ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

アマリリス

2007-05-26 09:37:10 | Weblog
2、3日前から家内が大事に育てたアマリリスが開花した。
最初から大きな球根であったが、家内がせっせと肥料を与えたので立派な花を咲かせた。
昨日の雨で色がいっそうあでやかになった。
真っ赤なビロードのような色合いである。

瑞鳳殿

2007-05-23 09:40:48 | Weblog
銀山温泉で一泊したのち、仙台に抜けて仙台のループル・バスというものに乗って市内観光をした。
この日が月曜日で、おおかたの観光施設は休業日であったので、十分には回れなかったが、中でも伊達政宗公の終焉の地とされている瑞鳳殿は素晴らしいものであった。
こういう極彩色は日光の東照宮とよく似た感じで、私の個人的な感情としては好きになれないものですが、私の個人的な感情は別として素晴らしい出来映えであることに変わりはない。
絢爛豪華そのものである。
西洋の極彩色ともひと味もふた味も違っている。
この違いはどう説明したらいいのであろう。
一寸言葉や文章では言い表せない。

銀山温泉

2007-05-22 17:02:14 | Weblog
私ごとですが、5月20日と21日に掛けて山形県の銀山温泉に行ってきました。
中学、高校のミニ同窓会という感じで、それぞれに夫婦同伴で集まるよう、暗黙の了解の元、毎年の定例会として続けられていたが、今回は東北にまで足を延ばした次第です。
以前あったNHKの朝ドラ「おしん」の舞台だそうで、あれで世間に認められ一躍脚光を浴びるようになったとのことでしたが、確かにひなびた温泉でした。
元々は湯治場として近在の農家の人が農閑期に湯治に来る温泉だったようで、観光化されていないところが逆に人気を煽っていようでした。
今の季節、山はむせかえるような新緑に包まれ、出された料理は山菜づくしで、それはそれなりに野趣に富んでいて、結構楽しませて頂きました。

めぐり逢い

2007-05-19 11:45:52 | Weblog
昔のアメリカ映画で「めぐり逢い」というのがある。
若い頃はその存在すら知らなかった。
ところがNHKBSで放映されたものをテープにとって何度も見ているが実に良い映画である。
ケリー・グラントとデボラ・カーの競演であるが、お互いに婚約者のあるもの同士が客船の中で知り合って、双方が婚約を破棄して一緒になるという筋書きである。
その本題がAn affair to rememberというので、
この affair という単語がわからなかった。
それで辞書を引いてみると「情事」となっているではないか。
よって、この本題をそのまま直訳すると実に味気ないものになってしまう。
やはり「めぐり逢い」の方が数段と優れている。
私はアメリカ映画が好きなくせに英語がからきし駄目なものだから、この映画を見ながら英語耳になるように訓練のつもりで見ている。


映画「バッファロー大隊」

2007-05-18 08:33:13 | Weblog
テレビがあまりにもつまらないので、昔撮りためたNHK BSの映画を見ている。
その中でもジョン・フォード監督の西部劇が特に好きだ。
子供の頃は西部劇の活劇そのものを意味も深く考えることなくただただ単純に見ていたが、西部劇の中にも色々考えるべき要素がかなりたくさん秘められている。
昨夜見たのは「バッファロー大隊」というものであったが、これは完全に法廷もので、アメリカ陸軍第9騎兵隊C中隊の軍事法廷の映画であった。
この中に人種偏見の問題が見事に浮き彫りにされていた。
アメリカで公民権運動の始まる前に、こういう映画が公開されているということにアメリカの民主主義の懐の深さがあるように思える。
法廷における証人の証言を映像化するという手法によって、人種的偏見を告発するという形で展開されていた。
ある西部の砦で幼い少女が殺害されてガ、その状況証拠から、その中隊の黒人軍曹に嫌疑が蹴られた。
彼は全ての状況証拠が自分にとって不利に作用すると考えて逃亡するというものである。
その逃亡の途中で女性をインデアンの襲撃から救うという話である。
この黒人軍曹の弁護を彼の上司の中隊長が行うというものであるが、法廷内の言葉の戦いと、その状況がユーモアをまじえて描かれている。
西部劇を通してこういう問題提起をするということはアメリカの懐の深さだと思う。


バラ

2007-05-16 07:58:23 | Weblog
この家を作ったとき、うれしくてうれしくて、玄関の前をバラの花で満たそうと思った。
それでバラの苗を買ったり通販で珍しいバラを取り寄せたりして、一時は大いに楽しんだ。
ところが管理が下手くそで消毒を怠ったため、その大部分は枯れてしまった。
その中で唯一生き残ったのがこの花である。
生き残っただけあって、まさしく丈夫で長持ち。
毎年にぎやかに花を咲かせてくれる。

「NHKのそこが知りたい」

2007-05-15 09:15:08 | Weblog
図書館から借りてきた本で「NHKのそこが知りたい」という本を読んだ。
NHKに関しては前にも一文を認めたことがあるが、何かと批判があることは承知している。
しかし、今の時勢、マスコミ業界の中ではNHKこそは「腐っても鯛」という感が強い。
今の民間のテレビ局の放送内容というのは実に見るに耐えない。
この民間の放送内容の堕落さというのは一体どういうことなのであろう。
戦後民主主義の悪しき慣行だと思う。
メデイアを批判するとすぐに「言論の自由を侵すものだ」という反論が来るわけで、そうすると、もうその反論に対する反論そのものが封殺されてしまう。
この本は問答形式でわかりやすくNHKの本質を説こうと努力している姿が映し出されているが、NHKこそはいわゆる国の放送機関であってもいいと思う。
NHK側としては、公共放送であっても、国の広報機関ではない、ということをことさら強調したりしているが、主権を持った独立国であるならば、その国の広報機関として国営の放送局を持ってもいいと思う。
国民の税金で、国家の統治方針や将来の指針、ないしは祖国の民意を広報する機関を持っても良いと思う。
「自分達の国はこういう統治を目指しているのだ」ということを広く国民に周知徹底する機関として国営放送があってもいいと思う。
公共放送であったとしても、戦前の日本放送協会のように、国の指針に無理矢理従わせられ、またそれに協力を惜しまないような団体であるとするならば、公共放送などと綺麗事をいわずにいっそのこと国営放送と開き直ったほうがよほどすっきりすると思う。
国家というものがきちんと統制のとれた民主的な国であるとするならば、国が、国民のその国の国民としてあるべき姿というものを明示してしかるべきだと思う。
戦後の、民主的と称する文化人たちは、上からの指示命令というものをとみに嫌悪して、そういう傾向を芽のうちから排除しようとするが、これは一見開明的な態度に見えるかもしれないが、その結果として今日のモラルハザードが起こっているわけで、現状を放置していけば、この先の日本が何処に流れ着くのか皆目見当もつかない。
今の日本の文化人・知識人というのは、自分が政権を担っていないので、日本がどのような状況に置かれようとも、その責任を回避できているわけで、全ての結果を政府の責任に押しつけることで自己の責任を免罪している。
いわば天に向かって自ら唾を吐いているようなもので、その結果が自分に降りかかってくると、自分が天に向かって唾を吐いたことを綺麗さっぱり忘れ、結果のみを遡上に載せてそれを政府の責任として、自分は口を拭っている。
そういうことから考えてみれば、日本ではNHKこそが日本のあるべき姿というものを国民の前に掲示しなければならないと思う。
地球上にある主権国家、独立国というものは、それぞれに自分達の国のあるべき姿、将来のあるべき形というものを自国民に周知徹底する使命というか、義務というか、そういうものをもってしかるべきだと思う。
体制や主義主張を越え、独立国として存続しようとすれば当然のことだと思う。
それをなすにはメデイアの活用が不可欠で、政府の直属の新聞や放送局を持つことも至って当然のことだと思う。
現に旧ソビエット連邦や中華人民共和国ではそうしているが、民主化の進んだ国では、こういう統制をしなくても国の行く末を国民自体が選択しうるという状況のもとで、国家直営のメデイアというのは存在の余地が排除されている。
ところが我が国がそれほど民主化の進んだ国であろうか?
我々の民主化の歴史というのは戦後わずか60年間だけのことで、国民意識の中には依然と旧体制のモノの考え方が残っていると思う。
今の日本の社会では、組織や社会のトップにいる人たちがモラルハザードが引き起こしているわけで、それは戦後の民主教育の見事な結果だと思う。
つまり戦後の第一世代というのは戦前・戦中に軍国教育を受けた世代が、戦争で敗北したことにより旧世代のリーダーがいなくなった穴を埋め、価値観が180度転換した後で、戦後の民主化教育の名のもとに次世代の人々を育て、その中で育った人々が今現在の社会をリードしているというわけだ。
つまり戦争末期に学徒動員や入隊・入営したばかりの若者が敗戦で復員してくると、旧世代の先輩たちはことごとく戦犯や追放によって職を失い、その後にこういう若者がその後を継いだが、その時は戦後の民主化と称する価値観の転換が押し寄せてきたので、彼らは古来の日本のモラルを次の世代に引き継ぐことに完全に失敗したわけである。
祖国のあるべき指針を見失って、食糧難にあえぎ、目の前の刹那的な生き方を選択せざるをえず、生きんがためにモラルも何もあったものではなかったに違いない。
今の社会の不祥事というのは、こういう体験を経た人に育てられ、育成された戦後第2世代の人々であり、彼らがモラルハザードを起しているわけで、これは戦後の民主教育の見事な成果である。
この間のメデイアの役目というのは、ことごとく旧秩序の破壊を奨励してきたわけで、それは共産党の路線と見事に軌を一にしていたということである。
日本のメデイアの中でも民間の新聞社と放送局は、民間なるが故に何でも放送可能である。極端な話、金さえ出せばどんなことでも報道できる。
ところがNHKに関してはそれが出来ないわけで、不偏不党と公序良俗は至上命令なわけである。
不偏不党というのは、ある特定の政党に肩入れしてはならないということであるが、公序良俗というのは、基準が極めて流動的で座標軸が定まっていない。
50年前には何でもなかったことが今では罪悪と見なされることが多々あるわけで、だとすればNHKはその公序良俗の基本を国民に指し示す立場であっても良いのではなかろうか。
また国民の側もそれを後押しすべきではなかろうか。
民主化の遅れた主権国家では、それを国家主導でなそうとするが、民主化の進んだ国ではその部分が国民の常識にゆだねられている。
問題はこの常識である。
公序良俗も常識も時代と共に変化するわけで、昔は良かったものが今は駄目であったり、昔は駄目であったものが今は公然と許されるという状況があるわけで、それを画一化することは極めて困難だと思う。
しかし、その中にも普遍的に時代を超えて伝えなければならないものも当然あるわけで、NHKはそれを後世に伝えるべく使命を兼ね備えていると思う。
日本の常識の普遍化のみならず、日本の良識の普遍化にも尽くして頂きたいものと思う。

カラタネオガタマノキ

2007-05-12 08:52:17 | Weblog
我が家を作ったとき、田圃の中の一軒家でしたので、庭も同時に造った。
庭というよりも盛り土が崩れないようにコンクリートで囲み、その上にフェンスを張って、門から玄関へのアプローチを作っただけであるが、その時の造園業者が、門の脇にカラタネオガタマノキというのを植えてくれた。
成長の遅い樹なのであろう、あまり大きくはなっていないが、毎年花を咲かせる。
極めて地味な花で、花があるのかないのかわからないような黄色の花である。
ただし匂いは極めてかぐわしいもので、ほのかな香水のように漂っている。
最初、業者の方からこの樹の名前を聞いたとき、耳からの音だけではどうしても覚えきれなかった。
何度も聞き直して、その場で呪文のように唱えて覚えようとしてもすぐ忘れてしまった。
樹の由来、漢字の説明を聞いてやっと理解できるようになった。
最初のカラは中国の唐のことで、タネは種、オガタマというのは普通にある植物の名前という風に記憶している。

黄金木蓮

2007-05-11 07:49:10 | Weblog
木蓮というと、普通、白か紫の花を思い浮かべる方が多いと思う。
ところが我が家の木蓮は黄色である。
この家を作ったとき、家内の母親から記念に「何か苗を買ってあげる」といわれ、たまたま通り合わせた植木屋さんの前にあった苗を購入した。
1mぐらいの苗に「黄金木蓮」という札がついていたので、「黄金」とは縁起が良いではないかと思ってその場で購入した。
爾来、20年近く経って大木になってしまったが、その間、台風で樹そのものが傾いたり、不格好に剪定されたりして、我が家の木蓮も災難を背負いつつ毎年花を咲かせてくれる。

「アメリカのユダヤ人」

2007-05-10 07:14:04 | Weblog
「アメリカのユダヤ人」という本を読んだ。
言うまでもなく図書館の本であるが、大体、読む前から中身は想像できた。
アメリカ政界内でのユダヤ人ロービーストの在り方を説いたものである。
アメリカ政界ではユダヤ人の発言力が極めて強いということは我々レベルでも既に知っている既成事実であるが、これは世界規模で考えれば極めてゆゆしき問題だと思う。
ヒットラーが彼らを殲滅しようと考えるのもある意味では理解できる。
ヒットラーの行ったホロコーストを容認するものではないが、ユダヤ人とユダヤ教徒は、自らの生き方を真摯に考えるべきだと思う。
普通の民族は大ざっぱに言って、自分たちの民族の発展や繁栄を自分達のテリトリーの中で実現しようと努力している。
そのことの善し悪しは別にして、普通の民族はそういう努力をして自分達の国家の結束ないしは民族の結束を図ろうと考える。
ところが彼らは1948年まで自分の祖国というものを持たず、地球規模で世界に散らばって生きてきたわけで、世界中に散らばったユダヤ人が、自分達の祖国が出来たからそこに集まって、普通の国並みの存在に落ち着けば地球規模のトラブルはなくなるはずである。
ところがイスラエルという国に集まってきた人々というのは、余所の国で抑圧されて行き場のない人が集まってきただけで、彼らの存在を認めている寛大な国からイスラエルに移住する人はいないわけである。
それは無理もない話で、今まで何不自由なく生活が出来ていたものを、何も好きこのんであんな砂漠に移住する必要があるかというのは偽らざる人間の心理だと思う。
イスラエルという国家は、おそらくアメリカか在住のユダヤ人の援助がなければ存続し得ないのではないかと思う。
別の見方をすれば、ユダヤ人はアメリカ国民から富を収奪して、それをイスラエルに送っているという構図である。
大体が、この地球上の普通の国家ならば、いくら貧しい国であろうとも、自分達の納めた金で国家が存立しているはずで、他国からの援助というのはあくまでも援助であって、それは相手次第で何時援助打ち切りになるかも解らないという不安を抱えていると思う。
国外の同胞からの送金で国家が成り立っているなどという国はあり得ないと思う。
近年ではフイリッピンとかアジアの低開発国の人々は、国外に出稼ぎに出て本国に送金しているという例はあるが、ユダヤ人とイスラエルの関係はそういう事例ともいささか異なっている。
低開発国の人々が先進国に出稼ぎに行くというのはあくまでも出稼ぎであって、相手国の政治行政にまで関与することはない。
ところがユダヤ人というのは、自分自身は表に立つことをせずに陰で政治・外交・行政にまで関与しているのである。
これもアメリカが民主主義国だからこそそういう状況が許されるわけで、この本の説くところでは、そこを危惧しているわけで、ユダヤ人があまりのさばるとその反動があるのではないかと考えている。
ユダヤ人がアメリカ政界で大きな力を行使し続けると、当然、ヒットラーが抱いたのと同じ感情が芽生えかねないと思う。
彼らが老獪な点は、自分達は表舞台に立たずに後ろで厳然たる力を行使する点にあるわけで、それはおそらくユダヤ人がアメリカ大統領に立候補しても誰もそれを押してくれないということを彼ら自身が知っているからだと思う。
かつてのニクソン大統領も人気がなかったが、あの時、国務長官であったキッシンジャーは東奔西走してニクソン外交を展開したが、ならば彼が大統領に立候補したならばそれになれたかというと、いくらアメリカ在住のユダヤ人フィクサーが暗躍しようとも恐らくなれなかったであろう。
人間には持って生まれた本能というか感情というか潜在意識というか、偏見を持つということから免れないと思う。
その偏見も、何も理由がないのに意味もなく偏見だけが生まれるということはないわけで、そこにはそれなりの理由があると思う。
それは正とか善とか善し悪しとか、好き嫌いという感情では割り切れないものだと思う。
偏見が生まれるということにも立派な理由があるわけで、理由もなしに偏見だけが出てくるということはあり得ない筈だ。
第2次世界大戦後のユダヤ人には、イスラエルという自分達の祖国があるが、国外のユダヤ人はそれこそその国の構成員でありながら、イスラエルに金を送り続けるということが解れば、その国の普通の一般国民としては不愉快に思うのも当然だと思う。
自分と同じように起居しながら、得た金を自分の属する祖国に注ぐのならば納得も行くが、イスラエルという他国に送るとなれば面白く思わないのも当然で、そこに偏見の生まれる元がある。
ユダヤ人の同胞愛もそれはそれで立派であるが、自分たちと起居を共にしている他の人々も、周囲の人々も同じように同胞であるはずであるが、ユダヤ人だけで結束するというのも端から見れば面白くない現象であるに違いない。
ユダヤ人は教育に熱心で、結果的にどの国にいても社会の中枢をなし、富裕層を形成してしまうので、普通の人からすればそこにやっかみとも劣等感とも、いうにいわれる屈辱感が芽生えるものと思う。
そしてそれは偏見に醸成されるようになる。
ユダヤ人がユダヤ教を崇め奉るのは自由であるが、自分の属する国の人々に同化しないことには、この偏見という谷間は埋まらないと思う。
そして、イスラエルの国外に住んでいるユダヤ人も、イスラエルという国のしていることには勇気をもって干渉して、この国のゆきすぎた行為には毅然とブレーキを掛けるべきである。
イスラエルは誕生以降、中東地域の不安定さをカードとして使い、冷戦をカードとして使い、最近では再びイスラム原理主義ないしはアルカイダ・テロ集団の存在をカードとして使って、アメリカ在住のユダヤ人がアメリカ政府に金を出させているわけで、こういう民族の有り様を見ればヨーロッパ諸国ならずとも反感を抱くようになるのも当然だと思う。