When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
古事記によれば、天照大神の孫「ニニギの命」が大山津見神の娘「コノハナサクヤ姫」と婚姻、ニニギの命に一夜の交わりで妊娠したのを疑われたコノハナサクヤ姫が、疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中で「海幸彦」・「山幸彦」を無事出産したとあります。この古事記にのっとり「さきたま火祭り」は始まった。
夕暮れとともに、古代衣装に身をつつんだ「ニニギの命」と「コノハナサクヤ姫」が産屋に火を放ち、フィナーレの丸墓山、稲荷山から降りてくる御神火下りは大変見応えがある。(旅々いらっしゃい 彩の国さいたま)
学んだというよりは遊んだのは植物の学。別に師匠というものが無かったから日夕天然の教場で学んだ。絶えず山野に出でて実地に植物を採集しかつ観察した。
花は、率直にいえば生殖器である。誠に美麗で、且つ趣味に富み、まったく美点に充ち満ちている。この花は種子を生ずるために存在している器官である。そしてこの種子を保護しているものが果実である。草でも木でも自分の子孫を継ぎ、種属
を絶やさぬことに全力を注いでいる。これは動物、人間も同じ。子を生まなければ種属は絶える。つまり我らは続かす種属の中継ぎ役をしてこの世に生きている。暑い夏に鳴きつづけている蝉は雄蝉であって、一生懸命に雌蝉を呼んでいる。うまくランデブーすれば、雄蝉は憐れにも木から落ちて死骸を地に曝し、蟻の餌となる。雌蝉は卵を生むが最後、雄蝉の後を追って死んでゆく。蝉と生まれて地上に出でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。これは草、木、虫、鳥、獣、人でもその点はなんら変わったことはない、生物はみな同じだ。我らが花を見るのは、この花の真目的を嘆美するのではなくて、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花のために、一掬の涙があってもよいではないか。