ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「北欧ヴァイキングろまん」

2009-07-31 06:50:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「北欧ヴァイキングろまん」という本を読んだ。
著者、波勝一廣氏がスカンジナビア半島を列車で旅した紀行文であった。
スカンジナビア半島というのは私にとっても非常に興味ある所で、出来れば自分の目で見てみたい場所の一つではある。
ところが私はそのスカンジナビア半島よりも、この本を書いた著者に非常に興味を持った。
この本の奥付きを読んでみると、この著者は若い時に何年もヨーロッパを旅したと書かれているが、そういうことをする気持ち、何故そういう放浪の旅に憧れを抱くのか、そういう若者の心理に非常に興味が沸く。世界を放浪するというのも、本当の馬鹿や阿呆では出来ないことで、それはそれなりに考えて行動しているのであろうが、そういう自由気ままな生活に若者が惹きつけられて、それを実行に移す行動力の不思議さである。
そういう人は基本的に馬鹿ではないので、自分の意思をことのほか大事にしているのであって、それは同時に、人から言われたことには素直に従わない、人から指図されることは厭だという、具体的な自己主張でもあろう。
私のような旧世代の思考からすれば、そういう態度は「我儘だ」ということになるが、戦後の日本人は、この我儘ということをその人の個性と見なして、肯定的に受け入れている。
大方の高等教育の場、つまり高校レベルの学校には校則があるのが普通であるが、学園生活という集団生活の中では、一人一人がその規則を順守することによって、教育がスムースに実施され、同時に社会人としての訓練が行き届くと考えられている。
これを生徒の側から見れば、校則によって一人一人の自由、あるいは我儘が管理されることになるわけで、鬱陶しい存在であることは当然であろう。
よって、その校則を無視するものが現れるわけで、無視すれば当然処罰ということになる。
此処で、規則を無視した人はそのことによって何らかのペナルテイーを甘受することになるが、こういう場面になると、戦後の日本人の有識者たちは、こぞって校則の存在そのものを悪弊と見なして、個人を規則で拘束することを「悪」と認識するわけである。
だから規則に反する行為をした人に対するぺナルテイ―を素直に認めず、それを弱者に対する抑圧という構図でとらえるのである。
完全に規則の破壊、崩壊をフォローする発言なわけで、共産主義の思考と完全に軌を一にしている。
人が集団で生きる為にはルールが必要なわけで、そのルールを率先して守ることで社会が維持されているのに、それを根本から否定しようとするわけで、それは完全に民主主義の否定につながる。
校則に従わない人間を勇気ある人間として褒め称え、校則そのものを旧弊と決めつけて、そういうルールを破壊する方向に若いものを導くわけである。
近い将来、成熟した大人になる若者に、「あなた方はルールというものを無視して、旧弊を打ち破る行為を推し進めなさい」と説くわけで、これで良い社会が出来るわけがないではないか。
話が少々飛躍してしまったが、若い時に世界を放浪して、世界の異文化を理解することは良いことだ、という理想を振り回して若者にそういうことを進めることは、決して本当の意味の人格形成に良い効果を出すとは限らないと思う。
そういうことを経験した若者は、その後、組織の中で仕事をするということは多分出来ないであろうと思う。毎日毎日同じことの繰り返しの仕事も多分出来ないであろう。
組織の中で、他人と協力し合って事を進めるという作業が出来ないのであれば、今日の社会の中では社会人として生きることは極めて難しいと思う。
この本の著者も、奥付けを見ると、現在は短大の非常勤講師となっているが、彼を雇っている短大の側からすれば、彼が何時またふらりと旅に出てしまうかわからないので、彼を責任あるポストに就けるということは、大いに考えざるを得ないだろう。
ポストに就けたはいいが、何時そのポストを放り出して、旅に出てしまうかわからないわけで、心配でならないと思う。
そのことは、彼個人の立場からすれば、浮草のようなもので、ただただ世間という混沌の中で、あっちに寄ったりこっちに寄ったりしている浮草のように漂っているわけで、本人はそれでいいかもしれないが、周りの者は危なっかしくてならない。
本人にしてみれば、「俺のことだから構わんでくれ」と言うに違いなかろうが、自分が如何に周囲の人間に心配をかけているかについては、まったく無頓着なわけである。
4年も5年もヨーロッパを放浪してきたといえば聞こえはいいが、要するにヨーロッパでホームレスをしていたということだろうと思う。
勉強していたのであれば、「留学していた」という言い方になるわけで、留学という言葉でない以上、放浪という言葉で表すほかない。
戦後の日本は確かに豊かになって、海外を放浪する日本人もことのほか多く、アメリカでもヨーロッパでもそういう人は掃いて捨てるほどいる。
外国に来てまで遊んで暮らせるということは、日本が豊かな証拠であろうが、こういう所で遊びを身に付けた人が、日本に帰ってきてまともに仕事につけるとは到底思えない。
人一人食っていくことは何処でも出来ようが、充実した人生を送るということになると、充実した人生そのものの価値感が根底から異なっているので、一概に同じ土俵では語れないということになる。
一般論として、そういう人生を経てきた人が、結果的に社会保険から漏れたり、年金から漏れたり、ワーキング・プアと言われたり、派遣切りにあったりするわけで、若い時から堅実な企業で、汗水たらして、面白くもない仕事を毎日毎日もくもくとやって来た人からすれば、不運な境遇に見舞われるのである。
イソップ物語の「蟻とキリギリスの話」と同じで、若い時に好き放題のことをしておいて、年取ってから年金が少ないとか、保険から漏れたとか、再就職が思うようにいかない、など愚痴ってみたところで、所詮は「身から出たサビ」である。
問題は、こういう状況を目の当たりにした時、世間で有識者と称せられ、知識人といわれるようなう人達が、「本人が若い時に遊び呆けていたのだから、因果応報なのだよ」ということを言わない点にある。
本人が若い時に遊び呆けていながら、年取ってから年金が不十分だというのはあまりにもおこがましい発言なわけで、「それは自業自得だよ」と彼らに正面から言わず、何でもかんでも行政の不手際として、責任を転嫁するから甘えが出てくるのである。
世間の有識者と称する知識人は、何でもかんでも政府の責任にしておきさえすれば、非難を交わすことが出来るわけで、あえて犯人を作らなくても済むから、政府のみを攻撃するのである。
昔から若者が旅をすることは肯定的にとらえられているが、それは金持ちの息子が旅に出るのであって、貧乏人の息子が親のすねをかじりながらする旅などということは想定外のことである。
戦後の日本は、階級意識というものがとみに希薄になってしまって、金の多寡こそが階級の具現かのように錯覚して、金さえあれば何でも事は解決すると思い違いをして、見境もなく金持ちの真似をしているが、それこそ俄か成金の下品さそのものである。
旅の資金作りにアルバイトするなどということは、生きることに対する冒涜だと思う。
世間では冒険家と称する人たちがいることは承知しているが、こういう人はその冒険そのものが生業になっているのであろう。
ある意味でプロだと思う。
この本を読んでいて、私のひねくれた心情が芽を出して、意地悪な思考に至った。
というのも、この著者は夜行列車で旅をして、ある意味で宿泊費を浮かせている。
だとすると、ただレールをたどっているだけで、見るべき景色というものは見ずに、点と点を移動しているだけということになる。
ならば何のための旅かという素朴な疑問になる。
ただ、その地点に立ったというだけで、それが本人の自己満足であれば、それはそれで致し方ないが、何だか大の大人のする行為としては虚しい行為ではなかろうか。
やはり大人の旅ともなれば、若い時に汗水たらして働いて、ある程度産を成したものが、自分への報償、自分への恩返し、過去の自分に対する労り、この中には当然伴侶に対する思いやりも含まれている筈で、こいう大らかな気持ちで優雅な旅をしてこそ、大人の旅だと思う。
本来、旅というものはこういうものだと思うが、そう考えると旅は貧乏人には縁のない物ということになる。貧乏人には不釣り合いな旅を、貧乏人が金持ちと同じようにしようとするから、陳腐な光景が目に映るのである。
ただ企業というのは相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、顧客でさえあれば皆等しく大事なわけで、客の懐に応じたザービスを提供するものである。
金持ちには金持ちの自尊心をくすぐるようなサービスを提供し、貧乏人には自己責任の部分が多くなるがそれでもサービスをしないわけではなく、そのサービスは値段相応ということである。
我々、日本人というのはこういう企業の宣伝に極めて安易に乗り易い民族で、旅行会社の殺し文句にすぐにひっかかって、猫も杓子も旅に出るという傾向がある。
自分の金で旅をするのだからいらんお節介だ、という声は当然あろうが、同じ金を使うのであれば、有効に、上品に、大人らしく使いたいものだ。如何にも俄か成金でございますというような下品な金の使い方はしたくないものだ。

「モスクワ食べ物風土記」

2009-07-30 07:24:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「モスクワ食べ物風土記」という本を読んだ。
朝日新聞のモスクワ支局長を務めた人のグルメ紀行というような本であった。
本人自身も料理が好きで、自分でもいろいろな料理を自ら手掛けるという意味では興味ある読み物であった。
昔は「男子厨房に入るべからず」という雰囲気が支配的であったが、昨今では男の料理教室などというものまであって、男子も料理を楽しむ風潮が出てきた。
この傾向は極めて良い傾向だと思う。
料理は極めてクリエイテイブな活動だと、私自身は考えている。
日本人は昔から「男子厨房に入るべからず」などと称して、料理に手を出すことを自分自身で自己規制していたが、料理というのは極めて興味ある活動であって、奥が深く、安易に極め切れるものではない。
我々も、料理の前処理という意味では、男子も主婦の手助けをする部分もあったに違いなかろうが、基本的には家庭の主婦に依存しっぱなしで、ただただ食すだけの立場で今までは罷り通って来た。
しかし、男子が趣味として台所に立ってみると、料理のクリエイテイブさを身を以って体験することになり、料理の面白さは忘れ難いものとなる。
結果として、男子が台所に入って料理に嵌ってしまうということになる。
料理をする、あるいは食卓を整えるということは、一から十まで創意工夫の連続なわけで、頭で考えながらの行為が継続しているので、その意味では極めて高度な脳の活動が行われている。
だから男子が厨房に入るということは、極めて密度の濃い脳活性化の運動をしていることになり、老化の防止には極めて効果的ではないかと思う。
で、この本の著者は、そういう意味でも料理の醍醐味をあちらこちらにちりばめて、面白おかしく話を綴っている。
とは言うものの、私としては、作者には個人的には何の恨みもないが、朝日新聞のモスクワ特派員、モスクワ支局長という肩書には無性に腹が立ってくる。
朝日新聞社と共産主義というのはどういう因縁で結ばれているのかしらないが、何故、朝日新聞社は共産主義の隠れ蓑になるのだろう。
朝日新聞のモスクワ支局ともなれば、旧ソビエット連邦の日本支部、あるいはソビエット共産党の対日窓口、ソ連やロシアの利益追求の舞台であって、日本側の国益を相手に売り渡す場でしかない、と思うのは私一人だけであろうか。
古くは、ゾルゲ事件の尾崎秀実、戦後は本多勝一や松井やよりと、何故こうも売国奴的な人物を輩出するのであろう。
昔からアカイアカイ朝日新聞と言われているわけであって、火の無いところに煙は立たないという論理でいけば、朝日新聞が共産主義の巣窟ということは紛れもない真実ということになる。
昨今、共産主義という言葉も完全に色あせてしまって、誰も使わなくなってしまったが、その根底にある「既成の秩序を壊す」という本質はいささかも変わっていない筈である。
その共産主義の擁護者である朝日新聞のモスクワ支局ともなれば、当然のこと、ソ連におべっかを使う犬以外の何物でもない筈である。
この本を読んでいると、モスクワ支局の特派員という立場でさまざな場所で取材をしている。
こういう書き方をすると、確かにマスコミの人間として謙虚に取材しているように聞こえるが、実態は大いに違っていると思う。
メデイアの現実の姿とその実態を、メデイアの側が自ら明かすということは決してない。
その実態というのは、朝日新聞の社旗を翩翻とひるがえした車で現場に乗り付けて、係員の警告を無視して現場に立ち入り、現場の人間をさも自分の部下のように扱い、関係者の中で自分が責任者であるかの如く傍若無人に振舞い、得るものを得たら、犬が後ろ足で砂を引っ掛けて去るように、横柄な態度でさっさと引き上げるというものである。
取材している記者は、腕に朝日新聞の腕章を巻くだけで、王様にでもなったように尊大な態度で振舞うわけである。
それというのも、取材される側は、どういう風に悪口を書かれるかわからないので、戦々恐々と朝日新聞の記者と対応しなければならず、取材する側に尊大に振舞われてしまうのである。
あることないこと嘘八百を書かれた日には、取材される方はたまったものではない。
そうならないように、取材される側は、朝日の記者を下にも置かぬ丁重な扱いをせざるを得ないが、取材する側の人間にすれば、つまり朝日新聞の記者にすれば、そういう扱いは毎日のことで、いくら丁重な扱いを受けたところで感覚がマヒしており、それが当然と思い、屁とも思っていないわけである。
この本の中でも、取材先で供応を受けたことが自然な形で描かれており、そこで出された珍しい料理に関して、所見が述べられているが、そのこと自体が新聞記者の奢りを本人自身が気が付いていないということを露呈している。
ロシア、あるいはシベリア、あるいはコーカサスのソホーズ、コルホーズに、朝日新聞の社旗をはためかせて車で乗り付ける。
迎える側の田舎の村長、農村の親玉、ソホーズかあるいはコルホーズのトップは、新聞社の人間がインテリヤクザ、あるいは集り屋などとは微塵も思っていないので、共産党幹部の親籍ぐらいに思って、丁重にもてなし、宴会を開いては、帰りにはお土産まで用意するわけである。
毎日、毎日こういう境遇に身を置けば、自分が偉くなったような気になるのも当然ではあろう。
新聞記者が取材に来た、あるいは来るともなれば、取材を受ける側は、誰でも彼でも一瞬構えると思う。
その新聞社が好意的に報じてくれれば儲けものであるが、悪意に満ちた記事でも書かれた日には、手に負えないわけで、どうしても「ゴマ擦り」という態度に出ざるを得なくなる。
そこで如何にゴマを擦るか、如何に対応するか、と頭脳を最大限働かせて、最良の対応策を練り上げるべく緊張は最高度に達するのである。
この時点で、取材する側とされる側では熾烈な心理戦が展開していることになり、取材する側、いわゆる朝日新聞の側は、何も失うものがないが、取材される側は、あらゆるものがメデイアの批判の対象になりかねないので、文字通り、戦々恐々の心理状態に陥ると思う。
この時点で、双方の立場の違いは歴然としているわけで、取材する側、つまり朝日新聞の側が有利な立場に立っていることになる。
新聞記者などというインテリヤクザは、基本的に頭脳明晰で、学術優秀な人間なわけで、自分の置かれた立場を悟るにソツがなく、自分の置かれた状況の中で、最良の対処療法を会得するに時間は掛からないので、うまくそういう環境を泳ぎ切るものと考える。
こういう人達が日本の政治家や官僚を見ると、彼らのしていることがまどっこしくて仕方がないように映るのも当然で、それがストレートに記事に出てしまって、結果的に反政府、反体制というポーズになってしまうのであろう。
その顕著な例で、この著者は、日本のシベリア出兵は侵略主義の露骨な具現であって悪行の限りであるが、ソ連の一方的な対日戦参戦に対しては、共産主義陣営の露骨な侵略行為、帝国主義の具現であるにもかかわらず、それに対しては全くのノーコメントである。
つまり、日本人、いや我が同胞の振る舞いは極悪非道な行為であるが、ソ連の共産主義者のすることは人類の未来への輝かしい一歩である、というノー天気な思考を臆面もなく表している。
その裏には、そういう事を言い立てると、朝日新聞そのものがソ連での取材の許可を失う危険があったので、ソ連を不利に扱う記事には口をつぐんできたわけである。
これは言い方を変えれば、朝日新聞の保身のために、相手側の痛い部分は、ないしはアキレス腱に当たる部分の記事は、自己規制して報道しない、つまりソ連に最大限のゴマ擦りを呈していたわけである。
新聞社としてソ連での取材が出来なくなる恐れがあったので、自分の、あるいは民族の魂を相手に売り渡した、あるは放棄してしまったということである。
保身のため魂を売り渡してしまったので、今更、同胞を擁護する発言が出来なくなってしまった、ということなのであろう。
こういうことが積み重なれば、結果として相手国を称賛し、自国を陥しめることになるわけで、朝日新聞はその軌跡を忠実にトレースしてきたわけだ。
そういう経緯があるものだから、朝日新聞の出した本というのは、構えて掛からねばならない。
共産主義礼讃に自動的に嵌り込まないように、自分をしっかり見つめ直してから読まなければならない。迂闊に読んでいると、自分の祖国を悪魔の手・売国奴に委ねかねないことになる。

「バイク爺さん北米をゆく」

2009-07-29 06:53:52 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「バイク爺さん北米をゆく」という本を読んだ。
71歳の爺さんがニューヨークからサンフランシスコまでを一人でバイクで横断したという話である。
71歳という年寄りの冒険物語としては面白い読み物であったが、71歳という年寄りが果たしてそういうことに挑戦する意義があるかどうかとなると、はなはだ疑問だと思う。
本人にとって見れば、自分自身への挑戦であったかもしれない。
はたまた若い時から抱き続けて来た自分自身の夢の実現であったかもしれない。
理由はともあれ、71歳になってからこういう大きなことを成し遂げるという点については称賛に値することは言うまでもないが、私の考えはいささか違う。
71歳ともなれば、もう少し違う金の使い方、あるいは旅の仕方があるように思えてならない。
71歳という年寄りが、バイクでのアメリカ大陸横断を試みるといえば、誰もがその勇気を称賛することは当然であって、人々が称賛することを勘定に入れたうえで、それを実行するというところに、ある意味で計算された自己PRがあるように見えてならない。
当人がバイクが好きだからバイクでそれを行うというのも大いに説得力はあるが、彼の71歳という年齢を考えると、極めて綿密に計算されつくしたパフォーマンスのようにもみえる。
71歳という年齢から考えれば、先に述べたように豪華客船によるクルージングの方が、その年齢の人の振る舞いとしては整合性がある。
そういう当たり前の考え方を無視し、誰が考えても整合性を無視した行為であるからこそ、大冒険であろうが、それは同時に売名的なパフォーマンスと見られても仕方のない部分を内包している。
やはり71歳という年齢から考えれば、悠々自適な生き方をエンジョイし、その中から達観した思考を醸し出す雰囲気を備えた旅でなければならないと思う。
この著者の場合、バイクによる旅そのものが本人の悠々自適な生き方をエンジョイしている姿なのかもしれない。
71歳ともなれば、若い者のように、がつがつと未知のものに食らいつくような品のない生き方であってはならないと思う。
やはり年齢にふさわしく、人生に達観した態度、悟りの境地に近い立ち居振る舞いでなければならないと思う。
そういうことを考えると、ある程度、功成り名を成した人の老後の金の使い方は、優雅な豪華客船でのクルージングの方が説得力があるように思う。
この本の著者のように、十分に金もありながら、バイクで旅をするというのはあまりにもミミッチ過ぎると思う。
会社を定年退職したなら、一度でいいからホームレスを体験して、自由気ままに、タイムカードも残業も気にすることなく、生きてみたいと願うのと同じなわけで、ある種の我儘以外の何物でもない。
その人の「夢に挑戦したのだ」と言ってみたところで、律儀なサラリーマンがホームレスに憧れを抱いていたのと同じで、そんな理由では説得力に欠けると思う。
仮にそうであったとしても、それは自己満足の域を出るものではないが、自分自身の自己満足のために行ったといえば、それは他人がとやかく言う筋合いではなくなる。
我々が彼に称賛を贈るとすれば、自己満足の実現に挑戦して、それを見事に成し遂げたという点に大いにエールを送るべきである。
この本を読んでみると、彼はアメリカという地で、大勢の人の善意に随分助けられて旅を成功させたが、人というのは基本的に善意の持ち主であろうと思う。
その善意が破壊した時に、物騒で、用心しなければならない世の中が出現するわけで、その善意が壊れる理由を、我々は究明しなければならない。
しかしそれは、この世が人間で構成されている限り、善意の破壊の理由を解き明かすことは不可能であろう。
善意と悪意はコインの表裏と同じで、善意の破壊というのは、悪意が人間の心を席巻した現象なわけで、それはあらゆる場面で往々にして起きうることで、屋根の上に風見鶏と同じで、ほんの些細な理由で風向きは意図も安易に変わってしまう。
彼の旅では、人々の善意の連鎖が続いたわけで、彼は極めて運が良い人間ということに尽きる。
この本の真意は、自己満足の旅を自分の記憶として残しておきたいという部分にあろうかと思うが、自分の若い時からの夢の実現に挑戦して、それを成し遂げたという意味では称賛に値するが、功成り名を成した人の老後の金の使い方という意味では、私としては納得できるものではない。
この人が、自分の年をも顧みず、自分の若い時からの夢に挑戦したという点では、大いに敬服するが、同世代の老人の金の使い方というのは実に無意味、無原則のような気がしてならない。
私自身も、ぼちぼちとそういう世代に入りかけているので人ごとではないが、自分が老人会に入って、ゲートボールをしたり、カラオケに現を抜かす自分というのは想像したくない。
そんな年寄りには断じてなりたくない。
私は、この年になってからアメリカをバイクを駆って横断しようなどと大それた計画は持たないが、海外旅行そのものを否定しているわけではなく、自分の身の丈に合った旅行をして、それを文章に仕立てて一人自己満足に浸るという生活が最良の私の老後だと思っている。
出来うれば優雅な船旅をしてみたいが、先に述べたように、英語も駄目ならばダンスもダメとあっては、指をくわえて見ているほかない。
しかし、ツアー旅行ならまだまだ行けるチャンスもあるわけで、そういうチャンスを上手に生かして、物書きの真似ごとに興じてみたいものだと考えている。

「地中海の風」

2009-07-28 07:09:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「地中海の風」という本を読んだ。
カナダのトロントに住む日本人夫妻が、地中海クルーズをした時の記録である。
軽妙なタッチの文章で非常に読みやすかった。
私もクルーズ、いわゆる船旅の説明だけは聴きに行ったことがある。
しかし、それを実行するだけの資金がない。
よって指をくわえて人の船旅を眺めている次第である。
しかし、現在の資本主義社会の中で、金は経済の潤滑油のようなものであろうが、この金の使い方にも明らかに品の良さというものがあると思う。
先の帝国ホテルの接客係のトップの話の中でいう「おもてなしの心」にも、ホテル側のサービスを受け入れる側に、金の上手な使い方と下品な使い方があることを述べたが、現実にその差異は歴然とあると思う。
サービスを上手に受け入れ、そのサービスに対して対価を払うという感覚は、我々には極めて難しい生活感のような気がする。
金持ちが優雅な船旅をエンジョイすることは、贅沢でも何でもなく、ある意味でノブレス・オブリージだと私は思う。
ところが私のようなものがそれをするとなると、まことに珍奇な光景を呈するわけで、そのアンバランスの延長線上にある貧乏人の発想になると、そういうことは一部の金持ちの贅沢な生活だからケシカランという理屈になる。
戦後の日本は極めて均一な社会を構成しようと努めてきたので、階級社会を壊すように、破壊するように社会正義というものが作用していた。
階級社会を否定する方向に人々の心理が作用してしまったので、上流社会の存在は許せないが、中流なら許されるわけで、国民の中で少々金を握った者は、自分が上流社会の下の階層として、つまり中産階級だと思い違いをしてしまった。
心根の卑しい俄か成金が、金に任せて大判振る舞いをする態度を、誰もが下品とも言わず、野暮とも言わず、金を持ったものの特権として容認してしまったので、ここに我々が古来から引き継いで来た「粋」という情緒世界が破壊されてしまったわけである。
人が複数集まれば、その中であらゆるものが上中下という階層に分けられてしまう。
それは善し悪しの問題を超越して、現実の問題として免れないものだと思う。
持っている金の量、いわゆる資産、あるいはフローの金の量、あるいは修得した知識の量、などなどあらゆるものが上中下という階層に振り分けられていると思う。
こういう状況を鑑みて、問題は、その階層のトップに立つ人の矜持、あるいは誇りである。
麻生総理は就任以来極めて不評であったが、それは彼の振る舞いの中に大衆の思考を超越した上流階級の潜在意識が見え隠れしているので、それを貧乏人出身の敏感なメデイアが増幅しているからだと思う。
金持ちが金持ちらしく振舞うと、金持ちでないメデイアの関係者、いわゆる記者と称する輩の神経を逆なでするわけで、その結果としてメデイアの記者は、貧乏人根性丸出して、金持ちの立ち居振る舞いに批判の矢を向けるのである。
金持ちが金をふんだんに使うのはノブレス・オブリージである。
貧乏人がそういう金持ちの真似をするから、俄か成金として蔑まれるのである。
こういうレベルの人達が、無意味な大判振る舞いをするから、金の使い方が下品に見えるのである。
豪華客船のクルージングなどという金の使い方は、極めて上品な金の使い方であろう。
だとすると、日常生活でもそれにふさわしい生き方をしている人でないと、旅の最中に馬脚が表れて、背伸びしていることが露わになってしまう筈だ。
この本の著者の場合、そのあたりのセンスが見事に嵌っているわけで、読んでいて飽きがこないし、好奇心が刺激され、最後まで一気に読み切ってしまった。
私も生涯に一度はそういう旅をしたいものだとは思うが、この本を読んでみると、どうも私には場違いな気がして尻込みしてしまう。
その第一の条件が英語が出来ないという点である。
こういうクルーズは当然のこと他の国の人とも乗り合わせるわけで、その時に「英語が出来ません」では話にならない。
この件があるからそれが第一関門で、この関門が立ちはだかっている限り、私にとっては優雅なクルーズというのはありえない。
それとダンスの件で、これも明らかに第2の関門で、ダンスもできないでは、何日も洋上で暮らすことは苦痛以外の何物でもない。
というわけで、私には生涯、優雅な船旅というのは縁がないものと思う。
自分が出来ないとなると、余計人様のクルージングが羨ましく思われる。
しかし、私自身のことを考えると、自分が生きている間にアメリカに行けるなどということは信じられないことであった。
話は飛躍するが、平成21年7月27日の朝日新聞には「昭和と戦争」という記録媒体の広告が載っていた。
私に言わしめれば、この「昭和と戦争」というタイトルは極めて意図的に戦争を強調していると思う。
問題は、この戦争で我々は負けたから、今日、私のようなものでも海外旅行が出来るのであって、もしあの戦争に日本が勝っていたとしら、今日のような世の中が実現していたであろうか。
「昭和と戦争」という記録媒体の出現は言うまでもなく、「ああいう理不尽な意味のない戦争を再び起こしてはならない」、ということを喧伝するためのものだと思う。
しかし、もしあの戦争で勝っていたとしてら、意味のない理不尽な戦争というものは、どういう評価をされていたのであろう。
意味のない理不尽な戦争という評価は、あの戦争に敗北して、アメリカに占領されてしまったので、意味もなく、理不尽で、悲惨な戦争という評価になってしまったが、もし勝ったとしたらどうなっていたのであろう。
おそらくその勝利を維持するためには、軍事費というものが天井知らずの状況になっているものと思う。
我々、日本人、日本民族というのは有史以来、外圧によって脱皮を繰り返して、その都度前進してきた民族ではなかろうか。
外圧による脱皮は成功するが、内なるエネルギーの噴出という意味のイノベーションは、あまりうまく機能していないように思われてならない。
明治維新の成功も、太平洋戦争の敗北も、大きな外圧であったわけで、こういうピンチを経験することで大きく飛躍することには成功しているが、内なる発案で、内なるエネルギーで、内側から自己改革をしようとすると、そのことごとくが失敗している。
我々、日本人、日本民族というのは、基本的に物作りの民族だと思う。
このクリスタルシンフォニーという豪華客船は、フインランドの造船所で作られたとなっているが、これと同程度のものは日本でも出来るわけで、こういう豪華な船を作ることはできても、それを運用し、それを使うことにかけては外国人の手に委ねられてしまっている。
我々は物作りに長けていても、それを如何に使い切るかというソフトウエアーの部分になると、実力が見劣りしてしまう。
個々の具体的なもの作りには長けていても、総合的な運用という面では、極めて稚拙なわけで、ついつい目先の利益に幻惑されて、安易な手法に飛びついてしまう。
「勤勉が美徳だ」という価値観は何物にも代えがたい貴重な思考であるが、それの行きついた先が、「人生を楽しむ」という概念が価値観を失ってしまって、それが罪悪視されている。

「おもてなしの心」

2009-07-27 08:40:59 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「おもてなしの心」という本を読んだ。
帝国ホテルの客室係のトップが綴った接客の真髄を述べたものであるが、この道50年という年季の入った話である。
思えば、人がある職業に就く。その人にとって、自分の選択した職業が自分の天職であったかどうかは分からないのが普通ではなかろうか。
その職業に就くまでは、人は何となく自分のイメージでこの世に存在する職業を見ているわけで、仕事の内容を知らないまま、ただの憧れであったり、給料の多寡であったり、外見のスマートさに惹かれてそういう職業を選択するわけであって、自分に合った天職などというものは、この世にはないものと思わなければならないと思う。
ところが世間では若者に迎合して、「自分に合う職業に就くべきで、それまでは仮の生き方でいくほかない。あくまでも自分の天職を追い求めるべきだ」などと綺麗事を並べるから、それを聞いた若者はそれを真に受けるのである。
どんな職業でも、最初から自分に合った適職などというものはありえないと思う。
最初は単なる憧れや思い込みで就職してはみたものの、何度も挫折を味わい、期待を砕かれてもなお、そこで辛抱しているいうちに道が開け、仕事の面白みを会得するようになり、その次の段階で、それを極めたいという欲求に駆られ、結果的にこの道50年ということになるのだと思う。
この著者も、最初はレストランへの配属を希望していたが、配属されたのは客室係で、トイレ掃除ばかりさせられて挫折しかけたと述べている。
これが職業人としての普通のコースである。
日本の会社社会の中では、これが普通の企業の在り方であったわけで、あらゆる業界でこれに近い方法で企業人、つまり自らの企業に合った人間に仕立てる手法がとられていた。
若者が仕事に就こうというときに、自分の適職がこの世にあるなどと思う方が間違っているわけで、この世のすべてのサラリーマンは、適職だから仕事をしているわけではなく、ただただ生活のために好きでもない仕事をしているうちに、それが適職に見えてくるのであって、自分の仕事が適職だなどと思っている人は皆無だと思う。
中には本当に適職を得ている人もいないとは言えないが、そういう人は実に稀で、非常に幸運な人である。
仕事などというものは、好きだとか嫌いだという前に、ただただ目の前の仕事やってみる他なく、どうしてもその仕事が性に合わないと悟った時に初めて考え直すべきであって、最初から自分の適職を探すなどという奢った考えはすぐにでも捨てるべきだ。
自分に与えられた目の前の仕事をこなすにも、自分なりの創意工夫を施せば自分も得するわけで、そういうことが実績となって自分の評価につながるのである。
仕事に就くということはボランテイア活動ではないわけで、常に賃金が付いて回るので、金を得る以上、その金に値する成果を出さねばならないはずで、そういうことを考えれば、好きとか嫌いという感情を超越しなければならないことになる。
ホテルの接客というのは、そのままそのホテルの評価につながってしまうわけで、ホテルの経営者側としては一番気にかかるセクションだと思う。
人と人、客とサービスを提供する側との接点なわけで、ホテルの評価を背負ったセクションだと思う。
そして帝国ホテルともなれば、自他ともに日本一を認知しているわけで、ある意味で日本全体の看板を背負っているともいえる。
それにつけても、ここで云う「おもてなしの心」という場合、これは完全に日本人の感受性の発露だと思う。
確かに、我々は民族の特質として対人関係において相手の気持ちを慮る習性がある。
相手は今何を考え、何を思い、何を企んでいるか、推測する習性がある。
これが十分に機能しないと、今話題の「空気が読めない」ということになるわけで、我々は常に相手の立場を慮って、相手の深層心理まで探ろうという気遣いを示すことが最上のサービスだと心得ている節がある。
以心伝心で、相手が自分の要求を口にする前に、それを感知する能力が認められているわけで、それがこの帝国ホテルでの最高の接客となっているのである。
こういうサービスを提供されれば、それを受けた側は感嘆することは当然であるが、このホテルの場合そういうサービスがホテルの商品となっているのである。
ただ泊めるというだけではなく、客がホテルで寝ることに対してこういう付加価値を付けているわけで、それには当然それに見合う料金が支払われるのも当然である。
日本人全体を見ると、我々はこういうサービスに対して対価を払うという概念が乏しいような気がしてならない。
「おもてなし」というものに対価を払うという概念そのものが存在していないわけで、それは気配り、心配りという一言で片付られてしまう。
というのも、それは我々の生活の中では極ありふれたことであったわけで、改めて感謝する様なものではなかったので、気にも止められなかったわけである。
ところが異文化との接点では、我々は当然と思っていたことでも相手側にしてみると異様に親切に映り、異様に大事に扱ってくれているように映ったわけで、そこで日本人のサービスの評価が上がったものと推察する。
私は、金の使い方にも下品な使い方と上品な使い方があると思う。
高度経済成長華やかなりしころ、バブルに乗って多少儲けた中小企業のおっさんが、全社員を引き連れて海外旅行に現を抜かすなどという金の使い方は下品そのものだと思う。
会社が儲かったのは社員のお陰だから、社員全員にその功績に報いるという趣旨は理解できるが、だとすればそれこそ究極の成り金趣味で、まさしく絵に描いたような成り金の態様そのものである。
こういう企業ならばすぐ潰れるのも当然である。
そこに行くと金持ちは金持らしく、優雅な船旅や、帝国ホテルでひと時を過ごすような金の使い方は、極めて上品な金の使い方だと思う。
今日本社会は高齢化が進んで、老人が多い社会になりつつあるが、老人はそれなりの資産を持っている筈で、それを上手に使うことを真剣に考えなければならないと思う。
今の老人はそれこそ戦後の何もない時代を経験しているので、生き方そのものが極めて消極的で、自分の楽しみに金を使うことを罪悪視しており、「もったいない」が先に立ってしまう。
腰の曲がったおばあさんが、毎日家の周りの草むしりに精を出している姿を見て、成人に達した心の優しい息子や娘が親孝行としてホテルライフをプレゼントしたとしても、その腰の曲がったおばあさんは、贈られたホテルライフ、あるいは優雅なホテルのサービスを受け入れることはおそらく出来ないだろうと思う。
その腰の曲がったおばあさんの心境としては、「もったいない」が先に立ち、その現実の前に体がすくんでしまうに違いない。
これが今の現実の高齢化社会の人達の本音ではないかと思う。
今の高齢化社会の構成員である現実の年寄りとしては、自分の金で、自分の人生の終わりに、自分に対して褒美、褒章を与えるなどという発想は湧いてこないと思う。
そのこと自体がもったいなくて、所詮は金の掛からないゲートボールで終わるということになるのであろう。

「客船シェフ航海記」

2009-07-25 07:23:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「客船シェフ航海記」という本を読んだ。
昔、「ドクトル・マンボウの航海記」というのは随分読んだが、それと同じ感覚で客船のシェフの航海記というものに興味が惹かれた。
奥付けを覗いてみると、この本の著者・橋勝雄という人の経歴も随分異質で、こういう生き方もありかと思ったものだ。
海上自衛隊に入隊ということはよく理解できるし、そこを除隊して世界一周旅行を自転車で試みたという部分も解らないではない。
ところがそれからアメリカで食堂を経営するという部分になると、私の理解を超えることになる。
アメリカではこうも安易に食堂というものが開業できるのであろうか。
確かに移民の国というだけあって、世界各地から様々な人が集まっては来ているであろうが、そのことと誰でも彼でもが安易に事業を起こせる、ということは違っているのではなかろうか。
アメリカという国は自治が進んでいる国で、各州によってそれぞれに法律も違うということは承知しているが、余所の国から来た人間が意図も安易に事業が起こせるというのも不思議でならない。
それはともかくとして、著者自身の生き方そのものが非常に破天荒な生き方なわけで、こういう人生もありかなという思いがする。
私にはこういう勇気は最初から持ち合わせていない。
確かに若い時はこの著者と同じように自衛隊に入隊して、良い青春時代を送ったことはあったが、結婚して子供は生まれたともなれば、そうそう自分本位な生き方というのは選拓し得なかった。
妻や子供を路頭に迷わせるような危ない橋を渡る勇気は持ち合わせていなかった。
少ない給料ではあっても、毎月きちんと決まった時に入ってくる安定した生活でなければ不安であった。
それで、結果的には名もなく貧しく清らかには生きてきたが、いよいよ我が人生もたそがれてくると、果たして「俺の人生はこれでよかったか」と思うこともあるが、自分自身、気が小さいことは生まれ落ちた時から自覚しているわけで、他に選択の道もなかったろうと思う。
しかし、世の中には金に不自由していない人は掃いて捨てるほどいるであろうが、昨今の日本の社会を見ていると、日本の年寄りというのは如何にも金の使い方が下手だと思う。
最近の報道によると、「年金たまご」と称するねずみ講式のものがあるらしく、それに騙された老人がかなりの数になると報道されている。
こんな事件は、騙される方が阿呆だと思う。
もともと詐欺というのは騙す方よりも騙される方が悪いわけで、この世にそんなうまい儲け話があること自体がおかしいわけで、にも関わらず騙されるということは、自分自身の欲の皮が突っ張っていたということに他ならない。
人生に達観する年齢に達してなおかつ欲の皮がパンパンに張っていると言うことは、年寄りの在り方としてはあまりにも浅ましすぎると思う。
年寄りが「万一の時のため」と称して小金をためている図は、あちらこちらで散見するが、そういう人に限って、その金で以って施設に自らはいるということはないわけで、ならば何のための備蓄かと言いたいところである。
ただただ今までの習性で、浪費と思われるようなものには金を使い切れないのである。
問題は、何が浪費で、何が自分のための投資かということである。
年老いてから自分のために投資するというのも、いささかタイミング的に合わないが、だとすればそれは投資ではなくて、自分の過去の実績に対する褒美という風に考えるべきだと思う。
一人の人間が、功なり名を成すためには計り知れない努力を重ねたわけで、その結果に対する報償というのは自分自身で行うほかない。
だとすれば、年老いた夫婦の豪華客船の船旅というのは、それに最もふさわしい報償だと思う。
ところが今の日本の年寄りには、こういう発想に至る人はかなり少ないと思う。
こういう発想でおれば、「年金たまご」の詐欺に掛かるなどということはありえない筈であるが、今の日本の年寄りというのは、あくまでも戦後の貧しい時代の刷り込みから脱し切れていないので、金の有効な使い方についてまったく無知に等しいのではないかと思う。
我々、日本人の生き方というのは、諸外国から見ると働き蜂の世界に見えているらしいが、私自身もそう思う。
何故に我々は働くということに価値を追い求めているのであろう。
腰の曲がったおばあさんが、畑を舐めるようにして草取りをして、それこそ雑草など一本もないように草むしりに精を出している。
これは一体どういうことなのであろう。
畑に雑草の一本も生やさないというのは、美意識なのか、それとも価値観なのか、その人の使命感なのか、それとも宿命なのか、一体何なのであろう。
ただ田舎での生活の中では、自分の畑に雑草があると、それは隣近所からの顰蹙の目で見られ、怠惰な人間という評価をされがちなので、そういう評価をされないように自己防衛で自分の畑に草一本はやさないように努力するという面もある。
ようするに、田舎での生活、いわゆる田園生活というのは、体のいい監視社会なわけで、自分の畑に雑草を生やしているような家族は、寄ってたかって暗黙のうちに糾弾しているわけで、ある意味で陰湿ないじめ体制である。
ところが当人達は、決して、同じ村人を虐めているなどという思いは微塵も持っていないわけで、同じ村落共同体の一員として助け合っているつもりであるが、実質的には精神的な圧迫を無意識のうちに加えているのでる。
この無意識的な精神の圧迫というのが、なかなかの曲者で、これがあるため気の弱い人は田舎には住めないわけで都会に脱出ということになる。
日本の田舎の集落の人々の心のありようというのは、極めて偏狭で、よそ者を排除しようとする意識が無意識のうちに作用しているように見受けられる。
今の日本の田舎の集落では、専業農家というのはほとんどありえず、自分自身も、他からの移住者も、共に専業農家ではないので、その両者の確執はさほど苦にならないが、潜在意識の中には生き残っている。
世間ではこの逆のように喧伝されて、無味乾燥な都会から田舎に里帰りするパターンが日本の現実であるかのように言われているが、実質はその逆だと思う。
都会の生きにくくさと、田舎の集落の生きにくくさは何ら変わるところがなく、このことは日本国中、何処に行っても変わらないということになる。
腰の曲がったおばあさんは、こういう心の動きにはまったく無頓着だが、長年の経験で「畑に草を生やしてはならない」という潜在意識が刷り込まれてしまっているので、暇さえあれば草むしりに精を出すということになる。
畑を舐めてもいいぐらいに綺麗に草むしりをするようなおばあさんこそ、冥土への土産として豪華な船旅をエンジョイするにふさわしい人ではなかろうか。
だとすればそれは、そのおばあさんの息子や娘のすべきことであって、こういう運動が一つの流行として盛り上がれば船会社も、旅行会社も、その他もろもろの関係各位も利益につながるのではなかろうか。
今時、親の財産の遺産相続に気を配る人はいても、親孝行の一環として老親に船旅をプレゼントするような人間がいるであろうか。
いなければそういう需要を作り出せばいいわけで、日本の企業ならばそういうことも可能ではないかと思う。

「今すぐ乗りたい世界の名列車の旅」

2009-07-24 06:08:16 | Weblog
又また、例によって図書館から借りてきた本で、「今すぐ乗りたい世界の名列車の旅」という本を読んだ。
図書館の開架式の書棚から目についたものを無作為に選んで借りてきたので、読みだしてよく見てみたら先ほど読んだ本と全く同じであったので驚いてしまった。
この本の著者、櫻井寛氏の文章のスタイルは少々説明不足の感があるので、もの足りないところがある。
その分、イマジネーションが駆り立てられるという効果を狙ったスタイルなのかもしれないが、我々のような思考のシーラカンスにとっては説明不足の感を免れない。
旅行雑誌のコラムならばそれでもいいが、我々のような古い世代は、活字というものに読み物としての要因を期待しているのであるから、読み物という観点に立つと、読むに値する内容に乏しいということになる。
我々、旧世代の活字人間は、どうしても読み物としての中身に関心があるわけで、コラムをコラムとして読む限りにおいては違和感はないが、こういう風に一冊の読み物となった場合は、何とも物足りなさを感じてしまう。
そもそもこの本の内容も立派なコラムであったわけで、それをコラムとして読む限りにおいては、何ら過不足無いものであろうが、一冊の単項本となった場合は、尻切れトンボの感を免れない。
そういう愚痴はさておいて、この著者は珍しい列車を求めて世界中を旅している感があるが、前にも少し述べたように、「世界一周、列車の旅」というような企画があってもよさそうだが、こういうことはあまり耳にした記憶がない。
以前、何時頃のことであったか定かに記憶していないが、日本にも「オリエント急行」が走ったような記憶がある。
私も名前だけは聞き及んでいるが、「ワゴンリー」という会社があって、そこは列車の車両のみを持っていて、それを各鉄道会社に貸し出す、あるいは逆に運行を委託して豪華列車に仕立ててヨーロッパに運行させているということ聞いたことがある。
「オリエント急行」などもその類のものだという風に聞き及んでいるが、今の時代において、こういう企画は大いに考えてみる値打ちがあるのではなかろうか。
昨今は如何なる国でもモーターリゼイションに押されて、鉄道は斜陽化しているが、一度敷設した鉄路というものは、立派な社会的基盤整備なわけで、それを有効に使うか使わないかは人間の側の知恵の問題だと思う。
現にこの著者はそういう鉄道をこまめに取材しているわけで、採算割れの鉄道が観光資源として復活させている例を幾つも指し示している。
昔あった「ワゴンリー」のように、車両だけを保有して、運航は既存のレールを利用しつつ、優雅な旅を演出する企画を誰かが考えてもよさそうに思う。
船旅だって、金持ちの金の使い方のノウハウやアイデアを提供しているのであって、損得や効率抜きの金の使い方なのだから、それと同じことを鉄道に求めても何ら不思議ではないと思う。
現にこの本を読むとそれに限りなく近いケースが紹介されているわけで、そのアイデアをより大きく膨らませばそれが出来ると思う。
しかし、今は地球規模でモーターリゼーションが行き渡って、世界の人々は車なしで生きておれないようであるが、自分の身体と共に車を持って移動するというアイデアには案外冷淡なようだ。
行った先でレンタカーを借りるというアイデアは普及しているので、わざわざ自分の車を持っていくことはないということかもしれないが、車というものを自転車並みの移動する道具という感覚の人達ならば、それでも良かろうが、我々にとって車というのは移動する財産なわけで、我々の感覚からすればレンタカーで済ますよりも、自分の車を使いたいところであるが、そういう我々の中からも自分の車を身体と同時に移動するアイデアというのは出ていない。
車であるからには、自分で運転するわけで、高速道路が安くなればなったで、ますます高速道路に依存するようになる。
高速道路が実質千円で乗り放題になると、日頃、高級車を乗り回している連中までが、その特典に雲蚊の如く集まるという現象は、如何に心の卑しい、さもしい人たちかということになる。
私の独善的なアイデアを示せば、高速道路というのは本来、無料でしかるべきだと思うが、今まで高額な利用料を取られていたものがいきなり無料になると、その恩典に浴さねば損だと思う心根があまりにもさもしく、貧乏人根性丸出しだと思う。
こういう考え方は、我々の民族の近代化の中で、我々は馬車の時代というものを経験してこなかったので、車が馬車の延長線上の乗り物だという認識が未だに無いが故の思考だと思う。
俄か成金が、金が出来たものだから今まで自分には全く縁のないものだと思っていた自家用自動車というものを手に入れることが出来るようになった。
それは昔のお医者さんや代議士のような特殊な人と同じステータスを得た気分になったが、根が貧乏人で百姓根性が抜け切れていないわけだから、車を屋根つきの部屋に格納して、磨き上げて悦に入っていたのである。
そこには車が「人の行為、つまり人間の移動を楽にする道具」だなどという発想は毛頭ないわけで、ステータスであり財産であったわけだ。
こういう人は高速道路が実質タダになると、高級車を駆って東京から九州まで自分で運転して得した気分になっているのである。
貧乏人が手持ちの金をもたないのでポンコツ車で汗を拭き拭き東京から九州まで車で行くというのならば話は素直に納得できる。
日頃、高級車に乗っている人間が、高速道路がタダになったので、それに便乗するという気持ちを浅はかと思わない人間は実にさもしい人間だと思う。
日頃、高級車を乗り回しているような人間は、それにふさわしい行動、立ち居振る舞いをして当然であって、その感覚が解らない人間というのは、基本的に心のさもしい人、心の卑しい人間ということになる。
人はこの世に生まれ出でて、その人その人なりに一生懸命生きてきて、産を成した人もいればそうできなかった人も居るわけであるが、産を成した人はそれを持ってあの世に行けるわけではなく、生きている間にそれを使い切ってしまわなければならない。
人は案外それをする勇気を持たない。
だから遺産という形で、遺族に渡してしまう形になりがちであるが、本当は生きている間に自分自身で使い切ってしまった方がいいと思う。
その時に大いに役に立つのが、豪華客船による船旅であったり、列車による世界一周旅行だと思う。
列車による世界一周旅行というのは、今の世代において、ありそうでいてないのが不思議だ。

「アメリカ鉄道夢紀行」

2009-07-23 06:51:27 | Weblog
例によって図書館から借りた本で、「アメリカ鉄道夢紀行」という本を読んだ。
手にとったときアムトラックの写真が目に飛び込んできたので、この本ならまるまる一冊アムトラックのことが語られているに違いないと思ったが、それは看板に偽りありで、中身は短編集であった。
短編の紀行文といっても、それはいずれもアメリカの汽車旅に関するもので、その意味ではアメリカの事情を丁寧に紹介しているともいえる。
しかし、私のアムトラックに対する思い入れがあまりにも強かったので早とちりしてしまったわけで、この本の著者、櫻井寛氏も相当な鉄道マニアのようだ。
今はやりの言葉で言えば「鉄ちゃん」と言うことになろうが、ここで著者が本文中にさりげなく語っている部分に、私は大いに惹かれた。
それはアメリカは今でも鉄道王国で、その鉄路の総延長は今でも世界一だということであり、その大部分が貨物列車だという部分にアメリカ人の合理主義というものを垣間見た気がした。
その貨物列車も、あの大きなコンテナーを二段積みにしているわけで、こういう合理主義というのは我々も大いに見習うべきである。
私は軽佻浮薄なアメリカかぶれを自認して憚らない者であるが、アメリカ人と日本人は同じ人間でありながら、その生育した環境がまるっきり違うわけで、それがためものの考え方もまるっきり違って当然である。
我々の側の学問を付けた偉い人達は、人間である以上、皆同じ思考でなければならず、アメリカ人も日本の平和主義の理念を見習え、あるいはそれに帰依せよと言いたげであるが、彼らにはそういう思考が成り立つ土壌そのものが最初からないのである。
彼らにあるのは、如何に一番少ない労力で最大の効果を生み出せるか、一番効率のいい投資は何か、という人は如何に楽をするかという思考である。
ところがこの発想、つまり人間が楽をしようという思考は、我々の価値観からすると一番価値の低い思考なわけで、我々の古い価値観からすれば、楽をすることを考えること自体が人間失格に思われていた。
我々には潜在的にこういう思考があるものだから、ものを成すのに効率ということは全く考えないわけで、非効率であっても結果さえ出せば、その努力を買うという思考である。
アメリカの鉄道は、車の発達とともに廃れたと、私自身も思い込んでいたが、それはどっこい生きていたわけで、彼の地では、それが貨物輸送に活路を見出していたわけである。
この本にも紹介されているが、アメリカの有名な駅は、今、模様がえを余儀なく迫られているが、アメリカの駅というのは今の空港のような役割を担っていたわけで、そういう雰囲気は今でも残っている。
アメリカの鉄道が廃れたのは、当然のこと小廻りのきく車のメリットに負けたのであって、日本の鉄道が今でも廃れずに生き残っているのは、やはり日本人特有のキメの細やかさがあると思う。
列車の定時発着などということは、われわれならば不思議でもなんでもなく当たり前のことであるが、これが他の国では神秘的なことになるわけで、この感覚の相違というのは如何ともしようがない。
それが社会全般に機能して、日本は高密度の社会を構成しているが、他の国では日本ほど社会の密度は濃くないわけで、その現実そのものが国民性となっているのであろう。
アメリカの鉄道が貨物専用に徹し、コンテナーを二段積みにして大陸間を行き来している現状を見るにつけ、日本でも同じことが可能なのではないかと思う。
コンテナーの二段積みにこだわるわけではなく、日本の道路の混雑の緩和に鉄道が貢献できる部分があるのではないかという設問である。
昨今、政治の人気取りで、高速道路の休日の利用を割り引いて、国民の負託に応えようとしているが、そうなればなったで、セコイ国民、いわゆる庶民という階層が、雲蚊の如く高速道路に集まるわけで、これがいわゆる大衆の潜在意識というもので、目先にニンジンをぶら下げられると、自己の判断能力を失ってしまって、見境もなく一定の方向に誘導されてしまうわけである。
こういう状況を目の当たりにして、この状況下において、ものの移動を如何にすれば最も効率が良いかと考える人が出てこなければならない。
我々の過去の経済発展の中では、こういう節目ごとに技術革新、あるいは意識改革を経て大成長を遂げた企業もあるが、企業は100投資して120になればそれで企業としての使命はた達成されたことになる。
ところが、これからの日本は、10投資して30あるは40の成果を出さなければならないわけで、そういう目線で今の日本を眺めてみると、鉄道の利用というのは1から考え直す利点はあると思う。
夜の東名高速などはまさしくトラックの洪水であって、あの一台一台にそれぞれにドライバーが一人一人いるわけで、あまりにも無駄というかもったいない光景ではなかろうか。
それぞれのトラックのそれぞれの行き先はそれぞれに違っているであろうが、その大部分が東名高速道路を通るという部分では、他に効率的な方法があってもいいと思う。
もっと端的に言ってしまえば、コンテナーによる鉄道輸送について、もっともっと効率的な利用方法が編み出せないのかということである。
それと同時に、日本の鉄道には最初から自転車を乗せるというアイデアが想定されていないが、これもそろそろ取り入れるべきことで、都心部の鉄道に自転車を積めなど極端なことをいうつもりはないが、ローカルな地方こそ自転車のメリットはでるわけで、そういう部分では考えてみる価値はあると思う。
鉄道というのは最初に膨大な設備投資がなされているわけで、民間であろうと公営であろうと、最初の投資を有効に使うことを考えるのは当然のことで、それでこそ人間の英知というものであろうと思う。
今、平和な時代になって、豪華客船による世界一周旅行が功成り名を成した人のステータスとなりつつあるが、列車による旅もそういうものになりうるのであろう。

「世界地理の雑学辞典」

2009-07-22 07:38:05 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「世界地理の雑学辞典」という本を読んだ。
面白い本であった。
この本の著者がいみじくも憂いているように、今、日本には地理という文化の領域があるのであろうか。
確か、大学入試には地理を選択することも可能だったように記憶しているが、果たして今でもこの私の古典的な認識が生きているのであろうか。
人文科学の分野から地理が日蔭者の扱いになっているということは実に由々しきことだと思う。
地理学こそ人間の生きた姿をそのまま認識する学問であって、現実を見つめる最良の手段であるにもかかわらず、今の社会がそういうものを受け入れないということは一体どういうことなのであろう。
今、メデイアで報じられている外国の出来事は、地理学を紐解けばある程度は解明されるものではなかろうか。
イラクの湾岸戦争の原因を掘り下げていけば、当然あの地方で生き続けてきた人々と、その人達が心のよりどころとする宗教と、その地方の気候の特殊性を考えなければならないわけで、そういう部類の学問は本来地理学の範疇ではなかったかと思う。
この様に、この地にもともと住んでいた人々の本来の姿を考察することなく、いきなりスン二派だとかシ―ア派だとかいう言葉を並べて見ても、それはほとんど意味をなさないわけで、我々は地球上のあらゆることを地理学的に研究しておいてこそ、いざというときにそういう知識が生きてくるものだと思う。
この地球上には最初4つの文明が沸き起こったといわれている。
その文明が地球上の4つの地域で沸き上がり、それがまた廃れて、文明の地域が横に移動したわけで、そういう昔の人間の変遷、居住地域の選択、食料の確保の方法などというものが変わる、というその基のところには、地理学が大きく関与していると思う。
ところが今の我々は、そういうものを歴史という見方で堀り下げようとしているが、歴史を前面に出す前に、地理学の光を当てなければならないのではなかろうか。
人類の文明の発展には河川の存在が大きく関与しているが、川が定期的に氾濫することで肥沃な土地が再生されるということを掘り下げるのが地理学であって、歴史学はその後追いで、それを学問的に検証するべきものである。
この世の不条理な出来事の前には、地理学があると思う。
地理学は自然を自然のままに捉える学問ではなかろうか。
人間は自然環境に順応しつつ生き抜いてきたわけで、その人間と自然の接点を極める学問が地理学ではないかと思う。
イランやイラクの現状、中国の新彊ウイグル地区の混乱というような世界の各地で起きている混乱というのは、政治や経済の視点で見るよりも、地理学の視点で見た方が理解が早いと思う。
イラン人も、イラクの人も、新彊ウイグル地区の人も、南洋の島々の人も、人は自分で出生地を選択してこの世に出てきたわけではない。
幸か不幸か、生まれ落ちたところで、その人の人生が半ば決まっているわけで、その一人一人の生まれた環境を事細かに調べる学問が地理学だと思う。
これを掘り下げると、人間の階層を作り上げる場面に行きあたることもありうる。
人類は過去においてしばしば民族浄化というジェノサイトを経験してきているが、自然のままの人間を自然のままに受け入れるということは、人間の悪しき本領までもそのまま受け入れるということになるわけで、自分の都合の良いところだけ取って、都合の悪い部分は排除するなどということはあり得ない。
だから綺麗ごとでは済まされず、痛みも同時に受け入れなければならない。
それを赤裸々に指し示すのが地理学であって、人間の英知で、我々が本来持つ汚い部分をカモフラ―ジュしようとするのが経済学とか歴史学と称する学問だと思う。
人間のあるがままの姿を、あるがまま受け入れようとすれば、綺麗事の羅列では成り立たないわけで、人間のもつ汚い部分をそのまま受け入れざるを得ない。
それはある意味で人間の美しい理念、あるは理想とする概念からかけ離れたことになるわけで、それがため現代の教養に満ちた人々からは受け入れなくなったに違いない。
だから今日、地理学という学問はその価値を疑問視されているのであろう。