ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

スキーは格闘技

2006-02-28 16:07:00 | Weblog
イタリア・トリノの冬季オリンピックも無事終了したが、日本勢のメダル獲得は金一つと実に不甲斐ない有様だと思う。
この金の荒川静香嬢の演技は素晴らしかった。
私もこの時はたまたま早く起きたのでテレビのLIVEで見ていたが、彼女の演技は素晴らしかった。
その前に演じた安藤美姫嬢の場合、いくら4回転といっても失敗してしまえば元も子もないわけで、村主嬢の場合はたぶん緊張していたのであろう、精彩に欠けていた。
冬季オリンピックの場合、日本のお家芸はやはりジャンプとフィギアスケートとなるでしょうが、問題は冬季のスポーツとしての醍醐味の一番濃厚な競技はスキー競技だと思う。中でもアルペンに他ならない。
が、この種目では日本選手の層の薄さが気に掛かる。
モーグルとかスケートボードというのは新しい種目であるが、伝統的な種目といえばやはりスキー競技のはずである。
その競技に対する日本選手の層の薄さは一刻も早く克服すべきだと思う。
そうは言うものの、3位と4位の差が0.03秒ということになると、もう素人の目でははっきり言って優劣はわからない。
ただ計測をしているので、この差が歴然と現れている以上、着位をつけなければならないであろうが、そこがスキー競技の難しいところでもある。
しかし、オリンピック競技というのはあらゆる種目で1秒の何分の一を争うということである以上致し方ないとは思う。
私が憂いていることは、スキー競技はある種の格闘競技だと思うが、当事者に格闘技という認識がないのではないかと思う。
少なくともアイスホッケーなどという競技はスキーではないが完全なる格闘技である。
スキー競技の滑降とか、大回転などという競技も、私に言わしめれば格闘技だと思う。
こういう種目を格闘技と捉えた場合、日本人は民族として、国民全体として、どうも尻込みをしてそういう考え方に至っていないように見えてならない。
格闘技といっても相手がいるわけではないので、所詮は自分との格闘になる。
そこで、斜面に対する恐怖、旗門に対する恐怖、先行選手のタイムに対する恐怖に戦いを挑むという精神力・闘魂が必要になるのではないかと想像するが、そういう場面に立たされたとき、我々日本人は実に柔軟で軟弱な思考になるのではないかと思う。
戦後の日本人は、闘魂丸出して何事かに挑戦する、戦うというポーズを極力戒めてきたわけで、露骨な反逆精神、不撓不屈の精神、反発精神、敵を叩きのめそうという発想、というものを好戦的という表現で好ましくない心構えだと捉えているのではなかろうか。
スキーのダンヒル、回転、大回転などという競技は気持ちの中のそういうものを持っていないことには滑れない競技だと思う。
アイスホッケーなどという競技は、まるで公認の喧嘩とでも思わないことには相手に勝てないと思う。

「機長の仕事」

2006-02-27 08:57:13 | Weblog
またまた図書館の本で「機長の仕事」という本を読んだ。
日本航空でB747の機長を勤めた人が、如何にして機長になったかという話が大部分である。
そのことはとりもなおさずこの著者の自分史になっている。
幼少の頃から飛行機が好きで、学生時代にはグライダーに乗り、その後自衛隊の戦闘機F-86Fに乗って、紆余曲折の末、日本航空に入社し、会社の発展とともに機種転換でB747までたどり着いたという話であった。
その中で、サンフランシスコから成田に帰る便の中で、チャック・イエーガーと話し合ったというところは非常に興味あるシーンである。
1981年5月24日ということであるが、この時にチャック・イエーガーが何をしに日本に来たのかということは何も書いてなかったが、この便に乗っていたということは日本に来る何かの用事があったに違いない。
私が彼のことを知っているのは、「ライト・スタッフ」という映画の中に登場しているからである。
この本の著者も指摘しているが、彼が人類で始めて音速の壁を突き破った人として知る人ぞ知る人物である。
彼はX―1で、B―29の胴体下に吊り下げられて、かなりの高空まで運ばれた後、そこで切り離されてロケット・エンジンに点火し、音速を超える偉業をなしたと映画の中では描かれていた。
「ライト・スタッフ」というのはアメリカのマーキュリー計画の7人のアストロノーツの話であるが、チャック・イエーガーも本来ならばその一人に選ばれるはずであったが、彼は「高卒だからだめだ!」という採用係のセリフ(もちろん字幕で)にはつい噴出してしまった。
アメリカ社会にもこういう面があるのかと、ある種の驚きを感じたものだ。
この映画のエンデイングでは彼がF104に乗ってテスト・フライトしたときに、墜落して煤だらけの顔で救急隊のほうに歩いて来るというシーンだったと思う。
この著者をはじめ実業に携わっていた人の文章というのは極めて読みやすい。
なまじ文学者とか小説家という類の人は、言葉を弄んで、言葉でパズルをしているような使い方をするので、非常に読みにくいように思える。
普通の人は言葉を本来の意味でストレートに使っているが、言葉を職業にしている人は、言葉や文字を弄んで、愚弄し、自分ではこだわっているつもりだろうが、読む人がそのこだわりがわからないでは意味がないわけで、下手に加工するものだから、読んでいたうんざりしてしまう。
ところが文学者ではなく、言葉を生業にしていない人の文章というのは、ストレートに表現されているので実に読みやすい。

「テレビ報道の正しい見方」

2006-02-26 07:55:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「テレビ報道の正しい見方」という本を読んだ。
著者、草野厚は本人自身もテレビにしばしば登場しているが、同じ報道でも局によって様々な報道スタンスの違いがあるということを言いたいらしい。
それはテレビの放送免許を与える時点、電波を割り当てる時点から当然のことで、それだからこそ自由主義国ということも言える。
問題は、我々視聴者がテレビを頭から信用する愚にあると思う。
テレビで言っているから正しいとか、テレビの映像は真実だ、と思うほうが間違っている。
要するにメデイアと言うものは、真実や正しいことを言っているわけではなく、様々に脚色された物を見せられているのだ、ということを我々の側で知っておかねばならない。
先方から送られてくる情報はすべて偏向しているものと考えて、自らそれを修正し矯正のための思考回路を持たなければだめだということである。
メデイァはあくまでもそれを受け取る側の判断材料としての素材を提供するだけで、真実とか、正義とか、善を我々に指し示しているわけではない。
テレビでも、新聞でも、取材記者の文章がそのまま流れてくるわけではないのは理の当然で、取材記者の取材したものを取捨選択する人間が介在していることはメデイアとしてはごく普通の在り方なわけである。
だとしたら、そこで集まった情報を取捨選択する人の主観が入ることは当然のことである。
草野氏は、報道番組において、製作者の意図に従って報道の形で番組が制作されることに危惧を示しているが、製作者の意図というのがはなはだ難しい問題なわけで、戦中の日本のメデイアはラジオも新聞も、製作者そのものが国威掲揚に奉仕していたわけである。
その線に沿って報道がなされ、それに沿わない報道はカットされ、我々は結果的に騙されていたということになった。
そのことから考えれば、今の日本のメデイァが製作者の思うとおり、意図のとおりのものが報道できる状況というのは極めて喜ばしいことなのかもしれない。
政府、統治者、行政、官僚に物申す姿勢を示してもなんらお咎めのない世の中というのはまことにありがたい世の中だ、といわなければならない。
ただ、私の心配は、こういうメデイァに携わっている人達が、批判精神の奥底に共産主義に被れた部分があるのではないかと言う点である。
政府、統治者、行政、官僚といっても所詮は同じ人間なわけで、彼らの過ち、行き届かない部分、無知、親方日の丸精神、安逸に流れて挑戦を嫌う心根があるのは当然だと思うが、それを批判するのに共産主義の視点からそれをしてもらうと一般の国民にとってはまことに困るわけである。
そして、編集に携わる人達からすれば、左翼のポーズを取らないことに格好悪いという面もあると思う。
が、そういう気持ちで批判精神を吐露してもらっては我々はまことに困るわけである。
テレビを糾弾するについて、報道が偏向しているという視点よりも、私がもっともっと糾弾したい点は、昼間のくだらない番組の禁止である。
低俗番組というと、メデイァ側はきっと「何が低俗か?!」という論議を展開するであろうが、何が低俗で低俗でないかという論議ほど不毛な議論もないと思う。
公序良俗という言葉があるが、それが果たして何を指しているかという論議と同じで、メデイァの根幹に関わっている人達を相手にこういう論議をしなければならない日本の現状そのものが、民族の存続としての末期症状だと思う。
国民が本当にありがたい世の中だ、我々の国はまこと良い国だと思い、感じれるような国は極端な言い方をすれば国家の姿としては末期症状を呈しているということではなかろうか。
統治する側にもされる側にも全く緊張関係がないわけで、メデイァがいくら当局を非難中傷しても、誰も傷つかず、監獄にも入れられず、飽食でいられるということは、まるでパラダイスに居るようなものではないか。



「極秘指令」

2006-02-25 07:05:57 | Weblog
先の22日に通院した折、往復の新幹線の中で「極秘指令」という本を読み終えた。
1987年に大韓航空のB707旅客機がインド洋上で消息を経った際の犯人の取り扱いに関して、直接当事者と接触を持った日本大使館の館員の対応が述べられていた。
非常に読みやすい読み物であった。
後に我々はその犯人が蜂谷真一と蜂谷真由美という日本人を装った北朝鮮の工作員であったことを知るわけであるが、この本の著者は、そのことがまだ確定されていない時期に、現地で彼らと直接かかわりを持った体験が記されていた。
事件そのものは既に我々はその全貌を知っているが、その全貌が公表されるまでは、彼ら外交官、外務公務員というのは非常に微妙な立場に立たされていたわけで、犯人をあくまでも日本人だと思って対応している。
話の展開はまるで推理小説のようにスリルとサスペンスに富んでいそうに見えたが、結局のところ、外交官、外務公務員という立場上、警察権を持っているわけではないので、切迫した状況というのは歯がゆい思いがする。
事件そのものはもう約20年も前のことなので、その全貌は既にわかっているが、全貌が判れば判ったで実に由々しき問題だと思う。
何の罪もない100名以上の人々を飛行機もろともインド洋に葬り去ることに国家としてどういう意義があるというのであろうか。
蜂谷真一(金勝一)、蜂谷真由美(金賢姫)という犯人は、どういう思いでこの罪もない人々をインド洋の藻屑にしたのであろう。
蜂谷真由美、キムヒョンヒはその後韓国に移送されて、その時の映像はまだ記憶に残っているが、なまじ生き残ったばかりにあの姿は惨めにさえ見えたものだ。
しかし、その後韓国で刑に服し、今はその刑も終えたように覚えているが定かなことは知らない。
北朝鮮の洗脳ということは一体なにがどうなっているのであろう。
最も新しいニュースでは、北朝鮮の美女応援団が韓国で見聞きしたことをもらしたかどで強制収用所に入れられたと報道されているが、一体北朝鮮では何がどうなっているのであろう。
こういう一連の北朝鮮の国家としての行動を考えたとき、北朝鮮という国家の目的がどこでどうつながっているのであろう。
大韓航空機爆発事件を越すことによって北朝鮮としての国家の利益というのはどうなっているのであろう。
北朝鮮という国のテロ体質というのは世界各国にとっても実に由々しき問題ではないかと思う。
国家がこういう事件にかかわっているという事は実に許しがたいことだと思う。
北朝鮮の行っていることは、すべからくこういう問題ではなかろうか。
横田めぐみさんの骨と称して、全く関係のない骨を提示したりするということは、相手が如何に我々を馬鹿にしているか、ということに尽きるではないか。

ガセネタで馬脚

2006-02-24 14:08:35 | Weblog
今月16日の国会の予算委員会で民主党の永田寿康議員からホリエモンが自民党武部幹事長の次男へ3千万円を振り込むよう指示したメールが公にされた。
直ちに武部幹事長はその事実を否定したが、国民の受けた印象としては「さもありなん!!」と思うのが通常の感覚ではないかと思う。
去年の郵政解散に伴う選挙に際しては、武部幹事長はあまりにも舞い上がって、ホリエモンを息子とまで言い切ってしまったので、その後、ホリエモンがああいう立場に置かれると、武部幹事長の胸中も冷汗ものではなかったかと思うのが普通の常識というものである。
しかし、その後、銀行口座にも振り込まれた事実がないということが確実になると形勢が逆転してきた。
ガセネタではないかという疑惑が濃厚になってきて民主党が不利になってくると、「国政調査権で精査しなければならない」と苦しいわけを強弁するようになってきたが、逆に自民党のほうは強気になってきた。
20日の昼のワイドショウでは、あのメモ、つまり指示をしたメールそのものが金目当てに週刊誌に持ち込まれたものだ、ということが暴露されていたが、政界にはこういうヤラセというべきか、全くの架空のデマ・情報で政局が空回りすることが往々にしてあるらしい。
けれども、いくら政敵とはいえ架空の情報を振り回して、人を誹謗中傷するということは許されるべきことではないと思う。
いくら政治のためといったところで、人として最低限守らねばならない信義というものはあるのが当然で、それが理解できない国会議員だとしたらもう何をか言わんやである。
22日には小泉首相と民主党の前原代表が党首会談を行ったということであるが、前原代表の言は精彩を欠いていると報じられている。
考えてみれば、あんなメモというのはいくらでも偽造が出来るわけで、本人の肉筆でない以上、どういう風にも作り直せるわけである。
ホリエモンを擁護する気はないが、メモそのものに関してはいくらでも出来ると思う。
同じプリンターなどこの日本中にいくらでもあるわけで、そういう意味からしても永田議員がそれをさも鬼の首でも取ったように、拳骨を振り上げ、振舞ったのは軽率であり、武部幹事長がホリエモンのことを息子だと早とちりしたのと同じ構図である。
それにしても、ホリエモンが53億もの粉飾決算をしていたということは一体どういうことなのであろう。
赤字の会社を黒字に見せるということは税金の面では損をすることではなかろうか。
いくら株価の操作といったところで、赤字のものをいくら黒字に見せたところで、本業のほうの実績が上がってこないことには、なんにもならないと思う。
実際は儲かっているにもかかわらず、赤字に見せて脱税をするという話はよくあるが、それの逆というのは一体どういうメリットがあるのであろう。

船の科学館

2006-02-23 09:01:24 | Weblog
昨日(22日)、東京築地の国立がんセンターへ通院した。
8日に検査した結果と診察を受けに入ったが、検査と診察に関しては全く異常なしで、ありがたいことである。
がんに苦しみ、悩み、苦悶している人が大勢いる中で、私は何と恵まれているのだろうと、まさしく感謝、感謝である。
しかし、人間は一度はどこかで死ぬわけだから、そうそう死を恐れることはないと思う。
ただ、死ぬ前に何を残すべきかでは大いに悩むべきだとは思う。
それで、この日は病院を出た後、「ゆりかもめ」に乗って船の科学館に行ってきた。
東京に通院するようになって、この「ゆりかもめ」に乗るたびに何度も見たが、一度ゆっくり見てみたいと思っていたのでこの日にそれを果たした。
都市型の立派な博物館であった。
この科学館を見てみたいという根底のところには、此処に係留展示してある羊蹄丸、つまり昔の青函連絡船を見てみたいと願望があったからである。
この博物館そのものが日本財団、その前は日本船舶振興会、の管理運営するものだが、日本船舶振興会となると当然笹川良一ということが連想ゲーム式に出てくるのが、我々の世代ではないかと思う。
ところが、この笹川良一という人の評価が日本では二分していると思う。
右翼の親分という人もいれば、こういう啓発事業にも力を入れているというわけで、受け取る人によって評価が真っ二つに分かれていると思う。
この場にも彼が母親を背負っている像が屋外に展示してあったが、これと同じものが銀座にもあったことを記憶している。
この自分の親孝行を強烈にアピールするという点が、彼が嫌われる原因かもしれない。
しかし、彼の親孝行というのは人間の行為として決して悪いわけではないが、戦後の民主教育の中では、個の尊重が重視され、個の自立が尊重され、親孝行とか、兄弟仲良くとか、目上の人を敬えという価値観が否定されてきたので、その中で彼がこういうことを強烈にアピールするということは非常に勇気が要り、抵抗も大きく、その反動として右翼の親玉という評価になったのではないかと推察する。
あまりにも強烈な自己顕示欲が、戦後の日本の左翼知識人から嫌われたのではないかと考える。
もう一つ、青函連絡船、羊蹄丸に入いると、その入り口付近は昭和30年代の青森、函館の光景がジオラマで展示してあった。
等身大で、当時の服装、衣装、風俗を再現した人形がテープで売り声を流していた。
このジオラマの小物が全く当時を髣髴させるもので、あの時代にタイムスリップしたような気になったものだ。
実によく当時の様子を再現していた。

「日本の鉄道」

2006-02-21 11:50:57 | Weblog
例によって図書館の本で「日本の鉄道」という本を読んだ。
鉄道に関する雑学的なもので、ほとんど趣味の領域に関するものであった。
鉄道にまつわることを趣味としている人は、この世の中に結構いるもので、その王者ともいうべきは鉄道模型に興じる人達であろうが、この趣味はかなりオタク的な要因があり、その上金も掛かるので私は素直に入り込めなかった。
その分、こういう類の雑学で自己満足にふけっている次第で、これとても奥義を窮めるというわけにはいかず、入り口のところで少しばかり利巧ぶって自己満足しているに過ぎない。
形振りかまわずのめりこめる人はある意味で幸せな人であり、それと同時に、何とかの一徹という風にも受け取れる。
しかし、こういう類の本を読んで悦に入ることは、まったく人畜無害で、家庭内においても波風立てることもなく、円満に収まり、頗る精神衛生上よろしい。
4歳の孫が今こういうものに熱中しており、おもちゃや絵本で日本全国の鉄道をそらんじているが、我々の子供の頃と比べると、鉄道、国鉄車両、JR各社の車両も実に多種多彩になり、子供ならずとも興味がわく対象となってきたようだ。
関係者でもない大の大人が、機関車や電車の形式、その他もろもろの知識をいくら習得したところで、何の得にもならないが、その何も得することのないものに熱中するのが趣味の趣味たる所以であろう。
この本も全国規模で日本各地の話題が網羅されているが、不思議なことに名古屋周辺の記事・話題が実に少ない。
新幹線の名古屋飛ばしではないけれど、名古屋という地域は実に話題性に欠けているように思われてならない。
これは名古屋人の僻みだろうか。
しかし、何事においても人に薀蓄を傾けて相手を煙に巻くという行為は面白いだろうなあと思う。
けれども、その域に達するまでには自分でも相当勉強しなければならないので、私では無理だ。
私などは、人の薀蓄を聞いて感心する一方だ。

「コックピッド風雲禄」

2006-02-21 05:56:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「コックピッド風雲録」という本を読んだ。
これはいわゆる学者や大学教授の書いた本ではないので非常に読みやすかった。
学者や大学教授という人達は何故ああも判りにくい文章を書くのであろう。
きっと、自分たちは知識人なのだから一般大衆が安易に理解するような本を書いたら知識人の沽券にかかわるとでも思っているに違いない。
自分たちの仲間内で、難解な言葉を弄んで象牙の塔の中で自己満足に浸っておりたいのであろう。この本の著者は元旅客機の機長で、その体験談であるが、その体験というのが非常に興味あるものである。
著者が言うところでは、今の旅客機というのはアルミの板で囲まれた張りぼてということであるが、確かに言い得て妙である。
私はマニアとまではいかないが、航空知識が多少ともあると自認しているものとして、未だにあの巨大な旅客機が宙に浮くということが不思議でならない。
レシプロ・エンジンがターボ・ジェエトやらターボ・ファンになって推力が大きくなったとは言うものの、人間が100人も200人も乗った飛行機が宙に浮くということがどうも理解しかねている。
大体、推力という概念が理解できない。
プロペラで空気を翼の上に流すというのならばなんとなく理解できるが、後方に噴射する反動で前に進むといわれてもどうも理解しきれない。
高揚力装置が出たり入ったりするのを見ていても、何故あんなもので機体が浮き上がるのか不思議でならない。
空気というものは目に見えないので、高揚力装置がいくらせり出してきたところで、翼面に沿って流れる空気の層を目で確認することが出来ず、未だに自分自身納得できないでいる。
乱気流のことがいとも簡単に記されているが、私に言わしめれば乱気流に巻き込まれても機体が損傷しないことのほうが不思議でならない。
以前、アメリカのB-29が台風の目の中に入った、という話を聞いたときは本当に驚いたものだ。
B-29だとて張りぼてに変わりはないわけで、あんな張りぼての機体ならば乱気流に入ったらそれこそ風船がしぼむように機体がつぶれてしまうのではないかと思えてならない。
そこのところがやはり航空技術の進歩ということであろう。
それにしても中国の航空管制の話には今更ながら驚いたものだ。
中国ではメートル法ということはまさに驚異だ。
しかし、航空業界では未だにポンドヤード法というのも実に不思議なことだと思うが、航空業界では世界的にこのポンドヤード法がそれこそグローバル・スタンダードになっているのに、中国だけメートル法を頑なに押し通すというのも不可解千万なことだ。
著者は引退後関空の近くで飲み屋を経営しているようだが、一度そこを訪れてじっくり飛行機の話でも聞いてみたいものだ。

H2Aロケットの打ち上げ

2006-02-21 04:57:22 | Weblog
(写真はアサヒ・コムより)
平成18年2月18日、種子島からH2A9号機ロケットが打ち上げられ、ひまわり2号衛星を軌道上に無事載せることが出来たと報じられた。
実に喜ばしきことだと思う。衛星は重さ4トンもあるということだ。
このH2Aというのは三菱製であるが、表面には宇宙航空開発機構の名前が出ていて、非常に結構なことである。
日本の進歩的知識人というのは、三菱という呼称には生理的な嫌悪感を露にするようなので、三菱というロゴはあまり前面に出ないほうが良い。
こういう新開発の事業というのはどうしても失敗がつきもので、その失敗を一つ一つ克服して前進があるのだけれども、人はそういうことが理屈では判っていながら、いざ現実にそれが露呈すると安易に当事者をなじるものである。
科学技術の進化というのは失敗の積み重ねの上に築かれるものだとは思うが、メデイアと言うのはその当然のことを報じていてはメデイァ足りえないので、どうしてもその失敗を誇大に報道しがちである。
それにつけても人間、特に我々日本人の帰属意識というのは実に不思議なものだと思う。
このH2Aは三菱製で、その三菱に30年も在職していると、定年になって数年経っても尚自分の会社の功績が嬉しく誇らしく感じられる、というのが不思議でならない。
先の2度の失敗では我が事のように落胆したものである。
自分がその製作に直接かかわりあったわけでもなく、ただ自分の会社の成功というだけで、実に嬉しく感じれるのも不思議なことだ。
それに反し、2,3年前の自動車の不祥事、クレーム処理の不味さでは、非常に肩身の狭い思いをしたものである。
H2Aの成功と、自動車の部門の失敗を比べてみると、そこには官需品,民需品の相違があるのではないかと思う。
三菱という体質が、官需品には対応できるが、民需品に関してはその対応に習熟度が達していないということだろう。
それは時代を先取りして無の中から有を探し出す思考、つまり人跡未踏の地を試行錯誤で切り開いて進むという思考と、既に存在する同じ規格のものを大量に生産して、大衆にそれを買わせようとする発想の違いだと思う。
三菱という組織体は、事の良し悪しは差し置いて、その成り立ちから国策に協力し、国策のために、国策に沿う形で成り立っているのではないかと思う。
だから普通の民間企業では出来ない部門を開拓し、その意味で外国の技術を研究し、それを乗り越えようとする思考になっているのではないかと推察する。
この外国の技術に追いつき追い越すという部分に国策が関係しているわけで、その意味では人跡未踏の地を自ら切り開いて前に進むという面が現れるのではないかと思う。
日本の他のビッグ企業も同じような傾向にあるとは思うが、それはあくまでも民間レベルのことであって、国の国策としての面は希薄ではなかったかと思う。
飛行機でも、船舶でも、ロケットでも、西洋文化圏には既に存在するとはいえ、それを日本独自の思考でより良い効果を追求するという意味で、追いつき追い越すという意気込みは大いにたたえるべきだと思う。
大衆の欲求を安直に満たすということよりも、国策としての欲求に如何に応えるかが企業の使命になっているのではないかと思う。