例によって図書館から借りてきた本で「問答有用」という本を読んだ。
田中真紀子と佐高信の対談であったが、私は個人的に佐高信が嫌いだ。
何故に嫌いかといえば、彼は自分達の国の指導者というか、政治家に対して不遜な物言いをするので、その言葉に嫌悪感を覚えるからである。
政府や行政に対して不満を述べることは、批判は批判として受け入れることができるが、その中にも言葉のセンスというものは当然生きているわけで、彼のもの言いにはその言葉の中に軽蔑が込められているから我慢ならない。
今の日本の政府の要人は、いわゆる国民から選出された人々である。
官僚は国家公務員試験をクリア―してその地位を得ているが、政治家や代議士というのは国民から選出された人たちであるので、個人的にいくら気に入らないと言っても、その背景には選挙民の気持ちを背負っているはずなので、ある程度は敬意をもって接すべきものと思う。
批判するということはヤクザの喧嘩ではないので、言葉と言葉の戦いである以上、相手を頭から軽蔑するような物言いは厳に慎むべきだと思う。
相手の思考が己と相容れないとしても、相手の人格を否定するような物言いは、言う方の品格の問題だと考えている。
一方、田中真紀子は田中角栄の娘としては少々品位に欠けるようにも見える。
特に我慢ならないことは自民党を抜けたことだ。
今の時点で、民主党の小澤一郎の肩を持つ態度はどうにも解せない。
小泉純一郎が総理大臣になった時に、外務大臣として外務省の改革をしようとして、それに挫折してからというもの自民党を割って出てしまったので、その反動として民主党に擦り寄らざるを得なかった、という部分に信念の欠如があるように見える。
思えば、民主党というのも半分は元自民党のメンバーで成り立っているようなもので、こういう元の自民党のある派閥が民主党に名義変更するというのも、政界の摩訶不思議なところではある。
ところが昨今の民主党の主張というのは、何でもかんでも政権交代を要求しているわけで、政権交代すればそれだけで今の日本の現状が好転するという論理は、あまりにも無責任きわまる。
政党であるからには、政権を担うという理念は捨てがたい願望であろうが、ただただ自民党のすること成すこと反対さえすれば世の中が良くなる、などという論理はあまりにバカバカしい話だ。
小泉首相の時、小泉氏と考え方が違うというだけで、党を割って出た人がかなりいるが、田中真紀子もその中の一人である。
小泉氏とは相いれないという信念で党を出た人の後釜に、小泉チルドレンという若手がその抜けた跡を埋めたわけであるが、この対談の主人公は、それが気に入らないわけで、その点で見解が一致している。
政治というのは基本的に誰がリーダーであったとしても批判は免れないものだと思う。
一つのことを実践すれば、それには必ず利害得失が伴うわけで、そこには当然批判というものが生まれるのであって、その批判が国民全体の利益を否定するものであってはならない。
益する人が過半数ならば、その施策は由としなければならないと思う。
何かを改革すれば、その改革によって損害を被る人が必ずいるわけで、その損害を受ける人よりも得をする人が多ければ、それは容認せざるを得ない。
改革を迫られるということは、そこに不当な利益を得てる人がいるということで、その不当な利益の部分は公平に分配されなければならないことは言うまでもない。
既得権益を維持したいというのは当然のことで、改革をするということは、その既得権益を御破算にするということであり、当然、そこには抵抗勢力が生まれる。
世の評論家という人々は、こういう場面で、当事者の全員が納得する方策ということを旗印にしがちであるが、そんな八方美人的な良い子ぶった綺麗事の解決方法はありえない。
何処かで誰かに犠牲というかしわ寄せがいくとことは避けられない。
政府というのは、そういうことを十分理解したうえで、少数の既得権益にしがみついている人よりも、大多数の人達の利便、つまり公共の福祉を図らねばならないのである。
政治には犠牲が伴う以上、政府に対する批判というのは避けて通れない道である。
私は、政府から提灯持ちの金をもらっているわけではないが、政治というものを冷静に観察すれば、こういうことになると思う。
政治課題の一つ一つにそれぞれに意見の相違というのはついて回るわけだが、民主政治というのは、国民の最大多数の最大幸福を追求するものではあっても、その全ての幸福には至らないのも無理ない話だと思う。
ところが政府を責める側は、国民の100%の人の完全な幸福を政府に負わせようと、それを追求するわけで、それはある意味でまことに無責任な態度だと思う。
民主主義の政治体制の中で、国民の全部が納得する政治というのはありえないわけで、そういう前提の中で、「全員が納得していないから政権交代せよ」という論理は間違っていると思う。
この本の二人の論者は、それを言っているわけで、それは批判のための批判になってしまっている。
ある一つの施策に対して、その方法論は幾つもあるわけだが、政府としては、その方法を二つも三つも取りえないわけで、当然一つに絞らざるを得ないが、折角一つに絞り込んだものを否定するということは、何もせずにおけというに等しい。
こんなことは普通に常識のあるものならば自明のことで、ことさら大声で叫ばなければならないことではない。
こういう中で、田中真紀子が小澤一郎に肩入れするというのは明らかにおかしいことだと思う。
しかし、小泉純一郎の後の自民党総裁の面々には、彼らでなくともいささか愛想がつきたことは当然である。
あまりにも情けないというか、ふしだらというか、無責任というか、言葉がない。
日本が戦争に負けて、アメリカ占領軍のトップのマッカァサー元帥がいみじくも言ったように、日本の政治の状況はまさしく12歳の子供の政治でしかない。
以前、言われたように、経済は一流だが、政治は三流という言葉も、まさしく至言だ。
昭和の初期に日本が戦争に嵌り込んでいった過程も、突き詰めれば政治の未熟であったと言える。
軍人がのさばったことは歴然たる事実であるが、政治の世界に軍人が口を挟むことを許した責任は、政治の側にあると思う。
いくら軍人がサーベルの音をガチャつかせても、当時の政治家が毅然と立ち向かえば、軍人が政治を司る隙はなかった筈だ。
政治家が軍人のテロを恐れる気持ちは分からないでもないが、政治家を志す以上、テロの標的になることは覚悟の上ではなかったのかといいたい。
政治家というのは、いわゆる口舌の徒で、口先で如何様にも自己の利益を追求してやまない人たちなので、そこには国民のためという意識が薄れていたからに違いない。
ただ我々日本民族の場合、組織が組織自身の保全のためにしか機能しないわけで、官僚は官僚のため、軍人は軍人のため、政治家は自分の属する政党のためにしか意識が機能していないのではなかろうか。
そこでは国民不在なわけで、官僚も、軍人も、政治家も、誰一人国民のことを考えていなかったのではなかろうか。
そういう状況下でありつつも、日本の敗戦時において、大日本帝国の政府としてはきちんと機能していたわけで、あの時点でも無政府状態ではなかったわけだ。
ドイツの降伏は、全土が壊滅状態であって、ドイツ政府というのは崩壊して存在しておらず、まさしく無政府状態っであったので、無条件降伏であったが、日本の場合はきちんと政府というものは機能していたわけで、ポツダム宣言をきちんと受諾して降伏したことは、決して無条件降伏ではなかったが、9月2日の降伏文書の調印の時に、マッカアサーが文書に小細工をしたので、そういう風に思い込まされてしまっている。
こういう場面で、時の政治家がきちんと理論整然と反駁しなかったので、なし崩し的に我々は無条件降伏をしたと思い込まされてしまっている。
これも明らかに政治の稚拙さの立派な証明である。
理論整然と証拠を並べて説明すれば、誤解は解けるにもかかわらず、我々はそれをしていない。
我々日本民族の政治感覚というのは、何時まで経っても三流のままで進化することがない。
やはりそれは民族のDNAなのだろう。
田中真紀子と佐高信の対談であったが、私は個人的に佐高信が嫌いだ。
何故に嫌いかといえば、彼は自分達の国の指導者というか、政治家に対して不遜な物言いをするので、その言葉に嫌悪感を覚えるからである。
政府や行政に対して不満を述べることは、批判は批判として受け入れることができるが、その中にも言葉のセンスというものは当然生きているわけで、彼のもの言いにはその言葉の中に軽蔑が込められているから我慢ならない。
今の日本の政府の要人は、いわゆる国民から選出された人々である。
官僚は国家公務員試験をクリア―してその地位を得ているが、政治家や代議士というのは国民から選出された人たちであるので、個人的にいくら気に入らないと言っても、その背景には選挙民の気持ちを背負っているはずなので、ある程度は敬意をもって接すべきものと思う。
批判するということはヤクザの喧嘩ではないので、言葉と言葉の戦いである以上、相手を頭から軽蔑するような物言いは厳に慎むべきだと思う。
相手の思考が己と相容れないとしても、相手の人格を否定するような物言いは、言う方の品格の問題だと考えている。
一方、田中真紀子は田中角栄の娘としては少々品位に欠けるようにも見える。
特に我慢ならないことは自民党を抜けたことだ。
今の時点で、民主党の小澤一郎の肩を持つ態度はどうにも解せない。
小泉純一郎が総理大臣になった時に、外務大臣として外務省の改革をしようとして、それに挫折してからというもの自民党を割って出てしまったので、その反動として民主党に擦り寄らざるを得なかった、という部分に信念の欠如があるように見える。
思えば、民主党というのも半分は元自民党のメンバーで成り立っているようなもので、こういう元の自民党のある派閥が民主党に名義変更するというのも、政界の摩訶不思議なところではある。
ところが昨今の民主党の主張というのは、何でもかんでも政権交代を要求しているわけで、政権交代すればそれだけで今の日本の現状が好転するという論理は、あまりにも無責任きわまる。
政党であるからには、政権を担うという理念は捨てがたい願望であろうが、ただただ自民党のすること成すこと反対さえすれば世の中が良くなる、などという論理はあまりにバカバカしい話だ。
小泉首相の時、小泉氏と考え方が違うというだけで、党を割って出た人がかなりいるが、田中真紀子もその中の一人である。
小泉氏とは相いれないという信念で党を出た人の後釜に、小泉チルドレンという若手がその抜けた跡を埋めたわけであるが、この対談の主人公は、それが気に入らないわけで、その点で見解が一致している。
政治というのは基本的に誰がリーダーであったとしても批判は免れないものだと思う。
一つのことを実践すれば、それには必ず利害得失が伴うわけで、そこには当然批判というものが生まれるのであって、その批判が国民全体の利益を否定するものであってはならない。
益する人が過半数ならば、その施策は由としなければならないと思う。
何かを改革すれば、その改革によって損害を被る人が必ずいるわけで、その損害を受ける人よりも得をする人が多ければ、それは容認せざるを得ない。
改革を迫られるということは、そこに不当な利益を得てる人がいるということで、その不当な利益の部分は公平に分配されなければならないことは言うまでもない。
既得権益を維持したいというのは当然のことで、改革をするということは、その既得権益を御破算にするということであり、当然、そこには抵抗勢力が生まれる。
世の評論家という人々は、こういう場面で、当事者の全員が納得する方策ということを旗印にしがちであるが、そんな八方美人的な良い子ぶった綺麗事の解決方法はありえない。
何処かで誰かに犠牲というかしわ寄せがいくとことは避けられない。
政府というのは、そういうことを十分理解したうえで、少数の既得権益にしがみついている人よりも、大多数の人達の利便、つまり公共の福祉を図らねばならないのである。
政治には犠牲が伴う以上、政府に対する批判というのは避けて通れない道である。
私は、政府から提灯持ちの金をもらっているわけではないが、政治というものを冷静に観察すれば、こういうことになると思う。
政治課題の一つ一つにそれぞれに意見の相違というのはついて回るわけだが、民主政治というのは、国民の最大多数の最大幸福を追求するものではあっても、その全ての幸福には至らないのも無理ない話だと思う。
ところが政府を責める側は、国民の100%の人の完全な幸福を政府に負わせようと、それを追求するわけで、それはある意味でまことに無責任な態度だと思う。
民主主義の政治体制の中で、国民の全部が納得する政治というのはありえないわけで、そういう前提の中で、「全員が納得していないから政権交代せよ」という論理は間違っていると思う。
この本の二人の論者は、それを言っているわけで、それは批判のための批判になってしまっている。
ある一つの施策に対して、その方法論は幾つもあるわけだが、政府としては、その方法を二つも三つも取りえないわけで、当然一つに絞らざるを得ないが、折角一つに絞り込んだものを否定するということは、何もせずにおけというに等しい。
こんなことは普通に常識のあるものならば自明のことで、ことさら大声で叫ばなければならないことではない。
こういう中で、田中真紀子が小澤一郎に肩入れするというのは明らかにおかしいことだと思う。
しかし、小泉純一郎の後の自民党総裁の面々には、彼らでなくともいささか愛想がつきたことは当然である。
あまりにも情けないというか、ふしだらというか、無責任というか、言葉がない。
日本が戦争に負けて、アメリカ占領軍のトップのマッカァサー元帥がいみじくも言ったように、日本の政治の状況はまさしく12歳の子供の政治でしかない。
以前、言われたように、経済は一流だが、政治は三流という言葉も、まさしく至言だ。
昭和の初期に日本が戦争に嵌り込んでいった過程も、突き詰めれば政治の未熟であったと言える。
軍人がのさばったことは歴然たる事実であるが、政治の世界に軍人が口を挟むことを許した責任は、政治の側にあると思う。
いくら軍人がサーベルの音をガチャつかせても、当時の政治家が毅然と立ち向かえば、軍人が政治を司る隙はなかった筈だ。
政治家が軍人のテロを恐れる気持ちは分からないでもないが、政治家を志す以上、テロの標的になることは覚悟の上ではなかったのかといいたい。
政治家というのは、いわゆる口舌の徒で、口先で如何様にも自己の利益を追求してやまない人たちなので、そこには国民のためという意識が薄れていたからに違いない。
ただ我々日本民族の場合、組織が組織自身の保全のためにしか機能しないわけで、官僚は官僚のため、軍人は軍人のため、政治家は自分の属する政党のためにしか意識が機能していないのではなかろうか。
そこでは国民不在なわけで、官僚も、軍人も、政治家も、誰一人国民のことを考えていなかったのではなかろうか。
そういう状況下でありつつも、日本の敗戦時において、大日本帝国の政府としてはきちんと機能していたわけで、あの時点でも無政府状態ではなかったわけだ。
ドイツの降伏は、全土が壊滅状態であって、ドイツ政府というのは崩壊して存在しておらず、まさしく無政府状態っであったので、無条件降伏であったが、日本の場合はきちんと政府というものは機能していたわけで、ポツダム宣言をきちんと受諾して降伏したことは、決して無条件降伏ではなかったが、9月2日の降伏文書の調印の時に、マッカアサーが文書に小細工をしたので、そういう風に思い込まされてしまっている。
こういう場面で、時の政治家がきちんと理論整然と反駁しなかったので、なし崩し的に我々は無条件降伏をしたと思い込まされてしまっている。
これも明らかに政治の稚拙さの立派な証明である。
理論整然と証拠を並べて説明すれば、誤解は解けるにもかかわらず、我々はそれをしていない。
我々日本民族の政治感覚というのは、何時まで経っても三流のままで進化することがない。
やはりそれは民族のDNAなのだろう。