虫のメガネ

虫はモノがハッキリと見える訳ではなく動くエサや敵が見えるだけ 虫に眼鏡をかけて... 少し視点を変え日常を眺めてみました

2016年7月 広島へⅢ 原爆ドーム

2016年07月26日 | Weblog

広島駅前から再び広電に乗り原爆ドームへ行く









太田川畔のこの辺りは風光明媚という言葉がぴったりするくらい美しい









なぜこんなにも美しいところに原爆を落とすのだろうか
この風景を見るといろいろなドキュメント番組で言っているように
米国は原爆の実使用をしたくてたまらなかったということが真実に思える
「当日は東京は曇りだった」「途中の主要都市も曇っていた」とパイロットは言う
戦争のためだけだったら次の日に東京に落とせばいいと思う
やはり「一日も早く原爆を使用してその効果をを確かめたかっただけ」が理由だ
戦勝に沸く無知な米国民など言いくるめることは簡単だったのだろう

ちょうど昼時であったので息子から聞いていた「広島焼き」の才屋へ行く
才屋は威勢の良い姉ちゃんと私とおない年くらいの大将が頑張っていた
頼んだ肉玉そばは蒸した感じのキャベツともやしがソフトに焼けて美味しい









再び太田川を少し下りドームへ行く
ドームは見る場所により無惨であり表紙のように美しくもあった









ドームの南側に文を刻んだ石碑がある
なぜ残骸を残したかの説明文であるが何かその主張が弱い感じがする









ドームのすぐ横に広島出身鈴木三重吉の赤い鳥の石碑がある
「私は永久に夢を持つ ただ年少時のごとく ために悩むこと浅きのみ 三重吉」
とあるらしいが大阪の爺さんである私には何故ここにこの碑があるかよくわからない









ドームが見えるように原爆死没者慰霊碑のオブジェがある









「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれているが
憎しみだけではどうしようもない気持ちの広島の人だからわかる言葉であろう
私には実感できないし特に外国の人達にはもっとわからない言葉だと思う
この言葉が真に普遍性を発揮するには長い長い平穏の期間が必要だと思う
真に平和な日々が長く続いたときにしかこんな言葉はわかってこないと思う

修学旅行生が来ている
私は修学旅行は長崎で原爆記念館へ行った
そこには高校生には見るに堪えない絵などが展示されていて
無惨な気持ちだけが先行し訳がわからないまま帰ってしまった
そんなことを今よく思い起こしてみるとやはり穏やかな表現こそが
真の平和祈念の言葉であるのかもしれない









他にもいろいろ見ていろんなことを考えて帰路についた
思えば当時も路面電車が真っ先に被災地を走ったのであった









昨夜のニュースは21日にこの辺りの木にMという切り込みがされていたと報じた
まあそんなことはどうでも良いようなことだと思う
大切なことはいろんな処でいろんなことを感じ考えることだと思う
また近い日にここも訪れてその歳なりのことを感じ考えてみようと思う
「生きてしかも鮮烈に感じる」これから生きる一つの意味が見えたようだ


終わり


撮影 Canon G9X






2016年7月 広島へⅡ 呉の大和ミュージアム

2016年07月25日 | Weblog

7月21日(木)ロッジでの朝食を終えバス停へ

ロッジ横に戦艦利根の記念館がありその前に碇が展示してある









利根の記念館は目的外だったので素通りしバス停へ行きロッジを振り返る









ここからバスを乗り継いで小用港へ行く バスでは元気に乗ってくるお年寄りが目立った
しかし少し視点を変えて考えて見ると元気でない人達はバスで出かけることは出来ない
テレビのロケなどでこの町の人は皆元気な人ばかりだというシーンがあるが信じてはいけない









呉行きのフェリーに乗る









この辺りの海にはどこも牡蛎の筏が浮かんでいる









やがて呉港の真ん前に大和ミュージアムが見えてきた









ミュージアムの前で記念撮影するが背景の船の部品は陸奥のもの









大和の10分の1模型が展示されている
私の父は三連主砲の向こうの少し小さい副砲の砲手であった
ワッチからの報告で距離盤にオートマチックの物差しを当てていくと
自動的に大砲が移動し照準を定めるという優れものであったそうだ
これは後ろからの写真(表紙は前方から)









山本長官と呉の関わりの記述がある









空母艦載機のゼロ戦の実物復元機も展示されていたがかなり小さいものだ









ミュージアムのお土産屋で大和の紅茶なるものを買う
家で飲んでみたらなかなか美味しい紅茶であった






朝の早い時間にロッジを出たので昼前に広島方面の電車に乗った

続く

撮影 Canon G9X






2016年7月 広島へⅠ 大竹海兵団跡

2016年07月24日 | Weblog

6月の下旬に入って母の夢を連続してみるようになった
何故だろうと考えてみると24日の命日が間近であった
その夢の中でいつも父が何気ない顔をして登場していた

父は16歳の時海軍の試験を受け大竹海兵団に入団した
そこで訓練を終えて館山にあった海軍の砲術学校に行き
戦艦大和の乗組員になりミッドウェー海戦から参戦した

父は山本長官が無くなってからラバウルで陸戦隊に志願して船を降り
そこで終戦を迎えオーストラリア軍の捕虜になって帰国していた
私は生まれた時から子守歌代わりにラバウル小唄を聴いて育った
父は60歳で肺ガンで亡くなり35歳の私は何一つ親孝行もできなかった
そんな訳で60歳になった時に父と行きたいと思っていたラバウルへ行った

ラバウル旅行では爆撃で負傷した父が入院していた海軍病院や半ば火山灰に埋まった通称山本バンカー(防空壕)そして戦闘機や高射砲などの残骸を見て回った
あれから7年経ち急に大竹海兵団跡を見たくなり今回の広島行きとなった

7月20日昼過ぎに広島駅に到着し普通列車で大竹駅に行く
海兵団跡のほうに行く途中で昼食に栄食堂に入った
そこのママさんに海軍跡のことを聞いたり父の話をした
ママさんはなぜかラバウル小唄を聞いたら涙ぐむという
当時の若人はどんな思いで戦争に行ったのだろうかと考え
今の若い人はそのことをどんな風に考えているのかと思うそうだ

ママさんに貰ったアイスキャンディー









途中で海兵団跡へと向かうが道がわからなくなりポンプ場の工事の人に聞く
工事の人(阪神ファンだった)は市役所の知り合いに電話で聞いてくれた
そうしたら教育委員会の人がわざわざ工事現場に資料を持ってきて下さった
お礼を言って海兵団跡を管理している三井・デュポンケミカル大竹工場へ向かう









工場に電話して見学の了解を得て総務の人に碑文の場所へと案内していただく









写真撮影の後に烹炊所跡や滑走路跡(ここは工場内部で撮影禁止)の説明も受けた









当時の烹炊所付近









大竹の親切な人達のおかげで念願の海兵団跡に行け父の若かりし時を偲ぶことができたことを心から感謝します


さてここから広島市に戻り楽しみにしていた路面電車の広電で広島港に行く









広島港の待合所









江田島の中町桟橋に向け出港の時少し小雨が降る









中町桟橋に到着









これから宿泊予定の能美海中ロッジ(国民宿舎)へと向かった







撮影:Canon G9X

続く

2016年7月 祇園祭山鉾巡行を見る

2016年07月19日 | Weblog
7年ぶりくらいで祇園祭の山鉾巡行を見に行く
9時に四条烏丸を出発する巡行は四条河原町を北へ左折し
10時半頃に河原町御池の交差点に到着し西へと左折する
この交差点は人混みも少なく見やすいので常時利用している

長刀鉾が来る









鉾が来ると大勢の人がスマホで撮影する
中国人・韓国人の自撮り棒は数本あったがコンダクターの説明が効いたのか
遠慮がちにほほえましく撮っていた
むしろ日本人の長身の兄さんの長い手が目障りである

次いで函谷鉾









表紙写真の月鉾が無事交差点を回ったので次の目的の岡崎公園に向かう


京都市勧業館みやこめっせの京都伝統産業ふれあい館では「手しごとを支える道具たち」の展示があった
何かを始める時に道具から入ることが多く私の家には使ったこともない渓流釣りの道具などがある
しかし今日ここに展示されている道具はどれも使い込まれていて素晴らしい風格がある









人も少なく職人さんの実演ブースでは関東から来た人がのんびりと説明を受けていた


ここから道具達に別れを告げてロームシアター(旧京都会館)へ行き
西本智美指揮京都市交響楽団のヴェルディ「レクィエム」を聴く


撮影 Canon G9X