徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

セメント樽の中の手紙

2010-02-22 19:03:30 | 日本文学散歩
「セメント樽の中の手紙」は、葉山嘉樹が大正15年に雑誌文芸戦線に発表したプロレタリア文学の名作です。

セメント工場で働く主人公は、仕事中にセメント樽の中から小さな木の箱をみつけます。その中から出てきたのはボロ布に包まれた手紙でした。そこには、セメント工場で起きた事故によって恋人を亡くした一人の娘の思いが書かれてありました。彼女の恋人は破砕機にはまり、身体はくだかれセメントとなったのでした。手紙には恋人の魂が塗り込められたセメントがどのような場所で使われたかを心配する娘の思いがつづられていきます。「劇場」や「大邸宅」などのように、労働者を踏みつけにして利益を貪る一部の金持ちのための建物に使われることなど耐えられないと。彼女にとって、このセメントは、ただのものではなく、恋人そのものなのでしょう。読んでいて切なくなってしまいます。
そして、手紙の最後にはこうあります。

「あなたも御用心なさいませ。さようなら。」

ここを読んで、私は思わずぞっとしました。セメント工場の破砕機に象徴される危険がすぐとなりにあるかもしれないことに思い至ったからです。そもそもこの作品は、大正から昭和初期における労働者のおかれた悲惨な状況と絶望感を描いたものだと思います。けれども、私には、それだけではなく、誰しもが陥る可能性のある人生の暗黒部分について書かれたものだとも思えるのです。あたかも不条理な人生と社会に対する呪いの言葉のように・・・

「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして、何もかも打ち壊して見てえなあ」

手紙を読み終えた主人公が言う言葉です。こんな社会どうにでもなってしまえ!といったやりばのない怒りといいますか、絶望感が伝わってきます。

現代社会にも似たような状況があると思います。結局、いくら社会制度を変えても、それを運用する人間の中身が変らなければなにも変らない。もっと人間の内面に目を向けた改革が必要ではないでしょうか?


歯車

2010-02-06 14:27:13 | 日本文学散歩
「歯車」は、芥川龍之介が自殺した年に書いた小説です。

タイトルの歯車とは精神的に追い詰められた主人公が見る幻影のことです。

「・・・僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?-というのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。~歯車はしだいに数を増やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない。しばらくののちには消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、・・・」

「歯車」の主人公はえたいの知れない不安に絶えず脅かされ続けます。主人公にとっては、彼を取り巻くすべてのものが、彼に対して悪意をもっているかのように思えるのです。普通考えればなんでもないことが、病み疲れた神経には自分を破滅へと導く象徴として映る。これは、芥川龍之介だけの問題ではありません。現代の我々も程度の差はあれ、同じような不安を覚えることがあると思います。

それまで当然と思ってきたことが、ある日を境として、ひっくり返ってしまう。その新しい状況に対応するために必死になるけれども、なかなか思うようにいかない。この場合、すべてをまわりの環境のせいにして、自分は悪くないと言える人は幸せです。その人の人生がどうなるかは別としましてね。
そうでなければ、言いしれぬ不安をいだいたまま、生きていくこととなります。そのあげくに自分で自分を信じられなくなることもあるかも知れません。恐ろしいことです。そんなときに人は、「半透明の歯車」を見るのかもしれません。


芥川龍之介が自殺した原因は「将来に対するただぼんやりした不安」といわれています。この「不安」については様々な解釈が出来るでしょうが、私はまさに出口が見えないことへの不安であると思います。言い換えれば、自分が拠って立つ場所がある日突然崩れ去ってしまうことへの不安です。芥川龍之介が生きた大正から昭和にかけての日本と今の日本とでは、社会の仕組みはまったく違います。現代の日本では、社会保障制度はありますし、直接的な戦争への不安もありません。さらには、人に対する「やさしさ」とか「思いやり」などといった言葉は、大正や昭和初期に比べれば、それこそ洪水の如く溢れかえっているのではないかと思います。しかし、年間3万人を超える自殺者が出るのはなぜなのか。程度の差はあれ、精神を病む人が増加しているのはなぜなのか。

物質的な欲望を充足することや、表面的な形を整えることだけに気を取られて、もっと大切な「なんのためにそれが必要なのか」といった問いかけを無視してきたことのつけが現在の日本の姿となって現れているのではないか。そんなことを考えるのです。

「こういう気もちの中に生きているのはなんとも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」

「歯車」のむすびとなる言葉は、けっして芥川龍之介だけのものではないでしょう。


節分

2010-02-03 18:36:24 | 身辺雑記
今日、神社で豆まきをしているところを見かけました。たくさんの子供の歓声が遠くから聞えてきたので、なにをしているのだろうと思い、声のする方に行ってみると豆まきをしていたのです。神社の拝殿から「福は内」の掛け声とともにまかれる豆の入った袋をとろうとして、たくさんの子供や大人がにぎやかに騒いでいました。このような光景は、テレビ以外ではあまり見たことがないものですから、思わず立ち止まって見入ってしまいました。


節分です。


明日は立春で、寒い冬ももう少しで終るのかと思うと、なにがなし心が浮き立つような気がします。ただ、花粉が飛び始めますので、花粉症の私にはちょっとつらいですけれど。

豆まきを見物してから少し歩きますと、梅の花が咲いているのを見つけました。見事な白梅です。いつも通っている道なので、今まで気が付かなかったのが不思議です。


春が音をたてて近づいてきている。


梅の馥郁たる香りに包まれながら、一瞬、冬の寒さを忘れてしまいました。