久々の短編です。お好きな方は、どうぞ。
『緑蛇』
教授は、先ほどから気づいていた。だが、それがどのような現象なのか、にわかに結論が出せないでいた。モシカシタラそれがソウなのかもしれないのだが。まさか。文献の中で読み知っただけの、世界でも数例しか報告のない現象である。教授は、微かな興奮を覚えた。
また、モシカシタラと繰り返した。
「きみ、ではオクノさん、隣の資料庫へ案内しましょう。おもしろいものがあるから」
「先生どんな」
「古代エジプトで使われていた狩猟方法なのですが、三本の槍を使った獲物の捉え方の資料ですよ」
扉の中へ入り、教授がスチール製の書庫の鍵を開けた。革で装丁された一抱えもある本を抜いて架台に置き、付箋をしたページを開いた。
右ページにラテン文字がずらずら並び、左ページは緻密な線で描かれた彩色の銅版画だ。絵は鋼のような上半身を剥き出しにした男が片手に細い三本の槍を構え、岩場に立つ鹿を狙う姿。次のページには、鹿の首にその三本の槍を押し当てている光景。
「この狩猟法は、相手を苦しめないのです。槍の先に塗られた毒が痛みを麻痺させて」
「なんの毒なのですか」
「蛇です」
「どんな」
「コブラ科の神経毒ですが、その蛇は非常に珍しくて近代では発見されていない。こうして資料があるだけです」
本には、三本の槍を持つ男の絵とは別に、赤ん坊の小指の先ほどの細く淡い緑色をした蛇が描かれていた。
オクノは、およそ世界中にいる動物のなかでも、蛇が最も苦手だった。足が無いからだが、ミミズは触ることが出来たから、ただ足が無いということだけが理由とも言えなかった。
「古代の人間は、他の生き物にも敬意を払うのが仕来りでしたから。獲物といえ、痛みを与えないようにしました。三本の槍の先に毒を塗っていますが、最初の槍には薄めた毒を塗り、次のは少し濃い毒を塗り、最後の槍に猛毒を塗って、じょじょに弱らせて眠るように死なせたのです」
銅版画の鹿は、うつろな目をして宙を見上げていた。今起こっていることは自分とは無関係のことであるかのような目。
表紙の表題に金文字があしらわれた古書を前に、オクノが「この本ずいぶん高いんでしょ?」と言った。
「ナポレオンが所有していたものですからね。ロンドンのオークションにかけられたものだったんですが、研究費だけではとても足りませんから、田舎の山を売りました」
「そんなに」
「はい。今の人間が失った叡智の手がかりが記されています。古代アレクサンドリアの図書館には現代人が想像もできないような叡智があったはずです。およそ一万年を超える遥かな人類史が。この本は中世に編まれたものですが、今よりはずっと知識としての伝播があった。われわれのような文化人類学者は、そうした資料を漁って想像の糸口を紡いでいるようなものですよ」
教授はそう話し、革張りの本をゆっくり閉じた。パリパリと乾いた紙が鳴り、古紙の匂いが鼻先に漂った。オクノが顔を突っ込むかのようにして本をみていたからだ。本が閉じられると、古代世界から現代へ戻った気がした。
宙をみているオクノを、教授がうながした。
「お茶でも飲みますか。インスタントで申し訳ないがコーヒーを入れましょう」
右首のちょうど真ん中辺り。微かに蠢くものがある。その感触を自分の首に感じていた。ただ、右目でみてもその蠢くそのものがみえないでいた。指で触れてみると、紙縒りの先ほどの細いなにかが蠢いていた。気にしなければすぐに忘れるほどの感触である。
コーヒーを啜り、教授の話に耳を傾けた。
「生物というものは雌雄で生殖し、増殖して自分たちの社会を作って繁栄するわけですが、その繁栄の仕方がおのおので違うのですね。私が興味をもつのは、寄生です。ほら、以前、人間界でもパラサイトという言葉が流行ったでしょ。親のすねを齧るどころか親に寄生して三十にもなっても部屋から出ないでゲームばかりしているようたタイプの人間がいますね。親も子もそれで良ければ共生ですがね。親も子に愛着があって追い出すことができないでいる。無理に追い出して世間に迷惑をかけるのも困る。まったく困ったものです」
教授は、自分が抱える悩みをオクノに話している。独身のオクノには、親の感覚はない。これといって親孝行をした記憶もない。教授が自分の胸のうちを語っているなど憶いも寄らない。ただ、パラサイトというのが、それはそれで悪くないとのではとも想う。その家の生計が成り立っているなら、のんきに暮らせて幸せかもしれない。
首に、また微かな感触があった。首筋でチョロリチョロリと蠢くものを感じたが、すぐに消えた。
「お子さんは?」
「いえ、まだ独り者です」
「そうですか、てっきり」
オクノは二十八歳だが、一回りも上に見られることが多々あった。年上から同等に扱われるのでそれはそれでよかった。
「いいですな、独り身は。自分のやりたいことに好きなだけ時間が使える」
「いえ、僕ら記者家業は締め切り仕事に追われてるばかりで」
「そう? 私など、ここにずっと籠っていたいんですがね。そうもいかない。人生はままならんものです」
研究室を訪ねて、すでに三時間が経っていた。
「先生、すみません。約束した時間をずいぶんオーバーしてしまって」
久しぶりの地方出張だった。オクノはそろそろここを出て、初めて訪ねたこの北の町の安酒場へ出歩いて、土地のうまいものをつつきながら地酒をあおりたかった。ひょっとして、この教授が、酒を誘わないかと期待もしていた。
「今夜はどこにお泊まりで?」
「駅前のビジネスホテルです」
「そうですか。だったら、アーケードの外れにうまい料理屋がありますよ。お送りしたいところですが、まだまとめるものが残ってまして。タクシーを呼びましょう」
「ええ、すみません」
教授に教えられた店は、アーケード街を二度探したが見当たらなかった。適当に入った店で岩牡蠣と葱ぬたを当てに酒を飲み、雑炊を食べてホテルに帰り、スポーツニュースを観ているうちに眠っていた。
夢をみた。
右首に、緑色の、シーボルトミミズほどの小さな蛇がまとわりついていた。皮膚を食いちぎり頭から首の肉奥へ侵入し、尾っぽだけをチョロチョロ出した。尾っぽが気になって仕方なかった。
教授がしげしげ観ている。
「モシカシタラ、それがその蛇ではないかと思います」と言い、本の中の蛇を指差している。
「どうしたら?」
「いえ、引っ張ってはダメです。刺激を与えると毒を吐いてあなた即死しますよ」
「取ること出来ないんですか」
「そのままにしておけば大丈夫です」
隣の部屋へ行くと、教授の仲間達が、しげしげと眺め、口々に、これがモシカシタラと言った。そして、誰もが方法はないと告げた。その蛇と共存するしかないと言う。そんなことはごめんだから、なんとか出来ないのかと畳み掛けたが、みな首を横に振った。
オクノは蛇の尾っぽをつかんで引き抜きたい衝動にかられたが、即死という言葉が行動をさえぎる。泣いても笑っても蛇と一緒に生きるしかない。とんでもない。嫌だと叫んでも、蛇は、尾っぽをチョロチョロ動かすだけだった。
目が覚めると、オクノはマンションの部屋で寝ていた。首に尾っぽの感触が残っていて、人生のすべてが終わったところから戻って来た自分がいるのだが、その自分が他人の身体のようにも感じられ、自分は一体生きているのか生きていないのかと感じ、蛇だけは勘弁願いたいと思った。
『緑蛇』
教授は、先ほどから気づいていた。だが、それがどのような現象なのか、にわかに結論が出せないでいた。モシカシタラそれがソウなのかもしれないのだが。まさか。文献の中で読み知っただけの、世界でも数例しか報告のない現象である。教授は、微かな興奮を覚えた。
また、モシカシタラと繰り返した。
「きみ、ではオクノさん、隣の資料庫へ案内しましょう。おもしろいものがあるから」
「先生どんな」
「古代エジプトで使われていた狩猟方法なのですが、三本の槍を使った獲物の捉え方の資料ですよ」
扉の中へ入り、教授がスチール製の書庫の鍵を開けた。革で装丁された一抱えもある本を抜いて架台に置き、付箋をしたページを開いた。
右ページにラテン文字がずらずら並び、左ページは緻密な線で描かれた彩色の銅版画だ。絵は鋼のような上半身を剥き出しにした男が片手に細い三本の槍を構え、岩場に立つ鹿を狙う姿。次のページには、鹿の首にその三本の槍を押し当てている光景。
「この狩猟法は、相手を苦しめないのです。槍の先に塗られた毒が痛みを麻痺させて」
「なんの毒なのですか」
「蛇です」
「どんな」
「コブラ科の神経毒ですが、その蛇は非常に珍しくて近代では発見されていない。こうして資料があるだけです」
本には、三本の槍を持つ男の絵とは別に、赤ん坊の小指の先ほどの細く淡い緑色をした蛇が描かれていた。
オクノは、およそ世界中にいる動物のなかでも、蛇が最も苦手だった。足が無いからだが、ミミズは触ることが出来たから、ただ足が無いということだけが理由とも言えなかった。
「古代の人間は、他の生き物にも敬意を払うのが仕来りでしたから。獲物といえ、痛みを与えないようにしました。三本の槍の先に毒を塗っていますが、最初の槍には薄めた毒を塗り、次のは少し濃い毒を塗り、最後の槍に猛毒を塗って、じょじょに弱らせて眠るように死なせたのです」
銅版画の鹿は、うつろな目をして宙を見上げていた。今起こっていることは自分とは無関係のことであるかのような目。
表紙の表題に金文字があしらわれた古書を前に、オクノが「この本ずいぶん高いんでしょ?」と言った。
「ナポレオンが所有していたものですからね。ロンドンのオークションにかけられたものだったんですが、研究費だけではとても足りませんから、田舎の山を売りました」
「そんなに」
「はい。今の人間が失った叡智の手がかりが記されています。古代アレクサンドリアの図書館には現代人が想像もできないような叡智があったはずです。およそ一万年を超える遥かな人類史が。この本は中世に編まれたものですが、今よりはずっと知識としての伝播があった。われわれのような文化人類学者は、そうした資料を漁って想像の糸口を紡いでいるようなものですよ」
教授はそう話し、革張りの本をゆっくり閉じた。パリパリと乾いた紙が鳴り、古紙の匂いが鼻先に漂った。オクノが顔を突っ込むかのようにして本をみていたからだ。本が閉じられると、古代世界から現代へ戻った気がした。
宙をみているオクノを、教授がうながした。
「お茶でも飲みますか。インスタントで申し訳ないがコーヒーを入れましょう」
右首のちょうど真ん中辺り。微かに蠢くものがある。その感触を自分の首に感じていた。ただ、右目でみてもその蠢くそのものがみえないでいた。指で触れてみると、紙縒りの先ほどの細いなにかが蠢いていた。気にしなければすぐに忘れるほどの感触である。
コーヒーを啜り、教授の話に耳を傾けた。
「生物というものは雌雄で生殖し、増殖して自分たちの社会を作って繁栄するわけですが、その繁栄の仕方がおのおので違うのですね。私が興味をもつのは、寄生です。ほら、以前、人間界でもパラサイトという言葉が流行ったでしょ。親のすねを齧るどころか親に寄生して三十にもなっても部屋から出ないでゲームばかりしているようたタイプの人間がいますね。親も子もそれで良ければ共生ですがね。親も子に愛着があって追い出すことができないでいる。無理に追い出して世間に迷惑をかけるのも困る。まったく困ったものです」
教授は、自分が抱える悩みをオクノに話している。独身のオクノには、親の感覚はない。これといって親孝行をした記憶もない。教授が自分の胸のうちを語っているなど憶いも寄らない。ただ、パラサイトというのが、それはそれで悪くないとのではとも想う。その家の生計が成り立っているなら、のんきに暮らせて幸せかもしれない。
首に、また微かな感触があった。首筋でチョロリチョロリと蠢くものを感じたが、すぐに消えた。
「お子さんは?」
「いえ、まだ独り者です」
「そうですか、てっきり」
オクノは二十八歳だが、一回りも上に見られることが多々あった。年上から同等に扱われるのでそれはそれでよかった。
「いいですな、独り身は。自分のやりたいことに好きなだけ時間が使える」
「いえ、僕ら記者家業は締め切り仕事に追われてるばかりで」
「そう? 私など、ここにずっと籠っていたいんですがね。そうもいかない。人生はままならんものです」
研究室を訪ねて、すでに三時間が経っていた。
「先生、すみません。約束した時間をずいぶんオーバーしてしまって」
久しぶりの地方出張だった。オクノはそろそろここを出て、初めて訪ねたこの北の町の安酒場へ出歩いて、土地のうまいものをつつきながら地酒をあおりたかった。ひょっとして、この教授が、酒を誘わないかと期待もしていた。
「今夜はどこにお泊まりで?」
「駅前のビジネスホテルです」
「そうですか。だったら、アーケードの外れにうまい料理屋がありますよ。お送りしたいところですが、まだまとめるものが残ってまして。タクシーを呼びましょう」
「ええ、すみません」
教授に教えられた店は、アーケード街を二度探したが見当たらなかった。適当に入った店で岩牡蠣と葱ぬたを当てに酒を飲み、雑炊を食べてホテルに帰り、スポーツニュースを観ているうちに眠っていた。
夢をみた。
右首に、緑色の、シーボルトミミズほどの小さな蛇がまとわりついていた。皮膚を食いちぎり頭から首の肉奥へ侵入し、尾っぽだけをチョロチョロ出した。尾っぽが気になって仕方なかった。
教授がしげしげ観ている。
「モシカシタラ、それがその蛇ではないかと思います」と言い、本の中の蛇を指差している。
「どうしたら?」
「いえ、引っ張ってはダメです。刺激を与えると毒を吐いてあなた即死しますよ」
「取ること出来ないんですか」
「そのままにしておけば大丈夫です」
隣の部屋へ行くと、教授の仲間達が、しげしげと眺め、口々に、これがモシカシタラと言った。そして、誰もが方法はないと告げた。その蛇と共存するしかないと言う。そんなことはごめんだから、なんとか出来ないのかと畳み掛けたが、みな首を横に振った。
オクノは蛇の尾っぽをつかんで引き抜きたい衝動にかられたが、即死という言葉が行動をさえぎる。泣いても笑っても蛇と一緒に生きるしかない。とんでもない。嫌だと叫んでも、蛇は、尾っぽをチョロチョロ動かすだけだった。
目が覚めると、オクノはマンションの部屋で寝ていた。首に尾っぽの感触が残っていて、人生のすべてが終わったところから戻って来た自分がいるのだが、その自分が他人の身体のようにも感じられ、自分は一体生きているのか生きていないのかと感じ、蛇だけは勘弁願いたいと思った。