ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「涙の射殺魔・永山則夫と60年代」

2009-02-23 07:46:19 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「涙の射殺魔・永山則夫と60年代」という本を読んだ。
実に読みにくい本であった。
この本の奥付けにある著者紹介によると、朝倉喬司氏は岐阜県出身、1943年生まれ、早稲田大学中退となっているが、いわば私と同世代に近いが、いくらか全共闘世代に近い存在だ。
そういう視点でインターネットで著者の経歴を検索してみると、奥付き以上のデータは出てこなかったが、著作の多いのには驚いた。
しかし、この本も殺人犯の永田則夫の犯罪を暴くという意味では、そう傑出した作品ではない。
私が思うに、早稲田を中退して出版社で録を食みながら、こういう犯罪者を飯の種にしている神経の太さというか、罪悪感の希薄さというのは不可解千万である。
普通のモラルを逆なでして、世間の常識に抵抗することによってセンセーショナルに話題を沸騰させようとする意図が見え隠れする。
永山則夫などという人物は、ただの犯罪人であって、彼の行為には何一つ同情を奮い立たせる要因は見当たらない。
彼の生い立ちが貧乏で、彼自身薄倖の身だから犯罪に走るのもいた仕方ない、などとは到底思えない。
貧乏で、薄倖であっても健気に働いている人はいくらでもいるわけで、そんなことで彼の犯した罪が減刑されるわけがない。
しかし、この著者のトーンはなんとなく彼の生い立ちの不幸が、彼をこういう犯罪に走らせたのだから、死刑にするにはいささか可哀想だというニュアンスで描かれている。
その基のところにある著者の心情が、いわゆる全共闘世代に共通する反体制であって、資本家を悪者にしたてたいというイデオロギーに侵されている。
そして、言葉の言い回しが実に難解で、はなはだわかりにくい文章である。
そのわかりにくさの元のところにあるのが、がこれまた全共闘世代に共通する難解な言い回しが多用されているからである。
永山則夫が横須賀で拳銃を盗んで試し撃ちをする場面の猫写で、「かって日本という国のこれからに向けて、北方の強国に照準を合わせて何発も砲弾を放った戦艦が近くで眠っている公園で、・・・・・」などと回りくどい表現をしている。
私に言わしめれば、たった一言「戦艦・三笠」と、書き表わせば極めてわかりやすい場面なのに、何故にこのように回りくどい表現をするのであろう。
文字あるいは言葉を弄んでいするにすぎない。
これは、彼の潜在意識に潜む固定観念で以って、彼らの精神的よりどころとなっている中国や共産主義国を単刀直入に表現する言辞を使いたくなかったということなのであろう。
つまり、彼ら全共闘世代というのは、中国をはじめとする共産主義国がユートピアであって欲しかったわけで、それをぶち破った我が同胞を真底愛せない気持ちでいるわけである。
自分の同胞よりも、中国あるいは他の共産主義国の人民に憧憬のまなざしを向けているわけで、心の奥底にそういうわだかまりがあるので、なんとかして中国をはじめとする共産主義国家に受け入れられるように、日本という祖国の足を引っ張りたいのである。
この本の奥付けではノンフィクション作家という肩書になっているが、いわゆる売文家である。
売文で生計を立てているとなれば、売れる文章を書かなければ生計が成り立たない。
よって、売れる文章を書くということは、大衆に限りなくすり寄り、迎合しなければならないわけで、その為には政府や国家の提灯持ちのような記事では文が売れず、どうしてもそういうものに立ちむかうポーズを取らなければならない。
ただの殺人鬼の永山則夫を本の題材にするということは、その話題性に惹かれたわけで、ここでも食わんがための方策というのが見え見えである。
資本主義社会なのだから何を題材にして、それを如何様に料理してもそれは著者の自由であり、それこそ裁量そのものであるが、その中にも公序良俗に反しないというミニマムのモラルの順守は当然である。
問題は、この公序良俗の範囲というか幅の広さであって、彼ら全共闘世代に共通する認識としては、この範囲を無制限に拡大しようとする向きがある。
そのことは言い換えればそれの全面否定ということになる。
この本の場合、ただの殺人鬼の記述にしてはあまりにも手がこみ入りすぎて素直には読めない。
手がこみ入りすぎて回りくどい表現が多いという部分に、全共闘の影を見え隠れしているように思う。
永山則夫などと言ってみたところで、ただの人殺しであって、ただの人殺しを如何に深く考察したところで、将来の犯罪防止に役立たせる手段が解明されるものでもない。
石川五右衛門の辞世の句ではないが、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」であって、人のいるところ必ず犯罪というのは存在するわけで、死刑もどんどん施行するべきである。
死刑反対の運動も随分と姦しいが、どうして悪いことをする人間の擁護しなければならないのだ。
法律や社会のルールを守れないような人間は、どんどん抹殺すべきではないのか。
罪を犯せば、法律で定める刑罰を科すのは当然のことではないのか。
何も悪いことをしない人間を死刑にするわけではなく、泥棒をしたり人を殺した人間を警察が捕まえ、裁判にかけ、法が確定したその法を素直に実施するだけのことで、何ら人権問題に抵触する筋合いではない。
国家権力で以って罪を犯した人間を処罰するだけのことで、それが厭ならば最初から悪いことをしなければいいだけのことではないか。
永山則夫のように、家が貧乏で幼少のころから辛酸をなめて生きてきた人でも、犯罪に走らない自制心のある人はいくらでもいるわけで、家が貧しかったから犯罪を犯しても仕方がないでは通らない論理だ。
人の形をしていればすべてに人権があるというのは、人間の思い上がりに他ならない。
人が人である限り、人として守らなければならないルールをきちんと守っているからこそ、人として認められているわけで、人としてのルールや規範も守らない人間は、最初から人並みの人ではない。
そういう人にも同じように人権があるというのは、あまりにも綺麗事にすぎる奢り高ぶった思考である。
犯罪者を矯正する施設があるが、その施設の維持費は誰が負担しているのだ、ということを考えるべきである。
人として人並みに普通に働いている人が、収入に応じて定められた租税を払うことで、租税も払わず悪いことをした人間に飲み食いをさせているのである。
こんな不合理な話もないと思う。
きちんと人としてのルールを守り、倫理を順守し、身を粉にして働いて、税金を納め、福祉を享受している人間からすれば、働きもせず悪いことをする人間など、鞭で叩いて半殺しにしたい気持ちになるのが自然であって、当然のことであり、そういう人にまでなぜ人権などと称して、ただで飲み食いさせなければならないのだ。
21世紀の今日、あらゆる人が高等教育を受けて知識過乗の文化人になってしまったが、そういう人の口から出る言葉は、理想や理念で塗り固められた綺麗事でしかない。
綺麗事で以って、良い子ぶっているだけのことで、彼らの思っている良い事というのは、自然の摂理から離れた人為的な虚像であって、人間のもって生れた本質は「働かざる者食うべからず」である。
この殺人鬼でも何度も職に就きながら、その就いた職が長続きしないわけで、ここで我慢して本人が一生県命その職を続けていれば、殺人鬼などにならなくても済んだに違いない。
我々の社会を構成している大部分は、こういう人たちで成り立っているわけで、生まれ落ちた家が裕福で何不自由なく育った人というのは、数の上では少数派だと思う。
大部分の人がその生育の過程で大なり小なり問題を抱え、悩みを抱え、それを自分自身で解決しながら成人になるものだと思う。
私が我慢ならないのは、早稲田に進学できたような知性的に優れた人が、全共闘世代に共通する思考から脱却できずにいるにも関わらず、こういう犯罪者を飯の種にして稼ごうという魂胆である。
単純な正義感の持ち主ならば、こういう人間を容認できないはずであるが、彼の場合、こういう人間に同情を寄せているわけで、その部分があまりにも偽善的でありすぎる。
偽善を売り物にしている構図である。
死刑廃止を唱える輩も偽善を売り物にしているのであって、私からすれば鼻もちならない存在である。


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3 コメント

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大賛成 (胴元強志)
2010-03-21 18:01:02
全く同感です。
永山則夫に限らず、自分勝手な犯罪者達に同情する必要は皆無。
利益欲しさに犯罪者を題材にし、犯罪者側の本や番組を作るメディアも許せない。
ありがとうございました (Minesan)
2010-03-22 07:00:37
賛同くださいましてありがとうございます。
ただのダメ人間 (444)
2012-07-15 03:13:31
名古屋での殺人現場である港区七番町にわりと近い所に住む者です。同情の余地は無く、少年といえど4人も殺した罪は重く、死刑は至極当然であり、刑の執行前に全力で抵抗したという話には、むかっ腹が立ちました。いさぎよく死ねよと思いました。

殺人を起こさせたのは貧乏ではなく、己の怠慢に過ぎない。

彼の兄弟も貧乏であったが、殺人はしていない。

殺人事件は、何度も職を転々とするような堪え性の無い、怠慢な彼が起こすべくして起こしたものであり、決して断片ではない。

貧しさや無知は主たる原因ではない。

知識を身につけて立派になったふりをしていたが、誰だって1日中、仕事もせずに本に読みふければ文化人ヅラぐらいはできる。

結局はダメ人間でしかないのだ。

と私は思います。

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