司馬遼太郎の『関ケ原』を読みました。部分的には何度も読んでいますが、全編を通して読み返したのは学生時代以来です。
学生時代はひたすら徳川家康の嫌なところだけが目に付きました。その反対に石田三成の清廉さ純粋さに心を打たれました。今回、読み返してみると印象がだいぶ変わったことに気が付きます。家康をさほど嫌な人間とは思わなくなったのですね。様々な本を読んでいく中で人間に対する見方が変わってきたのでしょう。今では戦国乱世を終わらせ、新たな国を作ってくためには家康の力が必要だったと考えるようになりました。だからといって、家康が好きになったわけではありませんが。
また、以前読んだ時は、大谷刑部と島左近の印象があまりにも鮮やかすぎたためか、他の武将の存在がくすんでしまい、記憶に残りませんでした。この点についても今回は違います。いずれの武将も生き生きと描かれており、実際、このような形で歴史は進行していったのだろうな、と思いました。もとより『関ケ原』は小説であって、事実ではないのですが、そのようなことを思わせないところが司馬遼太郎の筆力ということなのでしょうか。
家康は常に三成の上をいく策謀を巡らし、すべてを自分の思う通りの方向に向けていきます。戦いの勝利が事務的なものになるまで準備を進めるわけです。極論してしまえば、あとはもう寝ていても勝てるという状態にもっていくわけですね。しかし、それでも、最後には小早川秀秋という「あほう」でしかない男の決断にゆだねる以外に勝てる方策がないところまで追い込まれてしまいます。このあたりが歴史の面白いところで、家康も最後まで薄氷を踏む思いだったのでしょう。反対に三成についてはよくぞここまで戦ったというところでしょうか。
そのうえで、歴史というのはある局面で一つの結末へと否応なく収斂していくものではないのか、と思いました。関ケ原の戦いに至るまでは多くの戦国武将の思いが錯綜して、一見どうなるのかわからないイメージがあります。しかし、結末がわかっている立場から見ると、戦国武将たちのまとまりのない行動が、結果として家康の勝利へと収斂されていく原因となっていたような気がするからです。
単なる結果論といってしまえば、それだけのことですが、司馬遼太郎の『関ケ原』を読むと、そんな歴史のうねりを垣間見るような気持ちになるのです。