ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「草の根の軍国主義」

2008-08-30 11:24:05 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「草の根の軍国主義」という本を読んだ。
著者は佐藤忠男という映画評論家であるが、彼の言わんとする趣旨は十分に納得できるものであった。
前に読んだ「むかし、みんな軍国少年だった」という本の内容とよく似ているが、確かにあの時代の社会の風潮というのは、草の根の軍国主義というのが実相だったと思う。
これを戦後の民主教育では、上からの押し付けという言い方で普遍化しようとしているが、実質は、下々のエネルギーが沸騰した草の根の軍国主義というのが真の姿だと思う。
戦後の民主教育では、あの戦争は日本の中の戦争好きな特殊な人たちが、中国をはじめとするアジアを侵略して支配しようとした、というまるで芝居がかった勧善懲悪的な感覚で糾弾しようとしているが、そんな単純なものではないはずである。
戦争というのは、いくら独裁者だとて思いつきや、気まぐれでするものではないはずで、ヒットラーやスターリンというような独裁者であったとしても、用意周到に計画立案して推し進めるわけで、その点では他の統治者と変わるところはないはずである。
武力行使や暴力を使わずに相手がこちらの言うことを聞いてくれれば、なにもわざわざ無益な血を流すことはないわけで、話し合いで自分の思う通りに行けば、あえて戦争という手段に訴えなくてもことは済む。
ただ昭和初期の日本の在り方というものをよくよく眺めてみると、日本は中国に対して奢った態度でいたことは確かで、この中国に対して奢り高ぶった態度で接した背景には、日本国民の潜在意識が横たわっていたことは間違いない。
その意味で、この部分に草の根の軍国主義というものがあったと私は思う。
あの戦争のきっかけは、日本陸軍の独断専横であったことは論をまたないが、そういう行動をとった日本陸軍というものをよくよく掘り下げて考えてみなければならないと思う。
日本陸軍を構成していた人たちは、異星人でもなく、エイリアンでもなく、我々の同胞であって、我々の村の出身者であったり、我々の学校の先輩であったり、我々と同じように米の飯と熱いみそ汁とこの上なく愛する我々の親戚であったり、父であったり、兄であったり、弟であったわけで、100%我々の身近な人たちの集合であったはずだ。
そういう人たちが中国という大地の上に自分の二本の脚で立ってみると、この土地と、この民と、そしてわが同胞の行く末を勘案した場合、この地球上に泰平の地を、つまりユートピアの建設を実現させねばならないと考え、その為には一時的にこの地の民を支配し、それを上から指導すればそういうユートピアの建設はありえると思い込むのも自然の流れだったと思う。
そのためには日本、つまり我々日本人がこの地を一時的に支配し、怠惰で覇気に欠けた中国人を上からコントロールし、西洋列強の植民地支配というものを粉砕し、西洋に代わって黄色人種の我々がそれをすることは許されるに違いないと思ったに違いない。
問題は、日本から中国に渡った兵隊たちがそう思うことは不思議でもなんでもないが、そういう考えが日本内地にフィードバックすると、それが整合性を持ってしまって、そういう壮大な夢の実現が期待され、日本内地の人々までそれに酔いしれてしまったことである。
その理由は一体何なのかと問えば、それはメデイアの介在である。
日本の地から海を渡って中国の地に足を踏み入れたわれわれの身近な仲間が、中国人は怠け者で覇気に乏しく、西洋列強に蚕食されるのも当然だという感想を述べると、その話に尾ひれをつけて、面白おかしく脚色して内地に報道する、するとそれを読んだ内地の人々は、そんなシナ人あらばイケイケドンドンで、自分たちの国益を大いに揚げようではないかという話になったと思う。
日本と中国は太古から連綿と文化の交流があったが、この文化の交流という言葉が案外曲者で、それは今でいうところのハイソサエティ―・クラスの文化交流であったわけで、下々の人間がどういう考え方をするのかという民族の本質を突く研究はなされていなかったと考える。
文化交流というと、対等の交流のように聞こえるが、実質は日本の高官が先方から書物を授かるだけの交流で、先方にすればあくまでも夷荻の扱いであったかもしれない。
どちらにしても、我々の側は相手の民族的な本質を知らないまま、身の程知らずで奢り高ぶっていたことは間違いなく、その我々の側の奢りがどこに原因があるかと問えば、それは日清戦争に勝利したということに行きつくと思う。
そのことを言葉を変えて言えば、成功事例から何も学ばなかったということになるわけで、何も学ばなかったから相手の民族の本質を見抜けなかったということになる。
相手の民族の本質を知らないまま、自分が奢り高ぶっていたものだから、足元をすくわれたわけである。
蒋介石が連合軍側に身を寄せるなどということは、当時の日本人からすれば想定外のことではなかったかと思う。
無理もない話で、蒋介石にすれば連合軍というのは自分の国を植民地支配しようとしていた敵側のはずであり、それと手を組むということは当時の日本人には考えられない事であったに違いない。
われわれはほんの少し成功するとその成功事例に酔ってしまって、周囲を冷静な目で見るということを忘れてしまい、いつもいつも同じ手法を繰り返すので、傷がますます深く、かつ大きくなってしまうのである。
これと同じケースは戦後も連綿と息づいているわけで、あの高度経済成長の時期、日本の中小企業で儲けたところは、会社の清掃員まで引き連れて海外旅行に現を抜かしていた。
そんな奢り高ぶった会社はバブルの崩壊とともに見事に消滅したのと同じで、われわれは少し成功するとすぐに奢り高ぶって身の程をわきまえないという悪い癖がある。
戦前の日本軍部の思考も全くこれと同じで、日清・日露の戦役で成功をおさめたので、見事に舞い上がってしまったわけだ。
これはひとえにメデイアの責任である。
メデイアというのは昔も今も信ずるに足る評価を大衆から得ていないが、狼少年のように、常に嘘の報道をしても誰からも糾弾されることがない。
報道が嘘だったからと言って、その記事を書いた記者が獄につながれるということはない。
記事の内容が真実かどうかということは、記事を書いた本人しかわからないわけで、そういう意味でメデイアというのは極めて有望な啓蒙機関であると同時に究極の虚業でもある。
自分の考えを広く世間に知らしめたいという時には、このメデイアに頼ることが極めて重要である。
昭和の初期には軍国美談というものが数多く誕生した。
例えば、肉弾3勇士とか、木口小平とか、軍国の母とか、100人切りの話とか、こういう話を美談として国民に吹聴しまくったわけで、それは上から書けと言われて書いたものではなく、あくまでも記者の判断と会社の判断が相乗効果を発揮して国威掲楊につながったわけである。
先の戦争から何か教訓を得るとするならば、メデイアを如何にコントロールするかということを、学問的に深く深く考察することだと思う。
昭和の初期において、日本の軍国主義というのは、いわゆる草の根の軍国主義であったと思う。
統治者が上から庶民に押し付けたものでもなければ、軍部が国民に強制したものでもなかったはずだ。
修身の強化とか、教育勅語の斉唱などということは、統治者が自ら言いだしたことではなく、その下のレベルが官僚システムの常とう手段としてのゴマすりで発動したことだと思う。
メデイアが庶民や国民にばらまいた軍国美談に人々が酔ってしまっただけのことで、北京オリンピックが15年続いたようなもので、その間日本の国民は勝った負けたといっては一喜一憂していたわけだ。
オリンピックの結果は事実が報じられているが、この時期のメデイアは嘘ばかりを報道していたわけで、嘘でないところが軍国美談風に脚色されていたのである。
今、我々は、学校でも職場でも、巨人が負けたの勝ったの、サッカーがどうのこうのという話をしているが、そういう話には特別にイデオロギーがあるわけではない。
ところが昭和初期の新聞には、真実の報道というものがない上に、美談調に脚色された報道があったわけで、当時の子供がそれに影響されるのは至極もっともな話だと思う。
戦後の民主教育では、メデイア側の虚偽の報道と、国威掲楊の部分に故意に口を噤んで、ただただ軍人や軍部を糾弾することに精力を費やしていたが、それは戦後に至ってもメデイア側の自省が内側から出てこなかったからでもある。
今のメデイアには、テレビも、映画も、インターネットもというふうに、インフラが限りなくあるので、世相を反映するのに新聞とラジオのみというわけではない。
よって、情報はあふれかえっているが、当時は新聞とラジオと若干の映画しかなかった。
その上、当時の人々は、その全員がこういうメデイアに接していたわけではなく、如何なるメデイアも金持ちしか接する機会がなかったわけである。
新聞とか雑誌というような活字のメデイアは、送り手の方が文章を書く能力が極めて卓越していたので、人々は活字になった事柄は頭から信じるのが普通であった。
メデイアの発信元を疑うなどということは恐れ多くも考えられない状況であった。
そのことを考えると、情報の発信元は、襟を正してその職務に就かなければならなかったはずであるが、この部分でも成り上がり者の下賤な思考が優先しており、「軍国主義を吹聴するものでなければ意味がない」という雰囲気であったに違いない。
メデイア業界の人たちがインテリ・ヤクザと蔑まれるのも当然の成り行きである。
今のメデイアが「面白くなければテレビでない」という発想と同じレベルの精神構造であったわけで、こういうメデイア側の無責任さが人々に軍国主義というものを植え付けたものと私は考える。
如何なる主権国家でも、情報網の整備なしでは国そのものが成り立たないので、そのことは如何にメデイアをコントロールするかということでもある。
メデイアが第4の権力でもあるゆえんであるが、このメデイアが祖国に矢を向けるようなことになれば、統治そのものが成り立たなくなる。
旧ソビエットの崩壊に見られるように、東側体制の崩壊も、メデイアが祖国に矢を向けたことによって体制そのものが崩壊したわけで、古い体質の国家群はいずれもメデイアの管理に厳然たる力を行使して、メデイアを押さえつけることによって体制を維持している。
それに反し、開かれた国家群のメデイアは、一見言いたい放題の事を言っているように見えるが、それは政治に対する一つの意見を表明しているわけであって、それを見聞きする国民は、自分で体制側を支持するかそれともメデイアの言っていることを信ずるかは個人の判断にゆだねられている。
その個人の意思表明が、選挙という形で行われるわけで、メデイアの本質は国民が自分の意思をどちらに委ねるかという判断材料にすることである。
ところが我々の場合は、もともと個人が判断すべきことをメデイアが押し付ける節があって、この押しつけの部分を自制して、あるいは自省して、どこまでが判断材料の提供でどこからが押し付けか、という境界が全くなかったわけである。
ここがメデイアの奢りの部分だと思う。
話の次元を下げて一人の若者が出征していく場面を想定すると、その兵士の本心は兵隊などになりたくないと思っているに違いない。
当然、その母親も父親も自分の息子が死に直面する可能性のある場などに送り出したくないのは当然だと思っている。
これはすべての地球上の主権国家の国民感情としては共通の心理であろうが、祖国の国難のことを思えば、個人の思いを断ち切って出征していくのも万国共通の変わらない現実だと思う。
普通の国の、普通の国民の、普通の思考だと思う。
問題は、メデイアがこれをどういう風に報道するかである。
外国映画では出征兵士の見送りでは悲しい場面がそのまま映像になっているが、我々の場合は、同じような場面で、悲しみを表現することが厳しく戒められていた。
この戒めは、上からの指示ではなく、製作者が当局の心情を慮って、自主的にそういう演出を避けたに違いない。
兵士が出征していく場面で、行く方も見送る方も涙、涙の別れでは反戦映画になってしまう。
だからこういう場面では勇ましく、堂々と、戦意昂揚的な気分の演出になるわけで、ここに人間の本音に対する欺瞞が潜んでいる。
こういう場面で、めそめそしていると非国民というレッテルが貼られて周囲から浮いた存在になってしまう。
これは明らかに今の言葉でいうイジメの構造で、こういう場面で人間としての本音を漏らすと、周囲が寄ってたかって非国民と囃し立てていじめるわけである。
人々はこのイジメが怖くて自分の本音を隠して、大勢に迎合するふりをしていたわけである。
人間の本音をあらわにすると同胞がその同胞をいじめ抜くという構図が、昭和初期の日本の軍国主義の本質であったと思う。
出征する本人も、その家族も、別れの切なさをそのまま自然に体現すると、それを軟弱だと言い、非国民として相手を罵倒する心根は、言う本人も不合理と思いつつ、周囲の手前、自分が先頭に立って悪役を演じている部分もあるように思う。
誰かが何処かで悪役を演じ、その悪役を演じ続けることで、我々の同胞の均衡を保ち、生きることの緊張感を持続させていたのかもしれない。
悪役を演じていることを自覚している人はまだ救われるが、その自覚がない人はそれこそ困った人で、こういう困った人こそメデイアの報ずる事を金科玉条のように信じ切っているわけである。
人と違った発言や行動をする人をイジメるという行為も集団で行われるわけで、一対一の場合にはイジメなど起こらないが、これが一人と多数という構造になると、俄然イジメが浮上してくるのである。
これは我々の民族の中には連綿と生きているのであって、戦争に勝とうが負けようが、外部からいかなる圧力がかかろうが、我が民族の特質として是正されない。
日本のあらゆる社会的な現象が、このイジメの構造で成り立っているが、世間ではこれをイジメとは言わず、政権抗争とか、権力闘争というもっともらしい言葉に言い換えている。
ところが、基本的にはイジメの構造に他ならない。
だから日本のあらゆる階層、業界の中では、日本人の敵が日本人であるわけだ。
国を挙げて戦争をするというのに、陸軍と海軍の仲の悪さ、これを我々はどう考えたらいいのであろう。
ただし、この軍の仲たがいは日本だけのことではなく、あらゆる主権国家で陸軍と海軍は仲が悪いが、祖国が戦争をしている時に、双方がどこまで妥協して協力し合えるかの問題ではある。
昭和初期の我々の軍国主義というのは、あくまでも下からの庶民の中からの草の根の軍国主義で、それは当時のメデイアによって下支えされていたことは確かだと思う。

「むかし、みんな軍国少年だった」

2008-08-29 10:50:20 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「むかし、みんな軍国少年だった」という本を読んだ。
終戦当時国民学校の生徒であったり、もう少し先まで進んだ子供たち22名の回顧録のようなものであった。
この時期に焦点を合わせた手記というか、部分史というか、当時の思い出を綴ったものの集大成である。
この22人の中で真っ先に読んだのは本田勝一氏の作品であるが、この頃の本多氏はごくごく普通の少年で、他の少年たちとそう発想の相違はない。
周りの雰囲気に自然と同化しているわけで、後にああいう思考に至る面影は全く見いだせない。
彼らが知らず知らずのうちに軍奥少年になったのは、当然のこと、当時の社会の風潮を子供ながらに敏感に感じとっていたわけで、幼児時期としては極めて頭が良かったので、そういう意味で非常に早熟な子供であったに違いない。
時代の変化とともに、そういう子供の願望というか夢というのも世相を反映するわけで、戦後ならばそれが野球選手であったり、映画俳優になるに違いない。
だから、あの時代の子供が軍国主義であったとしても何ら不思議ではないし、それが世の習いというものでとやかく言う必要はない。
ただここに登場している人たちは、いわゆる教育を受けた人たちで、自分で文章をしたためる能力を備えた人たちで、この世にはそういう能力を備えた人は数の上からはそう多くはないと思う。
その上、この本に執筆している人たちは、戦後の復興期を経て平成の世に至る過程で、成功者として押しも押される名誉と金と地位を得、功なり名をなした人たちで、そういう人が少年期を振り返ったとき、子供の頃軍国少年で世間に迎合していたことに贖罪の意識にさいなまれている感がする。
天皇陛下の玉音放送を聞いて、彼らの周囲の大人が「このかたき討ちをきっととってくれ」と言った、ということが遠慮深げに述べられているが、このフレーズは戦後から今日に至るまで厳しく封印されている。
しかし、自然の人間の自然の感情からすれば、そう思い、そう考えるのが人間の自然の在り方であり、自然の本音だと思う。
私自身も昭和15年生まれで終戦は5歳だったにもかかわらず、この人たちのように鮮明に記憶していないが、当時の状況を推し量ってみるに、日本が敗北したことに対してそのかたき討ち、し返し、を願う同胞の存在というのはあって当たり前だ。
地球上に存在した人類で、戦争に負けて、負けっぱなしで、そのまま消滅した民族というのも数えきれないほどあったに違いない。
ところが、そういう消滅した民族といえども、報復を一切考えずに勝者にされるがままに消滅するということはあり得ないと思う。
結果的に戦争に負け、報復に失敗するということは、その後の世を生きるに値しない民族であった、ということに他ならない。
もっと端的に言えば、民族同士の生存競争に敗北したということで、自然の摂理に則って、自然の流れの中の自然の推移であったということだ。
地球上の如何なる生き物でも自然に支配されているわけで、自然の摂理を超越することはできない。
確かに進化という言葉もあるが、この進化は何万年という歳月を経て進化するわけで、それは人間の英知を超越しているはずである。
地球上の生き物の中で、人間のみが自然に適応する能力を持っているわけで、その適応力で以って子孫を増やしてきたが、その過程でも自然に敗北することはままあったはずである。
人間は知能をもった生き物なので、考えるという能力を備えている。
この考えるという能力こそが、自然に対して真正面から戦いを挑む潜在能力で、自然に対する挑戦であってみれば勝ったり負けたりすることも当然の成り行きである。
この地球上に出現した人の群れは、考える能力を持っているがゆえに、社会というものを形成する。
社会という人の集団が形成されれば、その中では当然のことリーダーがいるわけで、そのリーダーをめぐってその集団の構成員が一人一人考えるわけで、結果として経験豊富でその人の群れを安全に導くであろうと思われるものが選出される。
人の群れともなると、その構成員の一人一人がそれぞれに我が身の安全と将来の展望を考えて、「あいつには将来を託せない、任せられない、ならば俺が!」という風になって政治というものが形つくられるようになる。
こういう状態を人文科学という視点から政治の形態と認識しており、それは自然とは別物だと考えているが、そのことは知恵をもった人間の奢りであって、人間の考える能力自体も自然に支配されていると思う。
だから人間がいくら学問を積んでも、その自然を超越することはできないのである。
この人間が自然を超越出来ない部分を仏教の言葉で煩悩と称しているわけで、この煩悩というのは、人間の誕生以来克服されたことがないのである。
人の生存にとって、人が社会を形成して生きるということと、社会の一人一人の構成員がそれぞれに煩悩によって支配されている、ということは大きな矛盾であって、人の生存そのものが自然の中の大矛盾ということである。
人が社会を作ること自体が大自然に対する矛盾であるわけで、人の自然のままの姿と言えば、お互いに殺し合っている姿こそ本当の人としてあるべき自然の姿だと思う。
そういう自然を克服して人は煩悩というものを超越しようと努めているが、この煩悩そのものは、大自然に近い原始人の思考であって、ここで人が考えるという行為を繰り返すと、その煩悩を抑え込む知性とか理性という独りよがりな思考に行きつく。
今までは他者を殺しても何とも思わなかったものが、ある日ある時から、殺される相手の心情の慮る心の余裕が生まれてきた。
この相手の心情の慮る心の余裕は、それぞれの個人によって大きな開きがあり、これによって心やさしき人とそうでない人が峻別され、それが政治という統治のあり方にも大きく影響を与えることになる。
人間は生存すること自体が、すでに自然に対する大きな矛盾であり自然破壊になるわけで、この矛盾と破壊は人間の英知では克服出来ないものと思う。
社会のリーダーとしての統治者にしてみれば、隣り合わせで生き続けている他者に対して、武力行使もせずに話し合いで自分の我を通せれば、それに越したことはないが、相手にも誇りと名誉があるわけで、黙って言われた通りにはなりたくないという心境も当然だと思う。
武力行使も暴力も使わずに話し合いで我を通せれば、これほど御目出度いこともないが、相手にも意地があるわけで、そのまま納得するかどうかは別問題で、当然、抵抗するという行為になるが、ここであの大戦争を経験した戦後日本人の思考が問題となる。
「ああいう悲惨な辛苦を舐めたから、もう二度とああいう経験はしたくない」というのは戦後に生き残った、あるいは生き延びた人間の欲求・願望としては当然のことだ。
だから平和主義に徹したいというのは、戦争を経験した人の共通認識であることは論をまたない。
しかし、これではどこまで行っても感情論であって、そういう悲惨な経験をいくら大声で叫びつづけても、それは非戦にもつながらなければ反戦にもつながらない。
と言うのは、そういう声はあくまでも悲惨な戦争を体験した人々の願望であって、それは政治とか統治の本質を突くものではないからである。
「宝クジを当てて金持ちになりたい」という類の願望と同じで、あくまでも人々の果てしない願望であって、現実性に根ざした確たる信念でないところが現実からかけ離れている。
戦争というのは自分一人では成り立たないわけで、「戦争は悲惨だから止めましょう、自分からはいたしません」、といくら大声で宣言しても、相手はどう出て来るかは全くわからないわけで、相手の存在を無視して一方的に叫んでみてもそれは意味をなさない。
「戦争は悲惨だからそういうことは止めましょう」では、日本国内ならばともかく、世界では通用しないわけで、にもかかわらずそういうことを大声で叫べば自分が平和主義者であるかのように見えるというのは、あくまでも自己欺瞞にすぎない。
先の戦争で悲惨な体験をしたから、平和を願う気持ちは当然ではあるが、そのことと実際に平和を構築することは全く別のことで、平和念仏を唱えていれば、戦争を回避できるということにはならない、ということを知るべきである。
戦争を回避するためには、相手、特に国際関係というものを深く広く掘り下げて解明しなければならないわけで、その為には絶え間ない継続した努力とともに、言うべきことは正面からはっきりと相手に対して発言するという毅然たる態度が必要である。
その為には、自分自身が自分の祖国に誇りを持ち、それに殉ずる気持を持っていないことには、そういうことが相手に伝わらないと思う。
自分たちが、先の戦争で経験したような体験をしたくないと思えば、国際関係というものを微に入り際に入り研究して、その中には相手の軍治力の真価を探るということも当然念頭に入れた研究をすべきである。
そして、我々がそういう研究をしているということが相手に知られてしまっては、外交カードとして用をなさないわけで、そのことを我が同胞が理解できるかどうかにかかっていると思う。
戦後の日本のメデイアは、そういうことを何もかも一切合さい公開することを旨としているが、日本が素っ裸になってしまって外交交渉しようとしても、それは相手の思うつぼ嵌るだけである。
ただでさえ我々は戦争放棄ということを世界に向けて公言しているわけで、外交カードはすでに自分の方から切ってしまっている。
戦後の我々は、自分たちの先輩諸氏が中国で悪い事をしたという意識にさいなまれ、贖罪意識に浸りきっているが、これも基本的に相手の言い分に踊らされているだけのことだ。
大東亜戦争肯定論ではないが、歴史というのは基本的に、力の強いところから弱いところに力点が移動するわけで、昭和の初期の段階では日本の力が中国よりも強かったので、日本人がこの世を謳歌していたが、1945年以降では中国のほうが力が強くなったので、我々の側に揉み手外交が出てきたわけで、力の均衡というのは時代によって大きく変わるのが世の習いである。
昭和の初期に生まれ、終戦の時、思春期の入口にいた世代にとって、それ以降の成長の過程は、日本の復興、および日本の経済成長の波長にそのまま乗っていたわけで、いつも右肩上がり経済成長をエンジョイ出来た世代である。
こういう世代の人々の深層心理には、やはり驕りというものがあったと思う。
先の戦争の悲惨な体験は、その後生き残った人々の共通体験であったので、それに棹差すような発言は周囲の顰蹙を買う恐れがあり、誰も言いださなかったが、戦後の戦争反対のスローガンは、戦中の「鬼畜米英」、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンと全く同じ構図でしかなかったわけである。
こういう無意味なスローガンを声高に叫ぶことによって自分がさも国家に貢献し、国民の期待に応えているかのような錯覚に浸りきっていたわけである。
あまりにも無責任極まりないが、国家に対して無責任であることが、戦後の民主的日本では大事なわけで、そうでなければ戦前戦中のように国家に殉じなければならなくなる。
この時代に生を受けた世代は、その前の時代にさんざん国家に奉仕させられたので、その後は、その利息を国家から受け取るべきで、何でもかんでも国家に対して要求することが「善」であると思違いをしている世代でもある。
戦前戦後を通じて、こういう人たちは、国家というものが自分たちと同じ人間の集合体であって、自分たちがピラミット型の社会構造を作り上げているということを敢えて無視して、あたかも自分たちとは違う異星人が自分たち同胞を上から支配しているという認識のようだ。
だから戦前戦中という時期には、われわれは自分たちを支配していた何か自分たちとは異なるものに対して滅私奉公、忠君愛国を強いられたが、戦後は、だからこそその見返りとして国という得体の知れない存在は日本国民に対してそれをフィードバックして当然だ、という認識になったものと思う。
ここには国というものは自分たちで作り上げている存在という認識が欠落しており、自分たちとは何か違う存在で、そういうものに対して何かの奉仕をしたり、貢献をするというのは、その見返りを前提にして当然だという思考に行きついているように見える。
自分たちの幸不幸は、他者にコントロールされているという考え方で、それが根底にあるものだから、政治不信ということがリアリティ―を持ってしまい、その枠から脱出しきれないでいる。
われわれを上から支配しているのが、戦前ならば天皇の存在であったが、戦後はこれが保守政党の存在にすり変わったわけで、こういうものの存在と国民の間を関連付ける存在が官僚であった。
この官僚の中身が戦前と戦後では大きく変わった。
戦前戦中は、それが軍官僚であったが、戦後はその部分が行政官僚に変わった。
我々、日本民族というのは、この支配者と被支配者をつなぐ官僚の存在にあまりにも無関心でありすぎたと思う。

「敗戦野菊をわたる風」

2008-08-22 09:29:15 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「敗戦野菊をわたる風」という本を読んだ。著者は吉田直哉。
奥付けによると、NHKのデイレクターということであるが、読みやすい文章がしたためられていた。
昭和の時代とともに生きてきた人なので、そういう人が過去を振り返れば、当然、昭和史になってしまうが、そういうものを読めば読むほど、同じ同胞としての生き方に不信感が募ってくる。
この中でも頻繁に出てくる、小学校の先生の鉄腕制裁というのを今どういうふうに考えたらいいのであろう。
先の拙文でも、人が威張るということに対して、疑問を呈しておいたが、小学校の先生がどうして児童に対して鉄腕制裁を科す必要があったのであろう。
私は教育の場で鉄腕制裁を全面否定するつもりはない。
時と場合によっては、それが必要なこともあると思っている。
しかし、それを受けた側からすれば、納得のいく鉄腕制裁ならばうらみがましいことは言ったり書いたりしないはずで、不合理な理由で制裁を受けたからこそ、それが強烈な印象として残っているものと推察する。
先生と生徒を対立軸に置いた時、先生が生徒の行動を不合理、不条理と思ったからこそ鉄腕制裁が科せられるのであって、この時に先生の考えていたことこそ、軍国主義の具現であったわけである。
この時、先生の頭の中では、時の常識に沿う発言をするものは違和感を感じないが、そうでない発言をすると、それが全体の調和を乱すという風に映ったに違いない。
こういう状況下で、その時の常識というのは、当然のこと、戦争遂行であって、イケイケドンドンに同調することであったわけで、その趣旨からそれた発言は、すべてが国策に棹差す非国民というとらえ方で見られていたに違いない。
学校現場では、先生と生徒の立場は、統治するものとされるものの立場に酷似しているわけで、昭和初期の日本では、国を挙げてこういう風潮が我が国全体を支配していたものと考える。
しかし、そうであったとしても、大人の先生が子供を殴る必要はないと思うが、この事実をどういう風に説明したらいいのであろう。
この頃の日本では、社会のあらゆる階層で、鉄腕制裁というのは普遍化していたわけで、する方もされる方も誰一人その行為が不合理、不条理などと思ってもいなかったに違いない。
当たり前のこととして、当然の如く行われていたと想像する。
ここで問題となってくるのが、言うまでもなく教育の効果である。
特に高等教育の受益者としてのインテリ―層の社会に対するかかわり方を、大いに掘り下げて考えなければならないと思う。
この点に私の教育不信があるわけで、明治維新以降の日本は、西洋に追いつき追い越せという国民的合意の元、軍人養成機関のみならず帝国大学という高等教育機関も充実させてきたにもかかわらず、市井の国民の生活の中には、その教育効果というものがいささかも反映されていないではないか。
特に、モラルに関する部分では、教育というのは何の値打も示していないではないか。
私はしがない無学もので、あまり物事をしらないが、江戸時代から明治維新の文明開化の時代を通じて、階層の上のものが下のものを直接叩くという行為がそうしばしばあったことであろうか。
武士階級では子弟の教育・躾に真剣になるあまり、そういうこともあったかもしれないが、明らかに上下の関係が歴然としている中で、上のものが下のものに直接手を出すなどということは考えられない。
これは私の個人的な考え方ではあるが、人が人を直接叩く、いわゆる鉄腕制裁の奥底には、明治維新の四民平等に遠因にあるのではないかと思う。
江戸時代の士農工商という階層には、それぞれの階層に合った、適合した生き方が存在しており、武士は武士としての矜持を持って生き、農民は農民として分をわきまえた生き方をしていたと思う。
ところが四民平等ということになれば、それぞれの階層に応じたそれぞれの生き方を全否定することになるわけで、それぞれの組織単位で上下の関係が確立し、上のものは権威を振り回し、下のものは絶対服従を強いられるわけで、その権威を知らしめるために無意味な鉄腕制裁ということが行われていたのではなかろうか。
四民平等ということは、民主主義の側面から見れば、後光が射すほど立派なことであるが、併せて玉石混淆、あるいは「味噌も糞も一緒くた」、という側面も同時に併せ持っているわけで、そういう状況下で、心根の卑しい人間が権威を笠に着て、自分の威厳を振り回すということも往々にしてあったと思う。
「故郷に錦を飾る」と言うことは、そういうことではなかったかと思う。
ここで問題とすべきことが、こういう状況下で時のインテリ―、高等教育を受けた人たちが、そういう人たちを抑え切れなかったという点である。
抑え切れないというよりも、自分もぞの渦中に身を置いていたわけで、こういう人達は教育があるがゆえに、直接的に権威を振り回さなくとも、組織というシステムがそれを許容しているので、自分はただ傍観していれば権威が維持できたわけである。
自分は常に加害者の立場のいるものだから、被害者の立場は理解できなかったわけである。
小学校の先生が生徒を殴るというのは、生徒が皆と同じ考え方をせず、全体の歩調が合わないので、統制がとれないという意味で、制裁ということになるのだろうが、当時の状況は、先生一人一人の思考を超越して、日本全国がそういう風潮に侵されていた。
日本の近代化以前ならば、多様な思考が許されていたにもかかわらず、それが近代化を成し、皆が皆、同じ生活、生き方、進学、上昇志向を目指すことが良い事だ、そうあるべきだ、という価値観が定着すると、異端な思考・考え方を畏怖するようになってきたのではないかと思う。
人と違う発想・生き方を畏怖するあまり、それを抑圧しようとして、暴力的な力の行使ということになり、人を殴るという行為になるのではなかろうか。
人が殴り合うことは太古からあったに違いないが、それは喧嘩という特殊な状況の時だけであって、普通に平穏な状況の中で、無抵抗な人を殴るという行為は人にあるまじき行為であるが、これが礼節に厳しいと言われて我々の中でどうして蔓延したのであろう。
そういう風潮をコントロールすべきが本来ならば高等教育を受けたインテリ―でなければならなかったわけだが、昭和初期の日本のインテリ―、知識人、知識階層というのは、その点に対してまことに無力であった。
高等教育を受けたものが、社会の浄化に対して極めて無力なのは一体どういうことなのであろう。
昭和初期の日本と平成の世の日本では、国民の知的水準というのは段違いに今の方が向上しているように思うが、世の中そのものがいささかも良くなったようには見えない。
青少年の凶悪な犯罪も後を絶たないが、鉄腕制裁のあった昔は、こういう凶悪な犯罪は無かったのだろうか。
ただ言えることは、昭和初期の日本では、徴兵制のもとで男子たるもの18歳になると好むと好まざると兵隊に入ってしまっていた。
これを今の世相に当てはめると、暴走族や、万引き少年や、街中で人殺しをする連中や、コンビニの前でウンコ座りして屯しているような人間を軍隊がすべからく吸収してしまっていた。
こういう人間は、巷にいようとも軍隊にいようとも、口で言って聴き入れるような人間ではないはずだし、おとなしく諭して聴くような人間でもないはずだ。
彼らに秩序を守らせようとすれば、恐怖の鉄腕制裁しかないのも道理ではある。
先に述べた四民平等というのは、こういう連中まで善良な市民のような顔をして、軍隊なり学校なりに紛れ込んでいたということもいえる。
指導管理する立場としては、そういうものを選抜する決め手に欠く以上、目にとまったものを対象にするということになり、結果的にそれが冤罪の制裁となってしまったのかもしれない。
ただ、私のように高等教育を受けたことのない人間からすると、高等教育がモラルの向上をいささかも説かないというのは不思議でならない。
高等教育を受けるような人たちならば、その時点で既に人の上に立つことが必然的に分かっているはずなのに、それでも自分自身にとって、して良い事と悪い事、法に触れるか触れないか、道義的に許されるか許されないか、ということは理解できているわけで、理解したうえで司直の手を煩わせるということは、人にあるまじきことだと思う。
問題にすべきは、我われの民族が根源的に持っている上昇志向、高学歴が出世に有利だ、という学歴偏重主義に反省すべき点があるのではなかろうか。
この著者も東大在学中にアルバイトをしているが、そのことはこの世代のものにとってはごく普通の生き様であったわけだが、アルバイトしてまで大学に行くということは、大学に何を求めてそう言うことになるのであろう。
知的好奇心を満たすために大学に行く、学問をするために大学に行くというのであれば、アルバイトをあきらめて勉学に勤しむべきで、それでは生きていけれないのであれば、勉学の方をあきらめるしかないではないか。
アルバイトをしながら大学を卒業する、いわゆる苦学生というのは、我々の価値観では立派な人ということになるが、これが果たして正しかったのだろうか。
苦学生というのは、ただただ卒業証書が欲しくてそれをしていただけで、要するに今後の立身出世のための免罪符が欲しかっただけのことではなかろうか。
自己の幸福追求のための苦学であるとするならば、それは賎民の世渡りの手法の一つであって、その中でモラルというのは何の価値も見いだせないのも当然であろう。
こういう人たちに対してモラルを期待しても、それは無理であり、無駄でもあったであろう。
大勢の大衆・民衆をはじめ、人々の潜在意識を掘り起こし、それに沿った統治という場合、それは往々にして民主主義の具現という意味で、賞賛され、整合性があるやに見えるが、それは完全に衆愚に近く、ポピリズムの最たるものであり、それを肯定すれば、戦前戦中の我々の軍国主義というのもいささかも非難される筋合がないということになってしまう。
そこをコントロールするのが、いわゆる高等教育を受けた知識人、いわゆるインテリーと言われる人々の使命ではなかったのか。
人間の群れとしての社会は、いわば川にうかぶ浮き草の集合のようなもので、川の流れによって付いたり離れたり離合集散するのは文字通り自然の流れである。
この自然の流れに身を委ねて、あっちに漂いこっちに漂い、付いたり離れたりして流れるのが人間の本来の自然の姿ではあるが、人間が「考える葦」であるとするならば、その流れに対して少しでも逆らおうとするのが知性であり、理性であると思う。
高等教育というのは、この「考える葦」というポジションをきちんと守るべき思考ではなかろうか。
有象無象の大衆、あるいは民衆という人間の群れと、高等教育を受けて学識経験豊富な人が、同じような塊となって自然の川の流れに身を任せていては、高等教育という珠玉の知性と理性は最初から無いに等しいではないか。
「戦前は治安維持法があって自由にものが言えなかった」という言い分は、赤ん坊や幼児の言い分で、少なくとも高等教育を受けた人が自ら言うべきことではない。
人のものを盗んではならない。人を殺してはならないという法律があるから、この世に盗人や強盗が一人もいないかと言えば、そうではないわけで、戦後になってこういうことを言う人は、ただただその時に沈黙していた贖罪の気持ちで、自己弁護のための弁解にすぎない。
人の群れというのは、川の中の浮草のようなもので、離合集散を繰り返すことは大自然の摂理である。
戦前、戦後を通じて、我々の同胞、日本人の社会も、その浮草同様、あらゆる組織の中で個々の浮草があっちに行ったりこっちに流れ着いたりして離合集散を繰り返していた。
たとえば、旧陸軍の中でも統制派と皇道派、海軍でも艦隊派と条約派、おそらく大学の中でも平泉澄と美濃部達吉という派閥は歴然とあったわけで、問題は、そういう意見の違いの溝を埋める知恵が、こういう立派な方々には無かったというところである。
そこにあったのは利己主義で、自分が相手の口を封じて、自己の整合性を拡張するという名誉欲でしかなかったところが日本の不幸であった。
戦前、戦中の日本のリーダーは、不思議なことに金銭欲はさほどでもなかった。
戦後、極悪人のように言われている東条英機でも、蓄財をしたり私腹を肥やしたということは一切ないわけで、その意味では世界に誇れるリーダーであった。
ところが戦後のリーダーは、その全てが私腹を肥やすことに憂き身をやつしているわけで、いくら私腹を肥やしても、他者を死地に追いやることはないので世間はそれに対してあまりにも寛容だと思う。

「東京の戦争」

2008-08-20 18:24:48 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「東京の戦争」という本を読んだ。著者は吉村昭氏。
あの戦争中の東京の生活を思い描いた読み物であるが、ある種のエッセイとも言うべきものだ。
人間の生活。人というのは、たった一人では生きていけれないので必ず群れを成して生きている。
つまり、社会を形つくって生きているが、この社会というのは、様々な人間を内包しているわけで、その中から個人という一人の人間を抽出して、その一人の人間の目を通して社会というものを眺めてみると、まさしく、悲喜こもごもという感がする。
捨てる神あれば拾う神もあるわけで、その両方が個人という一人の人間の脳裏をかすめて行く。
良いこともあれば悪いこともあり、それが交互に織り成すのが人生なのであろう。
戦争状態という究極の混乱の中では、人々の思考というのは、極めて自然の境地に近くなるものと推察する。
つまり、人のことなど構っておれず、とにかく我が身可愛さの余り、本能的な自己防衛本能に左右されるわけで、そこでは理性も知性も何の価値もない状態に放り込まれるものと思う。
そのことは逆に、真の人間性が露骨に表れるということでもあるわけで、普通のときには隠れていた真の人間性を垣間見るということになる。
戦後63年も経って、様々な本が出回っているが、その中には特定の色眼鏡を通した偏向した見方も多々あろうと思う。
偏向しようがしまいが、戦後は信教の自由が保障されているので、政治的に多少偏向していたとしても、それだけの理由で処罰されることはないが、真実と違うという意味では道義的な責任はあると思う。
しかし、厳密な歴史書でもない限り、真実との相違などというものは些細な問題なわけで、そのことを理由にとやかく言われることはない。
東京空襲から終戦の間における都民の生活というのは、それこそ究極の混乱状態であったろうが、こういう原始社会の再来というような場面になると、人間の愛憎というのはモロに現出する。
この本の中でも、今まで懇意にしていた八百屋が急にものを売らなくなったと愚痴っているが、商店と顧客という関係においては、こういうことは実に多くある。
私も今までの生活の中で同じようなケースを経験しているので、商売人には決して気を許してはならないと肝に銘じて生きている。
私の場合は、戦後のオイルショックで、従来は近所付き合いもある事だからと思って、少々高くても近所のガソリンスタンドを利用していたが、あの時「商品がないので売れない」といったので、それからは一切そのスタンドを利用せずにきた。
戦時下の都会生活にしろ、オイルショック時の庶民生活にしろ、その苦難は特定の人に集中しているわけではなく、国民全体に広範に苦労を強いられているにもかかわらず、立場の違いによってさも自分たちが被害者であるかのごとく錯覚を起こすから、こういう現象となるのだと思う。
もともと、そう悪意があったわけではなかろうが、こちらも困った時はお互いに助け合わねばと思っていた矢先に、こちらの思慮分別を踏みにじるような対応に出られると、どうしても腹にすえかねるわけで、金輪際取引なんかするものかという対応になる。
こういう状況下では、ものを持っている側の立場が強いわけで、その立場の強みが相手に対して横柄な態度に映り、相手からすると威張り散らしているように見える。
ここで、この威張るという人間の行動をよくよく注視する必要がある。
この威張るという行為を、精神医学の面から説きあかしたものがあるであろうか。
庶民レベルでは、戦後のオイルショックの時、ガソリンや灯油を手元に持っていたスタンドが、それを買いに来た消費者に対してかなり横柄な態度で出ていたが、これは明らかにものの有無に伴う力関係の象徴であろう。
我々、日本人の生き方の中には、こういうケース以外にも威張るという行為が、日常生活の中でも散見される。
この世代の人々の中学時代には、各学校に配属将校というのがいて、それらが無暗矢鱈と威張っていた、という話をよく聞く。
また、映画館や演芸場にも、出し物を監視する立場の監視員がいて、「弁士、中止!」などと言っていた旨話に聞く。
配属将校というのは、学生や生徒に教練を教えるということはわかるが、教練を教えることと、威張り散らすということには何の関連もないはずなのに、なぜああも威張り散らしていたのであろう。
軍隊という組織では、初年兵はそれこそ右を見ても左を見ても真っ暗闇の世界だが、そこに2、3年もいて辛抱すれば、自分たちはそれこそ古参兵になり、新兵をしごく立場になる。
この時に、自分もやられたからその通りに次に申し送るという発想と、自分が嫌な思いをしたから、同じことを繰り返してはならない、という発想があると思う。
こういう一連の流れの中で、中の当事者としては、自分のやられたことを同じよう次に申し送りをした方が安易な選択であることは間違いない。
そしてそれは伝統という言い方で伝承されるが、一方、自分が嫌な思いをしたから次のものには同じ思いをさせたくないという発想は、極めて人間味豊かな思考であるが、これがなかなか容認されない。
威張るという行為は、自分の権威を周囲に認めさせるための誇示の手段なのであろうか。
私は、自分自身で、威張ることを諌めているのは当然であるが、人が威張るのを見聞きするだけでも鼻もちならない気持ちになる。
ところが、時と場合によっては、それが必要なこともあるようだ。
例えば、ダム建設現場、トンネル工事現場、ビル建設現場で、土方やトビ職、その他の人夫を使う時、通常の丁寧語で指示・指図していてはことが運ばないはずで、こういう時には上から頭ごなしに高圧的に命令しなければならない。
これもいわば権威を傘にしたもの言いには違いないが、人間の社会は様々な人から成り立っているので、上に立つ人は自分の立場を考えてものを言わねばならない。
そういうことを十分斟酌したうえで、なぜ学校の配属将校は、生徒に向かってああも威張り散らしたのであろう。
ただここで考えなければならないことに、なぜ教育現場の学校、旧制の中学校で、軍事教練が必要であったか、という問いをしなければならないと思う。
だいたいそういう風になっていった経緯は想像がつく。
資料を綿密に調べたわけではないが、おそらく日中戦争が混とんとしてくるにしたがい、日本の青少年にも早期から軍事教練を経験させて、そういうものに慣れしたしんでおいたほうが、本人のためにも国家のためにも良かろうということだと思う。
こういうことも軍部から一方的に言われたわけではないと思う。
最初は、軍部としても学校側の意見を聞くという意味の打診という形で探りを入れてきたに違いなかろうが、そこで学校側が良い子ぶって、軍部に協力、国威掲楊に協力、戦争遂行に積極的な態度を示したわけで、そういう場面で時の雰囲気を敏感に感じ取って、軍部が喜ぶであろうという先読みをした学校側の軍部へのすり寄りがあったと推察する。
ここで学校現場には「軍事教練など不必要だ!」と強く言い返す人が一人もいなかったに違いない。
こういうことが戦前、戦中の日本の社会の隅々で行われていたものと推察する。
軍部だとて、軍の組織内であれば一編の命令書でどういう風にでも動くことが可能であろうとも、他の省庁にかかわることではそうはいかなかったと思う。
ところが他の省庁では、軍からの依頼なり、要請なり、要求があると、それらに対して謙った態度で接すれば、無理難題を避けれるに違いないという読みがあったものと考える。
軍に対する協力。戦争が終わって、それが敗北という結果であってみれば、生き残った同胞からすれば、そういう要求は全部軍から強制されたという言い分で口を拭い、自分たちがすり寄って協力したことを隠せるわけで、それを吟味することなく我々は受け入れてきたのではなかろうか。
様々な人間の住む社会では、様々な人がいるわけで、それは同時に隣人が信ずるに足る人間かどうかという不信感を同時に合わせもつということでもある。
戦前、戦中の、我々一般市民の生活には「隣組」というものが組織されたが、「こういう非常時において向こう3軒両隣組りは相互扶助で助け合いなさい」という趣旨は、表向きの綺麗事でその裏の真意は「非国民をお互いに監視する」というものでもあったわけである。
「隣組」の開設の真意は、おそらく本当の意味で相互扶助であったろうと思うが、その思考の先には相互扶助を乗り越えて、「隣は何を考えているのだろう」という浅薄な好奇心を刺激することになってしまったわけである。
というよりも、戦争に非協力な人をあぶりだす意味があったものと考える。
それはイジメの掘り起こしである。
戦争という非常時に、向こう3軒両隣組りが、お互いに助け合うということは誰が考えても良いことなわけで、それに意義申し立てすることは整合性をもたないので、それが一つの権威となってしまった。
するとそれを司る人は、その仲間内で偉い立場に成り、よって威張り散らすという態度に出るわけで、それをやり込めることは国策に異議を差し挟むということになって、極めてまずい方向に行ってしまう。
戦争遂行に消極的な人をイジメ抜いて、自分たちの集団が挙国一致にまい進していることを誇示する狙いがあったに違いない。
こういう些細な矛盾が重なり合って大矛盾となってしまったに違いない。
町内会長や国防婦人会が身重な婦人まで引っ張り出して防空演習をするなどということは、明らかに同胞に対するイジメ以外の何物でもないではないか。
町内会長や国防婦人会という立場ならば、そういう身重な婦人や障害のあるものに対しては、それなりの援助を差し伸べてこそ、その任務を全うするということではないのか。
こういう場面で、こういう人情味のある措置がとれない人は、もともとそういう立場に就けれない欠格人間である。
しかし、当時は軍事優先があまりにも顕著であったので、そういう人間味のある行為が蔑にされていたわけだ。
こういう事象を見ても、あの戦争を通じて、日本人の敵は日本人であった、日本軍の敵は同胞の軍隊の高級参謀であったということがいえると思う。
あの終戦の詔勅を見ても、あの時点で徹底抗戦を唱えていた軍人たちがいたわけで、あの時点で昭和天皇がポツダム宣言受諾を決意されたから、銃後の我々は生永らえたわけで、あの時に天皇の決意声明がなければ日本民族というのはこの地球上から消滅していたかもしれない。
昭和20年の戦艦『大和』の沖縄特攻も、『大和』の艦長と高級参謀が自らの死に場所を求めての自殺的な出撃であったわけで、彼らとともに海の藻屑と消えた『大和』の将兵たちは、敵と戦う前に自らの軍の高級官僚にその命を奪われてしまったではないか。
私の言葉でいえば戦争の私物化、あるいは彼ら将兵の敵は、みずからの軍の中にいたのも同じではないか。
戦前、戦中、戦後を通じて日本人の敵は日本人であったように思う。
旧帝国軍隊の中にも様々な派閥とその確執があり、外部の敵と戦う前に内部の敵と戦わねばならなかったし、銃後は銃後で町内会長や在郷軍人が防火訓練に参加できない人たちを非国民と罵り、イジメ抜いていたわけで、われわれはアメリカと戦う前にまず同胞との戦いをせねばならなかった。
戦後は戦後で、都会から来た買い出しの人たちに対する百姓どもの横柄で威張りくさった売りおしみの態度。
ここでも我々の敵は我々の同胞であったではないか。

「ソ満国境15歳の夏」

2008-08-19 10:05:42 | Weblog
例によって図書館から借りてきた「ソ満国境15歳の夏」という本を読んだ。
終戦の年、1945年、昭和20年の夏、当時の満州国新京の中学生が、勤労動員で東寧というウラジオストックにちかい農村に援農に行った先で、ソ連の参戦に巻き込まれて命からがら親もとに帰ってくる逃避行の話であった。
表題を見たとき、旧満州からの引揚者の話かと、早とちりしたが、内容を読んでみると引き上げの話とも一味違っていた。
暑い夏が近づくとどうしても終戦ということが頭をよぎるので、今回は終戦にまつわる本を集中的に借りてきた。
テレビでは恒例の終戦記念日を放映していたが、この終戦という呼称も本当はおかしいのではなかろうか。
実質は完膚なきまでの敗北であったわけだから、敗戦記念日でなければおかしいと思う。
あるいは国辱記念日でなければ筋が通らないのではなかろうか。
歴史の矛盾というか、この時代のことを深く掘り下げて考えると、どうにも腑に落ちない部分が次から次へと浮上してくる。
まさしく昭和の日本というのは明らかにどうかしていたと言わざるを得ない。
私は学者ではないので、感情でものを考え、感情で思ったことを思った通りに記しているが、人間の感情というのは極めて自然に近い人間の心の動きを表現しているものと考える。
人に足を踏まれたら踏み返す。盗られたら盗り返す。これは人間の極めて自然な生き方だと思うが、ここで人間が小賢しくも理性というものを会得すると、左の頬を打たれたら右の頬をさしだす、という偽善としての綺麗事が整合性を持つようになる。
理性とは、人間の野蛮性・自然のままの在り方を、綺麗事でまぶして、それから野生味を抜き取ることであって、さも親切ごかしに振舞うことで、数ある人間の中にはその偽善としての綺麗事をうまく自分の方に引き入れて、労せずして得をする知恵が生まれる。
戦後63年間、日本は戦争という力の行使には巻き込まれずに来れたが、これは明らかにアメリカという傘のもとに庇護されていたということに他ならない。
戦後の日本政府は、自分の国を自分で守るという人間としての基軸を放棄して、人間としての自然の生き方を他国におんぶに抱っこさせてきたわけである。
自分で自分の国を守るという、主権国家としてのミニマムの努力をも放棄してきたのである。
先の大戦で、すべての日本人が皆同じように経験した辛酸を再び繰り返したくないという願望のもとに、自らの自主性を棚上げして、とにかく人間としての生の維持のみに心血を注いできた結果である。
ただただ、自らの命がおしいがために、恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ動物的な生を維持するために、烏合の衆として63年間を生きてきたということである。
自分の身を自分で守るということは、この地球上の生き物の自己保存の根源的な生への執念である。
人間は、その目的のために、過去においても無駄な投資をし続けてきたわけで、悠久の中国の歴史を見ても、それは万里の長城という形で今も残っているし、戦後の東西冷戦の核開発でも、あきらかに無駄な投資を無駄と知りつつ行なってきたではないか。
戦後の日本は、先の大戦の反省から、そういう自己保存のミニマムな投資までも、無駄な投資と認識して、その代わりアメリカの属国になるという選択をしたわけである。
ただ20世紀の後半という時代は、一国だけで自国の安全を維持することは不可能な時代になってきたので、いかなる国でも他国との連携の中でしか、自分の国の安全ということはあり得ない状況ではある。
そうなればなったで、それに対応する国策を策定しなければならないが、これがなかなかきちんとしたものにならない。
戦後の話はさておいて、昭和初期の日本というものを振り返ってみると、当然のこと、誰しもが軍部、あるいは軍人の独断専横ということを言いたてるわけだが、これをもう少し掘り下げて考える必要がある。
戦後の我々は、あの大戦の責任を開戦当時首相であった東条英機が独裁者であったという認識ですべての責任を彼に負いかぶせようとしているが、そもそもそこから歴史認識の誤りがあると思う。
彼が、ヒットラーやスターリンと同列の独裁者だと考えると、あの戦争の反省はどこまで行っても成り立たないことになるし、歴史認識が完全に間違ってしまう。
日本が戦争で敗北したということは、あきらかに戦争のプロとしての軍人たちの責任であるが、それと東条英機が独裁者であった、という話は次元の違う事柄である。
あの戦争の反省を顧みるとき、歴史的事実として軍人や軍部が威張り散らしていた事実は、厳然と注視しなければならないが、誰がそういう状況を作り出したのかということを考えなければならない。
まず第一に、彼ら軍人たちが究極の官僚主義に陥っていたことを冷静に掘り下げなければならない。
こういう軍人にどういう人たちがなっていたのか、という点から掘り下げなければならない。
これら軍人は当然のこと、陸軍士官学校あるいは海軍兵学校を出た人であったわけで、ならばどういう人たちがそういうエリート校に進学したのかといえば、俺らが村、あるいは俺らが町の1、2番の学校秀才がそういうエリート校に進学したではないか。
俺らが村、あるいは俺らが町の1、2番の学校秀才でも、家が庄屋どんや、商店主や、官吏の子弟で、裕福なものはそういう学校に進まなくとも、高等教育のチャンスは開かれていたので、そういう授業料免除の学校を選択する必要はなかった。
授業料免除のエリート校に進学して、高等教育の恩典に浴し、立身出世をして故郷に錦を飾ろう、という発想そのものが実は下賤な思考であったが、この時点ではその考え方は下賤ではなく、有意義な人間の希望の星であった。
その上昇志向を希望の星と勘違いするところから生きることの認識の相違が生まれ、それを追従したのが従来の価値観でいうところの下層階級の下賤な思考の者たちで、一言でいえば貧乏人の子弟であったということだ。
キリスト教文化圏の士官学校というのは、貴族の子弟に、農奴や知識レベルの低い兵卒を指揮監督する術を教える目的で設立されたものであるが、明治維新で近代化を急ぐ日本では、そこのところを考えることなく、たった一回のペーパーチェックで門戸を貧乏人や下賤な心根の人々にも開放してしまったのである。
こういう状況を国民の目から見た場合、こういうエリート校に進んだものは、国民的な英雄であったわけで一般市民の羨望の的であったではないか。
兵学校の生徒が、郷里の出身校に挨拶あるいは講演に帰省すると、それを見た児童らは皆その容姿にあこがれ、われもわれもとその後を追うことを願っていたではないか。
この現象を冷めた目で見ると、昭和の初期という時代においては、日本国民の全部が全部そういう風潮にあこがれ、そういうエリートが日本に光明を与えてくれ、日本は輝かしい国になると早合点したわけである。
それを国民に強烈にアピールしたのは言うまでもなく当時のメデイアであったわけで、国民は当時のメデイアに煽られ、先導され、マインドコントロールされ、嘘をつかれていたわけである。
メデイアが軍人あるいは軍部の官僚主義の本質を見抜けず、それを助長したわけで、その裏には陸軍士官学校や海軍兵学校を出た人たちは優秀だ、という間違った思い込みから抜け出せなかったからである。
戦後63年たった今でも、陸軍士官学校や海軍兵学校を出た人たちは優秀だ、と思っている能天気な人がいるが、確かに入学した時は優秀であったかもしれないが、その後、官僚組織というぬるま湯にどっぷりと浸かって、優秀であり続けるわけがないではないか。
こういう能天気な人こそが、あの戦争を遂行した人たちだ。
昭和20年の8月の東京の現状を目にあたりにしながら、なお徹底抗戦を唱えた人たちだ。
陸軍士官学校や海軍兵学校を出た人たちは、戦争というものを完全に私物化して、ただただ天皇陛下のみに忠誠を誓っていたが、天皇陛下は元首として民草のことを思い描いているのに、彼らはその天皇の意中をいささかも察することなく、その民草を消耗品と思っていた節がある。
陸軍士官学校や海軍兵学校を出た人たちからすると、国民とか市民、大衆とか民草というものは、あくまでも消耗品で、召集令状さえ乱発すればいくらでも集められるし、第一、人を人とも思っていなかったに違いない。
自分が貧乏人の出であることも、長い官僚主義の集団の中で立身出世をしてみると、自分の出自のことなど忘れてしまったのであろう。
結果として、戦争そのものを私物化してしまって、自分たちの戦争と思い違いしてしまったので、国民のことや、相手のことや、先行のことなど眼中になく、ただただ自分の名誉心のみになってしまったのである。
終戦間際、戦艦「大和」の沖縄特攻など、まさしく戦争の私物化ではないか。
これが海軍兵学校を出た優秀であるべき人の最後の足掻きではないか。
私ごとき無学者でも、この作戦の意義が皆無だということは、考える間もなく一目瞭然である。
戦争のプロがすべきことではない。
けれどもそれをしたというとは、彼ら軍人が、国や、国民や、天皇陛下のために戦っていたのではなく、ただただ自分たちの名誉のために死に場所を設定しただけのことで、無意味な出撃であった。
艦長とか高級参謀は、それで名を残せるか知らないが、道連れになった将兵の命はどう考えているのかと問いただしたい気持ちだ。
これを称して私は戦争の私物化というのである。
この本のテーマである、勤労動員で開拓村に中学生を派遣するというのも、それはそれで行政の一環として、上からの指示を一方的に下に流すということはいた仕方ない面もある。
問題は、この時のソ連の対応である。
日本の敗北ということが明らかになった時点で、漁夫の利を得ようというソ連、・スターリンの思考というのは、極めて狡猾なものであるが、これも国益という点から見ると、敵ながら実に巧者といえる。
われわれには考えも及ばない発想であるが、そういう相手の出方に対して、我々の側は常に卑屈になり切ってしまっている。
1945年8月の旧ソ連のスターリンの振る舞いというのは、まことに腹立たしい限りであるが、戦後の我々は、そういう相手に対する怨念を綺麗さっぱり忘れ去ってしまっている。
この怨念の忘却を63年後の今どう考えたらいいのであろう。
この時のソ連のとった行動は、国際的な道義にも反しているし、ポツダム宣言にも違反しているわけで、その非を改めさせる運動が我々の側から全く出てこないというのは一体どういうことなのであろう。
我々、アジアの民は、大なり小なり儒教思想の影響を受けているので、道義を多少はわきまえているが、ロシア人にはそれが全くないわけで、そのことはキリスト教文化園には普遍的なことではある。
彼らにしてみれば、日露戦争の敵という認識であろうが、日露戦争と1945年8月の対日戦参戦とは全く異質のものであって、そういうことをソ連・スターリンにいくら説いても、恐らく「馬の耳に念仏」ほどの効果もないであろう。
彼に説得力を効かせるには力しかないはずだ。
旧ソ連、今のロシアに対して対等に交渉しようとすれば、後ろに力の誇示がないことにはテーブルにもつかないはずだ。
今の状況で、力の誇示という場合、なにも軍治力とは限らず、経済力も大きい力になりうるが、われわれはそのカードの使い方があまりにも下手だ。
戦後の日本では、あの戦争の反省から、再び武力で国益を伸ばそうという発想が御法度になったことは重々承知しており、それが国民感情であることも理解できるが、ならば外交で自国の国益を守り、なおかつ進展させるという発想が芽生えたかというと決してそうではなく、ただただ隠忍自重するのみで、相手の言うがままになるというのも情けない話ではある。
いくら情けない話でも、それで以って国民の血を流すことがないので、それを平和主義と呼んでいる。
恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ動物的な生のみ享受しているに過ぎない。
旧ソビエットが、足元を見透かして領土拡張に走り、罪もない日本人を60万人も使役に使い、北方領土を未だに返さないということは、明らかに国際法規に違反し、ポツダム宣言を踏みにじり、人間としての道義に反しているが、にもかかわらず盗人猛々しく居座っているのが今日の姿である。
北朝鮮による日本人拉致の問題は、未だに解決の道のりは遠かろうが、日本政府も執拗にその道を模索していることは確かである。
この件に関しては、アメリカや韓国、中国という外国とも連携して、核不拡散という問題と抱き合わせとは言うものの努力はしている。
しかし、日本人のシベリア抑留と、それに伴う強制労働、および北方領土の問題に関しては、行動を起こすことさえ委縮してしまっているではないか。
こういう不法に対しては、恥も外聞もかなぐり捨てて、相手の非を突き、事あるごとに世間の目にさらし、地球規模で暴き、宣伝し、旧ソビエット連邦、現ロシアの非合理、非条理を言い続けなければならない。
力で以って実力行使が許された時代ならば、力の均衡ということもありうるが、今の日本にはそれができないわけで、あるのは口でする喧嘩でしかない。
中国人は、夫婦げんかでさえ、道路に出て、公衆の前で行って、自分の言い分の整合性を他者に裁定を仰ごうとすると言われているが、まさしくそれと同じことをする必要がわれわれにはあると思う。
それをするのにも一種の勇気がいるわけで、儒教思想が染みついている我々は、どうもそこまでの勇気がないようだ。
オリンピックの柔道の試合を見ても、われわれは綺麗な一本勝ちでないと、勝った気にならないようで、それを狙っている間に、ずるずるとポイントを取られて結局は負けているではないか。
国益という言葉を使うと、あまりにも大上段に構えた格好にうつるが、自国の名誉と誇りを維持するためには、恥も外聞もかなぐり捨てて、実利を得る工夫をしなければいけない筈だ。
他の国に向かって、我々は平和主義で、血を見るのが嫌だから、危険な場所での国際貢献は御免こうむりたいでは、他から見てバカにされるのもいた仕方ない。

「なにわの夕なぎ」

2008-08-16 09:50:09 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「なにわの夕なぎ」という本を読んだ。
田辺聖子氏のエッセイであるが、これも実に面白かった。
エッセイというのは読んでいて肩がこるということがないので極めて都合がいい。
その代わりいくら読んでも心に残るものもないので、ある意味では時間の浪費ということにもなりかねない。
しかし、人間にはこういう意味のない時間の浪費というのも必要なことだと思う。
われわれはあまりにも真面目すぎると思う。
昨今、過労死ということが盛んに言われているが、私にはこの過労死というのがよくわからない。
死ぬまで気真面目に働き続けるというのがよくわからない。
自分で、「これは死にそうだなぁ、あまりにもハードすぎるなあ」と、思った時点で仕事をスポイルすればよさそうなのにと思ってしまう。
いくら自分の仕事が大事だといったところで、自分の命と引き替えにするほどのこともないように思うが、それがそうなっていないから過労死に至るまで働き続けるということなのであろう。
そもそも死と過労とは別々の問題ではないかと思う。
過労が原因で病気が誘発され、その病気が人を死に至らしめるのであって、過労が直接人を死に至らしめるということではないと思う。
ところが現代の労働者保護という観点から、これらの因果関係を深く追及することなく、「過酷な労働が人を死に至らしめた、だから企業は労働者に金を払え」という考え方が容認されるようになってきたものと思う。
気の毒な労働者を救済するのが情に厚い施策なのであって、「仕事で死んだ労働者を、病気で片付けるとは何事だ」という論理であろう。
こういう状況が普遍化してくると、今度は企業側がその対抗策を講じるようになるわけで、社員の健康診断を義務化するようになってきた。
社員の健康診断を義務化したところで、潜在的な個人の病変を把握できるものではなく、ただただ過労死に対する予防措置として、逃げの対策を講じているだけであるが、それでも企業側の努力という名目は立派に成り立つ。
問題とすべきは、死ぬまで一生懸命仕事に打ち込む個々の人の熱意である。
この真面目さというのを我々はどういう風に考えたらいいのであろう。
今日、8月15日は敗戦記念日であるが、1945年、昭和20年の日本の状況下においても、なお一層聖戦遂行を信じ、本土決戦を真剣に考えていた人がいたわけで、これも明らかに究極の真面目さであったわけだが、これを一体どういう風に考えたらいいのであろう。
彼らは当時の日本の国策を不真面目に考えていたわけではなく、真面目に、真面目に考えていたわけで、これを今我々はどういう風に考えたらいいのであろう。
今の私の思考からすれば、1945年、昭和20年の日本の状況を目の当たりにして、なお一層徹底抗戦を唱える人たちが馬鹿に見えるが、当時、そう考えていた人たちは決して馬鹿ではなく、極めて真面目にそう思い込んでいたようである。
この真面目さというのがなかなかの曲者で、何事にも真面目に取りかかろうとするので、逆に世の中に変調をきたしてしまう。
戦争中の聖戦遂行にしても、真面目なるが故の盲目的な行為であったわけで、国家の指針に極めて真面目に取り組んでいたのであって、決して笑いごとではなかった。
真面目になればなるほど、現実から遠のいて、陳腐な世界に嵌り込んでしまい、後から考えると実に滑稽なことをしていたことになるが、これは一体どういうことなのであろう。
1945年、昭和20年の日本の状況を目の当たりにして、なお一層徹底抗戦を唱える人たちも、極めて真面目にそれを考えていたわけで、こういうことを今どういう風に考えたらいいのであろう。
B29が1万メートルの上空を悠々と飛んでくるのに、その下では竹槍とハタキでそれに対応しようと真面目に考えていたわけで、これを今どういう風に考えたらいいのであろう。
こういう我々の民族の真面目さというのは、どういう風に説明したらいいのであろう。
過労死の問題でも、過労が原因ではあるが直接の原因は病気のはずで、これを真面目に真面目に考えて、過労が直接死に至らしめたからには企業は労働者を救済せよと、弱者救済という大義としての綺麗事を真面目に真面目に追求して、企業側に迫るのである。
仕事の過労で人が死ぬというのならば、本人の自己責任はどうなっているのだ、という疑問が沸くではないか。
死ぬまで働くなどということは、本人自身の健康管理、自己防衛本能、自己責任は一体どうなっているのかと問いたい。
「会社が休みをくれない」などという言い分はおかしな話で、それほどの労働を強いる会社ならば、自分の方から辞めれば、死ぬことはなかった筈ではないか。
ここで転職という形で、自己防衛本能を発揮すると、給料のダウンが必然的に起こるわけで、それを受け入れる勇気がないばかりに、死に至るまで働き続けるということに成るのである。
こういう条件下で、世間の無責任な訳知り顔の人間が、「生活の低下を強いるような企業の在り方は罷りならぬ」という綺麗事を掲げて正義漢ぶるのである。
こういう背景から、会社が労働者を死に追いやるほど過酷な仕事を押し付けたという論理が整合性を持つのである。
真面目な人ほど仕事の手を抜くことも出来ず、完璧を目指し、上司の受けに気を使い、自分の代わりは他にいないと思い込み、何でもかんでも引き受けてしまうわけで、これでは病気を抱え込ものも当然である。
上司から言われるままに、それを真面目に真面目に受け入れて、息を抜く術を知らないまま、しゃくし定規そのままに仕事をし続けた結果、病を誘発させて、その病が命を奪ったというのが本当のところではないかと想像する。
ここで我々が真から考えなければならないことは、「世間の無責任な訳知り顔の人間」が「綺麗事を掲げて正義漢ぶる」ことである。
これも当人達は極めて真面目であって、真面目だからこそこういうことをするのである。
つまり、これもひとえに真面目すぎる結果である。
心にゆとりがない証拠である。
こういう人は田辺聖子のエッセイを読んで腹から笑うということもないのであろう。

「軽老モーロー会議中」

2008-08-15 07:29:39 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「軽老モーロー会議中」という本を読んだ。
まるで漫画を活字にしたような本で、抱腹絶倒という感がしたが、それというのも東海林さだおと赤瀬川原平という異色の作家の対談であったので、面白いことは読む前から想像出来た。
ともに昭和12年生まれということで、言葉の端はしに昭和の時代を感じさせるフレーズがふんだんに出てくる。
私も子供のころから漫画は好きで、よく町の貸本屋で漫画を借りては読んだものだ。
今、図書館に行くと、若いお母さんが幼児を連れて来て、紙芝居や幼児向けの本を借りたり、読み聞かせたりしているが、あれは町の貸本屋がなくなったからああいう現象が起きてきたのだろうか。
それとも公共の図書館が充実してきて、幼児向けの本を置くようになったから、町の貸本屋が淘汰されたのだろうか。
とにかく、子供のころから漫画は好きでよく読んで、学校の教科書も漫画になっておればいいのになあ、と思ったものである。
ところが、成人になってみると、この漫画についていけなくなって、今どきの漫画というのは読みたいという気が起きない。
昔、『漫画読本』という雑誌があって、自分の金で買ったという記憶はないが、本屋の立ち読みや、人の古本で読んだ記憶があるが、この本が消える頃が私と漫画との決別の時でもあったように思う。
今でも漫画を全否定する気は無いが、私にとって見るに耐える作品が少なくなってきたということである。
ところが今のエンターテイメントの状況というのは、漫画からテレビドラマになったり、アニメーション映画になったり、そうかと思うと昔の古典や名著が漫画になったりして、そういうジャンヌ分けの区別がなくなってしまった。
漫画というものが、ただ単なる表現の一形態と化してしまったので、これこそ文化のクロス・オーバーということなのであろうか。
そのことと、この対談の面白さというものは、直接的な関係があるわけではないが、漫画家というからにはそのアイデアは極めて漫画的なわけで、その部分に非常に興味が惹かれる。
漫画のギャグというのは、ある一種のアイデアなわけで、そういう言葉上のアイデアが、次から次に沸いてくるということは、やはりその人の頭脳が柔軟ということであろう。
ものの考え方が柔軟だからこそ、人の笑いを誘うギャグが生まれるものだと思う。
私がこの漫画チックな読み物の中で面白いと思ったところは、食べものに関する初体験のところと、映画の話の部分である。
私ど同世代というところから、我が身と重ね合わせて、そのあたりにことが身につまされる。
戦後、復興期のほんの少し前あたりに多感な青春時代を経たという意味で、私と共感する部分が多くあり、あの頃の生活というのは、今から思うと実に素朴なものであった。
スイトンとか代用食という言葉は、もう既に廃れていたとはいえ、庶民にとってカレーライスが御馳走の部類に入っていたことは確かだ。
そこに行くと、ウナギ料理というのは日本古来の料理であったせいか、高級感という感じはしなかったが、それでも普通の家で安易に作るというわけにもいかず、高かったことは確かなようだ。
道路に面した店先で、匂いが周囲にまき散るように、団扇でパタパタと煙を外に追い出して、それがある種の客寄せのパフォーマンスでもあったのだろう。
店内は煙と煤で薄汚れて、汚らしく見えたものだが、それが却って老舗の象徴のようにも見えたものだ。
そういう場所に、親に連れられてはいった記憶はない。
きっと当時でもそれなりに高かったのであろう。
この両名とも、鮨屋への抵抗は、腹蔵なく述べているが、鮨屋の高慢さはやはり万人に共通したもののようだ。
これは、われわれ庶民の側が、すし職人というものを職人なるがゆえに「この道何十年」という暗黙の了解のもとに崇め奉る気風があるからではなかろうか。
もの作りにおいて、「この道何十年」というように修業を積まなければものが作れないというのは、進化とか進歩に対する一種の怠慢だと思う。
苦節何十年という修行が価値を得ていた時代というのは、昔の日本では人が余っていたので、手作りの職人というのは数が多く、その数の多い中から抜き出るには、出来上がったものの付加価値で競わねばならず、その付加価値が修業の長さではかられたものと推察する。
だから、修行1年目のすし職人の作ったものと、修行20年のすし職人の作ったものでは、本質が同じであるにもかかわらず、後者のものの方が価値が高いというのは、ただたんなる思い込みに過ぎない。
よって、鮨屋というのは、その虚構の上に成り立っているわけで、客の方もその虚構を楽しむというか、その虚構の世界に金を使うことに醍醐味を感じていたのであろう。
もの作りの現場において、修行1年のものと修行20年のものを比べた場合、出来上がりが明らかに違うということは当然あるわけで、そういう目に見える形でわかるものならば、その違いを素直に受け入れることにやぶさかではない。
誰が作ってもたいして変わりのないものまで、修行の年季で差別することは、反合理化の最たるもので、鮨屋が未だにそれを踏襲していることは、前近代そのものということだ。
年期に差があると思うのは、頑迷な先入観でしかない。
だから、もともと金のないものは鮨屋などに行かないことであるが、この悪循環がますます鮨屋の敷居を高くしているのであろう。
鮨屋のみならず高級な飲食店はみなこれに類する虚構の上に成り立っているわけで、庶民はそういうところに近寄らなければいい。
ところが日本の社会では、接待費というものが認められているので、企業の接待にそういうところが使われているが、この接待費というものは根本的に見直すべきだと思う。
寿司の話もさることながら、西洋料理の初体験というのも我が身につまされる場面が多々あった。
今まで生きてきた中で、ナイフとフォークで食べる最初のチャンスでの緊張感というものは、皆同じような気持ちのようだ。
どうも根が貧乏人だと、エチケットが気になって、どんな美味しいものでも喉が通らないような思いをするのも皆一様のようだ。
我々の世代だと、幼児のころに、そういう経験を積むということがなかったわけで、成人になってからの初体験なので、あらぬ知恵が先回りして、思わぬとり越し苦労をするということになる。
同世代のものとして、映画の話も共通の話題になりうるが、この両名の映画の話の中には、私の知っている作品の出てくる頻度がかなり少ない。
何とはなしに、私よりももう一世代前の話のように思われた。
それでもジャン・ギャバン主演のフランス映画、『ヘッドライト』という作品が出てきたのにはいささか驚いた。
この作品は、私もリアルタイムで見て、強く惹かれた作品で、もう一度見たいと思いつつも、まだ実現していない。
昔見た映画で、テレビのBSなどで何度も上映される作品と、全く上映されない作品があるが、これは一体どういう関係なのであろう。
我々の若かった頃、ヌーベルバーグと称してフランス映画が一世を風靡した時期があったが、このムーブメントを堺にして、日本の知識層がフランス映画に傾倒していったのではなかろうか。
この対談でも言っているが、終戦直後は西部劇がブームであったが、その後はフランス映画の方に知識人の関心が向き、アメリカ映画を蔑視する風潮が出てきたと述べているが、確かにその通りの軌跡を歩んだはずだ。
映画一つとっても、アメリカの作品とフランスの作品では、観客に訴えてくるソウル・魂が大きく違っていると思う。
アメリカ映画は単純明快、勧善懲悪、娯楽に徹しているが、フランス映画となると、明らかにアメリカ映画の後追いとは異なって、何かしら考えさせられる要因が含まれている。
戦後の日本の知識人は、この何かしら考えさせられる要因に大きな魅力を感じていたのではなかろうか。
『ヘッドライト』は、まだ録画する機会に恵まれていないが、『死刑台のエエレベータ―』などは随分前に録画して何度も見ているが、何回見ても良い映画だと思う。
アメリカ映画とは明らかに違う。
日本映画でも小津作品などはテレビで放映された限り、できるだけ見るようにしているが、確かに日本人の心情を表現するには、これほど優れた作品も他にないだろう。
ところが、それは同時に、日本人と日本民族の未来像でもあると思う。
彼の作品を見ると、本当の、正真正銘の日本人が描かれているわけで、それは同時に優柔不断で、はっきりとものを言わず、以心伝心で分かり合えるであろうという思い込みと、他者との争いをなんとなくうにゃむにゃの内に回避しようという、典型的な日本人が描かれている。
小津監督の作品の延長にある日本人というものを見ると、我々の将来もああ云うわけのわからないうちにうにゃむにゃのうちになんとなく周囲の渦に巻き込まれ、時流という流れに押し流されていく我々の姿が垣間見れる。
そういう意味で、小津作品というのは、われわれ日本人のありのままの姿をそのまま投影していると思う。
そしてそれを見る私は、われわれ日本人は今世紀の終わりか22世紀にはこの地球上から消滅するのではないかと考えている。
小津監督が描くわが同胞の姿の中に、未来とか未知の世界に敢然と立ち向かう人間を描いた作品があるであろうか。
あの希望のない世界というのは、われわれ日本人の真の姿であったわけで、我々が希望を持って未来とか未知に挑戦すると、司馬遼太郎のいう異胎の時代ということになってしまったではないか。

「散歩歳時記」

2008-08-13 08:15:27 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「散歩歳時記」という本を読んだ。
非常に真面目な本で、人の悪口や、世情を嘆く悪意に満ちた記述は皆無であった。
ところが、この本を読んでみると自分の無知をことのほか思い知らされた。
われわれの日常生活の中での、ささやかな振る舞いがそれとはなしに語られているが、それを言い表すのに、これほど豊かな言語あるいは言い回しがあるとは思ってもみなかった。
われわれ日本人の使っている言葉というのは、これほどにも繊細で、豊かな表現力があるとは今まで知らずにいた。
とにかく、自分の身の回りことをあまりにも知らなすぎると痛感した。
草の名前、木々の名前、鳥の名前、花の名前、そういうものをあまりにも知らなすぎるように思えてならない。
考えてみれば、雑草という草はないわけで、雑草というものにもその一本一本に名前があるわけで、われわれはその一つ一つの名前を知らないがゆえに、全部ひっくるめて雑草と称している。
その一つ一つの名前を知るということも極めて大事なことであろう。
それでこそ好奇心が満たされるということになるのであろう。
そうは言いつつも、普通の人間の普通の生活には、雑草の中の一本一本の草の名前を知らなくても、生きていくうえでは差しさわりがあるわけではないので、それはほとんど顧みられることがない。
しかし、人が全く関心を示さないことでも、それを知っているということは非常に心が豊かになることは確かだと思う。
こういうことは雑学という言い方で一括りされているが、歳時記というのは雑学の宝庫ということのようだ。
日本人以外の人にとって、自然の声、自然の音というのは、人間の精神に何一つ感動も与えるものではないらしいが、われわれはそういうものから大きな啓示を感じ取っている。
今、夏の真っ盛りで戸外では蝉がうるさく鳴きわめいているが、われわれはこの状態を蝉時雨という表現をする。
こういう感性は日本人以外の民族にはないようで、彼らにすればただ単なる騒音でしかないようだ。
こういう感性の違いが文化というものを形つくっているのではなかろうか。
ただ人間の生存というのは、どこまで行っても生存競争なわけで、文化を情緒的に楽しんでいるだけでは、民族としての衰退を招く可能性が十分にあると、心しなければならないと思う。

「昭和のまぼろし」

2008-08-12 08:55:32 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「昭和のまぼろし」という本を読んだ。
著者、小林信彦という人についてはよく知らない。
何でも「週刊文春」にコラムを書いていた人だということは文中に述べられているが、世代的に私と同世代にあたるようだ。
エッセイ集なので、話題はあちこちに飛躍しているが、それはそれで構わないが、私とは考え方を異にする部分がかなりあった。
というのは、NHK不要論と、小泉純一郎氏に対する誹謗である。
この人、ラジオが好きなのは本人の勝手で、他者にとってはどうでもいい事であるが、NHKが不要という部分は、私とは真っ向から意見が衝突するところである。
どうもNHKの権威主義が性に合わないらしいが、私は、日本のメデイアの中には権威の柱、格、核、基軸のようなものが一つか二つ入用だと考える。
政府の広報とまで極端に堅物にする必要はないが、日本と日本人のアイデンティティ―を内外に高らかと知らしめる機関というのは必要だと思う。
それは同時に、日本人の中においても、NHKの真似をしておれば間違いない、という権威を具現化するものであって、こういう核としての信念の上に、自分たちのアイデンティティ―を確立することは、非常に大事なことだと思う。
民主主義で、大勢の国民の声を、政治や外交に反映させるというのは確かに「良き事」には違いないが、この「良き事」を維持するについては、ただたんに放任主義では成り立たないと思う。
そういうのは、一言でいえば単なるポピュリズムであって、いわば衆愚というものだと思う。
われわれも、63年前は、押しも押されもせぬ軍国主義の中で生きていたわけで、それは大衆という立場からすれば抑圧された時代であった。
日本の全国の人々が、すべからく軍国主義に抑圧されていたわけで、そこには個人の自由というものは全くありえなかった。
ところが戦後は、文字通り、解放されたわけで、軍国主義という上から重く被さっていた重圧というものは、きれいさっぱり消し飛んでしまった。
日本の大衆、国民は、明らかに軍国主義という呪縛から解放された。
だとすれば、われわれは、自分たちで古い旧来の秩序をかなぐり捨てて、新しい秩序を自分たちの力で作り上げるのが道理というものであろう。
とは言うものの、日本は対米戦で完膚なきまで敗北したわけで、戦争に負けたということは、日本本土が焦土となってしまっていた。
よって、われわれは、生物学的な生を維持するだけで精一杯だったので、精神的な活動を復活させる余裕も余地も全くなかった。
ただただ、生きんがために食わねばならなかった。
生き残るために、食うことに専念しなければならなかった。
一応どうにか食えるようになったなあと思った時には、もう完全に占領軍の術中に嵌ってしまっており、軍国主義という重しの代わりに、アメリカン・デモクラシーという蓋になり替わってしまっていたのである。
あの戦争で生き残った人々からすれば、もう2度とああいう経験をしたくない、というのは偽らざる本音であろう。
占領軍が上から押し付けたものであろうとなかろうと、「戦争放棄」という条項は、諸手を挙げて大賛成の条文であったに違いない。
この時に生き残っていたわが同胞にすれば、昭和20年8月の状況から見て、日本が再び戦前の状態に戻るなどということは、想像さえできなかったに違いない。
東京は全面的に焼け野原で、国会議事堂の前が畑になっているようなありさまで、新宿の駅から海が見えるという状況を呈していたわけで、そういう有様を目の当たりにした生き残った同胞からすれば、とても今の日本を想像し得た人はおそらく一人もいなかったに違いない。
そういう状況下で、占領軍が押し付けた憲法9条というものを見た場合、敗戦で焼け野原のなった日本に交戦権、あるいは自衛権が有ろうが無かろうが、仮に我々が如何様に攻められようとも、失うものは何一つないわけで、「戦争放棄も大いに結構」ということになるのも当然の成り行きだったと思う。
あの時点で、日本に攻めてくる国があったとしても、日本は占領中のことではあるし、占領軍としてのアメリカが好むと好まざると前面に立たねばならないわけで、被占領下の日本としては「紛争解決のための武力は要らない」と思うのも道理である。
ここで日本の知識人が心底考えなければならないことは、この時以降、日本人の考え方があまりにも野放図になってしまい、思考の核になるものが未だに見つけ出していない、ということである。
従来の軍国主義は、占領軍によって叩き潰されたが、それに代わるものとして、我々はどういうものの考え方を構築したのであろう。
それを築くべきが戦争で生き残った日本の知識人の責務ではなかろうか。
左翼思想というのは、戦前からあったわけで、戦後は戦時体制の反動として一世を風靡したかに見えたが、所詮は、日本の良き伝統をぶち壊しただけで、それ以上でもなければそれ以下でもない。
歴史を紐解くまでもなく、日本には高等教育の場というのはかなりの数あったわけで、軍の機関は終戦と同時に消滅してしまったが、本来の高等教育を司る機関、つまり大学、厳密にいえば旧制高等学校、帝国大学等々というものは、戦前、戦中、戦後を通じて生き残っていた。
問題は、日本の軍国主義が占領軍によって全否定されたとき、こういう象牙の塔に逃げ隠れていた人たちが、どういう顔をして出てきたかということである。
あの戦争中でも、自分の思想を変えなかった共産党員は、敵ながら天晴れだと思う。
ところが、象牙の塔にこもっていた大学の先生方には、こういう度胸はないわけで、風見鶏に徹していたわけで、自分の出番が来るのをじーっと我慢して耐えていたことになる。
こういう先生方は、本質的には頭が良いので、世の中の潮の目を読むことにも長けているので、暗黒の時代をやり過ごして、新しい夜が明けるのを待っていたというわけだ。
で、その新しい時代が到来すると、自分たちにとって眼の上のタンコブのような軍国主義者は既に存在していないので、この世の春が謳歌出来たわけである。
戦後の諸問題はここに起因する。
戦後の日本を語る者は、この点を見落としている。
まず第一に思いをはせなければならないことは、戦前、戦中、象牙の塔にこもっていた大先生たちは、共産主義というものを過大評価していたわけで、彼らがそういう過誤を犯したということは、軍人ならば作戦の失敗にあたるわけで、その責任の重さは推して知るべしである。
戦争のプロであるべき軍人が、負けるような作戦をしたので、日本国民は奈落の底に突き落とされたわけだが、戦後は学識経験豊かであるべき大学教授たちが、共産主義というものの本質を見誤り、夢を食う漠のような存在だったので、日本国民は金玉を抜かれた宦官のようになってしまったのである
日本の軍人が、自分の作戦の失敗をなかなか認めようとしないのと同様、旧帝国大学の先生方も、自分の失敗を素直に聞き入れようとはしない。
旧軍人も、旧帝国大学の先生方も、同じ日本人なので、することも同じということだ。
ことほど左様に、一般の人からすると偉い先生方が、終戦、敗戦、戦後という時に、これから生き、生まれ、世代を継ぐ人たちに、何一つ新らしき指針というようなものを掲示しなかったことにある。
それは学制変更後の大学にもなければ、その前の教育段階でもなく、結局、国民に対して我々日本人のアイデンティティ―を自覚させる措置というのは、今日に至るまで何一つ確立されていない。
次世代を担う教育の場で、それが行われない、行ってはならない、というのであればメデイアがそれをしなければならないと考える。
戦争中の日本のメデイアは、極めて積極的にそれを実施、実行し国威掲楊に協力を惜しまなかったので、戦後はその反動として、日本のメデイアは国論を一つに収斂するという方向性を極端に忌み嫌った。
人の考え方の多様性を尊重すべしということは、理想ではあるが同時に原始社会ということでもあり、民主主義の終焉でもあるわけである。
戦後の日本のアメリカン・デモクラシーは、万能ではないわけで、当然、欠陥も多く含んでいる。
ところが、我々日本人というのは、極めて潔癖な国民で、こういう欠陥が許せないわけで、100%完全な平等でなければならないと考えるが、これは無い物ねだりである。
ところが、それをそういう風に説く人がいない。
皆が皆、良い子ぶって、100%完全な民主主義を渇望するが、それはありえない話だということをなかなか納得しようとしない。
だから議論はいつまでも空転するのみで、これに採決をとって決着をつけようとすると、議論が足らないとか、少数意見を尊重せよとか、多数意見の横暴だとか、民主主義を否定するような発言になるのである。
今の日本のメデイアの状況を見て、民放よりもNHKを軽視する思考というのは、到底、分別ある大人の思考とは思えない。
民放のまわし者で、金を貰ってNHKの悪口を言っているとしか思えない。
そして小泉純一郎に対する誹謗中傷も大人げない思考だと思う。
彼が政治家として今までないほどの人気がある点がお気に召さないようだが、彼は政治家として、自民党総裁として、内閣総理大臣として、精一杯の働きをしていたと思う。
それが自分自身の思惑とズレているからといって、無能無体よばりするのは、言う方の品のなさを暴露しているようなものだ。
政治家と、その政治家をこき下ろすコラムニストと、そのコラムを読むアホウでは、それぞれに持ち場立場が違うわけで、その中でも政治家をこき下ろすコラムニストというのは、一番浅ましい、
卑猥卑属な生業をしている売文業者だ、という認識を本人がもっているかどうかだ。
昔からインテリヤクザトいう言葉で代弁されるように、売文屋というのも賤業の一つで、人々からは蔑すまれていたものだが、今時はジャーナリストなどとカタカナで呼ばれると、何だか偉そうに聞こえる。
また、床屋談義という言葉もあって、お上の揚げ足を取って流飲を下げるというのも庶民の楽しみではあるが、そういう議論には責任が伴わないわけで、それはそれで由としなければならない。
ところが床屋談義のレベルの無責任な政治談義であったとしても、それがコラムという形で活字になってしまうと、あたかも非常な権威をもったように見える。
文章を作ってそれを生業としている人は、ほとんど何も感じず無意識のまま過ごしているであろうが、文章を書くことの下手な人、日頃文章など書かない人、文字を書くことの嫌いな人から、活字という形で表れた思考というものを眺めると、極めて貴重な意見のように思えるものだ。
文字という形で、それぞれの思考を表すということは、書く方も読む方も、共通の認識を兼ね備えておらねばならず、読めるだけでは意志の疎通は不十分で、書けなければ人の考えは十分に伝えることができない。
その意味で、コラムが書けるということは、大きな意義があるわけだが、そういう人が自分たちで、選挙という民主的な手段で選出した自分たちのリーダーをこき下ろすということは、一体どういうことなのであろう。
日本の今の政治システムの構図というのは、投票という選抜方法で、広範な国民各層から積み上げてきた国会議員の中の、代表の中の代表という形で、自民党総裁が内閣総理大臣として選ばれているわけで、独裁者などとは程遠い存在であるが、これを独裁者というのならば、本当の独裁者を知らないということになる。
メデイアというのも自分の身の程をわきまえなければならないと思う。
テレビでも、新聞雑誌でも、メデイアが正義の味方というような顔をしてもらっては、国民の側は困るわけだが、メデイア側にはその部分の謙虚さが欠けている。
自分たちは良い事をしているつもりになっているが、その思い込みが極めて危険である。
戦前、戦中の軍国主義というのも、戦後の左翼的な教育では、天皇制と軍部の独断専横が諸悪の根源かのような言い方がなされているが、我々の大衆の中にこそ積極的な軍国主義推進者が大勢いたわけで、それを鼓舞していたのが、いうまでもなく日本のメデイアであったことを忘れてはならない。
統治者のみがイケイケドンドンであったわけではない。
1万メートルの上空をB29が飛んでくるのに、その下では竹槍とハタキでそれに対応しようとしていたわけで、こんなナンセンスなことを当時の大人、つまり国民レベルでは真面目に受け入れていたわけで、これは一体どういうことなのであろう。
戦後63年たって、今でこそ「悲惨な目に遭った」と述懐しているが、当時の若者、いや若者ばかりではなくすべての国民が、この戦争で死ぬことを当然のことと考えていたわけで、このことは今どういう風に解釈したらいいのであろう。
ここで生き残った若者はその後、どういう精神の変遷を経て今日があるのであろう。
昭和20年8月の東京の現実を目の当たりにしても、なお徹底抗戦を唱えた人たちの心の中というのは、生きることよりも死ぬことに意義があったわけで、このことを今どういう風に考えたらいいのであろう。
ポツダム宣言を受け入れるという天皇の意志に対して、実際に死んで諌めようとした人もいるわけで、この時点で「生よりも死を!!」と考えた人の心をどう考えたらいいのであろう。
戦後の日本人、あの戦争を生き抜いた人たち、あるいは生きのびた人たちが、自分たちの政府に不信感を抱くというのは、戦争中に嘘ばかり言われたということの反動もあろうが、その前に本来死ぬべき命が不様に生き残ってしまったことに対する悔悟の念があったのではなかろうか。
死ぬことを前提に生きてきたので、現生には怖いものなしで、何でもかんでも権威に抵抗していなければ、自分の精神の支柱を失うという恐怖におびえているのではなかろうか。
そしてこういうことは、花の花粉が風に舞って飛散するように、メデイアという媒体が大きく攪拌して一つの運動として盛り上がってしまう。
そして、それが時流として大きなうねりとしてなると、もう誰も止められなくなって、行きつくところまで行きつくということになる。
かっては軍国主義の提灯持ちがいたように、新しい反抗主義、反体制、反政府運動というのも、それを煽り、扇動し、提灯持ちのように振舞う人間が大衆、民衆、国民の中から生まれてくるのである。

「金に泣く人笑う人」

2008-08-11 07:25:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「金に泣く人笑う人」という本を読んだ。
著者は藤本義一。
藤本義一氏といえば、昔の「11PM」のイメージから脱しきれない私である。
両側に美女を侍らせて、穏やかな語り口で、大人の笑いを提供する彼の態度には好感がもてたものだ。
その人が金にまつわる話を書くということは、私にとっては意表を突かれた思いがする。
生きた人間は、金なしでは生きておれないので、何ビトが金について蘊蓄を傾けようとも一向に構わないが、藤本義一氏からそれを聞くというのも、何とも場違いな気がしてならない。
もっともっと艶っぽい話ならば妥当性もあるが、とはいうものの、色と金とは切っても切れない仲でもあるわけで、金の話はいづれ艶っぽい話と紙一重という場面も多々あった。
彼が金の話をするというのは、彼としては、詐欺師のことを商売としての小説の話に結び付けたかったので、詐欺師にいろいろ取材するうちに、それが金の話に転化していったようだ。
私個人としては、全く金には縁のない人間で、今まで金儲けをしたいなどと考えたことがない。
有るに越したことはないが、無ければないで何とか人生を過ごしてきたわけで、株や競馬で大儲けをしたい、などと考えたことはない。
生まれ落ちたときから金とは無縁だ、と自分自身思い込んでいるので、あぶく銭をひろいたいとも思わない。だいたいギャンブルが大嫌いだ。
手を出す前から、ギャンブルで儲かる話などあり得えない、と決めつけているので、自分からしたいと思うこともなければ、誘いを受けることもない。
しかし、身の回りにはそういう人が大勢いるわけで、藤本義一ではないが、そういう人から話を聞くことは好きだし、そういう話は面白いとも思う。
ギャンブルが嫌いで、マージャンも未だに覚えきらないが、それでもメンバーが足りないからというわけで仲間に入れられとき、「賭けなければ面白くない」というが、私にはその心理がサッパリわからない。
まだ子供が幼稚園の頃、ある日、あまりにも退屈で退屈で所在なく、人がやっているパチンコなるものをやってみようと思って、ママ・チャリに乗って町まで出かけた。
2、300円玉を買ったであろうか。
それで、おそるおそるその玉をはじきだしたら、入るは入るは、玉がどんどん出てきて、上の皿も下の皿も一杯になってしまった。
ところが、その後、出た玉をどうしていいのか分からず、とにかくそれを箱に入れて交換所に持っていって全部チョコレートに変えた。
その戦利品をもって家に帰ったら、それ以降というもの家内が「金を出すからもう一度パチンコをしてこい」とやかましくせつく。
けれども私のパチンコはその一回のみだ。
ことほど左様に、私は金に縁のない人間で、投資をするなどということはありない。
そもそも、余った金など最初から存在していないので、投資などできるわけがないし、人から金を借りるほどの勇気もないわけで、所詮あるだけの金で細々と生きるしかない。
人間が金に執着することはよくわかる。
詐欺師が全知全能を傾けて、金持ちの金を巻き上げる方策を考えることもよく理解できる。
私が我慢ならないことは、官僚の汚職と、その無駄使い、浪費の感覚である。
詐欺師は自分の命を賭して金持ちの金をかすめ盗ることを考えているが、官僚というのは、きちんと毎月の御手当てを貰いながら、なおかつ自分の地位を利用して、私利私欲を満たそうと、納税者の血税を掠め盗るというその気持ちが、あまりにも意地汚くて我慢ならない。
詐欺師が金持ちの金を掠めとる行為には、騙す側と騙される側の知恵比べがあり、悪事とはいえそれが成った時には、拍手喝さいを送りたいが、貧乏人の納めた血税の上前を掠めとろうとする役人は、生活の保障がある中でのより以上の金への執着であって、何の同情もいらない。
問題は、役人の汚職というものが如何に意地汚い行為かという点に我々は甘すぎるのではなかろうか。
世の中には、金集めの好きな人もおり、私のように金に極めて淡白な人もいるわけで、問題は、役人、今の言葉でいえば公務員、官吏という人々の金銭感覚と、その生活態度である。
日本でも中国でも、あるいは他の国々でも、為政者側の官吏、官僚、役人というのは、極めて薄給であったことは確かである。
だから、真に勇気があり、気概に満ちた若者は、自らの意志で官吏の道を選択することはありえなかった。
そういう前提をきちんと認識したうえで、自分の能力に自信がなく、自分の人生を自分の力で開き、開拓し、未知に対して挑戦する勇気のないものは、既存の権力とその威力に寄りかかって生きる道を選択するのである。
だから、今、官僚としてあるものは、その人が、官僚になろうと決心した時点で、その心が邪であったわけだ。
その上、人が人を統治するには、ピラミッド型のシステムがどうしても必要なわけで、この上下関係の中で、それぞれの心を潤すものとしては、大なり小なり心付けというものが必要悪として生じてくる。
その結果として、ピラミッド型の組織の中で最初は心付けのつもりのものが、時を経るに従い贈収賄という形に変貌し、世間一般の金銭感覚からは乖離してしまい、倫理観がマヒしてしまうのである。
それを正常な振る舞いに軌道修正すべき思考が、本来ならば倫理感でなければならないが、こういう官僚組織の中では、官僚としての小宇宙の中での倫理が確立されてしまっており、それは世間一般に通用している倫理とは別物になっているのである。
官僚の汚職や収賄という行為は、民主化の意識が未発達なところに蔓延する精神の堕落だと私は思っていたが、どうもそういうものではないようだ。
官僚を志す人の中には、既に、「楽して得をしよう」という潜在意識が刷り込まれているわけで、そういう人は、最初から「世のため人のため」という意識が毛頭ないわけで、あるのは我が身の可愛さだけである。
人のために汗を流したり、血を流す勇気のある人は、最初から官僚、官吏、役人という選択をしないわけで、そういう選択をするという時点から、心の卑しさが潜んでいるわけだ。
そういう人がペーパーチェックのみで立身出世をすれば、誰のために仕事をするか、ということは当然推察されるわけで、それは言うまでもなく自分自身のための仕事でしかない。
この状況を厳密に言えば、官僚側のみを責めるわけにはいかない部分がある。
官僚、公務員から仕事をもらう民間企業の方も、仕事をもらいたいがために、官僚にすり寄る場面もかなりあるわけで、ここで両者の利害が見事に一致することになる。
官僚は、自分たちで実際の仕事をこなすわけにはいかないので、民間業者に委託する。
ここでその入札を巡って官僚と企業の癒着の構造が必然的に出来上がるわけで、完全に自由競争でことに当たれば、弱肉強食の世界になるので、話し合いで相互依存体制をとると、それは談合として糾弾されてしまう。
だから官僚も企業も、双方がそれぞれに話し合って、ことを穏やかの納めようとすると、裏で金が動くということになる。
この時、官僚というのは、基本的に、自分たちは規定の給料をもらっているので、徹頭徹尾、競争原理を貫けば、それはそれなりにことは解決するが、ここで役人の根性のイヤらしさが頭をもたげ、恩を売る形で解決を図ろうとし、それに伴って大きな金が動くというわけだ。
藤本義一氏は、明治初期のころの官僚の汚職はもっとスケールが大きかった、といっているがそれは事実であろうとも、褒められたことではない。
あくまでも、前の時代の封建主義的な思想が尾を引いていただけのことで、民主主義の未熟、民主化の未成熟ということであって、自慢すべきことではない。
官僚という人たちは大きな金を動かしているが、その金は自分たちの金ではないわけで、これが民間企業であれば、それは純粋に企業の金、経営者の金、組織の金ということがいえるが、官僚の触っている金というのは、どこまでいっても納税者の金であって、官僚自身の金ではないということを深く肝に銘じてもらわなければ困る。
この金に接している官僚というのは、目の前の金が自分の金でもないのに、あるいは自分の金でないからこそ、痛みを感じていないのかもしれない。
この発想そのものが完璧な賎民の思考であって、心卑しき者の考え方であるが、最近はこういう物の言い方が咎められて、素直に言葉に出して言えない。
社会の最小単位が家庭であることは誰も異論は無かろうが、心の卑しさは親から子に引き継がれる、というと誰しも信じたいことのように思うはずだ。
しかし、生きの物のDNAは、明らかに親から子に引き継がれるわけで、親の心が卑しければ、子の心も卑しいと思う。
ところが卑しさとか気高さというのは、それぞれの持ち場立場で、感じ方や反応の仕方が違うわけで、受けとる側も皆一様ではないので、その差異というのはあらゆることと相殺されてしまって、それだけが特別に目立つということはない。
だから私は、高級官僚が司直の手にかかって逮捕される、というような事件を見聞きすると、きっと先祖の中にもそれに類することをした人がいるのではないか、という目で見る。
同時に、その子孫も、いつかは親と同じことをしでかす可能性を秘めているという目で見る。
完全なる偏見であるが、「偏見をなくせ!」という綺麗事で世の中が変わるわけもなく、そういう綺麗事で現実の人間の在り方をカモフラージュするから、複雑怪奇な事件が続くものと考える。
大勢の人間の中には、盗僻をもつ人間は確実のいるわけで、その被害を撲滅するということはありえないわけで、ならば個人でそれに対処するほかない。
これは理性とか知性では如何ともしようのないもので、本人に命ある限り、背負っていかなければならないがもので、これと同じようの収賄や汚職に鈍感なひとは、その倫理感に甘さがあるわけだが、この倫理観に対する甘さというのは、その人というよりも、その家系が代々受け継いでくるもので、そういう人が官僚に成れば、当然その甘さというのは何らかの形でその人の生き方に表れるのが普通だと思う。
終戦直後に、一切の闇物資を拒んで、餓死した裁判官がいたように、人間の遺伝子、DNAというのは、ことほど左様に、その人の生き様を律するものだと思う。
官吏として潔癖な人はどこまでも潔癖であるが、汚れた人は恥も外聞のかなぐり捨てて、我が身の保身に走って恥じ入らないのである。
そしてそれは、その人のもって生れた生来の特質、遺伝子、DNAによるわけで、昨今は、そういうもので人を差別してならないことになっているので、綺麗事の理念で社会の闇を覆い隠すか、現実を赤裸々に直視して、世の膿を絞り出して痛みの伴う改悪を甘受するかの選択である。
詐欺師が金持ちから金を騙し取るのは、ある種の芸術に通じるものがある。
同じ悪事でも、官僚・官吏が公金を誤魔化したり、贈収賄で懐をあたためるのとはわけが違う。
この悪事の違いを、我々はもっと素直に峻別しなければいけないと思う。
オレオレ詐欺が多発すると、メデイアは「それを何とかせよ!」と、行政や当局に迫るが、庶民が困ると真っ先に正義面して当局にその善処を要求する行為というのも、どこか偽物の臭いがし、詐欺的行為に見える。
詐欺に引っ掛かるというのは、心のどこかに隙があるわけで、年寄りだからといって、心の隙を正当化することは出来ず、盗られたら盗られ損である。
問題は、世間ではこうして騙された老人、年寄りは可哀想だ、という同情論、感情論が幅をきかせて、当局や銀行に、そういう詐欺防止の措置を迫る偽善者の存在である。
悪事を奨励するわけではないが、悪事をする方も、それはそれなりに知恵を絞っているわけで、小金をもった年寄りも、それはそれなりに自己防衛に知恵を絞っても罰は当たらないと思う。
悪事をする方は、それこそ乾いた雑巾をも尚も絞るほど知恵を出し切っているのに、年寄りの方は、自分の身の安全を人頼みにして、のんべんだらりと人の情にすがっているとすれば、それが掠めとられたとしても仕方がない。
藤本義一から金とギャンブルの話が出れば、当然行きつく先は「ステイング」と「麻雀放浪記」ではなかろうか。
「ステイング」のポールニューマンとロバート・レッドフォードのコンビ、「麻雀放浪記」の真田弘之らの演技は、ギャンブル音痴の私もついつい身を乗り出すほど魅せられたものだ。
ギャンブルも人の駆け引きを横から見ている分には、人畜無害で面白いが、根っからのギャンブラーではそれが物足りなのであろう。
ギャンブルで勝つ時の楽しさは誰でも同じであろうと思う。
ところが、負けた時の悔しさは千差万別なのではなかろうか。
家内は兄弟が多く、さまざまゲームで負けても差ほどショックなど受けないようであるが、私は3人兄弟の一番上だが、如何なるゲームでも、自分が負けたとなると、何とも悔しくて悔しくて、将棋盤などすぐひっくり返してしまう、とは他の兄弟の弁だ。
自分のこういう性分を知っているからこそ、ギャンブルに手を出さないのである。
だから、私としては、勝負に負けても平然としている人間の心がわからないのである。
そして根がやはり馬鹿なのであろう、子どもとトランプ遊びをしていても、良いカードが来ると、それが顔や態度にそのまま出てしまう。
要するに、日常生活の中で、喜怒哀楽が体全体に出てしまうので、ポーカー・フェイスという芝居ができない。
ことほど左様に、私はあらゆる面からギャンブルには不向きであり、それに付随して金儲けにも縁のない人間である。