例によって図書館から借りてきた本で「草の根の軍国主義」という本を読んだ。
著者は佐藤忠男という映画評論家であるが、彼の言わんとする趣旨は十分に納得できるものであった。
前に読んだ「むかし、みんな軍国少年だった」という本の内容とよく似ているが、確かにあの時代の社会の風潮というのは、草の根の軍国主義というのが実相だったと思う。
これを戦後の民主教育では、上からの押し付けという言い方で普遍化しようとしているが、実質は、下々のエネルギーが沸騰した草の根の軍国主義というのが真の姿だと思う。
戦後の民主教育では、あの戦争は日本の中の戦争好きな特殊な人たちが、中国をはじめとするアジアを侵略して支配しようとした、というまるで芝居がかった勧善懲悪的な感覚で糾弾しようとしているが、そんな単純なものではないはずである。
戦争というのは、いくら独裁者だとて思いつきや、気まぐれでするものではないはずで、ヒットラーやスターリンというような独裁者であったとしても、用意周到に計画立案して推し進めるわけで、その点では他の統治者と変わるところはないはずである。
武力行使や暴力を使わずに相手がこちらの言うことを聞いてくれれば、なにもわざわざ無益な血を流すことはないわけで、話し合いで自分の思う通りに行けば、あえて戦争という手段に訴えなくてもことは済む。
ただ昭和初期の日本の在り方というものをよくよく眺めてみると、日本は中国に対して奢った態度でいたことは確かで、この中国に対して奢り高ぶった態度で接した背景には、日本国民の潜在意識が横たわっていたことは間違いない。
その意味で、この部分に草の根の軍国主義というものがあったと私は思う。
あの戦争のきっかけは、日本陸軍の独断専横であったことは論をまたないが、そういう行動をとった日本陸軍というものをよくよく掘り下げて考えてみなければならないと思う。
日本陸軍を構成していた人たちは、異星人でもなく、エイリアンでもなく、我々の同胞であって、我々の村の出身者であったり、我々の学校の先輩であったり、我々と同じように米の飯と熱いみそ汁とこの上なく愛する我々の親戚であったり、父であったり、兄であったり、弟であったわけで、100%我々の身近な人たちの集合であったはずだ。
そういう人たちが中国という大地の上に自分の二本の脚で立ってみると、この土地と、この民と、そしてわが同胞の行く末を勘案した場合、この地球上に泰平の地を、つまりユートピアの建設を実現させねばならないと考え、その為には一時的にこの地の民を支配し、それを上から指導すればそういうユートピアの建設はありえると思い込むのも自然の流れだったと思う。
そのためには日本、つまり我々日本人がこの地を一時的に支配し、怠惰で覇気に欠けた中国人を上からコントロールし、西洋列強の植民地支配というものを粉砕し、西洋に代わって黄色人種の我々がそれをすることは許されるに違いないと思ったに違いない。
問題は、日本から中国に渡った兵隊たちがそう思うことは不思議でもなんでもないが、そういう考えが日本内地にフィードバックすると、それが整合性を持ってしまって、そういう壮大な夢の実現が期待され、日本内地の人々までそれに酔いしれてしまったことである。
その理由は一体何なのかと問えば、それはメデイアの介在である。
日本の地から海を渡って中国の地に足を踏み入れたわれわれの身近な仲間が、中国人は怠け者で覇気に乏しく、西洋列強に蚕食されるのも当然だという感想を述べると、その話に尾ひれをつけて、面白おかしく脚色して内地に報道する、するとそれを読んだ内地の人々は、そんなシナ人あらばイケイケドンドンで、自分たちの国益を大いに揚げようではないかという話になったと思う。
日本と中国は太古から連綿と文化の交流があったが、この文化の交流という言葉が案外曲者で、それは今でいうところのハイソサエティ―・クラスの文化交流であったわけで、下々の人間がどういう考え方をするのかという民族の本質を突く研究はなされていなかったと考える。
文化交流というと、対等の交流のように聞こえるが、実質は日本の高官が先方から書物を授かるだけの交流で、先方にすればあくまでも夷荻の扱いであったかもしれない。
どちらにしても、我々の側は相手の民族的な本質を知らないまま、身の程知らずで奢り高ぶっていたことは間違いなく、その我々の側の奢りがどこに原因があるかと問えば、それは日清戦争に勝利したということに行きつくと思う。
そのことを言葉を変えて言えば、成功事例から何も学ばなかったということになるわけで、何も学ばなかったから相手の民族の本質を見抜けなかったということになる。
相手の民族の本質を知らないまま、自分が奢り高ぶっていたものだから、足元をすくわれたわけである。
蒋介石が連合軍側に身を寄せるなどということは、当時の日本人からすれば想定外のことではなかったかと思う。
無理もない話で、蒋介石にすれば連合軍というのは自分の国を植民地支配しようとしていた敵側のはずであり、それと手を組むということは当時の日本人には考えられない事であったに違いない。
われわれはほんの少し成功するとその成功事例に酔ってしまって、周囲を冷静な目で見るということを忘れてしまい、いつもいつも同じ手法を繰り返すので、傷がますます深く、かつ大きくなってしまうのである。
これと同じケースは戦後も連綿と息づいているわけで、あの高度経済成長の時期、日本の中小企業で儲けたところは、会社の清掃員まで引き連れて海外旅行に現を抜かしていた。
そんな奢り高ぶった会社はバブルの崩壊とともに見事に消滅したのと同じで、われわれは少し成功するとすぐに奢り高ぶって身の程をわきまえないという悪い癖がある。
戦前の日本軍部の思考も全くこれと同じで、日清・日露の戦役で成功をおさめたので、見事に舞い上がってしまったわけだ。
これはひとえにメデイアの責任である。
メデイアというのは昔も今も信ずるに足る評価を大衆から得ていないが、狼少年のように、常に嘘の報道をしても誰からも糾弾されることがない。
報道が嘘だったからと言って、その記事を書いた記者が獄につながれるということはない。
記事の内容が真実かどうかということは、記事を書いた本人しかわからないわけで、そういう意味でメデイアというのは極めて有望な啓蒙機関であると同時に究極の虚業でもある。
自分の考えを広く世間に知らしめたいという時には、このメデイアに頼ることが極めて重要である。
昭和の初期には軍国美談というものが数多く誕生した。
例えば、肉弾3勇士とか、木口小平とか、軍国の母とか、100人切りの話とか、こういう話を美談として国民に吹聴しまくったわけで、それは上から書けと言われて書いたものではなく、あくまでも記者の判断と会社の判断が相乗効果を発揮して国威掲楊につながったわけである。
先の戦争から何か教訓を得るとするならば、メデイアを如何にコントロールするかということを、学問的に深く深く考察することだと思う。
昭和の初期において、日本の軍国主義というのは、いわゆる草の根の軍国主義であったと思う。
統治者が上から庶民に押し付けたものでもなければ、軍部が国民に強制したものでもなかったはずだ。
修身の強化とか、教育勅語の斉唱などということは、統治者が自ら言いだしたことではなく、その下のレベルが官僚システムの常とう手段としてのゴマすりで発動したことだと思う。
メデイアが庶民や国民にばらまいた軍国美談に人々が酔ってしまっただけのことで、北京オリンピックが15年続いたようなもので、その間日本の国民は勝った負けたといっては一喜一憂していたわけだ。
オリンピックの結果は事実が報じられているが、この時期のメデイアは嘘ばかりを報道していたわけで、嘘でないところが軍国美談風に脚色されていたのである。
今、我々は、学校でも職場でも、巨人が負けたの勝ったの、サッカーがどうのこうのという話をしているが、そういう話には特別にイデオロギーがあるわけではない。
ところが昭和初期の新聞には、真実の報道というものがない上に、美談調に脚色された報道があったわけで、当時の子供がそれに影響されるのは至極もっともな話だと思う。
戦後の民主教育では、メデイア側の虚偽の報道と、国威掲楊の部分に故意に口を噤んで、ただただ軍人や軍部を糾弾することに精力を費やしていたが、それは戦後に至ってもメデイア側の自省が内側から出てこなかったからでもある。
今のメデイアには、テレビも、映画も、インターネットもというふうに、インフラが限りなくあるので、世相を反映するのに新聞とラジオのみというわけではない。
よって、情報はあふれかえっているが、当時は新聞とラジオと若干の映画しかなかった。
その上、当時の人々は、その全員がこういうメデイアに接していたわけではなく、如何なるメデイアも金持ちしか接する機会がなかったわけである。
新聞とか雑誌というような活字のメデイアは、送り手の方が文章を書く能力が極めて卓越していたので、人々は活字になった事柄は頭から信じるのが普通であった。
メデイアの発信元を疑うなどということは恐れ多くも考えられない状況であった。
そのことを考えると、情報の発信元は、襟を正してその職務に就かなければならなかったはずであるが、この部分でも成り上がり者の下賤な思考が優先しており、「軍国主義を吹聴するものでなければ意味がない」という雰囲気であったに違いない。
メデイア業界の人たちがインテリ・ヤクザと蔑まれるのも当然の成り行きである。
今のメデイアが「面白くなければテレビでない」という発想と同じレベルの精神構造であったわけで、こういうメデイア側の無責任さが人々に軍国主義というものを植え付けたものと私は考える。
如何なる主権国家でも、情報網の整備なしでは国そのものが成り立たないので、そのことは如何にメデイアをコントロールするかということでもある。
メデイアが第4の権力でもあるゆえんであるが、このメデイアが祖国に矢を向けるようなことになれば、統治そのものが成り立たなくなる。
旧ソビエットの崩壊に見られるように、東側体制の崩壊も、メデイアが祖国に矢を向けたことによって体制そのものが崩壊したわけで、古い体質の国家群はいずれもメデイアの管理に厳然たる力を行使して、メデイアを押さえつけることによって体制を維持している。
それに反し、開かれた国家群のメデイアは、一見言いたい放題の事を言っているように見えるが、それは政治に対する一つの意見を表明しているわけであって、それを見聞きする国民は、自分で体制側を支持するかそれともメデイアの言っていることを信ずるかは個人の判断にゆだねられている。
その個人の意思表明が、選挙という形で行われるわけで、メデイアの本質は国民が自分の意思をどちらに委ねるかという判断材料にすることである。
ところが我々の場合は、もともと個人が判断すべきことをメデイアが押し付ける節があって、この押しつけの部分を自制して、あるいは自省して、どこまでが判断材料の提供でどこからが押し付けか、という境界が全くなかったわけである。
ここがメデイアの奢りの部分だと思う。
話の次元を下げて一人の若者が出征していく場面を想定すると、その兵士の本心は兵隊などになりたくないと思っているに違いない。
当然、その母親も父親も自分の息子が死に直面する可能性のある場などに送り出したくないのは当然だと思っている。
これはすべての地球上の主権国家の国民感情としては共通の心理であろうが、祖国の国難のことを思えば、個人の思いを断ち切って出征していくのも万国共通の変わらない現実だと思う。
普通の国の、普通の国民の、普通の思考だと思う。
問題は、メデイアがこれをどういう風に報道するかである。
外国映画では出征兵士の見送りでは悲しい場面がそのまま映像になっているが、我々の場合は、同じような場面で、悲しみを表現することが厳しく戒められていた。
この戒めは、上からの指示ではなく、製作者が当局の心情を慮って、自主的にそういう演出を避けたに違いない。
兵士が出征していく場面で、行く方も見送る方も涙、涙の別れでは反戦映画になってしまう。
だからこういう場面では勇ましく、堂々と、戦意昂揚的な気分の演出になるわけで、ここに人間の本音に対する欺瞞が潜んでいる。
こういう場面で、めそめそしていると非国民というレッテルが貼られて周囲から浮いた存在になってしまう。
これは明らかに今の言葉でいうイジメの構造で、こういう場面で人間としての本音を漏らすと、周囲が寄ってたかって非国民と囃し立てていじめるわけである。
人々はこのイジメが怖くて自分の本音を隠して、大勢に迎合するふりをしていたわけである。
人間の本音をあらわにすると同胞がその同胞をいじめ抜くという構図が、昭和初期の日本の軍国主義の本質であったと思う。
出征する本人も、その家族も、別れの切なさをそのまま自然に体現すると、それを軟弱だと言い、非国民として相手を罵倒する心根は、言う本人も不合理と思いつつ、周囲の手前、自分が先頭に立って悪役を演じている部分もあるように思う。
誰かが何処かで悪役を演じ、その悪役を演じ続けることで、我々の同胞の均衡を保ち、生きることの緊張感を持続させていたのかもしれない。
悪役を演じていることを自覚している人はまだ救われるが、その自覚がない人はそれこそ困った人で、こういう困った人こそメデイアの報ずる事を金科玉条のように信じ切っているわけである。
人と違った発言や行動をする人をイジメるという行為も集団で行われるわけで、一対一の場合にはイジメなど起こらないが、これが一人と多数という構造になると、俄然イジメが浮上してくるのである。
これは我々の民族の中には連綿と生きているのであって、戦争に勝とうが負けようが、外部からいかなる圧力がかかろうが、我が民族の特質として是正されない。
日本のあらゆる社会的な現象が、このイジメの構造で成り立っているが、世間ではこれをイジメとは言わず、政権抗争とか、権力闘争というもっともらしい言葉に言い換えている。
ところが、基本的にはイジメの構造に他ならない。
だから日本のあらゆる階層、業界の中では、日本人の敵が日本人であるわけだ。
国を挙げて戦争をするというのに、陸軍と海軍の仲の悪さ、これを我々はどう考えたらいいのであろう。
ただし、この軍の仲たがいは日本だけのことではなく、あらゆる主権国家で陸軍と海軍は仲が悪いが、祖国が戦争をしている時に、双方がどこまで妥協して協力し合えるかの問題ではある。
昭和初期の我々の軍国主義というのは、あくまでも下からの庶民の中からの草の根の軍国主義で、それは当時のメデイアによって下支えされていたことは確かだと思う。
著者は佐藤忠男という映画評論家であるが、彼の言わんとする趣旨は十分に納得できるものであった。
前に読んだ「むかし、みんな軍国少年だった」という本の内容とよく似ているが、確かにあの時代の社会の風潮というのは、草の根の軍国主義というのが実相だったと思う。
これを戦後の民主教育では、上からの押し付けという言い方で普遍化しようとしているが、実質は、下々のエネルギーが沸騰した草の根の軍国主義というのが真の姿だと思う。
戦後の民主教育では、あの戦争は日本の中の戦争好きな特殊な人たちが、中国をはじめとするアジアを侵略して支配しようとした、というまるで芝居がかった勧善懲悪的な感覚で糾弾しようとしているが、そんな単純なものではないはずである。
戦争というのは、いくら独裁者だとて思いつきや、気まぐれでするものではないはずで、ヒットラーやスターリンというような独裁者であったとしても、用意周到に計画立案して推し進めるわけで、その点では他の統治者と変わるところはないはずである。
武力行使や暴力を使わずに相手がこちらの言うことを聞いてくれれば、なにもわざわざ無益な血を流すことはないわけで、話し合いで自分の思う通りに行けば、あえて戦争という手段に訴えなくてもことは済む。
ただ昭和初期の日本の在り方というものをよくよく眺めてみると、日本は中国に対して奢った態度でいたことは確かで、この中国に対して奢り高ぶった態度で接した背景には、日本国民の潜在意識が横たわっていたことは間違いない。
その意味で、この部分に草の根の軍国主義というものがあったと私は思う。
あの戦争のきっかけは、日本陸軍の独断専横であったことは論をまたないが、そういう行動をとった日本陸軍というものをよくよく掘り下げて考えてみなければならないと思う。
日本陸軍を構成していた人たちは、異星人でもなく、エイリアンでもなく、我々の同胞であって、我々の村の出身者であったり、我々の学校の先輩であったり、我々と同じように米の飯と熱いみそ汁とこの上なく愛する我々の親戚であったり、父であったり、兄であったり、弟であったわけで、100%我々の身近な人たちの集合であったはずだ。
そういう人たちが中国という大地の上に自分の二本の脚で立ってみると、この土地と、この民と、そしてわが同胞の行く末を勘案した場合、この地球上に泰平の地を、つまりユートピアの建設を実現させねばならないと考え、その為には一時的にこの地の民を支配し、それを上から指導すればそういうユートピアの建設はありえると思い込むのも自然の流れだったと思う。
そのためには日本、つまり我々日本人がこの地を一時的に支配し、怠惰で覇気に欠けた中国人を上からコントロールし、西洋列強の植民地支配というものを粉砕し、西洋に代わって黄色人種の我々がそれをすることは許されるに違いないと思ったに違いない。
問題は、日本から中国に渡った兵隊たちがそう思うことは不思議でもなんでもないが、そういう考えが日本内地にフィードバックすると、それが整合性を持ってしまって、そういう壮大な夢の実現が期待され、日本内地の人々までそれに酔いしれてしまったことである。
その理由は一体何なのかと問えば、それはメデイアの介在である。
日本の地から海を渡って中国の地に足を踏み入れたわれわれの身近な仲間が、中国人は怠け者で覇気に乏しく、西洋列強に蚕食されるのも当然だという感想を述べると、その話に尾ひれをつけて、面白おかしく脚色して内地に報道する、するとそれを読んだ内地の人々は、そんなシナ人あらばイケイケドンドンで、自分たちの国益を大いに揚げようではないかという話になったと思う。
日本と中国は太古から連綿と文化の交流があったが、この文化の交流という言葉が案外曲者で、それは今でいうところのハイソサエティ―・クラスの文化交流であったわけで、下々の人間がどういう考え方をするのかという民族の本質を突く研究はなされていなかったと考える。
文化交流というと、対等の交流のように聞こえるが、実質は日本の高官が先方から書物を授かるだけの交流で、先方にすればあくまでも夷荻の扱いであったかもしれない。
どちらにしても、我々の側は相手の民族的な本質を知らないまま、身の程知らずで奢り高ぶっていたことは間違いなく、その我々の側の奢りがどこに原因があるかと問えば、それは日清戦争に勝利したということに行きつくと思う。
そのことを言葉を変えて言えば、成功事例から何も学ばなかったということになるわけで、何も学ばなかったから相手の民族の本質を見抜けなかったということになる。
相手の民族の本質を知らないまま、自分が奢り高ぶっていたものだから、足元をすくわれたわけである。
蒋介石が連合軍側に身を寄せるなどということは、当時の日本人からすれば想定外のことではなかったかと思う。
無理もない話で、蒋介石にすれば連合軍というのは自分の国を植民地支配しようとしていた敵側のはずであり、それと手を組むということは当時の日本人には考えられない事であったに違いない。
われわれはほんの少し成功するとその成功事例に酔ってしまって、周囲を冷静な目で見るということを忘れてしまい、いつもいつも同じ手法を繰り返すので、傷がますます深く、かつ大きくなってしまうのである。
これと同じケースは戦後も連綿と息づいているわけで、あの高度経済成長の時期、日本の中小企業で儲けたところは、会社の清掃員まで引き連れて海外旅行に現を抜かしていた。
そんな奢り高ぶった会社はバブルの崩壊とともに見事に消滅したのと同じで、われわれは少し成功するとすぐに奢り高ぶって身の程をわきまえないという悪い癖がある。
戦前の日本軍部の思考も全くこれと同じで、日清・日露の戦役で成功をおさめたので、見事に舞い上がってしまったわけだ。
これはひとえにメデイアの責任である。
メデイアというのは昔も今も信ずるに足る評価を大衆から得ていないが、狼少年のように、常に嘘の報道をしても誰からも糾弾されることがない。
報道が嘘だったからと言って、その記事を書いた記者が獄につながれるということはない。
記事の内容が真実かどうかということは、記事を書いた本人しかわからないわけで、そういう意味でメデイアというのは極めて有望な啓蒙機関であると同時に究極の虚業でもある。
自分の考えを広く世間に知らしめたいという時には、このメデイアに頼ることが極めて重要である。
昭和の初期には軍国美談というものが数多く誕生した。
例えば、肉弾3勇士とか、木口小平とか、軍国の母とか、100人切りの話とか、こういう話を美談として国民に吹聴しまくったわけで、それは上から書けと言われて書いたものではなく、あくまでも記者の判断と会社の判断が相乗効果を発揮して国威掲楊につながったわけである。
先の戦争から何か教訓を得るとするならば、メデイアを如何にコントロールするかということを、学問的に深く深く考察することだと思う。
昭和の初期において、日本の軍国主義というのは、いわゆる草の根の軍国主義であったと思う。
統治者が上から庶民に押し付けたものでもなければ、軍部が国民に強制したものでもなかったはずだ。
修身の強化とか、教育勅語の斉唱などということは、統治者が自ら言いだしたことではなく、その下のレベルが官僚システムの常とう手段としてのゴマすりで発動したことだと思う。
メデイアが庶民や国民にばらまいた軍国美談に人々が酔ってしまっただけのことで、北京オリンピックが15年続いたようなもので、その間日本の国民は勝った負けたといっては一喜一憂していたわけだ。
オリンピックの結果は事実が報じられているが、この時期のメデイアは嘘ばかりを報道していたわけで、嘘でないところが軍国美談風に脚色されていたのである。
今、我々は、学校でも職場でも、巨人が負けたの勝ったの、サッカーがどうのこうのという話をしているが、そういう話には特別にイデオロギーがあるわけではない。
ところが昭和初期の新聞には、真実の報道というものがない上に、美談調に脚色された報道があったわけで、当時の子供がそれに影響されるのは至極もっともな話だと思う。
戦後の民主教育では、メデイア側の虚偽の報道と、国威掲楊の部分に故意に口を噤んで、ただただ軍人や軍部を糾弾することに精力を費やしていたが、それは戦後に至ってもメデイア側の自省が内側から出てこなかったからでもある。
今のメデイアには、テレビも、映画も、インターネットもというふうに、インフラが限りなくあるので、世相を反映するのに新聞とラジオのみというわけではない。
よって、情報はあふれかえっているが、当時は新聞とラジオと若干の映画しかなかった。
その上、当時の人々は、その全員がこういうメデイアに接していたわけではなく、如何なるメデイアも金持ちしか接する機会がなかったわけである。
新聞とか雑誌というような活字のメデイアは、送り手の方が文章を書く能力が極めて卓越していたので、人々は活字になった事柄は頭から信じるのが普通であった。
メデイアの発信元を疑うなどということは恐れ多くも考えられない状況であった。
そのことを考えると、情報の発信元は、襟を正してその職務に就かなければならなかったはずであるが、この部分でも成り上がり者の下賤な思考が優先しており、「軍国主義を吹聴するものでなければ意味がない」という雰囲気であったに違いない。
メデイア業界の人たちがインテリ・ヤクザと蔑まれるのも当然の成り行きである。
今のメデイアが「面白くなければテレビでない」という発想と同じレベルの精神構造であったわけで、こういうメデイア側の無責任さが人々に軍国主義というものを植え付けたものと私は考える。
如何なる主権国家でも、情報網の整備なしでは国そのものが成り立たないので、そのことは如何にメデイアをコントロールするかということでもある。
メデイアが第4の権力でもあるゆえんであるが、このメデイアが祖国に矢を向けるようなことになれば、統治そのものが成り立たなくなる。
旧ソビエットの崩壊に見られるように、東側体制の崩壊も、メデイアが祖国に矢を向けたことによって体制そのものが崩壊したわけで、古い体質の国家群はいずれもメデイアの管理に厳然たる力を行使して、メデイアを押さえつけることによって体制を維持している。
それに反し、開かれた国家群のメデイアは、一見言いたい放題の事を言っているように見えるが、それは政治に対する一つの意見を表明しているわけであって、それを見聞きする国民は、自分で体制側を支持するかそれともメデイアの言っていることを信ずるかは個人の判断にゆだねられている。
その個人の意思表明が、選挙という形で行われるわけで、メデイアの本質は国民が自分の意思をどちらに委ねるかという判断材料にすることである。
ところが我々の場合は、もともと個人が判断すべきことをメデイアが押し付ける節があって、この押しつけの部分を自制して、あるいは自省して、どこまでが判断材料の提供でどこからが押し付けか、という境界が全くなかったわけである。
ここがメデイアの奢りの部分だと思う。
話の次元を下げて一人の若者が出征していく場面を想定すると、その兵士の本心は兵隊などになりたくないと思っているに違いない。
当然、その母親も父親も自分の息子が死に直面する可能性のある場などに送り出したくないのは当然だと思っている。
これはすべての地球上の主権国家の国民感情としては共通の心理であろうが、祖国の国難のことを思えば、個人の思いを断ち切って出征していくのも万国共通の変わらない現実だと思う。
普通の国の、普通の国民の、普通の思考だと思う。
問題は、メデイアがこれをどういう風に報道するかである。
外国映画では出征兵士の見送りでは悲しい場面がそのまま映像になっているが、我々の場合は、同じような場面で、悲しみを表現することが厳しく戒められていた。
この戒めは、上からの指示ではなく、製作者が当局の心情を慮って、自主的にそういう演出を避けたに違いない。
兵士が出征していく場面で、行く方も見送る方も涙、涙の別れでは反戦映画になってしまう。
だからこういう場面では勇ましく、堂々と、戦意昂揚的な気分の演出になるわけで、ここに人間の本音に対する欺瞞が潜んでいる。
こういう場面で、めそめそしていると非国民というレッテルが貼られて周囲から浮いた存在になってしまう。
これは明らかに今の言葉でいうイジメの構造で、こういう場面で人間としての本音を漏らすと、周囲が寄ってたかって非国民と囃し立てていじめるわけである。
人々はこのイジメが怖くて自分の本音を隠して、大勢に迎合するふりをしていたわけである。
人間の本音をあらわにすると同胞がその同胞をいじめ抜くという構図が、昭和初期の日本の軍国主義の本質であったと思う。
出征する本人も、その家族も、別れの切なさをそのまま自然に体現すると、それを軟弱だと言い、非国民として相手を罵倒する心根は、言う本人も不合理と思いつつ、周囲の手前、自分が先頭に立って悪役を演じている部分もあるように思う。
誰かが何処かで悪役を演じ、その悪役を演じ続けることで、我々の同胞の均衡を保ち、生きることの緊張感を持続させていたのかもしれない。
悪役を演じていることを自覚している人はまだ救われるが、その自覚がない人はそれこそ困った人で、こういう困った人こそメデイアの報ずる事を金科玉条のように信じ切っているわけである。
人と違った発言や行動をする人をイジメるという行為も集団で行われるわけで、一対一の場合にはイジメなど起こらないが、これが一人と多数という構造になると、俄然イジメが浮上してくるのである。
これは我々の民族の中には連綿と生きているのであって、戦争に勝とうが負けようが、外部からいかなる圧力がかかろうが、我が民族の特質として是正されない。
日本のあらゆる社会的な現象が、このイジメの構造で成り立っているが、世間ではこれをイジメとは言わず、政権抗争とか、権力闘争というもっともらしい言葉に言い換えている。
ところが、基本的にはイジメの構造に他ならない。
だから日本のあらゆる階層、業界の中では、日本人の敵が日本人であるわけだ。
国を挙げて戦争をするというのに、陸軍と海軍の仲の悪さ、これを我々はどう考えたらいいのであろう。
ただし、この軍の仲たがいは日本だけのことではなく、あらゆる主権国家で陸軍と海軍は仲が悪いが、祖国が戦争をしている時に、双方がどこまで妥協して協力し合えるかの問題ではある。
昭和初期の我々の軍国主義というのは、あくまでも下からの庶民の中からの草の根の軍国主義で、それは当時のメデイアによって下支えされていたことは確かだと思う。