めたが、広島の街までは見えなかった。
「ええ眺めじゃねえ」
「ほうよ、山仕事しとりゃ、毎日眺めるんじゃ。めしが旨いで」
「うん。弁当あるけえ」
「腹へったんじゃろう。もうちょっと我慢しとれ。婆の池で食おう」
 和己はそう言って峰の道をどんどん歩き出した。道に生えた草の丈で、和己の姿が見え隠れした。秀紀は遅れをとるまいと必死で追いかけた。
 太い赤松の下で和己が煙草を吹かして待っていた。あたりに草いきれが漂い、胸がむせるような気分になった。松の落ち葉から線香のような匂いがした。
「ほれ、下を見てみいや。あれが婆の池じゃ」
 赤松の崖下に顔をのぞけると、谷底に青い水をたたえた池がみえた。

            ○○○
 重りを付けた釣り糸がするすると水面に沈んでいった。やがて浮きがぷくりと立って水面で揺れた。グラス製の延べ竿は、秀紀が小川でハヤ釣りに使う竹竿の何倍の長さがあった。餌はサツマ芋を練ったものだ。和己は指についた芋をズボンの裾で拭き、握り飯をほおばった。秀紀にはいまにも魚が食い付いてくるものと思え、のんびり構えている和己のようすを見て気がきではなかった。
「おじちゃん! 浮きが動いた」
「風じゃ。鯉はの、長帳場じゃけえ気長に待つんよの」

 じっと浮きを眺めていた秀紀は、それに飽きて池のほとりを歩きまわった。釣り糸を垂れているところは山側に面しており、岸がすとんと落ち込んだ深い場所だった。緑色の水面をのぞき込んでも、どのくらい深いのか、秀紀には見当もつかなかった。
 半周すれば向こう岸は草原になり、そちらは風景が開けていた。対岸まで直線にして五十メートルほどだろうか。池は明治時代の末に灌漑用に谷を塞き止めて造られたものである。鯉は水質管理のために放流されていた。鯉が浮けば、水に異変が起ったことがわかる。人工の池だが、秀紀の目には太古から水をたたえる池に思えた。
 対岸で釣り糸を垂れる和己の姿のほかに誰もいない。ときおり風がさーっと吹き抜けると、水面にさざ波が立った。風がやむと、池がまた静まりかえった。対岸で釣り糸を垂らす和己も人形のように動かなかった。

 秀紀は池から離れ、草っぱらで遊んだ。木切れで草を叩いてみたり、跳ね飛ぶバッタを追ってみたりしたが、それにも飽きて和己のもとに戻った。
「おじちゃん、釣れた?」
「当らんのう」
「まだ釣るん?」
「おお、もうちょいのう」
 竿を上げると、芋が水に溶けて半分になっていた。指でこねた芋を付け変え、ぽちゃりと水に落とした。
「おじちゃん、何でここ婆の池いうん?」
「そりゃあのう、昔ここに婆がおったけえじゃ」
「婆が住んどったんね」
「ほうよ」
「大きい鯉がおるん?」
「昔はよう釣れたんじゃ」
 なぜ今は釣れないのかという質問を秀紀はしなかった。今にも釣れるかもしれなかった。鯉の姿をみてみたかった。
 和己は婆の池のいわれをきちんとしゃべらなかった。和己にしたところで、すすんでしゃべりたい話ではなかった。

              ○○○
 昭和初めの頃の話である。池のほとりの小屋にトキという名の老女が住んでいた。こんな山ん中でどうやって暮らしをたてているのか誰も知らなかった。だから村人はトキのことを山乞食と呼んでいだ。老女の好物は池の鯉だった。山の水で育った鯉は臭みがなく、刺身で食っても旨かった。村の若い衆がたまに鯉を捕りにくると、トキはそれを嫌った。ここの鯉は自分のものだという気分があった。
 あるとき、若者が池にはまって溺れ死ぬ事故が起った。村人のなかには、トキが突き落としたのだと言うものがあった。以来、だれも鯉を捕らなくなったが、やがてそんな話も昔ごととなり、時代が変わってまた釣り人の姿がみられるようになった。身の締まった味のいい鯉がよく釣れた。
 村の法事の席で池の話が出て、古老がトキの話をした。
「婆はのう、流れ者と一緒にきたんじゃ。どっから来たんかはわからん。いつのころからか山の中に住んでおっての。連れの男が死んでから、男を食うた言う噂も流れての。鯉の腹に歯を当てて、わしの鯉じゃあ言うてから、そりゃあ恐ろしい眼で追いかけてくるんじゃから、誰も怖がって近づかんでえ」

 和己がその話を耳にして、もう何年も経っている。鯉が釣れない池は、静まりかえった水面でしかなかった。
「釣れんのお。明るいうちに帰るか」和己はそう言い、池を眺めて竿を畳んだ。
 秀紀はすっかり退屈していたから、うん、と返事して山の道を駆け登った。
「おい、急ぐこたあない」
 突然、秀紀が走り出したことで、和己は急に心細くなり、そんな自分が可笑しくなって空笑いをした。
 上りの山道、和己は背を押されるように勢いづいて登った。和己を追う秀紀はハアハア息を吐きながら山を登った。尾根にたどり着き、眼下の池を眺めてひと息ついた。
 和己が煙草を出して火を着けていると、秀紀がぼそりと言った。
「ぼくが池の反対で遊んどったらね、釣りしようるおじちゃんの横に立っとったんよ」
「え? 誰がな」
「婆ちゃん」
「何を言うんか!」
 和己が怒鳴り、尾根道を走り出した。つられて秀紀も転がるように追いかけた。秀紀は何が何だかさっぱりわからないまま、ただ夢中で和己を追いかけた。その姿はまるで山腹を駆ける親子の猪だった。
 池のほとりには、実がこぼれんばかりの赤い蛇苺が、誰に摘まれることもなく草っぱら一面にあった。蛇苺は、ヘビが食べる毒イチゴだと言われるが、それはまったくの迷信だそうである。


短編・釣り少年2

2010年12月18日 12時50分15秒 | 短編「釣り少年」
 滝の下

西瓜を縁側でふたりして食べた後、幸夫が針をどうやって作るのか、秀紀は興味津々だった。鶏小屋の横の納屋に入り、工具箱を探して底のほうから錆びた細い釘を見つけた。釘の先をペンチでコの字に折曲げ、金槌で叩いて整形し、それからヤスリをかけて先を尖らせた。釣り針にしては歪なかたちだったが、それでも針先は鋭く、指に当るとぷすりと突き刺さりそうになった。
「ユキちゃん、すごいね」
「こんなん何でもない」
「いつもこれで釣るん?」
「田舎じゃけえ、針なんか売っとらんよ」

県道脇の雑貨屋には、子ども用の釣り具セットが売られているのを秀紀は知っていたが、そのことは黙っていた。去年の夏休みに祖母にねだってセットを買ってもらったのだ。きっと幸夫は買ってもらえないのだと、秀紀は思った。都会っ子の自分と幸夫とは、どこか育ち方がちがう。農村の子どもの遊びは手づくりが当り前だということを理解していたわけではなかったが、漠然とちがうとだけ感じた。秀紀は夏休みになると広島市内からひと山越えた祖母の住むこの田舎に来て、同歳の幸夫と毎日のように遊んでいた。

幸夫がふたつの針を作り、凧糸に括りつけた。それをポケットに突っ込み、手にバケツをもって谷川に出かけた。幅が五メートルほどの流れで、田や林のなかをくねくねと曲がりくねって、ところどころに淵をつくり、子どもが遊ぶにはなかなかに変化に富んだ川だった。秀紀はいつも網をもってハヤをすくうのだが、幸夫に頼んで釣りをすることになったのだ。

ポケットから小刀を出した幸夫が、山の斜面に生えていた篠竹を切って竿を作った。その先に凧糸と針を括りつけ、ミミズを針につけて川に投げ入れた。
「ここはの、アカンバツが釣れるんよ」
「それ、どんな魚?」
「腹が赤いんじゃ」
「珍しいの?」
「特別じゃ」

ほどなく、幸夫が一匹釣り上げた。ハヤとはどこかちがった腹の赤い魚だった。バケツに入れると、ブリキの底でくるくると泳ぎまわった。
「きれいな魚じゃねえ」
「ヒデちゃんも釣りんちゃい」

幸夫を真似て、岩の横の深みに竿を降ろすが、いくら待っても当りがこなかった。我慢できなくなって竿を上げると、ミミズが消えていた。空缶に入れたミミズをつまみ出して針に刺した。ミミズが縞模様の体をくねらせた。ふだんは素手でミミズを掴むことなど秀紀には気持ち悪くてできないのに、釣りではそれができた。
「あのな、ピクッと当りがあったら、サッと竿を上げんと釣れん」
「うん、わかった。こうでしょ」
「そうそう」
 また、幸夫が一匹上げた。今度のはふつうのハヤだった。
「ユキちゃん上手じゃ」
「ヒデちゃんも釣れるよ」幸夫に励まされるが、まったく釣れる気配がなかった。

清流が心地よい瀬音を響かせ続けた。釣り糸を垂れているより、そこに入って遊びたくなった。秀紀は運動靴を脱いで足を浸け、ジャブジャブと水を跳ね上げて川を歩いた。
「川に入ったら魚が逃げるじゃないか」たしなめるような口ぶりで幸夫が言った。
「ぜんぜん釣れんけえ、こっちのほうが面白い」
 幸夫がふくれ面で、竿を上げて川上に移動した。秀紀はそのまま川のなかで水遊びに興じたが、ひとりで遊んでいるのに飽き、また幸夫の姿を探した。
「ヒデちゃんが川に入ったけえ、魚が釣れんようになったんじゃ」
「川で遊ぼうや」
「釣りしたい言うたん、ヒデちゃんで」
「もうええよ」
「なら、滝へ行こうか」

滝はそこから百メートルほど川上にあった。三メートルほどの落差だが、子どもの目には立派な滝だった。川底に降りると、水飛沫で涼しかった。鼻にツンと青い水の匂いがした。水をかけ合い、びしょ濡れになって遊んだ。

日が西の山に傾き、辺りの木々でヒグラシが鳴きだした。カナカナカナと寂しげに鳴くその声が、夕暮れを告げていた。そろそろ帰ろうと、幸夫が言った。
バケツの赤い魚を見つめていた秀紀が、
「ほんもんの針じゃったら釣れるんじゃ」と、ぼそり言った。
幸夫は何も言わず秀紀を見つめていた。
「ヒデちゃんに、アカンバツやるよ」
「いらん」
「ばか」
「ばかは、そちじゃ」
 ふたりは滝の下で掴み合った。幸夫が突き返すと、秀紀が腰まで水に浸かった。
「おまえが悪いんじゃ!」と幸夫が声を上げた。
「もう、ユキちゃんと遊ばん!」
「わしも遊ばんわい」
「忘れんなよ」
「忘れん!」

幸夫がバケツを頭の上にかざし、アカンバツを滝の淵に投げ入れた。そのまま土手を駆け上がり、林の向こうに走って消えた。林が夕日で赤く染まっていた。カナカナカナと、ヒグラシの声が鳴り続け、秀紀の耳のなかで共鳴していた。身を固めじっと動かず、声を聴いた。

突然、水の音が大音響となって頭から降ってきた。辺りの景色がちがうものに変わっていた。

秀紀は何もかもが物悲しくなり、幸夫が作ってくれた竿をその場に置いて祖母の家に帰った。びしょ濡れで戻った秀紀をみて祖母がどうしたのかと問うたが、秀紀は川で転んだとだけ言った。

翌日、幸夫の家の前まで行ってはみたものの、昨日のケンカが目に浮かび、また祖母の家に帰り庭で遊んだ。祖母が危ないからやめろと言うのも聞かず、サルスベリの木を登り降りした。それにも飽きると、納屋から鍬を出してきて庭に穴を掘った。庭が穴だらけになった。そこに今度は井戸からバケツで水を汲んできてぶちまけた。祖母がそのひとつに足を落として草履が濡れた。

夕方になると父親の正紀が迎えに来て、番茶を一杯飲んでから秀紀を車に乗せ、広島市内の自宅へと向かった。道に出た祖母が手を振った。車が加速すると、やがて祖母の姿が見えなくなった。悲しみが一気に込み上げて秀紀は泣いた。

正紀が、「おまえがいい子になれば、また連れてきてやる」と言った。秀紀はしゃくり上げながら、何度も何度もかぶりを振り、また泣いた。

日の落ちた山道は漆黒の闇に包まれ、車のライトが行く先の砂利道を照らしていた。峠に差しかかると、広島の街が星屑のようにまたたいていた。正紀が一瞬、車を止め、「奇麗じゃのう」と言って、ため息を吐いた。

滝の下でケンカ別れしてから二年後に、幸夫が入院した。白血病だった。伯父の和己が血液型が同じで輸血したという話を父母がしているのを聞き、それから間もなくして亡くなったことを知った。
「中学に上がる前にのう。かわいそうなことじゃ」と正紀が言った。「おまえも仲よう遊んでもろうたのに」

秀紀は「うん」とだけ返事して何も言わなかった。幸夫と絶交したままになったことなど話せなかった。幸夫との釣りは、あれが一度だけだった。秀紀にとってあの四年生の夏休みは滝の下で終わり、忘れることのない釣りとなった。


短編・釣り少年1

2010年12月11日 21時08分46秒 | 短編「釣り少年」


天満川の針

三角州にできた広島には市内を通って瀬戸内海に流れ込む川が六本ある。市内の西側を流れる天満川はそのひとつだ。幅は五十メートルそこそこ。満潮時は青青とした水をたたえて滔々と流れゆくが、干潮ともなると向こう岸まで子どもでも歩いて渡れる程度で、海と連動した干満がひねもす変わりゆく川の風景である。

さて、海から三キロほど遡った天満川の橋のたもとに、今はもうないが、ふりかけ工場があった。工場から川に向けて突き出した管から音を立てて流れ落ちるのは、ふりかけ入りの排水である。夕方近くになると勢いよくほとばしるから、おそらく一日の仕事を終えて製造機械を洗浄した水なのであろう。その茶色い水が降り注がれると、あたりにふりかけの匂いが漂う。匂いでめしが食えるくらいのものである。夕まずめ、ふりかけ水がボラ、ウグイのたぐいを集め、橋の下はまるで釣り堀のごこきだ。近所の釣り好きは日暮れ前、竿をかついで橋に集まる。

ここの魚らは、しこたまふりかけを食っているから餌には飛びつかない。では、どうやって釣るのというのかといえば引っかけるのである。三つ股に反り返った大針を橋の上から垂らし、群れる魚の腹にしゃくって引っかける。この釣り方をそのものズバリ、「ひっかけ」と呼んでいた。

言ってしまえばしごく簡単な釣りではあるが、これが言うほどには易しくない。ボラのまるい腹に、そう簡単には針が食い込まないのだ。大人といえども、腕のいい者にしか引っかからず、中学生あたりでこれをこなす者は釣り名人とされていた。

小学生の秀紀が、近所の釣り道具屋で三つ股の針一本三十円を手に入れて、この釣りに挑戦したのが三年生のときである。節を落とした一本通しの竹竿は八十円。合わせて百十円は月のこづかいの半分近く、かなりの出費だ。しかし、それだけの金をかける価値があった。

「ウグイはどうもならんが、ボラはの、臭い言うが身は旨いんじゃ。卵巣はカラスミ言うて高級珍味じゃけえの」
橋の上で大人たちがそう話しているのを耳にしていた。

以来、秀紀はそのボラを釣ってみたくて仕方がない。橋のたもとには小さな公園があり、よく遊んでいた。ビー玉、めんこ、鬼ごっこと一通り遊んだ夕方、橋に大人たちが集まってくると、そばに近づいて「ひっかけ」を見物していたのである。

一応の道具が揃ったある日のこと。大人たちにまざって橋に立ち、川を覗き込んだ。橋げたに水流が逆巻き、無数の魚が群れ泳いでいる。なかには自分の片腕より大きいのがいて、たぶんあれがボラだろうと察しがついた。

それを目がけて、秀紀が針のついた糸をするすると降ろす。だが、風に吹かれた針が川下に飛んで川面に落ちない。竿を伸ばしても針は宙を漂うばかりだ。何度試しても結果は同じだった。

となりで釣っている三十がらみの男は、秀紀の竿を邪魔そうにして睨むだけで、指南する気配もみせない。そのうち、「坊主、あっち行っとけ」と舌打ちする。鼠色の作業服を着た男はおそらく近所の工場勤めであろう。

「ひっかけ」は、針の下に大きな重りをつけているのだ。すとんと真下に落として垂直に引き上げて引っかけるのである。秀紀の仕掛けには重りがついていないから針が風に飛ばされるのだが、子どもの知恵はそれに思い至らない。

 そのうち、男がエイッと声を上げ、弧を描いた竿が空に反り返って見事な大物を釣り上げた。橋の上で魚がぴちぴち跳ねると、銀色に光るうろこがあたりに飛び散った。男が道具箱から赤錆びた出刃を取り出し、刃の背で魚の頭を殴りつけたが、ますます暴れだしたので、今度は出刃の先でエラをひと突きした。ドス黒い血が溢れ出し、コンクリート面にふつふつと泡溜まり、尾をぴりぴりと震わせ、やがて動かなくなった。魚の生臭さと血の匂いがあたりに漂っていた。

男は竿を上げたり下げたりして釣りに夢中だった。秀紀は動かなくなったボラをじっとみていた。大きな目玉が血で赤く染まっていた。男が場所を移動しようとして魚を無造作に足で蹴った。するとまたぴりりと尾を震わせて、左右に二度ばかり身を折曲げた。このとき秀紀は魚というものが声を出さないのだと知った。叩かれようが、突かれようが、蹴られようが、うんともすんとも言わないものだと思った。

男が、そのとなりの同年配の男と話をしていた。その男も鼠色の作業服だった。
「おい、そろそろやめてパチンコ行かんか」
「ええのう、じゃあ、もう一匹引っかけたら行こうか」
「よし、先に捕ったほうが勝ちで。ビール一本賭けじゃ」
「何を抜かすか。わしの勝ちよの」

二人の男が橋の上から身を乗り出し、竿を降りかざした。手首に神経を集中させて竿をくいっ、くいっと上下させているうちに、秀紀の横の男が、「ほら、見てみいや」と大きな声を出して竿の手元に力をこめた。「わしの勝ちじゃ」と自慢げな声とともに魚を引き上げた。

向こうの男が「ウグイじゃないか。まだ勝負はついとらん」と怒鳴った。
こちらの男が「何が、ボラでもウグイでも先に上げたほうが勝ちじゃ」と言い返した。
「ボラじゃ言うたろうが」
「言うとるかい」冗談まじりの声に、どこかとげがあった。「おう、またすぐ釣ったるわい。見とれ」

また、競争が始まった。橋のたもとの水銀灯に灯がともったが、辺りはまだ薄明るかった。もうそろそろ家に帰らねばと秀紀は思ったが、その場を離れられなかった。勝負の決着を知りたいのは子どもとて同じである。

男が、「悪いのう」と言って竿を引いた。弓なりを強引にしゃくり上げ、足元に大きなな魚が跳ねた。最初に釣ったのよりも一回り大きなボラだった。
「やっぱり、わしの勝ちよの、ヘッヘッ」
そう言って、腹にくい込んだ三つ股の針に手をかけると、魚がもんどり打った。その拍子に、針が男の指に刺さった。あたたた、と声を上げ、魚を片方の手で魚を押さえた。「なんじゃ、こいつ逆らうか」と舌打ちして、また、あたたたと叫んだ。
「嘘のバチが当ったろうが」と、向こうの男が笑った。
「阿呆、早う針抜いてくれ!」
「ええ気味じゃ。わしゃお先にパチンコ行くで」
「おどれ、殴られたいんか、あたたた」

中腰になった男が大きなボラを両手で押さえ、泣きそうな声を出した。その度に魚が身をくねらせ、針がますます男の指に食い込んだ。泣きそうな顔の男が一変して、秀紀を睨んだ。
「われ、なに見とるんじゃ!」
夕闇のなかでそれが鬼のような顔に見えた。こんなに恐ろしい人間の顔を見たことがなかった。もう、あとも見ずに家に飛んで帰った。

秀紀はそれ以来、餌でハゼを釣ることはあっても、橋の上でボラやウグイを引っかけようとはしなかった。あれは釣りではない。大人がやる博打のような遊びなのだと思った。三つ股針は道具箱の底で赤く錆び、もう誰に使われることもなかった。