『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

短編「緑蛇」

2014年04月06日 19時55分37秒 | 短編エトセトラ
久々の短編です。お好きな方は、どうぞ。


『緑蛇』

 教授は、先ほどから気づいていた。だが、それがどのような現象なのか、にわかに結論が出せないでいた。モシカシタラそれがソウなのかもしれないのだが。まさか。文献の中で読み知っただけの、世界でも数例しか報告のない現象である。教授は、微かな興奮を覚えた。

また、モシカシタラと繰り返した。
「きみ、ではオクノさん、隣の資料庫へ案内しましょう。おもしろいものがあるから」
「先生どんな」
「古代エジプトで使われていた狩猟方法なのですが、三本の槍を使った獲物の捉え方の資料ですよ」
 扉の中へ入り、教授がスチール製の書庫の鍵を開けた。革で装丁された一抱えもある本を抜いて架台に置き、付箋をしたページを開いた。
 右ページにラテン文字がずらずら並び、左ページは緻密な線で描かれた彩色の銅版画だ。絵は鋼のような上半身を剥き出しにした男が片手に細い三本の槍を構え、岩場に立つ鹿を狙う姿。次のページには、鹿の首にその三本の槍を押し当てている光景。
「この狩猟法は、相手を苦しめないのです。槍の先に塗られた毒が痛みを麻痺させて」
「なんの毒なのですか」
「蛇です」
「どんな」
「コブラ科の神経毒ですが、その蛇は非常に珍しくて近代では発見されていない。こうして資料があるだけです」

 本には、三本の槍を持つ男の絵とは別に、赤ん坊の小指の先ほどの細く淡い緑色をした蛇が描かれていた。
 オクノは、およそ世界中にいる動物のなかでも、蛇が最も苦手だった。足が無いからだが、ミミズは触ることが出来たから、ただ足が無いということだけが理由とも言えなかった。

「古代の人間は、他の生き物にも敬意を払うのが仕来りでしたから。獲物といえ、痛みを与えないようにしました。三本の槍の先に毒を塗っていますが、最初の槍には薄めた毒を塗り、次のは少し濃い毒を塗り、最後の槍に猛毒を塗って、じょじょに弱らせて眠るように死なせたのです」

 銅版画の鹿は、うつろな目をして宙を見上げていた。今起こっていることは自分とは無関係のことであるかのような目。
 表紙の表題に金文字があしらわれた古書を前に、オクノが「この本ずいぶん高いんでしょ?」と言った。
「ナポレオンが所有していたものですからね。ロンドンのオークションにかけられたものだったんですが、研究費だけではとても足りませんから、田舎の山を売りました」
「そんなに」
「はい。今の人間が失った叡智の手がかりが記されています。古代アレクサンドリアの図書館には現代人が想像もできないような叡智があったはずです。およそ一万年を超える遥かな人類史が。この本は中世に編まれたものですが、今よりはずっと知識としての伝播があった。われわれのような文化人類学者は、そうした資料を漁って想像の糸口を紡いでいるようなものですよ」

 教授はそう話し、革張りの本をゆっくり閉じた。パリパリと乾いた紙が鳴り、古紙の匂いが鼻先に漂った。オクノが顔を突っ込むかのようにして本をみていたからだ。本が閉じられると、古代世界から現代へ戻った気がした。
 宙をみているオクノを、教授がうながした。
「お茶でも飲みますか。インスタントで申し訳ないがコーヒーを入れましょう」

 右首のちょうど真ん中辺り。微かに蠢くものがある。その感触を自分の首に感じていた。ただ、右目でみてもその蠢くそのものがみえないでいた。指で触れてみると、紙縒りの先ほどの細いなにかが蠢いていた。気にしなければすぐに忘れるほどの感触である。

 コーヒーを啜り、教授の話に耳を傾けた。
「生物というものは雌雄で生殖し、増殖して自分たちの社会を作って繁栄するわけですが、その繁栄の仕方がおのおので違うのですね。私が興味をもつのは、寄生です。ほら、以前、人間界でもパラサイトという言葉が流行ったでしょ。親のすねを齧るどころか親に寄生して三十にもなっても部屋から出ないでゲームばかりしているようたタイプの人間がいますね。親も子もそれで良ければ共生ですがね。親も子に愛着があって追い出すことができないでいる。無理に追い出して世間に迷惑をかけるのも困る。まったく困ったものです」

 教授は、自分が抱える悩みをオクノに話している。独身のオクノには、親の感覚はない。これといって親孝行をした記憶もない。教授が自分の胸のうちを語っているなど憶いも寄らない。ただ、パラサイトというのが、それはそれで悪くないとのではとも想う。その家の生計が成り立っているなら、のんきに暮らせて幸せかもしれない。

 首に、また微かな感触があった。首筋でチョロリチョロリと蠢くものを感じたが、すぐに消えた。
「お子さんは?」
「いえ、まだ独り者です」
「そうですか、てっきり」
 オクノは二十八歳だが、一回りも上に見られることが多々あった。年上から同等に扱われるのでそれはそれでよかった。
「いいですな、独り身は。自分のやりたいことに好きなだけ時間が使える」
「いえ、僕ら記者家業は締め切り仕事に追われてるばかりで」
「そう? 私など、ここにずっと籠っていたいんですがね。そうもいかない。人生はままならんものです」

 研究室を訪ねて、すでに三時間が経っていた。
「先生、すみません。約束した時間をずいぶんオーバーしてしまって」
 久しぶりの地方出張だった。オクノはそろそろここを出て、初めて訪ねたこの北の町の安酒場へ出歩いて、土地のうまいものをつつきながら地酒をあおりたかった。ひょっとして、この教授が、酒を誘わないかと期待もしていた。
「今夜はどこにお泊まりで?」
「駅前のビジネスホテルです」
「そうですか。だったら、アーケードの外れにうまい料理屋がありますよ。お送りしたいところですが、まだまとめるものが残ってまして。タクシーを呼びましょう」
「ええ、すみません」

 教授に教えられた店は、アーケード街を二度探したが見当たらなかった。適当に入った店で岩牡蠣と葱ぬたを当てに酒を飲み、雑炊を食べてホテルに帰り、スポーツニュースを観ているうちに眠っていた。

 夢をみた。
 右首に、緑色の、シーボルトミミズほどの小さな蛇がまとわりついていた。皮膚を食いちぎり頭から首の肉奥へ侵入し、尾っぽだけをチョロチョロ出した。尾っぽが気になって仕方なかった。
 教授がしげしげ観ている。
「モシカシタラ、それがその蛇ではないかと思います」と言い、本の中の蛇を指差している。
「どうしたら?」
「いえ、引っ張ってはダメです。刺激を与えると毒を吐いてあなた即死しますよ」
「取ること出来ないんですか」
「そのままにしておけば大丈夫です」

 隣の部屋へ行くと、教授の仲間達が、しげしげと眺め、口々に、これがモシカシタラと言った。そして、誰もが方法はないと告げた。その蛇と共存するしかないと言う。そんなことはごめんだから、なんとか出来ないのかと畳み掛けたが、みな首を横に振った。

 オクノは蛇の尾っぽをつかんで引き抜きたい衝動にかられたが、即死という言葉が行動をさえぎる。泣いても笑っても蛇と一緒に生きるしかない。とんでもない。嫌だと叫んでも、蛇は、尾っぽをチョロチョロ動かすだけだった。

 目が覚めると、オクノはマンションの部屋で寝ていた。首に尾っぽの感触が残っていて、人生のすべてが終わったところから戻って来た自分がいるのだが、その自分が他人の身体のようにも感じられ、自分は一体生きているのか生きていないのかと感じ、蛇だけは勘弁願いたいと思った。

日はまた昇る

2011年12月26日 21時52分43秒 | 短編エトセトラ
いちばん古い記憶は何ですか? 覚えている風景でも、声でも、あるいは匂いかも。自分でいちばん遠い記憶は、なに?

朝もやか、夕霧かもしれない。あたりは白くもやり、そこに一本のレールだけがみえる。砂利を歩いている。歩くたびに、石がザクリザクリとして、足がふらふら足首がねじくれてとても嫌な感じだ。

母が手を引いている。それがヨチヨチ歩かせている。やがて、線路がすけて、ずっと下に青い水がゴーゴー流れている。レールを跨ぎ跨ぎ、進むが、もうその先へ行く気力がうせて、母はまた来たほうへ恐る恐るもどって行った。

やがて、白やむ世界が明るくなり、空ににじむ日が昇っていた。そのあとにつづく記憶はなく、そこでぷつりと消えている。

その様子が景色のように背後からみえるのが、微かになぜか記憶に残っている。あれはいつのことなのか、不明の、ほんとうだったのか、幼児の夢だったのか、それもよくわからないが、いちばん古い記憶としてぼくのなかに在る。

いつか、それを話してみたが、あんたがみた、やっぱり夢だったのだろうと、母が静かに笑った。


短編小説「崖」

2011年12月17日 13時28分55秒 | 短編エトセトラ
 「崖」
           作・遊田玉彦



 ストンと切れた、断崖絶壁。
 遥か崖下の谷底の村で、畑に出た農夫が、鍬を手に土をほっくり返しているのが、崖の上から蟻よりも小さいくらいに見えている。
 土埃を巻上げながら、サクサクと小気味よいリズムで動かしていた鍬を止めたかと思うと、ふいに腰を上げ、そっくり返るようにして崖を見上げるが、それは農夫の一種のくせである。腰を伸ばしたついでに、つい崖を見上げてしまうのだ。農夫は今朝からもう何度か崖を眺めている。

 崖っぷちに立っている男の姿は、むろん見えない。痩せぎすの、腹だけが妙にせり出た男で、薄手のジャンパーに縞模様のスラックス、安物のスニーカーという出で立ちだ。どう見てもハイカーという趣ではない。
 今起きたばかりのような、とろんとした目で崖下を眺めている。谷から吹き上げてくる風に何かの匂いを嗅ぐ仕草をし、ひとつ深呼吸をしたかと思いきや、おもむろに背を向けて縁に膝まづき、崖下に片方の足を降ろし始めた。

 崖を正面から見れば、垂直ではあるが、壁から突き出た岩と岩の連結に若干の隙間があり、手足が掛けられそうである。崖の途中に丁度畳一枚ほどの岩棚が見え、ヤマユリが一輪咲いている。
 男はその花を採ろうというのか、どういう了見か知らないが、眼下の岩棚に降りようと節くれた指に力をこめ、右の足、左の足と岩の隙間に爪先を喰い込ませながら、じわり、じわりと降下していく。
 途中、崖に突き出した岩に腹がつっかえるたび、身体が空中に押し戻されそうになり、四肢がいっせいに硬直して動かなくなる。指を、トカゲのように押し開き、爪先を岩の角に突き立て、額からぼとぼと汗が吹き流れる。うぅ、と声を漏らし、またじりじり下へ下へと降りていく。

 男が岩棚に降り立った。飛び降りた拍子に白い花を踏み、足の下でひしゃげてしまったが、男は少しも気にする様子がなかった。
 岩棚は、村のキノコ採りの秘密の場所で、見事なイワタケがひと抱えも採れるのである。イワタケというのは、岩にこびりついているのを見れば黒いボロ布の切れっぱしにしか思えない。けれども、そのボロ切れを何時間もかけて丁寧に洗い、いったん日に干したものを水にもどし、鍋でぐつぐつ煮れば全く別物に生まれ変わる。この菌類独特の滋味とでもいうのか、それが鍋の中でえもいわれぬ風味に変化して、一度口にしたやいなや、我先に競って食べることとなる。キノコの中でもとくに珍重され、町では高価な値で取り引きされる。料亭にでも売りに行けば、ひと晩は豪遊できる代物である。
 村いちばんのキノコ採りは先年、老衰で亡くなった。誰もここがイワタケの宝庫だということなど知らない。キノコ採りの名人ともなれば、絶対に場所を明かさず、末期のときでも口を割らない。他人に採られることがそれほどまでに惜しいからか、あるいはもっとちがう理由があるのか、とにかく場所を明かないのは昔からのキノコ採りしきたりである。

 男もこの岩棚にイワタケがあることなど知らない。また、かりに知っていたとして、今はキノコの時季ではない。わざわざキノコのない春先に崖を降りる馬鹿者などありはしないだろう。
 男にはこれといった理由がない。ならば男は阿呆か何かかといえば、そうだとは決めつけられない。高等数学の演算もできるし、ひちめんどうな帳簿もこなすことができるのである。歳のころは五十そこそこのこの男、眼下の村の者ではなく、バスで一時間離れた海沿いの町に住んでいる。立派とはいえないが、従業員が五人ほどいる小さな部品加工の工場を経営している。順風満帆とまではいかないまでも、何とか潰さずやっている。去年の秋には住みかを少々改築したばかりである。

 男の歩んだ人生を俯瞰すれば、どこかに理由は探せそうだと考えられないこともない。
 五つのときに肺炎をこじらせて死にかかったことがあり、そのころ父親は女に入り浸たりで滅多に家に帰ってこなかったのだが、母親は離婚を考えつつも、子どもがまだ小さいうちは家を出るわけにもいかず、ずっと耐えていたという幼少時代がある。
 あるいは、先祖代々の土地が売れ、思わぬ大金が転がり込んで、それがもとで父親の女ぐせが再発し、最後は住んでいた家までも借金のかたとなり、一家離散となった青年時代がある。
 さらには、飲み屋で行き会った女に、男が貯えていた金を持ち逃げされたこともある。高々百万そこそこの金で、それで男は無一文になったが、そんな金よりも、一度は信じた女に騙された自分が許せなかった。

 世間でそう珍しい話でもあるまいが、男のこころに影をつくっているものの主だった要因はそれらだと断定してもよさそうである。だからこそ、男は独立心を柱として、三十を堺に一心不乱に仕事に打ち込み、煙草は吸うが酒はやらず、博打は最も毛嫌いして宝くじですら買ったことがない。これといった趣味もなく、工場で機械をいじっているのが趣味のような男だ。女房と娘とそれから年老いた母親との四人で暮らし、従業員の面倒もみて、それなりに頼りにされている。借金が多少はあるが、それほど苦にする額でもない。毎月、コツコツと利子を払い続け、この十年間返済が滞ったことはない。新しい機械を購入すれば仕事を拡げられそうだが、現状での融資は難しい。銀行屋が昨日きて、慰めめいた適当な話をして帰っていった。

 男には三十半ばで生まれたひとり娘がいる。いまは家にひきこもって賑やかな音楽ばかり聴いているが、来年は町を出て専門学校に行くと、今朝話したばかりだ。
 「ねえ、お願いなんだけどぉ、ちょっとお金足りないんだ」
 「またか、この前やっただろ」
 「この前って、先月じゃない。そんなのもうないよ」
 「幾らだ」
 「二万円」
 「何に使うんだ」
 「あれ、あれよ、いろいろあってサ、友達との付き合いもあって」
 「月末に近いから、持ち合わせがないんだ。こっちもいろいろあるんだ」
 娘は父親と目を合わせようとしないで、斜を向いたまま軽いため息をついた。今、男の財布には五千円も入っていない。

 「タバコやめたら?」
 「ああ」
 「いつも必ずって約束だけじゃないの」
  と、母親そっくりの言い草を娘がした。
 「わかってるよ」
 「わたし、来年は家を出ていくから」
 「だから、おまえの好きにすりゃいい」
 「そっちも、好きにしたら?」
 「おれだって、たまにはカラオケくらい行ってる」
 「あれね、ハハハッ」
「いいだろ、おれが何を歌っても」
 先週、珍しく従業員と街のカラオケボックスに出かけ、ウーロン茶で二、三曲やったのだ。一曲は娘の好きなアイドルグループの歌だった。その曲を娘と歌ったのはもう一年前のことである。
 「たまにはママと三人で歌いにいくか」
 「お金ないんでしょ。それにさあ、遠慮しとくわ」
 「おれの歌、耳が腐るってんだろ」
 久しぶりに娘がケラケラ笑うのを見た。大きな口を開けて笑う娘の犬歯がやけに白く男の目に映った。

           ○○○

 ――崖を降りてみたかっただけだ。
 と、男が誰に言うでもなく、ポツリとつぶやいた。
 岩棚に腰を降ろした男は、宙空に向かってまたつぶやいた。
 ――岩棚がおれを呼んだんだ。

 まるで馬の背でも叩くかのように、岩棚を手のひらでぱんぱんと叩いた。
 目の前をトビがすーっと飛んで、
 ぴーひょろろ、ぴーひょろろろー
 と二度、鳴いた。
 鳴き声が谷間に吸い込まれるように消えていった。

 男は胸のポケットから煙草を出し、マッチをすって火を着けが、風ですぐに消えてしまった。二度目は手で囲い、火を着けた。マッチ棒を空に投げると、白い煙の糸を引きながら谷底に、ふわり、ふわり落ちていった。煙草の煙を肺いっぱいに吸い込んで空を見上げた。久しく感じたことのない旨さだった。娘が産まれた冬の朝の病院ロビーや、工場を立ち上げた日のことが目に浮かんだ。つづけて二本ほど吸い、崖に背中をもたれかけ目を閉じた。

 陽光が降り注ぎ、春の風がここちよく頬を撫でた。先ほどのトビも、もうどこかへ飛んでゆき、風もやんで、無音となった。
 男は浅い眠りに落ちた。
 うとうと舟を漕ぎ、トビになって空を舞っているような気分にひたり、それが夢なのかそうでないのか、どこからどこという境目のない白い宙に浮いていた。
 谷から巻上げる風が岩棚に当たって、ひゅるひゅると寂しげな音を鳴らせた。目を覚ました男は岩棚にじっと座ったまま動こうとしなかった。とろんとした目で宙空を見つめ、することといえば煙草を吸うばかり。煙が背にした壁に沿って白い龍の姿に変じて空に立ち昇っていった。やがて煙草もなくなり、男はうしろ手に岩壁を押さえてゆっくり立ち上がった。
 
 ――降りるとするか。
 と、つぶやいた。
 日が西の空に傾いていた。オレンジ色に染まったまん丸い天球が目線よりも低く浮かんでいた。もう半時もすれば向こうの山陰に隠れるだろう。ゆるやかに闇が男を包みはじめていた。
 膝をつき、岩棚から首を突き出して谷底を覗き見た。
 壁は垂直どころか、谷に向かってえぐれていた。どこにも降りられそうな場所がなかった。さらに身を乗り出せば、昼間、農夫が仕事をしていた畑にまっさかさまに落ちるしかない。落ちてもいいか、と、一瞬、思った。崖下を眺めていると、地上に吸い込まれそうな気分になった。

 ――落ちるか。
 誘惑とも何ともつかない情動が胸の中でもぞもぞ沸き起こる。そのまま任せておけば、胸のものが身体に伝わって手足が動いてもいいくらいになった。

 ぴー ひょろろろー
 トビの声が谷底に落ちていった。
 ――登るか。
 男は、壁に向いて両手を伸ばし、上を見上げて指が引っかかるところはないかと探った。だが、降りるときはあったはずの突き出た岩がひとつもなくなっていて、のっぺりとした壁になっていた。壁から岩棚は畳一枚ぶんを残し、動かなかった。
 そうか、と言って大きく息を吐き、また岩棚に座り直し、空になった煙草ケースを投げ捨て、それから男はなにも言わなくなった。黙ったきり目をとじ、息をしているのかもわからないくらいに静かになった。

 夜空に星が瞬いていた。ひとつがすーっと斜めに走って消えた。月が、つい、ついっと天に昇っていった。
 やがて日が昇った。雲が横を流れていった。
 トビがひとつ、またひとつ、鳴いた。

 岩棚に座った男のすぐ脇に白いヤマユリが一輪咲いている。パリパリになった飴色の皮に骨を包み、男は黒い節穴の目で宙空を見つめている。下界では、あの頃はまだ赤児だった農夫の子が、太い腕で土に鍬をザクリ、ザクリ打ち込み、ふと崖を見上げ、土を掘っくり返している。

                      2008年12月20日の再録


短編・消えた顔

2011年01月16日 22時14分12秒 | 短編エトセトラ
『消えた顔』

 薄皮を剥がしたばかりの二枚が、ひらり、道端に落ちていた。まだいくらも経たないに違いない。それも、並んだ男女の面皮である。

 アスファルトに貼り付けられたふたつの顔を月がぬめり照らしている。月光の冷たい火であっても、朧気に、顔が笑っているのが判る。

 何を笑っているのかはいっこうに判らない。誰が誰に笑っているのかも知れず、笑っている。

 わたしは帰宅の途中だった。
 こんなところでいつまでも佇んでいても仕方のないことだ。

 家に帰って朝方、食べ残したスウプを温め直して、パンを浸して食べるのだ。それから日記を書き、今日という1日を終えなければならない。また、明日は忙しい。ああ、君もう出来たのかねと小煩い上役の声もこだまする。来週には総決算だ。その前に、かたずけないとならないいくつもの煩わしい作業がわたしの胃を鈍痛で苦しめている。

 ますますわたしは動けずに、アスファルトの上に突っ立って、二枚の薄面皮を眺めている。
 声が背中越しに聞こえた。
――ねえ、あなた
 聞こえないふりをした。
――それ、それよ、あなたの
 知らないぞ。
――落としたでしょ。
 違う、違う。
――だったらあなた、ご自分の顔を
 振り返ると女の影が、アスファルトの一枚を指さして、
――わたしたちのね
 フフフッと声がしたかと思うと、二枚の面皮が風に押されて宙に舞い、どこかへ消えていった。わたしは、ひとつ笑った。或、晩冬の夜の事である。