徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

「法定相続情報証明制度」

2017-05-26 12:50:54 | 行政書士業務

 今月5月29日から、「法定相続情報証明制度」が始まります。相続手続の際には、なくなった被相続人の生まれてから亡くなるまでの戸籍謄本を集め、それを金融機関や法務局に呈示する必要がありました。手続を行う金融機関や法務局が多い場合には、その度ごとに集めた戸籍謄本の束を呈示することとなり、手続が煩雑化する原因の一つとなっていました。

 「法定相続情報証明制度」は、被相続人の生まれてから亡くなるまでの戸籍謄本一式と相続関係の一覧表を法務局に提出することで、法務局が認証した「法定相続情報一覧図」を発行してもらえる、というものです。この「法定相続情報一覧図」は従来の戸籍謄本の束に代わるもので、金融機関や法務局に呈示することで、預金の引き出しや不動産登記の申請手続に利用することが出来ます。各機関への手続の度に戸籍謄本のチェックを行う必要がなくなりますし、また、複数枚発行してもらうことができますので、同時に複数の金融機関や法務局に対して相続手続を進めることができます。相続手続がスムースに行われることが期待されています。

 ただし、相続手続に必要な他の書類については従来と変わりはありません。たとえば、公正証書遺言を利用して相続手続を行う場合には、遺言公正証書の正本が必要となります。遺言公正証書の正本は一部しかありませんので、手続き先の金融機関や法務局が複数ある場合には、これまで通り一か所づつ処理していくしかないのです。


 なかなかすっきりとはいかないものですが、戸籍謄本の束を何度もチェックする必要がなくなったことだけでも、大きな前進だと思います。

 なお、「法定相続情報証明制度」を利用して「法定相続情報一覧図」を発行してもらうことができる人は、被相続人の相続人の他に被相続人の親族や有資格者、すなわち、私のような行政書士や、弁護士、司法書士、土地家屋調査士、税理士、社会保険労務士、弁理士、海事代理士となっています。


水原秋櫻子集

2017-05-16 15:17:29 | 日本文学散歩
 俳句で辿る日本の原風景。一言で言えば、このような印象でしょうか。とにかく、日本の美しい風景が、読んでいくそばから目の前に広がっていきます。改めて日本人で良かったと思わせる一巻です。

 水原秋櫻子は、良い旅行吟というのは、その場所に行ったことのない人でも、その句を読むことでそこに行きたくなるものだ、と言っています。けれども、この言葉は旅先で作られた句だけに限られたものではありませんね。句集すべてからそのような感じを受けます。読んでいてわかりやすいし、気持ちがいいです。ただ、あとがきにも書いてありますが、句集に載せられている風景のほとんどは既に見ることができなくなってしまっているのが現状でしょう。淋しいかぎりです。
 
 行春や水草のみなる池の面
 水無月や青嶺つづける桑のはて
 最上川秋風簗に吹きつどふ
 鯉とゐる疾き魚影や石蕗の花
 
 秋櫻子句集には、歴史上の人物や出来事についても詠まれているものがいくつかあって興味を惹かれます。句の前書を読まなければわからないものがほとんどですが、それと知ったうえで読むと味わい深いものがあります。

 おもはざるむかしがたりや田植時
 
  秋櫻子が土方歳三の孫と語った時の句です。
 
 むなしさに冬麗の天残りたる
 
  安土城天守閣址
 
 山茶花や戦記の末に散りにほふ
 
  これは前書に真田幸村戦死のところ、とあります。
 
 田を植ゑて伽羅御所残るものもなし
 
  藤原秀衡の館跡。
 
 源平の合戦から戦国時代、さらには西南戦争まで、水原秋櫻子は俳句の中に様々な時代を詠み込んでいます。こういった俳句にはあまり馴染みがないものですから、ひどく新鮮に感じられました。
 
 最期に心に残った句をひとつ。
 
 鶴とほく翔けて返らず冬椿
 
 石田波郷を悼んで詠んだ句です。哀切な思いが伝わってきます。

ヰタ・セクスアリス

2017-05-14 13:56:11 | 日本文学散歩

 二十代の頃にこの小説を読んだ時、何だかよくわかりませんでした。あまり印象に残らなかったというのが、正直な感想でした。けれども今、五十歳も半ばを過ぎてから読み返すと妙に納得できたような気持ちがするのが可笑しいです。

 『ヰタ・セクスアリス』は鴎外の性に関する回顧録という側面を持った小説です。ただ、それが鴎外のみのものだけに留まっていないのが、この小説の後の世まで残るようになった原因でしょう。明治時代と現在とでは時代背景もそこに生きる人々の考え方もかなり違います。けれども、性というものに対する見方はたいして変わっていないのですね。と言うより、現在の方がもっと遠慮が無くなっている感じがします。個人の権利の保護がある意味で過剰なまでに求められている一方で、性についてのことだけではありませんが、人間存在そのものが貶しめられている風潮を強く感じます。何なのでしょうね。あらゆることが複雑化していく一方で、それに対するに形式化したものしか示せない。性犯罪に対する厳罰化は必要ではありますが、それだけでは犯罪を防ぐことはできません。かと言って、個人に対する監視を強めることは本末転倒した議論になりますし、再犯の防止と言っても、個人の権利との関係からおのずと限界があります。性犯罪を犯す個人のゆがんだ欲望を規制することは外部からの働きかけだけでは駄目ということなのでしょう。深刻な問題だと思います。

 それはさておき、『ヰタ・セクスアリス』は当時隆盛を極めていた自然主義に対抗して書かれたものといわれている一方、小説としては中途半端で失敗作であるともいわれています。けれども、失敗作といわれているこの小説が文庫化されて今日まで残っているのは、人間が成長していく過程で避けては通れない性との向き合い方が、鴎外独特の醒めた視点でたんたんと描かれているからではないのかと思います。日本文学における自然主義は、人生の汚い部分を敢えて描くことで、人間の本質に迫ろうというものであると思います。しかし、そのような表現を用いなくても、人間の本質は描けるということを『ヰタ・セクスアリス』は示しているのでしょう。

 私が面白いと思ったのは、大学卒業を祝う場面で金井君が世間の見方について覚醒する場面です。

 

「僕はこの時忽ち醒覚したような心持ちがした。譬えば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。」

 

鴎外の小説に登場する「傍観者」の視線が現れてくるからです。鴎外の建ち位置がこんなところから始まったのかと思うと何やら愉快な気持ちになります。


新島襄

2017-05-13 09:16:50 | 読書

 NHK大河ドラマ「八重の桜」を観て、新島襄という人物に感銘を受けました。明治の始めにこれからの日本に必要なのは教育であるとして、キリスト教主義を基本とした大学設立を目指した姿に自らの信念に殉じた人間の美しさを見た思いがしました。もちろん、ドラマですから半分は割り引いて見るべきでしょう。しかし、そのことを考慮に入れても日本にはこんなに素晴らしい人がいたのだ、ということに感動したのです。以後、新島襄に関する本を何冊か読み、ますます興味を持つようになりました。今回読んだ和田洋一氏の『新島襄』は彼の長所だけではなく短所も描いたバランスの取れた評伝であると思います。

 まえがきによると同志社大学では、議論の最中に新島襄の名前が出ると「表だって反対できなくなる」雰囲気があったそうです。新島襄という存在が神格化されてしまっていたのですね。ですから、新島襄については批判じみたことは書けなかったようです。和田氏は、そのようなことでは、「若い読者はますます新島を縁遠く感じるのではないだろうか」といった思いから、自分の手で新島伝を書こうとしたそうです。

 私は以前、2005年に出版された太田雄三氏の『新島襄 良心之全身二充満シタル丈夫』を読み、それまで抱いていた新島襄の人物像に疑問を抱きました。太田氏の作を読みますと、新島襄は他人の褌で相撲を取ることが得意なだけの薄っぺらな人物に思えてしまったからです。太田氏は新島襄に関する様々な文献をあげて書いていますので、内容には説得力があり、私も一読後、う~んとうなってしまったのです。それはないだろうと心の中では思うのですが、有効な反論を見出だすことができずにいました。そんなときに手に取ったのが和田洋一氏の「新島襄」だったのです。この評伝が発表されたのは1973年で、太田氏のものより古いのですが、読み終わって、やはり新島襄は近代日本を代表する一人物であるとの確証を持つことができました。

 新島襄が目指したことは日本にキリスト教主義の大学を作ることであり、そのために彼は文字通り粉骨砕身するのです。クリアしなければならない課題はいくつもありました。資金、学校の設置許可、外国人教員の招聘許可、出資を仰ぐアメリカン・ボードとの間の教育方針の違いの調整など、どれ一つ取っても生半可な気持ちで解決できるものではありませんでした。しかし、新島襄はそれらの課題を少しずつ乗り越えていきます。和田氏は新島家の家系が長寿であることを紹介したうえで、新島襄が若くして倒れたのは、彼が大学建設のために命を擦り減らしたからだと書いていますが、むべなるかなと思います。明治初期の日本におけるキリスト教ヘの見方は、邪教に対するそれと変わりはありませんでした。そのような状況下で課題の解決のために意に添まない妥協を強いられ、そのことが、最大の支持団体であるアメリカン・ボードとの間に無用の軋轢を生じさせ、今度はその解決のために動かなければならない。新島襄の活動はそのようなことの繰り返しでした。

 ただ、これに関してはある意味、自業自得であるとの見方もあるようです。和田氏は沢山保羅に言及しながら、その問題について書いています。沢山保羅は長州班の士族であり、5年間のアメリカ留学の経験もある人でした。ですから、明治新政府の中で出世の機会はいくらでもありました。しかし、彼は新島襄と同様、キリスト教主義の学校設立の情熱を燃やし、夢を実現します。しかも彼は一切の支援を受けずに清貧な生活に甘んじながらその夢を現実にしたのです。新島襄は同志社代表であると同時にアメリカン・ボードから派遣された宣教師でもありました。彼の生活を支えていたのは同志社からの給料ではなく、アメリカン・ボードからの高額な給料だったのです。新島襄が大学設立という事業だけに邁進するのであれば、アメリカンボードからの支援を打ち切るという選択も有り得たでしょう。しかし、彼にはそのようなことはできませんでした。このような新島襄の行き方は、沢山保羅とくらべてはるかに大きな成果を残しましたが、人の範たる生き方としてはどうだったか。和田氏は「ゆがみはゆがみとして認めねばなるまい。」と書いています。個人的には、それが彼の選んだ道であれば問題ないのではないかと思うのですが。

 新島襄はキリスト教主義の大学を作ることを自分の使命としていました。使命とは命を使うということです。大事なことは、最期まで自ら決めた夢の実現に命を懸けられるか否かだと思うからです。

「尚お壮図を抱いて此春を迎う」

 新島襄最晩年の七言絶句にある最後の句です。ここに新島襄の思いがあふれていると思います。

「新島は喧嘩は好きではなかったが、しかし、主義の人であるかぎり、争いは避けられなかった。新島はまたこのうえなく力めた(ツトメタ)人であった。無理に無理を重ねて寿命をちぢめた人であった。」

 和田氏は新島襄についてこのように書いています。私も同感です。色々と欠点はあったと思います。けれども、自らの理想実現に命を懸けたという点において、彼は決していわゆる「エライ先生」ではなかったのです。


みずうみ

2017-05-11 21:29:23 | 読書

 シュトルムの『みずうみ』みずみずしい青春の物語です。大概の人は似たような経験をしているのではないでしょうか?

 初恋は報われない、だからこそ美しい、というのは一面の真理であると思います。若い日の恋を大切に抱きしめている人は他人に優しいのではないか、そんなことさえ思います。

『みずうみ』は二十代の頃、一度読んでいますが、さほど感銘を受けませんでした。ただ、きれいな物語だな、と思ったばかりです。今、五十歳も半ばを過ぎてから読み返しますと、その美しさに心が洗われるようです。

 この物語には取り立てて言うほどの事件は起こりません。幼い頃に結婚を誓い合ったラインハルトとエリーザベトでしたが、長じて後、別々の人生を歩むこととなります。 ラインハルトの友人エーリッヒの妻となったエリーザベトと再会したラインハルトですが、表面的には何らの事件も起こりません。もちろん、二人はそれぞれに精神的な葛藤に悩まされます。ラインハルトの場合、葛藤の象徴としては描かれるのがみずうみに咲く睡蓮でした。彼は泳いで睡蓮の元へ行こうとしますが、果たせず、自分の部屋に戻り、朝まで一人で過ごすのです。翌朝早く、彼はエリーザベトの住む屋敷を出て行きます。

 

『「あなたはもう二度といらっしゃらないのね」とついに彼女は言った。「わたしにはわかっていますわ。嘘はおっしゃらないでください。あなたはもう二度と、いらっしゃらないのね」

「ええ、もう二度と伺いません」

と彼は言った。』

                                 関 泰祐 訳

 

 別れの場面です。この言葉通り、再び二人が会うことはありませんでした。

 

 『彼の前には、大きな広々とした世界が開けてきた。』

                   関 泰祐 訳

 

 エリーザベトの元を去ったラインハルトの目には未来が広がっていました。新たな人生が始まったのです。物語はラインハルトの旅立ちの場面の後に、彼の晩年の姿が描かれます。ラインハルトは終生、エリーザベトだけを思って生きてきたのでしょうか?

 この物語からはわかりませんが、私はそうではないと思います。けれども、人生の終わりを迎える前に彼の心に去来するものは紛れもなくエリーザベトであり、青春の葛藤の象徴である白い睡蓮だったのです。

 現代ではこのような話はドラマとしては成立しにくいかも知れません。社会と人間が複雑化し、何事にも一波乱なければ納まらないのが現代社会ですから。けれども、多くの人は心の底でこのような物語を求めていると思います。シュトルムの作品で『みずうみ』が版を重ねていることがその証明ではないかと思います。