NHK大河ドラマ「八重の桜」を観て、新島襄という人物に感銘を受けました。明治の始めにこれからの日本に必要なのは教育であるとして、キリスト教主義を基本とした大学設立を目指した姿に自らの信念に殉じた人間の美しさを見た思いがしました。もちろん、ドラマですから半分は割り引いて見るべきでしょう。しかし、そのことを考慮に入れても日本にはこんなに素晴らしい人がいたのだ、ということに感動したのです。以後、新島襄に関する本を何冊か読み、ますます興味を持つようになりました。今回読んだ和田洋一氏の『新島襄』は彼の長所だけではなく短所も描いたバランスの取れた評伝であると思います。
まえがきによると同志社大学では、議論の最中に新島襄の名前が出ると「表だって反対できなくなる」雰囲気があったそうです。新島襄という存在が神格化されてしまっていたのですね。ですから、新島襄については批判じみたことは書けなかったようです。和田氏は、そのようなことでは、「若い読者はますます新島を縁遠く感じるのではないだろうか」といった思いから、自分の手で新島伝を書こうとしたそうです。
私は以前、2005年に出版された太田雄三氏の『新島襄 良心之全身二充満シタル丈夫』を読み、それまで抱いていた新島襄の人物像に疑問を抱きました。太田氏の作を読みますと、新島襄は他人の褌で相撲を取ることが得意なだけの薄っぺらな人物に思えてしまったからです。太田氏は新島襄に関する様々な文献をあげて書いていますので、内容には説得力があり、私も一読後、う~んとうなってしまったのです。それはないだろうと心の中では思うのですが、有効な反論を見出だすことができずにいました。そんなときに手に取ったのが和田洋一氏の「新島襄」だったのです。この評伝が発表されたのは1973年で、太田氏のものより古いのですが、読み終わって、やはり新島襄は近代日本を代表する一人物であるとの確証を持つことができました。
新島襄が目指したことは日本にキリスト教主義の大学を作ることであり、そのために彼は文字通り粉骨砕身するのです。クリアしなければならない課題はいくつもありました。資金、学校の設置許可、外国人教員の招聘許可、出資を仰ぐアメリカン・ボードとの間の教育方針の違いの調整など、どれ一つ取っても生半可な気持ちで解決できるものではありませんでした。しかし、新島襄はそれらの課題を少しずつ乗り越えていきます。和田氏は新島家の家系が長寿であることを紹介したうえで、新島襄が若くして倒れたのは、彼が大学建設のために命を擦り減らしたからだと書いていますが、むべなるかなと思います。明治初期の日本におけるキリスト教ヘの見方は、邪教に対するそれと変わりはありませんでした。そのような状況下で課題の解決のために意に添まない妥協を強いられ、そのことが、最大の支持団体であるアメリカン・ボードとの間に無用の軋轢を生じさせ、今度はその解決のために動かなければならない。新島襄の活動はそのようなことの繰り返しでした。
ただ、これに関してはある意味、自業自得であるとの見方もあるようです。和田氏は沢山保羅に言及しながら、その問題について書いています。沢山保羅は長州班の士族であり、5年間のアメリカ留学の経験もある人でした。ですから、明治新政府の中で出世の機会はいくらでもありました。しかし、彼は新島襄と同様、キリスト教主義の学校設立の情熱を燃やし、夢を実現します。しかも彼は一切の支援を受けずに清貧な生活に甘んじながらその夢を現実にしたのです。新島襄は同志社代表であると同時にアメリカン・ボードから派遣された宣教師でもありました。彼の生活を支えていたのは同志社からの給料ではなく、アメリカン・ボードからの高額な給料だったのです。新島襄が大学設立という事業だけに邁進するのであれば、アメリカンボードからの支援を打ち切るという選択も有り得たでしょう。しかし、彼にはそのようなことはできませんでした。このような新島襄の行き方は、沢山保羅とくらべてはるかに大きな成果を残しましたが、人の範たる生き方としてはどうだったか。和田氏は「ゆがみはゆがみとして認めねばなるまい。」と書いています。個人的には、それが彼の選んだ道であれば問題ないのではないかと思うのですが。
新島襄はキリスト教主義の大学を作ることを自分の使命としていました。使命とは命を使うということです。大事なことは、最期まで自ら決めた夢の実現に命を懸けられるか否かだと思うからです。
「尚お壮図を抱いて此春を迎う」
新島襄最晩年の七言絶句にある最後の句です。ここに新島襄の思いがあふれていると思います。
「新島は喧嘩は好きではなかったが、しかし、主義の人であるかぎり、争いは避けられなかった。新島はまたこのうえなく力めた(ツトメタ)人であった。無理に無理を重ねて寿命をちぢめた人であった。」
和田氏は新島襄についてこのように書いています。私も同感です。色々と欠点はあったと思います。けれども、自らの理想実現に命を懸けたという点において、彼は決していわゆる「エライ先生」ではなかったのです。