徒然草紙

読書が大好きな行政書士の思索の日々

新田義貞 関東を落すことは子細なし

2017-05-05 11:24:33 | 読書
 山本隆志氏の「新田義貞 関東を落すことは子細なし」を読みました。副題の「関東を落すことは子細なし」とは、楠正成が後醍醐天皇に、新田義貞を切って、足利尊氏と和睦するように進言した際に言ったという言葉です。正成はその後に在京の武士たちの殆どは尊氏に付き従っている、と言っています。京都において足利尊氏の軍を打ち破り、西国に敗走させた後醍醐天皇方でしたが、在京の武士たちの多くが尊氏に従っていきました。正成はその事実を指摘したうえで不人気の義貞を切るように言っているのです。
 新田義貞は、武士たちだけではなく、朝廷の公家たちにも人気が無かったようです。これは義貞の性格が悪かったというよりは、誰に対しても如才なく愛嬌を振り撒くということが性格として出来なかったことが原因ではないかと思います。また、権謀術数をこととする政治の世界で生きるには不器用過ぎたとも言えるでしょう。義貞が歴史に登場した時、彼は無位無冠の一地方武士に過ぎませんでした。この本にも書いてありますが、そのことは彼が政治的な訓練を殆ど受けることが無かったことを意味します。なるほど、義貞は戦闘には強かった。鎌倉幕府をあれほど短い間に滅ぼすことが出来たのは義貞の力です。けれども、その後がいけない。鎌倉を掌握した後、鎌倉幕府撃滅の立役者としてもっと存在をアピールしなくてはならない時に何もしなかったのです。山本氏は義貞の政治力の無さにその原因があると書いています。おそらく義貞は何をしたらよいのか分からなかったのでしょう。読んでいて悔しくなりますが、政治的な経験が乏しければそうならざるを得ないことはあったかも知れません。

 ただ、武士として恥と名誉を重んじるという点では一流でした。「梅松論」「太平記」には、箱根・竹下合戦敗北後の天龍川渡河において、敗者が架けた橋など壊したところで勝者はすぐに架けてしまうだろうから、あわてて橋を壊して末代までの恥になるようなことはしないと言って、自分たちが架けた橋を壊すことなく残していったこと。さらに、溺れそうになった部下たちを助けて川を渡っていったということの二つの行動に、敵である足利方の武士たちも涙を流して称賛したとあります。欲望がむき出しになって人としての情けや恥を知ることが少なくなった南北朝時代における義貞の振る舞いは、それを見た武士たちを感激させたのです。不器用だけれど、思いやりがあって恥というものを知る信頼の出来る男。これこそが義貞の人間像だったのでしょう。

 新田義貞が戦死したのは越前燈明寺畷です。吉川英治の「私本太平記」を読みますと、義貞は追い詰められたあげくに戦死したようなイメージを持ちますが、事実は違うようです。京都を去って後に、次の拠点と定めた金ヶ崎城は防戦空しく落城しますが、辛くも逃れた義貞は、越後で再び再起します。その規模は、かなり大きなものでした。

「ここからうかがわれる新田方勢力は、杣山から国府にいたる道に沿った交通、国府という政治的拠点、国府から日野川沿いに下り九頭竜川との合流点にある黒丸城、黒丸城を中心に周辺の勝蓮華宿、金津城、日野川流下の三国湊という一大世界を形成していた。・・・中略・・・これが維持・強化されれば、三国湊から越後方面との連携も密になり、義貞の目指す北国経営につながる。こうした世界を、義貞は形成しつつあったと考えてよかろう。」
 
 このように山本氏は書いています。情勢がそのまま進めば、越後を中心とした一帯を支配する地方政権の成立も可能だったかも知れないのです。何だか読んでいてわくわくしてきます。しかし、運命は義貞に苛酷でした。義貞の死によって地方政権樹立の夢は潰えてしまいます。けれども読んでいて救いだったのは、義貞の死が追い詰められたあげくによるものではないことが分かったことです。逆に彼の死は、まさに反転攻勢のさなかにおける事故のようなものだったのでした。とかく、負け犬のようなイメージで語られることが多い新田義貞ですが、事実はだいぶ違います。これからさらに研究が進んで、新田義貞の真実の姿が明らかになり、彼に貼られた負のイメージが払拭されることを願うものです。