6月の下旬に入って母の夢を連続してみるようになった
何故だろうと考えてみると24日の命日が間近であった
その夢の中でいつも父が何気ない顔をして登場していた
父は16歳の時海軍の試験を受け大竹海兵団に入団した
そこで訓練を終えて館山にあった海軍の砲術学校に行き
戦艦大和の乗組員になりミッドウェー海戦から参戦した
父は山本長官が無くなってからラバウルで陸戦隊に志願して船を降り
そこで終戦を迎えオーストラリア軍の捕虜になって帰国していた
私は生まれた時から子守歌代わりにラバウル小唄を聴いて育った
父は60歳で肺ガンで亡くなり35歳の私は何一つ親孝行もできなかった
そんな訳で60歳になった時に父と行きたいと思っていたラバウルへ行った
ラバウル旅行では爆撃で負傷した父が入院していた海軍病院や半ば火山灰に埋まった通称山本バンカー(防空壕)そして戦闘機や高射砲などの残骸を見て回った
あれから7年経ち急に大竹海兵団跡を見たくなり今回の広島行きとなった
7月20日昼過ぎに広島駅に到着し普通列車で大竹駅に行く
海兵団跡のほうに行く途中で昼食に栄食堂に入った
そこのママさんに海軍跡のことを聞いたり父の話をした
ママさんはなぜかラバウル小唄を聞いたら涙ぐむという
当時の若人はどんな思いで戦争に行ったのだろうかと考え
今の若い人はそのことをどんな風に考えているのかと思うそうだ
ママさんに貰ったアイスキャンディー
途中で海兵団跡へと向かうが道がわからなくなりポンプ場の工事の人に聞く
工事の人(阪神ファンだった)は市役所の知り合いに電話で聞いてくれた
そうしたら教育委員会の人がわざわざ工事現場に資料を持ってきて下さった
お礼を言って海兵団跡を管理している三井・デュポンケミカル大竹工場へ向かう
工場に電話して見学の了解を得て総務の人に碑文の場所へと案内していただく
写真撮影の後に烹炊所跡や滑走路跡(ここは工場内部で撮影禁止)の説明も受けた
当時の烹炊所付近
大竹の親切な人達のおかげで念願の海兵団跡に行け父の若かりし時を偲ぶことができたことを心から感謝します
さてここから広島市に戻り楽しみにしていた路面電車の広電で広島港に行く
広島港の待合所
江田島の中町桟橋に向け出港の時少し小雨が降る
中町桟橋に到着
これから宿泊予定の能美海中ロッジ(国民宿舎)へと向かった
撮影:Canon G9X
続く