ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「警視庁捜査二課」

2009-11-29 20:07:05 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「警視庁捜査二課」という本を読んだ。
立て続けに警察関係の本を読んだことになるが、これは図書館の書棚にかたまって並んでいたからに他ならない。
この本は警視庁の現場にいた刑事の話なので非常に興味あるものであった。
テレビドラマの「はぐれ刑事純情派」を文字で表現したようなもので、非常に面白かったが、警察組織も巨大で中には警察官にふさわしくない人間もかなりいるようだ。
同じ警察官として、自分と同じ仲間を摘発し、逮捕するということは、さぞかし気が重く苦しい心境ではないかと想像する。
学校の先生とか警察官というのは世間からは聖職とみなされているので、ただでさえも自分の行いを正さねばならないが、やはり一人の人間としては、ついつい誘惑に負けることも多々あろうと思う。
既に誘惑に負けてしまったものは自己の責任であろうが、それを逮捕しなければならない同僚というのはきっと複雑な心境ではないかと思う。
それと、この本の著者も、警察官としての秘密を墓場まで持っていく気でいるようであるが、警察の中でも事件のもみ消しということはしばしばあるように見受けられる。
テレビドラマの中では往々にしてそういうケースが描かれているが、私は単純にドラマの中の話だと思っていたが、やはり現実にもあるもののようだ。
一般論として警察が忙しがっている世の中というのはあまり良い世の中ではない。
警察の暇な世の中であれば、それだけ平和な証拠になるが、警察官が忙しくて忙しくてならない社会というのは、極めて不安全な危なっかしい社会だということになる。
世の中が複雑になり、社会が多様化してくると、それに付随して犯罪も多様化するわけで、まことに困ったことである。
しかし、人はなぜ犯罪に走るのであろう。
犯罪を犯すにも、完璧にそれを実行しようとすると極めて用意周到に知恵を働かせ、頭脳を使って自らの防御に当たらなければならない。
やはり、この世に生きている人間には、先天的に犯罪に手を染める人というものはいるようだ。
既に述べたことでもあるが、一部の人間の内には先天的に盗癖というものがあるようで、生まれ落ちた時から人のものを盗んでも良心の呵責に何ら触れることのない精神構造の人間がいるようだ。
我々はともすると人を見る時性善説に依拠しがちで、人はすべて善意の持ち主で、基本的には人を騙すような悪いことをする人間はいない、と思いたがっているが、現実には人を騙しても何ら良心の呵責を感じない人間もいるわけだ。
原始の人間はおそらく「自分のもの」という概念は持たずに、人のものは自分のもの、自分のものは自分のものという大雑把な所有権しか持っていなかったと思う。
農耕生活の初期、あるいは狩猟生活の初期の段階では、人は所有権という意識は毛頭持っていなかったと思う。
その場にあるものを、自らの生存のために誰に断ることもなく自分のものとしていたに違いない。
第一、 皆が裸かあるいは毛皮をまとっているわけで、皆が皆、同じような服装というか身なりであ
って、貧富の差などという概念もなかったに違いない。
しかし人間の社会が複雑化してくると、当然のこと、持てるものと持たざる者の区分けが出来てきて、持たざる者は持てるものを羨ましく思うようになって来た。
いわゆる貧富の差が出来てきたわけで、その差は、所詮は、それぞれの人間の頭の使い方の違い、頭脳の働きの違いであったわけで、スタートが同じであっても人間の個性そのものが立場の違いを増幅してしまったことになる。
頭の使い方や頭脳の働きの方向性が人倫の線に沿ったように機能させれば、それは健全な社会生活を営むということになるが、数多くいる人間の中には、どうしても人倫の示す生き方に同調出来ない人間が紛れ込むわけで、それの行く着く先が犯罪者という範疇に集合するわけだ。
大勢の生きた人間の中には、生まれ落ちた時に既に盗み癖をもった者もいるわけで、こういう人は刑務所を出たり入ったりして人生を過ごすことになるが、それはそれでいた仕方ない。
ところが、汚職とか、贈収賄とか、詐欺という犯罪は、完全に最初からそれをすること目的とした犯罪なわけで、明らかに確信犯である。
こういう犯罪に関しては、巷の不良やヤクザの三下が出来心でやるような生易しいものではないわけで、相当に知恵と頭脳を酷使した所業であり、真の馬鹿やアホではなしえないものである。
贈収賄ともなると、贈る方も受け取る方も、相当に社会的地位の高い者の仕業といわねばならない。
組織の下っ端同士ではいくら贈収賄したところでメリットが最初から無いわけで、組織のトップ同士で金を贈って、その見返りが期待できるからこそ贈収賄をする価値が出るのである。
ここで問題となってくるのが組織のトップの倫理観である。
組織のトップともなれば当然のこと社会的地位もあるわけで、その地位の前提になっているのは当然のこと高い学歴である。
有名な大学を優秀な成績で卒業して、組織のトップまで上り詰めて、そこで司直の世話になるというのも実に浅はかな人生なのではなかろうか。
銀行員の横領事件とか、警察官の情報漏洩とか、外務省の旅費の横領事件とか、本来の業務を真面目にしていれば世間の人望を一身に背負える立場のものが、金に目がくらんで塀の向こう側に転げ落ちるというのはあまりにも人間として情けないではないか。
私としては、犯罪者というものは、倫理観に対する認識が甘いという部分に、遺伝的な要因があると考えているが、こういう類の犯罪者はそういうものではないと信じたい。
ただの出来心と思いたいところであるが、こういう人達はおしなべて高等教育を受けている筈なのに、高等教育がモラルの順守に一向に貢献しないというのは一体どういうことなのであろう。
道徳教育が叫ばれて久しいが、あまりにも組織のトップの不祥事が多いと、高等教育の場で道徳教育を実施しなければならなくなるのではなかろうか。
そもそもモラルの順守ということは家庭教育の場で行うべきことであって、学校で教えるようでは世間の親は子育てを放棄したのかと言わなければならない。
世の進歩的と言われる知識人は、「子供の躾は地域の責任」などとバカなことを言っているが、冗談ではない。
子供の躾、あるいは人として守らねばならないモラルの順守を教えるのは親の責任であって、それを地域や学校に転嫁させようなどという発想そのものが犯罪の温床である。
こういうと必ず「今時は家庭の主婦がパートや仕事に出ていて家にいないので、子供の躾や教育は地域で負担しなければならない」という論法になるが、「ちょっと待ってくれ」と言いたい。
自分の子供が出来たら、何をさておいても子育てを優先させるのが人としての道ではないのか、ということを思い出してもらいたい。
若い夫婦で、経済的にゆとりがないから主婦も稼ぎに出るというと何となく整合性があるように見えるが、そもそもその発想から間違っている。
経済的ゆとりと子育てを秤にかけて、子育てよりも金稼ぎを優先しているということではないか。
若い夫婦が経済的にゆとりがないのは人類のすべてに通じる普遍的なことであって、ならばその時期はある程度のひもじさ、貧乏、苦難に耐えてでも子育てを優先させるのが人としての普遍性ではなかろうか。
家で健康な主婦が子育てに精を出しても、それは実入りの増加にはつながらないのは当然であるが、そのトンネルは皆同じように経験しなければならない道だと思う。
母親が外に働きに出るということは、子育てを犠牲にして金稼ぎに精を出しているということであって、決して褒められるべきことではない筈である。
ところが戦後の民主化の中で生育した進歩的知識人という人達は、「女性が外に働きに出ることは良い事だ」という認識に立って、自分の作った子供の教育を他者に委ねようとしているのである。
この思想は、共産主義の指し示す集団的農業あるいはソホーズ、コルホーズの思想であって、資本主義社会では、個々の家庭を尊重して、昔ながらの子育てを継続するように図らねばならない。
若い夫婦が経済的なゆとりがないというのは何処でも同じであって、ならば国とか行政は、子育中の女性には家に居て出来る仕事を斡旋するというか、そういうシステムを構築すべく知恵を絞り工夫をしなければならない。
人間の営みの中でも、子育てというのは実に大変なことで、その大変なことをスポイルする方向に思考を巡らすのではなく、それを継続できるようにシステムの方に工夫をすべきだと思う。
我々世代は内職という言葉に非常になじみがあるが、この内職であれば母親はいつも子供のそばにおれるが、どうしても貧困のイメージが付きまとい、貧乏たらしいイメージが払しょくしきれないので、どうしても「パートに出る」と言う方が聞こえがいい。
ことほど左様に、現代人は金を稼ぐことに執念を燃やし、子育てを蔑にしがちであるが、この部分にモラルの崩壊の芽が潜んでいるように思う。
若い主婦は子育てを犠牲にしてまでパートに出て、得た金は全部保育園や幼児施設に吸い取られているわけで、行政はその吸い取る方の箱物作りに精を出しているが、それよりもパートに出なくても済む内職のシステムを再構築すべく知恵を働かせるべきだと私は思う。
世間を騒がすあらゆる組織のトップの犯罪も、すべてモラルの破壊が有って起きているわけで、良い年をしたオッサンが、警察のお縄を受けるということは一族郎党の恥であろうが、こういう意識が心の奥底で作用している限り、モラルハザードということにはならない。
「石川や 浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」ということであるが、盗人には高等教育の効果というのは期待できないということなのであろう。
しかし、前にも述べたように犯罪を犯す人というのは遺伝的なものを前世から引き継いでいると思う。
世の中を見てみれば、いくら貧乏でも犯罪を犯さない人はいくらでもいるわけで、その反対にいくら経済的に恵まれていても罪を犯す人も掃いて捨てるほどいるわけで、犯罪を犯す犯さないの違いは、その人の持って生れた遺伝子にあるのではなかろうか。
今時の組織のトップの犯罪というのは、犯罪を犯す遺伝子を持った人が、たまたま高等教育の機会に恵まれ、立派な組織に入り、その中で立派に立身出世したが、持って生れた遺伝子、つまりモラルを軽視する性癖は、いくら地位が高くなろうとも変わるものではないわけで、ついつい悪事に手を染めてしまうということである。
こういう人はもともとの頭は極めて優秀なわけで、知識としてはミニマムの倫理観を十分に備えており、何が法に触れ何が触れないかを十分理解したうえで、その法の網をかいくぐろうとし、法の盲点をかいくぐろうとするところにモラルハザードの芽が潜んでいるのである。
この時のモラルハザードに対して自制心が効くか効かないかが犯罪を犯すか犯さないかの分かれ目であるが、本来、高等教育を受けたものならば、この時にその教育の効果として理性や知性が作用して、自己の欲望をコントロールするように機能しなければならない。
人間は確かに誘惑に弱い生きもので、自己の欲望を抑えるのが下手であるが、この時にそういう人の持つ理性や知性が正常に機能しないのであれば、他の動物と同じであって、霊長類としての意味をなさないではないか。
ましてや教育がそういう岐路で全く当人の判断力に影響を与えていないでは教育の意味がないではないか。

「警視庁少年課事件ファイル」

2009-11-27 18:20:36 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「警視庁少年課事件ファイル」という本を読んだ。
題名からも判るように少年犯罪を扱った考察であるが、年若い人間という理由だけで、彼等を特別扱いするというものおかしな話だと思う。
未青年と未青年でない普通の大人を区分けして、法律を科すというのもおかしな話だと思う。
確かに未青年は大人としての経験の浅い分、あらゆる面で未熟ということはあるが、それは人間がマンモスを狩っていた時代ならばともかく、人が月に行く時代にマンモスの狩りをしていた時代と同じ物の考え方では通用しないと思う。
マンモス狩りをしていた時代ならば、人間の生きた年数の高が経験の高と同じであったろうが、21世紀の今日では人間の知恵とか知識の豊富さは世代間で逆転しており、10代の若者の方が50代60代の大人よりもよほど情報量が多い。
未青年と大人の線引きをどこに引くかという問題は、過去にも何度か浮上しているが、こんなことは決めて決めれるものではない。
まして、「未青年だから刑罰に処せない」などいうことは、問題提起そのものがどうかしている。
同じ犯罪を犯した者の刑罰は、年齢には関係なく同じ刑罰を処すのが当然だと思う。
同じ殺人でも大人がすれば懲役10年になるのに、未青年ならば少年院で済まされるなどというバカな話はあってはならないと思う。
未青年だから刑が甘いというのは、昨今の知識人というか、進歩的というか、開明的な人達が人権という意識で以って青少年を特別な目で見ようとするところからきている。
未青年に果たして本当に人権が確立されているかどうかから本格的に掘り下げなければならない。
幼児は親の保護なしには生きれないが、体格では親を越えた17歳の子供に対して、果たして本当に親の保護が必要かどうか考えなければならない。
AがBを殺したとすると、殺されたBはその時点でこの世には存在しないが、殺した方のAは現実にこの世に存在するわけで、だからこそ警察に捕まれば厳しい尋問を受けることになる。
ところが、その取り締まりの過程で犯人Aは警察の執拗な取り締まりにうんざりしてしまうので、はたからみると犯人は警察にいじめられている感じがする。
素直に自分のしたことを告白すればこういうこともないが、犯罪を犯すほどの人間が素直に物を言うわけもないので、そこを執拗に突くと如何にも人権が無視されているように映る。
この場には殺されたBの姿はないわけで、殺した側のAだけが厳しい取り締まりを受けているということになり、この部分に綺麗事の御託を並べる知識人という人達が警察批判を展開するわけだ。
警察批判をする人たちにとっては、殺された人の気持ちなど、その場に存在しないのだからどうでもいいわけで、目の前に生きて呼吸をしている殺した人間の人権だけが問題なわけである。
知識人やメデイアにとっては警察というものは、権力を持っているという理由だけで批判の対象なわけで、だからこそ如何様にも批判し、攻撃するに事欠かないのである。
それでいてメデイアにとって警察というのはニュースソースの宝庫でもあるわけで、警察の中をうろうろすれば何かニュースバリューのある事件に遭遇するチャンスをつかむことが可能なわけである。
年寄りが「今時の若者が!!!」といって嘆く姿は太古の時代からあるようで、何時の時代になっても年寄りは若者を嘆いてきたということを考えると、それは人間の業というものなのであろう。
人間のすることは民族や人種によってそう大した違いがあるものではないと思う。
だから今日本で青少年が堕落しているというのは、地球規模の視点から見れば世界的に同じ傾向にあるのではないかと想像する。
また時代による増減もほとんどないのではないかと想像する。
昔は今よりも人口が少なかったので、相対的には犯罪の数も少なかったであろうが、今では人口も多くなり、文化もそれなりに進化したので、犯罪もその影響をモロに受けて極めて多様化している。
物質的な文化、文明の進化というのは、善良な市民だけが享受できるというものではなく、悪人も善人も平等にその恩恵に浴せるわけで、時代の変化とともに犯罪も極めて巧妙に、効率的に、知識集約的になってきている。
特に相手が若者、少年課が対応するような若者の場合、それを追う刑事の方が時代の進化に対応できずに振り舞わされるケースも多々あろうと思う。
今の日本は極めて豊かな国になっていると思うが、我々の国のモラルという意味では、世界に顔向け出来ないような状態ではなかろうか。
この本の主題は、少年の犯罪、いわゆる未青年の犯罪を考察するものであるが、その前に彼等の親の存在が極めて重要なポイントになっていると思う。
「この子にしてこの親あり」あるいは、その逆に「この親にしてこの子あり」というように、少年とか未成年者を見る時は、その親を見なければならないが、まさしく前の言葉のとおりである。
少年犯罪で当事者の子供が悪いのは当然であるが、子供がそうなるには明らかに親の影響がモロに被さっている。
家族の一員として親子が一つの屋根の下で生活しておれば、子供が親の影響を受けるのは当然のことで、下は生活保護の家庭から上はハイソサエテ―の家庭まで一様に子供が親の影響を受けているわけで、問題は親のものの考え方の中にある。
親の何がそんなに悪いかというと、それは親の倫理観の欠如だろうと思う。
昔の道徳教育を復活させよなどと野暮なことを言う気はないが、人倫の道に外れるか外れないかぐらいの認識はあってもよさそうに思うが、これが大人の世代、つまり親の方にないのである。
貧乏人の親も金持ちの親も、子の親としてあるべき人たちの全部が全部に倫理観が欠如しているのである。
「人に迷惑をかけてはならない」ということを口では言っているが、人の迷惑ということが最初からわかっていないので、自分が人に迷惑を掛けていても、その事に全く気が付いていないという塩梅である。
人に対して、どういうことが相手の迷惑かということに思いが至っていないわけで、それは同時に自分には極めて甘いわけで、自分にとっての迷惑は敏感に感じ取るが、相手に対しては極めて鈍感なわけである。
子供が万引きをして警察から呼び出しがきても、万引きの金額さえ弁償すれば問題は無かったように錯覚しがちであって、万引きが立派な犯罪であるということに思いが至っていない親が多いということだ。
犯罪の増加ということは、先進国ならば一様に同じ問題を抱え込んでいると思うが、その根本原因はやはり人口の増化現象なのではなかろうか。
人口が少ない時は人はまばらに散らばって住んでいたが、人口が多くなると必然的に狭いところに押し合いへし合い生活しなければならないわけで、そこに情報化の波が押し寄せてきたので、犯罪も一気に多様化してきたのであろう。
ここで憂うべきことは、如何なる国でも同じであろうが、知識人とか、進歩的文化人と称する人たちの人権擁護と称する物わかりの良い風を装った綺麗事のパフォーマンスである。
人を殺すというような悪事を働いた極悪人に、大人も未青年もその結果に区別があるわけがないではないか。
所業が同じならば、当然刑罰も同じであって、そこには年齢による差異はあってはならないと思う。
たとえ10歳であろうが、15歳であろうが、所業が同じならば刑罰も同じであって当然だと思う。
私に言わしめれば、犯罪というのは代々その人なりの血を引くものが犯すものであって、如何なる環境に置かれても、侵さないものは死んでも侵さないと思う。
親一人子一人の貧しい家庭でも、鳩山家のような裕福な家庭でも、犯罪を犯さない家系は、如何なる境遇に置かれようとも法律に触れるようなことはしないが、反対に犯罪を犯す家系は、貧乏であろうが金持ちであろうが犯す時には犯すものである。
世の中には意図せぬ犯罪というものも確かにあることはあるので、こういう場合には当然弁護士が被疑者の人権保護のために法廷で争うという場面もあって当然であるが、確信犯ともなれば被疑者の人権のことを考える必要は全くないと思う。
犯罪を犯すということは、法や世間の倫理に対する認識の甘さにあるわけで、人にいくら迷惑をかけても自分さえ良ければそれで由とする心の中にある。
こういう心根の持ち主は、それこそ貧富の差を越えてまんべんなく大衆の中に存在している。
特に年若い未成年の犯罪は、こういう精神構造を形作っていると思うが、これが成熟した大人の犯罪となると男女の心の葛藤の結果としての怨恨や怨嗟の感情が入り込んでくるわけで、犯罪も多様化するということになる。
人間の社会というのは、如何なる国家でも如何なる民族でも日夜進化しているわけで、21世紀の我々の姿というのは、半世紀前には想像もできない有様を呈している。
犯罪を追う刑事たちが靴をすり減らして歩き回っている間に、若者の情報化は急速に進化して、古い世代の刑事には想像も出来ない犯罪の進化が起きているものと想像する。
今の中高生はコンピューターを自由自在に酷使するのに、世代の古い刑事がキーボードにも触れないという状況では、真に新しい犯罪に対応しているとは言い切れない筈である。
同じ犯罪を犯しても、被疑者の年齢によって刑罰の科料に大きな差があるというのは、実に不思議なことで、未青年だから将来の隗俊と再起を期待して寛大な措置をするというのは、実に耳触りの良い綺麗事の言辞であって、若くして法を犯すような人間が、将来普通の平穏な市民になるということはあり得ないと思わなければならない。
そもそも犯罪を犯すということは、本人のモラルに欠陥があるわけで、持って生れたモラルの欠如が、更生施設に居る間に是正されるなどということはありえない。
そういう施設で更正されるものであれば、そこに入る前から自助努力で、道を踏み外さない努力をする筈である。
問題は、そいう若者が一生懸命道を踏み外さないように努力していても、それはメデイアとしては全くニュースバリューがないわけで、犯罪を犯した若者こそメデイアにとっては報道に値する飯の種になるのであって、その犯罪を微に入り細にわたって解き明かすことこそ、メデイアの存在価値を示すものになる。
すろと、その次の世代が、そういうものを参考にして新たな手口を考案するという、悪の循環が起きるわけである。
そこで良心的な人が「そういう犯罪の報道を控えてはどうか」と提案すると、世の中の進歩的と称する偽善者達がよってたかって「報道の自由を侵す」とか、「知る権利を犯す」と反撃に出るわけで、取り締まる側もその世間という見えない圧力に屈して波風を立たたせないように、委縮してしまって、犯罪をのさばらせてしまうということになる。
世間をバックにしたメデイアは極めて無責任な存在であって、犯罪が多くなれば警察の尻を叩き、警察が強引に犯罪を抑え込もうとすると、権力の横暴と吠え立て、被疑者の人権ばかりを声高に叫び、殺された側の人権は無視するのである。
メデイアの報道することは、それこそ犯罪予備軍にも平等に公平に行き渡るわけで、気の利いた犯罪者は、そこから自らの手口をもっともっと効率の良い手法に進化させるのである。
21世紀の日本では、人権擁護のことさえ大声で叫んでいれば、その人が善人と見られがちであるが、その善人が蓋を開けると偽善者であったということが往々にしてあるので注意が肝要である。
青少年の犯罪は彼等の親の責任なのだから、本人はもとより親の方もそれ相当の刑罰を考えるべきではなかろうか。

「大国日本の幻」

2009-11-26 07:27:40 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「大国日本の幻」という本を読んだ。
著者は塩田潮という人だ。
この人、以前、田原総一郎の「朝まで生テレビ」に端役で出演していたような気がするが私の勘違いかもしれない。
相当に分厚く、読み通すのに難儀したが、特に前半が面白くなかった。
というのも、日本が如何にバブル経済に嵌り込んでいったかという過程を縷々述べようとしているので、その間の日米の関係や、大蔵省の対応が数字を根拠にして事細かく記されていたからである。
それに比べ後半はそのバブルの経済に踊った人達の具体的な例が述べられているので、興味深く読み進むことが出来た。
日本がなぜバブル経済に嵌り込んでいったかという設問は、その前の戦争に何故嵌り込んでいったかという設問と全く同じ軌跡を問うものだと思う。
我々が何故ああいう大それた戦争に嵌り込んだか、我々は何故バブル経済に踊ったのかという設問は、我々の民族の生き方そのものを問うものだと思う。
戦争に嵌り込んだ我々は、結果としてそれに完膚なきまでに敗北した。
バブル経済に踊り狂った我々は、結果としてバブルがはじけたその後長期的な不況に悩まされているわけで、右肩上がりの経済成長が途中で折れてしまったわけである。
経済の問題に関していえば、人の生存にとって常に右肩上がりでなければならないが、問われるべきはその傾斜の度合いである。
言い換えれば人間の欲求、あるいは人間の欲望の節度の問題だと思う。
なだらかななだらかなゆるい傾斜の右肩上がりなればそれは許容されるが、一気に急角度で欲求を満たそうと思うからそれが瓦解してしまうのである。
日本があの未曽有の戦争に嵌り込んだ真の理由を解き明かそうとした人は数多くいようとも、その理由を確定した人は未だにいないわけで、百人百様の理由が巷に氾濫しており、私も私なりの自分で思いついた結論をもっている。
私に言わしめれば、日本が戦争に嵌り込んだ真の理由は、貧乏からの脱出であったと考えている。
昭和初期に日本の置かれた状況は、世界的な視野で眺めて見れば、世界の5大大国の1つに仲間入りしていたが、その実情は日本国民の全部が西洋列強に比べれば貧乏であったわけで、貧乏であったればこそ、下々の貧民層は軍隊に入って立身出世を志し、故郷に錦を飾ろうという深層心理を抱いたものと推測している。
この時、同じように貧乏からの脱出を願っていても、学業を納めてそれによって立身出世を目指すという道も当然あったが、その道を選択できるのは限られた人たちであった。
真に貧乏な人は、そういう道を選ぶことが出来ず、授業料を払わなくても済む軍人養成機関になだれ込んだ。
ところが、この時代の軍人というのは、その実績からして、非常に社会的ステータスが高かったわけで、人々の憧れの職業でもあったわけである。
ここで注意しなければならないことは、我々日本民族というのは、こういう社会的なステータスに極めて弱いという点である。
その時々の花形職業には若い人が雲蚊の如く群がるという意味で、戦前の職業軍人に俺らが村俺らが街の秀才が競って集まっていたではないか。
この本で主題である高度経済成長の時代にも、当時羽振りの良かった銀行、証券、保険業界に、日本の大学の優秀な学生が雲蚊の如く集まったではないか。
そして、そういう人達が日本を奈落の底に突き落としたわけで、これを一体どういう風に考えたらいいのであろう。
ただここで冷静に彼等の行動を考察すると、彼等が時の花形職業に憧れたもう一つ奥に潜んでいる深層心理を考えると、彼等が追い求めたものはいわゆる金であったと思う。
要するに、貧乏からの脱出願望であって、如何に労せずして経済的に恵まれ、人を見下げる立場に立ち、自己の欲求を満たすか、という浅ましさであったに違いない。
ただ貧乏人の中でも、頭の良い奴ほどプライドが高いわけで、「自分は金のために立身出世を目指すものではなく、あくまでも天下国家のために奉仕をするのだ」というポーズをとって、自分の下賤な本音をカモフラ―ジュしていたと私は見なす。
当然、例外もあることは十分承知しているが、一、二の例外が問題なのではなく、その他大勢の大部分がそういう心理であったということが大きな問題なわけである。
人の織り成す社会、あるいは民族、あるいは国家というものは、サインカーブのように浮き沈みがあって当然だとは思うが、サインコサインカーブのあるうちはまだまだ健全な状態だと思う。
これが一方的な右肩下がりでなければ由としなければならないが、民族なり国家なりが繁栄の頂点を極めれば、後は下り坂にさしかかるのも当然のことで、それは世界の歴史が如実に示している。
「歴史の教訓」という言葉があるが、民族なり国家なりが下り坂を転げ落ちる研究というのはあまりなされていないのではなかろうか。
民族なり国家なりが下り坂を転げ落ちるときというのは、それに対抗する新勢力が勃興しつつあるわけで、世の歴史家の目というのは、その新しい勢力に注がれてしまって、滅びゆく勢力に対しては関心を持たなくなってしまうのではなかろうか。
イギリス、オランダ、ポルトガルという勢力は、大航海時代には覇者を競っていたが、今これらの国は成熟しきったという意味で、あまり世界の動向に影響力を示していない。
ある意味で忘れ去られたという感がするが、その中の国民の側からすると、落ち着いた生活が出来、自分の人生を真にエンジョイ出来る環境に置かれているのかもしれない。
本当の意味で、成熟し切った国家、あるいは民族ということが言えているのかもしれない。
それに引き替え、日本、アメリカ、中国という国々は未だに野心満々で、追いつき追い越せという掛け声て以って前に突き進んでいる有様である。
国の存在の意議は、その枠の中で生きる人間の欲求を如何に満たすか、ということに尽きると思う。
その枠の中で生きる一人一人の人間が、あまりにも大きな欲望を持って、それを実現させようと行動したとすれば、必ずどこかで従来の規範と衝突する。
従来の規範とぶつかったとき、そこで身を引いてしまえば進歩はないわけで、それを乗り越えて、一つ一つ殻を破って前に進むから進歩があるのであって、従来の規範と衝突した時、どういう風に振舞うのかという点が教養・知性・理性・道徳・学識・経験の問われるところである。
あの戦争の時、中国の南京を攻略した日本の将兵が中国人に対して無為な殺傷をしたことは、その数の問題は脇においても事実だと思うが、その一事でもって日本軍は残酷で無慈悲な民族だ、という言辞は当たらない。
もう一方で、日本の飛行機で沈められたイギリスの軍艦の乗組員を、日本海軍が救助したという事実もあるわけで、これはどちらも事実である。
地上戦で敵と対峙した時の在り様、海で同じ海に生きるもの同士助け合うという場面、この二つのケースが同じ日本人の行為であったわけで、こういう究極の状況では上に立つ人の教養・知性・理性・道徳・学識・経験の本質が如実に表れるわけで、その両方が我々の先輩諸氏の行いであったわけである。
この本の主題である経済の場面でも、こういう状況は往々にしてあったと思うが、日本の知識人は、自分達の教養・知性・理性・道徳・学識・経験の本質を語ることが少ないと思う。
考えても見よ。この本の後半で語られている銀行、証券、保険業界の堕落は、無学文盲の輩の行いではないわけで、いずれも優秀な大学を優秀な成績で卒業した優秀な人達の行いであった筈で、ならば彼等がそれまでの人生で得た教養・知性・理性・道徳・学識・経験は一体どこに消してんでしまったのかといわなければならない。
これは先の戦争で、俺らが村俺らが街の秀才が集まった海軍兵学校あるいは陸軍士官学校の卒業生が、完膚なきまでに負ける戦争を指導した構図と瓜二つではないか。
日本を奈落の底に突き落とすまでに貶めた人たちは、馬鹿や阿呆ではないわけで、一人の人間としては極めて優秀であるべき人たちが、組織として行動すると何故に同胞を奈落の底の突き落とすような事態を引き起こすのであろう。
ここを掘り下げると、日本人の民族の特質にまでに至ってしまうが、私に言わしめると、巨大な組織は、その組織自体が小宇宙を形作ってしまって、その周りの人や、状況、環境というもののことを失念してしまって、官僚の官僚の為の官僚の行為というものになってしまうということではなかろうか。
自分が国民の為に存在しているのだ、ということを忘れてしまって、組織の為に存在しているのだから、組織温存の為には世間の常識など眼中にない、という状態に陥ってしまうということではなかろうか。
旧軍隊も、戦後の巨大企業の組織も、極めて官僚的な組織なわけで、組織の一員になってしまうと、自分の存在位置が見えなくなってしまって、外の世界の関係が消滅してしまって、小宇宙の中だけしか思考が廻らないのではなかろうか。
旧軍隊の指揮官や指令官の任命の基準にしても、作戦の遂行に適しているかどうかという価値観よりも、学生時代の席順や成績順に選抜するというバカげたことが行われていたわけで、これでは「戦争を何だと思っているのか」と言いたいではないか。
経済がバブル化していく過程を見ると、自分の信念でもって投資をするという場面は少なく、人の振り見て我が振り直す、あるいは横並びの安心感、あるいは「あいつがやれば俺もやる」という付和雷同によるものが大部分であって、その無責任体制が行きつくところまで行きついたということだ。
憂うべきことは、あの時期、銀行や、証券や、保険会社が素人をバクチに引き込んだという点である。
この業界のやり口というのが、ヤクザが賭博で素人をカモにする手法と同じで、最初に甘い汁を吸わせておいて、後で身ぐるみはぐのと同じである。
要するにマネーゲームであるが、そのマネーゲームを銀行や、証券や、保険会社が煽ったという所に、経営者のセンスが問われるべきであるが、その当時はこういう声はいささかも無かったわけで、バブルがはじけて初めてそれに気づくというのはあまりにもお粗末だと思う。
人間が自己の欲望を満たすために粉骨砕身努力する姿は素晴らしいが、その欲望がただただ金儲け、マネーゲームであったとすれば、あまりにも虚しいではないか。
金はいくらあっても邪魔にはならないが、一かどに高等教育を受け、教養知性も並み以上の備えた人が、金を追いかけまわしている図というのは、大人の姿としてはあまり褒められたものではない。
銀行から金を借りて、それで土地を買って、その土地を転売して、値上がりの差額分を懐に入れると言うのは商売の王道であるが、それをゲーム感覚で行うという所が、その人の奢りの部分であって、世の中を舐めた態度である、という点に本人が気が付いていないところが野蛮そのものである。
銀行から金を借りるところからして、並みの人間ならば何処からいくら借りて、それを如何に返すかということで、悩んで悩んで悩み抜いて決断したものが、たまたま運良く値上がりしたというのならば、堅実な商売であるが、金を借りる決断も、貸す側の決断も、あまりにもイージー過ぎるというのであれば、まさしくゲームそのもので、いずれ破たんすることは目に見えていた筈である。
ところが、それが見えていなかったということは、如何に当事者の目が腐っていたかということに尽きる。
普通の常識人が普通に考えればありえないことが頻繁にありうるということは、その小宇宙の中では、普通の常識が通用しないということであって、その小宇宙が行き詰まって初めて普通の常識の世界に舞い戻ってきたわけである。
その時にはもうその組織そのものが消滅の時である。
戦前の日本の軍隊も、戦後のバブル期の巨大企業も、皆同じ轍を踏襲しているわけで、その組織の中にいた人たち、経営トップではない普通の人達は、どういう気持ちで自分達の職場を見ていたのであろう。
個人でマネーゲームに興じて、大儲けをし、また大負けをしたとしてもそれは自己責任であって、何ら咎められるべきものではないが、これが組織ぐるみで投機に失敗して会社が潰れたでは、泣くに泣けない心境だと思う。
組織というからには、それに属する人の数というのは一人や二人ではない筈で、当然のこと有名大学を出た立派な人が掃いて捨てるほどいたはずなのに、それなのに組織ぐるみで道を踏み外すということは一体どういうことなのであろう。
「船頭多くして船山を登る」ということがあるが、組織というからには頭が二つ三つもあるわけではなく、基本的にはトップの考え方次第の問題ということではなかろうか。
普通の常識では、トップは確かに一人であるが、その一人のトップはブレーンを抱えていて、ブレーンのアイデアの中からトップが一つの道を選択すると考えるのが普通の人の普通の意識だと思う。
組織全体が道を踏み外すということは、組織の上層部に普通の常識が通用していないところがあったとしか言いようがないが、こういうことを考えると、有名企業が倒産するなどということは不思議でならない。
しかし、この場で言うところの普通の常識というものが、言葉の重み以上に需要だということであって、その普通の常識の中には、普通の人間が心の中に思い描いている潜在意識としてのモラル、人倫の概念、世のため人のために尽くすという奉仕の精神を欠いているのではなかろうか。
バブルに踊った企業の経営者というのも、その大部分は戦後の教育を受けた世代だと思うが、こういう民族の潜在意識が変わる時というのは、教育の効果というのは全く無力で、高等教育が人々の心を豊かにするということは、全く期待できないということである。
やはり民族の潜在意識としての心の在り様、心の豊かさ、真の心根の優しさというものだと思う。
我々の民族の存続そのものの中に、我々の民族の真の心の在りようがきちんと蓄積されており、心優しき人もおれば、その対極には「人がやれば俺もやる」という付和雷同によって残酷な行為を良心の呵責を感ずることなく行う同胞もいるのである。
その両方を抱え込んでいるのが我々の同胞である。

「アメリカ軍が日本からいなくなる」

2009-11-21 06:33:03 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「アメリカ軍が日本からいなくなる」という本を読んだ。
著者は日高義樹氏である。
氏に関しては、テレビの「日高義樹のワシントン・レポート」という番組をよく見ていたので、その範囲では全く知らないというわけではない。
彼は何時もアメリカ軍の空母や原子力潜水艦を取材して、その場からレポートをしていたので、軍事評論家とみまごうばかりである。
この本も表紙にアメリカ空軍のSR71の機体がドンと出ているので、軍事的な内容かと思ったが、その実情はアメリカの政治を語るものであった。
彼の所属する組織がハドソン研究所の主席研究員という立場から、アメリカの政治の状況をつぶさに解析している。
ただ惜しむらくは、この本の発行が2004年となっていて、かなり古いところが難点であって、約10年前の彼の予測は必ずしも当たっているとは言い難い。
しかし、予測は外れていたとしても、その基にある底流に対する所感が大きく間違っているわけではない。
この本のタイトルから想像すると、この本の内容も軍事的な記述が多いように思われるが、内容的には政治の場面が大部分であって、政治と軍事は硬貨の表裏をなすものという意味からすれば、表紙のタイトルと写真が場違いなものではない。
我が国も今年の9月には民主党政権に様変わりしたが、鳩山首相も、岡田外務大臣も、北沢防衛大臣も国際政治というものに対する認識が極度に甘いと思う。
少なくとも外交と軍事が表裏一体のものである、という認識には至っていない。
政治、外交、軍事というものは別々には論じれないものであって、これらは三位一体として存在するものだと考えなければならないが、そういう思考にはなっていないのが民主党という政党である。
今まで政権を担うという経験がないものだから、常に政府、自民党のすること、なすことに反対だけしておれば存在価値があるとみなされていたので、自らがそれを担うとなると心構えが出来ていないという状況にある。
沖縄の普天間基地の移転の問題でも、既に日米間で約束が成ったものを再び再検討するなどということは、約束の白紙撤回を求めるのと同じなわけで、成熟した大人の思考ではありえない。
国家と国家がお互いに了解し合って約束したことを、その最初のボタン掛けの場面まで戻って、再検討するなどということが許されるわけがないではないか。
沖縄の県民の気持ちとしては、基地など如何なるものであっても、沖縄から撤退してもらいたい、という感情は当然至極な話であって、議論するまでもない事である。
そういう中で日本政府と、アメリカ軍と、沖縄の地元がお互いに譲り合って、ミニマムの次善策として移転案が出来上がったわけで、だからと言ってその案が沖縄県人が心から満足するものでないことは自明のことである。
沖縄の人たちにすれば、如何なる基地も沖縄から出て行ってもらいたいのが究極の願望であるが、交渉事には相手があるわけで、最大限の妥協で以って、一旦は了解案が出来上がったわけである。
民主党が沖縄の人々の感情を斟酌するというのは政党として当然のことではあるが、自民党が決めた案だから最初から見直して沖縄の人々の同情を得ようという思考は、あまりにも稚拙だと思う。
人気取りのための良い子ぶっている姿でしかない。
政権与党ともなれば、国民から嫌われる施策も推し進めなければならないわけで、沖縄の一部の人の利益と、日本全体の国益、ひいてはアメリカの極東戦略とも深くかかわり合う施策をも考慮に入れなければならない状況も多々あると思う。
その時に、人気取りにだけに専念して、日本全体の国益や、同盟国との信義を問われるような施策であってもらっては困るのである。
民主党は政権をとるためのマニフェストがあまりにも綺麗ごと過ぎたので、普天間基地の問題も、それを再検討するということで沖縄の人々の関心を得ようと試みた結果である。
そもそもアメリカの極東戦略にコミットしようという発想そのものが、政治、外交、軍事の三位一体という概念の欠如を晒しているわけで、公民館をあそこに作るここに作るというレベルの話ではない。
民主党政権の首脳たちの発想は、基地の移転も公民館の移転程度の認識しかないわけで、その程度の認識で沖縄県民に良い格好を見せびらかす狙いとしか受取れない。
普天間基地というのはアメリカ軍の将兵が血を流して占領した基地なわけで、にもかかわらず沖縄県民の意向を斟酌して、最大限の妥協でもって移転案が出来たわけで、それを最初から検証し直すということはアメリカ側にしてみれば我慢ならない事だと推察する。
アメリカ軍の傾向としては、世界各地に大きな基地を展開して、そこへの補給を密にして、敵と戦うという考え方は大きく後退していることは事実であろう。
それはアメリカ軍が自らの判断で時代に即した最も効率的な部隊配置を模索しているということであって、日本の民主党が「基地を引き上げてくれ」と言って「はいそうします」という安易なものではない筈である。
沖縄からアメリカ軍の基地を一掃しようとするならば、まず最初に日米安保条約を解消し、日本の自主的な国防軍を創出し、自分の国は自分で守るという体制を作らない限り、それは実現しない話である。
日米安保条約に固執しつつ、日本の防衛をアメリカの委ねておきながら、「基地だけは置いてくれるな」では、話が通らならいことは誰が見ても明らかだ。
鳩山首相、岡田外務大臣、北沢防衛大臣の言っていることは、突き詰めればこういうことなわけで、発想の段階ですでに無理があり、その無理を承知で沖縄の人々に「良い格好しい」という態度で振舞っているから混迷をきたしているのである。
盲人が像を撫ぜるという表現があるが、ゾウの鼻の先を触った人、ゾウの尻尾を触った人、ゾウの胴体を触った人、それぞれに触った感触は事実であり真実であるが、それを全部合わせたとしてもゾウの本質を知ったことにはならない。
今までの民主党の人々は、それぞれに平和主義者を自認して、鼻の先を触ったり、尻尾を触ったり、腹を触ったりしてそれぞれに平和を唱えているが、それはあくまでも政治、外交、軍事の三位一体という概念の一部に過ぎないわけで、ただただ人気取りで沖縄県人の評価を得ようとしている姿が今日の民主党政権の在り体である。
63年前、我が祖国がマッカアサー元帥に占領されたとき、彼は「日本の政治は12歳の子供の政治だ」と言ったといわれているが、まさしく12歳の子供の政治から一歩も進化していないではないか。
ただただ人気取りで、綺麗事を並べて、聖人君子ように振舞っているが、現実はそんな生易しものではなく、血で血を洗う生き馬の目を抜く国際政治の現実から目をそらしているのが今の鳩山政権である。
話は飛躍するが、日高義樹が見るアメリカというのは、日本のメデイアの論調とはいささか異なっている。
息子の方のブッシュ大統領を非常に肯定的に捉えており、日本のメデイアがブッシュ叩きに足並みをそろえているのとは少しばかり違った視点で見ているところが興味ある部分だ。
という彼のブッシュを見る目というのは、ブッシュ大統領はアメリカの為にイラク戦争を遂行しているという論理で、今までのアメリカ大統領というのは、世界の警察官としての振る舞いであったが、ブッシュは世界の警察官たる立場を放棄して、アメリカの為のイラク戦争という捉え方をしていると説いている。
だからこそ国連の決議があろうがなかろうが、アメリカはアメリカの国益のためにイラクで戦争をするんだという態度であると結論付けている。
だからフランスやドイツが賛成しなくとも、アメリカ一国で堂々と、正面から事を成すのだという論理であるが、こうなるとの日本のメデイアは、そういうアメリカに批判の矢を集中的に浴びせるわけだが、ブッシュにとっては他国の批判など痛くも痒くもないわけで、猫に小判、蛙にションベン、馬の耳に念仏ということになってしまった。
アメリカが国連の言うことを聞かないといったからと言って、常任理事国がアメリカに対して何か制裁を加えることもできないわけで、国連というものはブッシュ大統領の前では完全に無力な存在だということだ。
考えてみれば、国連の理念というのは、先の第2次世界大戦の反省材料が根底にあるわけで、それから63年も経過したので、軍事的な、戦略、戦術その他あらゆる環境が大きく様変わりしてしまっている。
アメリカはその様変わりを現実のものとして世界に周知してしまったということだ。
イラクのバクダットを攻撃するのに、東京空襲やベトナム戦争の時のような絨毯爆撃などしなくても、ピンポイントで相手の標的を確実に破壊するシステムを構築したわけで、それは極めて効率的な戦争の合理化を達成したということである。
他国の支援などなくとも、アメリカ一国で十分効率的な戦争が遂行できるということを端的に示している。
だからこそ、国連の決議などなくても、アメリカはしたいようにすることが出来たわけである。
それは60年前の戦争の概念を大きく越えた振る舞いであったわけで、ヨーロッパのフランスもドイツも、そこまでアメリカの本質を見抜けなかったということである。
アメリカの軍事的な技術革新は、63年前のような絨毯爆撃を過去のものとしてしまって、潰すべき標的を確実に壊すことが可能になったので、他国と連携しなくともアメリカ一国で十分戦闘が可能になったのである。
昨今では、国家と国家がぶつかり合う正面戦争は双方で回避するようになってきたので、アメリカの戦争の目的はテロとの戦いにシフトしてきたわけだが、このテロとの戦いというのは極めて由々しき問題である。
テロとの戦いになってきたからこそ、攻撃がピンポイントでなければならなくなったともいえるわけで、その目的に沿って軍事技術が進化して、それに合うようになってきたといえる。
こういう展開はアメリカ以外の国にではありえないわけで、ヨーロッパがいくらアメリカの国連を無視した単独行動を戒め、それを思いとどまらせようとしても、アメリカは聞く耳を持たなかったわけである。
それを推し進めたブッシュ大統領というのは、アメリカ国内のリベラル派からも批判され、ヨーロッパからも批判されたが、ブッシュは断固自己の信念を押し通したという面で、日高氏は彼を評価している。
この評価は日本のメデイアの見解とは相容れないものであるが、その意味でも日本のメデイアは横並び、護衛戦艦、付和雷同、人の振り見て我が振り直す、自主性のなさ、そういうもろもろの日本人の特質を見事に引き継いでいる姿に映る。
人と同じことをしたり言ったりすれば一番無難なわけで、その一番安易で安楽な評論を掲げているということになる。
アメリカという国が軍事技術の革新に成功を収めたとなると、日米安保の在り方にも大きな変革が表れてくるかもわからない。
今のところ日米双方とも日米安保条約は今まで通り堅持していくというポーズを示しているが、アメリカがアメリカの国益の観点から、外国にある基地を整理しようとなると、当然のこと日本にある基地の維持も、先行き安泰かどうかはわからないわけで、沖縄のように地元の人が基地の存続を望まないということがはっきりすれば、アメリカはさっさと手を引くことも考えられる。
アメリカはアメリカの国益で動いているわけで、沖縄に基地を置くことがアメリカから見て損得勘定が合わないとなれば十分にありうることである。
さてそうなったとすると民主党政権、鳩山首相は真から喜んでおれるかどうかである。
アメリカが日米安保を解約すると言いだしたならば、日本は直ちに自分の国を自分で守る体制を作らなければならないが、戦争音痴の今の政府首脳にそういう時のアイデアがありうるであろうか。
当面は自衛隊があるからと思われそうであるが、自衛隊の戦力などというものは、本格的な戦闘ともなれば、せいぜい3日間くらいしか持たない筈で、後は占領のされっ放しということになる。
今の日本の成人の99%が戦争音痴なわけで、銃器など触ったこともない人達が大部分で、そういう人たちが集まったとしても到底自分国を自分で守るなどということはあり得ない。
我々は戦後63年間もアメリカの日米安保という傘の下でのうのうと経済発展を享受してきたわけで、アメリカの軍事技術の革新で日本の基地などいらないともなれば、鳩山政権は如何なる対応を考えているのであろう。
こういう危機管理はどこの国でも秘密裏に策定しているのが普通であるが、我々の国はそういうことを考えるだけでも平和を乱すという安直な思考でもって取り行って来なかった。
何か事が起きた時は国連に提訴すれば国連が解決してくれると、無邪気に国連を信頼しているが、アメリカは国連を無視しての単独行動を厭わないので、国連からアメリカが抜ければもう国連の信頼と行動力は無に等しい。
国連としての意味をなさないということである。
民主党政権、鳩山首相、岡田外務大臣、北沢防衛大臣、そして沖縄県人が心からアメリカ軍の沖縄撤退を喜べるかどうかである。
今の日本の政府首脳もその大部分が戦後生まれの者で、戦争というもを真剣に考えたことのない世代である。
生まれ落ちた時には既に戦争は終わっていたので、戦争のイメージというのは、人から聞く話か、書物から得た知識に過ぎない。
そして戦後の日本の教育の中では戦争というものは悪い事だからというわけで、その中身についても、その意義についても、その歴史についても、自分の国を自分で守るという概念すら教えられることなく成人に達してしまったわけで、完全なる戦争音痴になってしまっている。
平和というものは戦争の対極にあるわけだが、戦争の本質を知らないものだから、平和の本質もわからないわけで、ただただ平和、平和と念仏さえ唱えておれば、平穏な生活は未来永劫続くものだという認識でしかない。
平和というものは水や空気と同じで、タダだと思い違いをしており、自分さえ相手に暴力をふるわなければ相手も自分に刃向かってくることはない、と固く信じている節がある。
ところが、これは如何に人間の本質に無知かということを世間に晒しているようなものである。
ブッシュ大統領はアメリカ国内においてもアメリカの進歩的な人々、リベラルな陣営から大きな批判の嵐に晒されたが、彼は断固自分の信念を押し通して、リーダーシップを発揮してアメリカの国益を擁護したわけで、それは言い方を変えれば彼は世界の警察官としてのプライドを放棄したともいえる。
国連という仲良しクラブから決然と間を置いたことになる。
多少の犠牲を払っても、自分の信念を押し通して、アメリカの国益を守るという態度は、大統領にふさわしい行動力だと思うが、そういうものが日本の政治家にあるだろうか。
鳩山首相の普天間基地の問題は、沖縄の人にも、オバマ大統領にも、良い格好を見せびらかそうとする軽薄なパフォーマンスにすぎず、それゆえに日米の双方で逆に不信感が噴き出た状況になっている。

「ジャパニーズ・マフィア」

2009-11-20 07:30:34 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ジャパニーズ・マフィア」という本を読んだ。
サブタイトルには「ヤクザと法と国家」となっていたが、まさしくその関係を深く掘り下げたものであった。
ところが、それを外国人が行ったという点が極めてユニークだ。
この本は外国人の視点から日本の裏社会を見ているわけで、その意味ではこういう裏社会というのは如何なる民族、あるいは如何なる国家にも内在するものであるということであろう。
無理もない話で、人間が集団で社会というものを構成する限りにおいて、表の社会と裏の社会というのは必然的に出来上がるということであろう。
表の社会というのは法を基準として、法に支配されているからこそ人々は枕を高くして生きておられるわけだが、その法の規範に当てはまらない、あるいは法の枠内に収まりきれない事態というのは、当然ありうるわけで、そういうものが集まってしまうと裏社会というものが必然的に出来上がるということなのであろう。
ただ、その裏社会では法が規範になり得ないので、その社会を取り仕切るものが暴力ということになってしまう。
人間の基本的な生存のルールは、太古においては暴力そのものであった筈だ。
私の持論である論理からすれば、人間の生存競争というものは、端的に言えば暴力に支配されていたものと考える。
我々はそれを戦争とか武力抗争という言い方で表しているが、それらは要するに国家が認め合った暴力そのものであって、綺麗事ではなかった筈である。
ただ人間は自分が常に正しい人間でありたいと願うあまり、国内向けにはそれを戦争とか安全保障という言葉でカモフラ―ジュしているに過ぎない。
正しい人間としては、常に法を順守して、法の枠内で生きるということが正しい人間の正しいモラルとして認識されているので、その法の網を潜って法の裏側で暴力で以って人々を支配する行為を野蛮なものと考えるに至ったものと推察する。
近代国家は如何なる国でも法律が整備されて、人々は法の枠内で経済活動あるいは生活を営んでいるので、身近なトラブルは公権力による法の施行で以って解決するのが正常な社会秩序であると思い込み、そうあるべきだと日夜勤めているが、それはあくまでも正常な精神の持ち主が、公明正大に明るい太陽のもとで生きている時の話であって、そういう基では上手に生きれない人も多々あり、そういう人が集合すると、裏社会の勃興という事態を招くものと考える。
公明正大な明るい社会の中で法を順守して生きるということは、言うは易く行うは難しで、案外生きにくいものである。
特に、資本主義体制のもとでは普通にルールを守り、法を順守しつつ、尚且つ、自分の金銭欲を満たそうとすると、そう安易には成就しないわけで、それを手っ取り早く実現しようとすると暴力を厭わず、他人の迷惑を顧みずに単刀直入に切り込むほかない。
そういう人たちを総称して「無頼の輩」というわけであるが、マフィアというのはこういう人達の社会のことである。
こういう人たちも、民族の枠を超え、国家の枠を超えて太古より存在し続けているわけで、表社会で生きる人間にとっては、そういう人たちを抑え込んでおきたいのは山々なれど、これも人間社会の進化とともに、そういうグループの方も共に進化しているわけで、人間の生きる領域というのは表と裏の二重構造になっているということなのであろう。
人間の社会が裏と表の二重構造になることは、人類という種の普遍的な行動パターンだと思うので、これは何時の世にも何時の時代にもあったわけである。
とはいうものの、その精神の在りようも大きく世代の変化を反映しているので、時代と共に進化している。
表社会の為政者は、それを上手に使い分けて人々を統治できた時もあったが、基本的には表社会から裏社会を見る時は、ある種の拒否的な視点で優越感を持って眺められていた。
そして裏社会の方も分をわきまえて、お互いに利益を分かち合い、共存すべく努力をした時期もあったが、世の中が相対的に進化すると、そういう関係も希薄になり、精神的な堕落が双方で起きてきた。
昔のヤクザは素人衆には手を出さない、堅気には迷惑をかけない、というのが彼等の基本的なモラルであった。
モラルであると同時に、彼等の裏社会の誇りでもあり、同時に粋な振る舞いでもあったわけだが、この規範も大きく崩れ、今では素人衆も堅気も見堺なく、金儲けの標的にする、というのが現代の裏社会の生き様になってしまった。
まさしく「仁義なき戦い」なわけで、この「仁義なき戦い」もある意味では、表社会のそれが裏社会にも浸透していったということも言える。
今から30年か40年前、安保闘争華やかりころ、角棒を振り回わして世の中をよくしようとする阿呆な全学連が暴れまわっていたが、その一方でヤクザ映画が繁栄した。
それは全学連という阿呆な集団と、ヤクザ映画を見る集団が同一人物であったわけで、言い方を変えると高等教育を享受しようとするインテリ―思考の者が、ヤクザというような裏社会にあこがれを抱いていたわけで、その後の経過として、こういう邪な思考の学生が裏社会に入り、その社会そのものがますます表社会と見分けがつかないようになってしまったということだ。
全学連というアホな連中が、反体制の象徴としてヤクザを英雄視していたわけで、こういう短絡的な思考持ち主が、全学連という無頼の輩の本質であったわけだ。
ヤクザの社会を映画というメデイアで描き出すということは、本来、表社会でまともな倫理感を持っている筈であるべき映画製作会社が、金儲け主義の具体的な行為として、ただただ金、金と、金を追い回すという「仁義なき戦い」を展開した図である。
表社会のオピニオンリーダーたるべき映画会社が、ただただ金儲けのために、裏社会の「仁義なき戦い」を描いて、表社会での「仁義なき戦い」を演じたわけである。
人々に大きな影響力を持つ映画会社が、裏社会を描いて金儲けにつなげるという思考は、明らかに表社会に対する「仁義なき戦い」「ノーマルなモラルに対する挑戦」であったわけで、金儲けのためならば何を描いても構わない、というアンチモラルな奢り高ぶった思考の表れである。
映画という巨大メデイアが、謹厳実直な模範的な人間だけを描け、と極論を言うつもりはないが、裏社会を英雄視してでも、金儲けに徹するという態度は、完全に資本主義社会の中での「仁義なき戦い」に翻弄され、毒されているわけで、そこには思考の上品さが欠け、モラルは低俗化し、教養知性が微塵も散見できない、という現代人の姿を見る思いがする。
同じ現象はアメリカでも起きていたわけで、例の「ゴッゴファーザー」という映画のヒットは、それと全く同じ轍を踏んでいると考えざるを得ない。
表社会であろうが裏社会であろうが、人が生きるということを真剣に考えれば、その行動は同じような状況を呈するに違いない。
人が生きるということは、他者と協力し合い、共存共栄を図り、適者生存の原則の中で生き抜くわけであって、そのためには組織を作り、それを維持しなければならず、それは社会の裏表とも全く相似形を形作っている。
ただ違うところは、表社会では法律が人間の行動の規範になっているが、裏社会では法を超越する掟もあるにはあるが、それよりも問題なのは暴力に対する価値観の相違だろうと思う。
法律に対する倫理観や、暴力に対する価値感の相違というものが、表と裏の社会を隔てる要因ではあるが、昨今ではこの壁が極めて低く、曖昧になってきたので、善良な一般社会人が裏社会の犠牲になるケースが増えて来た事は由々しき問題だと思う。
昨今ではもう表社会とか裏社会などという区分けは意味をなさないようで、立派な優良企業や著名人が、安易に犯罪に手を貸していることから考えると、表社会が正面切って健康で淀みのない公明正大な社会などといえない。
表社会といえども限りなく灰色に染まってしまっているので、表裏などという表現が成り立たなくなっている。
考えなければならないことは、我々はともすると綺麗事の言辞に安易に騙されてしまうということである。例えば売春である。
日本では戦後、婦人の参政権が認められた時点で、大勢の女性議員が誕生したが、その時「売春は悪い事だから」という綺麗事のフレーズで以って、売春禁止法が成立してしまった。
これは「不本意ながら春をひさいで生きる女性たちが可哀想だから」という建前で、彼女たちを救済するという綺麗事の理念でもって成立したわけであるが、実態はいささかも変わらない。
ただ売春という悪弊を断ったという自己満足に過ぎないわけであるが、こういうことは人間の深層心理をいささかも斟酌することなく、表面上の綺麗事の理念で以って推し進めた結果である。
それ以降というもの、表社会ではその取り締まりが大手を振って罷り通るが、裏社会ではその法の網を潜る知恵とアイデアが湧き出てきて、形態を変えて相も変わらず行われているが、闇行為であるからしてその傾向と対策はますます巧妙化している。
人間社会の進化は、基本的に人間の良い面を伸ばすのではなく、人間が己の欲望を満たすことを後押しする方向に向かうわけで、その行きつく先は、法律との衝突になる。
法律と衝突した時それで引きさがってしまえば、自己の欲望は満たされないので、その法律を何とか乗り越えようと努力することになるが、それは必然的にモラルの崩壊を招くわけで、こうなればなったで、それは名実ともに「仁義なき戦い」になってしまい、この表社会の「仁義なき戦い」が必然的に裏社会にも浸透してしまうということになる。
社会の裏表の本質の相違は、暴力が介在するかどうかの違いだけのことで、いわば西部劇と同じで、暴力が法を越えれるかどうかの違いでしかない。
法が暴力を抑え込んでいる間は、表社会が正常に機能しているということで、その隔壁があいまいになると、社会そのものが極めて不安定になるということである。
21世紀の今に生きている我々は、民主化ということを良き事と捉えて、人権問題や差別問題で、非常に寛容な態度を示すことが良き人というイメージでいるが、人権侵害という場合、普通の隣人と同じ行動パターンをとっていれば、人権問題にはならないが、個人の自由ということを前面に振りかざして、普通の人と異なる行動パターンを示すと人権侵害だとか差別だという論調になる。
この問題は、個人の自由と社会通念や社会秩序のどちらに価値を求めるかの立場の相違であって、表社会と裏社会の境界の線上にいるのと同じである。
社会が進化してさまざま技術革新で複雑な社会になると、表社会の進化と同じスピードで裏社会も進化するわけで、そうなればなったでヤクザの社会も非常に高度な知識や技能が求められ、表社会の進化に対応せざるを得ない。

「石原慎太郎の帝王学」

2009-11-17 07:44:03 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「石原慎太郎の帝王学」という本を読んだ。
石原慎太郎の東京都政を論じる内容のものであるが、それを帝王学とはいささか大げさすぎると思う。
石原慎太郎氏に関しては、私は好感度をもって眺めている方であるが、彼の東京の首都移転に反対という態度は、いささか腑に落ちない面がある。
この本の著者も、石原氏の政治感覚が極めてニュートラルだからこそ、帝王学とまで崇めているものと推察するが、その彼が「首都機能移転反対」では並みの地域エゴ丸出しと同列になってしまうではないか。
何でも新しければ良いというものでもないし、何でも変革すれば良いというものではない、こともよく分かっているが、今日の東京の在り体というのは、あらゆる面で飽和状態に達してしまっていると思う。
我々は俗に「東京への一局集中」ということを言うが、この言葉を使う時、その一局というのは「点」のイメージでとらえられていると思う。
ところが石原氏の頭の中には東京周辺を包括した面の広がりをもつメガロポリスというイメージでとらえており、そういう風に考えれば、わざわざ七面倒くさい首都の移転などしなくても済むという発想である。
これは日本の地方の首長が皆同じ思考にある地域エゴそのもので、自分の住むんでいる地域さえ良ければ、他の地域のことなど知ったことではないという発想の典型的な事例である。
この本によると、彼は現場主義で現場に足を運んで物事を解決するということがたたえられているが、現場主義で毎日公用車で都内を移動しておれば、東京の飽和状態のことが目に入らない筈がない。
ところが、これが世の中の常態であって、何処でもこうだと思い込んでしまえば、この現状を何とかしなければという思考は、沸いてこないのも当然である。
私のような戦後世代の人間は、電車は立錐の余地もないほど混んでいるのが常態だと思っていたが、よくよく考えてみると、それでは人間性が無視されているわけで、公共交通機関は乗る人が皆座って移動出来て初めて人間を人並みの扱いをする交通機関ということになる。
電車は混むものだという認識から抜けきれず、空いた電車では勿体ないという思考に陥っているとしたならば、その認識の方が間違っている筈である。
毎日毎日渋滞に巻き込まれて、世の中というのは全てこんなもんだ、という思いから脱し切れないから、現状のままでも何ら不具合はないという思考になるものだと思う。
毎日毎日慢性的に繰り返されている交通渋滞というのは、大きな経済的な損失なわけで、その損失は目に見えないので、何も損をしているものがない、と思う発想こそ大間違いである。
なお、首都移転というのは東京だけの問題ではなく、国家の問題でもあるわけで、突き詰めれば天下国家の話になる。
国の機関を何処に置くかということは、政治そのものであるが、我々の場合、それは明治維新以降、昔の江戸、つまり今の東京に置いたわけで、今はそれが世界的にも認知されてしまっていることは確かである。
明治維新で政府の機能を東京に集中させた、ということは当時の我々の先輩諸氏の大英断だったと思う。
あの時点では、天皇の居場所が京都であったとしても何ら違和感はなかったわけだし、政府のあらゆる機関の設置場所を天皇の居場所としての東京に持ってくる必然的な理由もなかったわけだし、にもかかわらず我々の先輩諸氏はそういう決断を行ったわけである。
天皇の居場所を京都から東京に移し、それと同時に国家の機関の全ての元締めを東京に集中させたということは、実に素晴らしい大英断だったと思う。
そしてそれはあの時の状況に見事にマッチしていたわけで、それは江戸時代という封建主義の世の中から、近代化や民主化の波を経て、資本主義社会を目指す初期の段階としては、その選択は見事に功を奏したが、21世紀の今日の東京というのは再び新たな挑戦に立ち向かうべき時に来ているのではないかと思う。
明治維新のときは、地球規模で帝国主義から近代的な資本主義に移行する過渡期であったので、その意味であらゆる地球上の人々が、右往左往とさまよったわけであるが、第2次世界大戦が終わり、それに引き続いた東西冷戦が終わってみると、地球上の人々は新たな試練を迎えたわけである。
その試練というのは、地球そのもののキャパシティ―が不安になってきたわけで、地球が今まで通りの人間の増殖に耐え得るかどうかが心配になって来たということだ。
その為に身の回りの環境に注意を払ってみると、今の東京の現状、つまりJRの電車が分単位に発着している有様、道路の慢性的な交通渋滞、こういうものは既に人間性に満ちた生活の枠を超えた現実であることに気が付いたわけである。
当然、こういう状況を打破するアイデアが湧いて出るのが自然の流れであって、それを阻止しようとうする思考は、後ろ向きの発想と言わざるを得ない。
一口に首都機能移転と言っても、まさに雲を掴むような話で、何をどうするというアイデアさえ出ていないが、今の東京が機能不全に陥っていることは確かだ、という現状認識は厳然たるものがある私は思う。
人間の思考として、現状を壊して新しいものを作るということは極めて大きな決断を要する行為で、勇気を伴う行為である。
よって、ともすると尻込みしたくなるのが普通であるが、やはり全体の幸福のためには、それを乗り越えなければならない。
我々は民族の特徴として、100年先200年先を読むということは極めて不得意で、目の前の事案をその場その場の状況に応じて対処療法で処していくという特質がある。
東京の拡大というのも極めてその路線を忠治にトレースしてきたわけで、一言でいえば何もせずに、なるようになった結果だということになる。
100年先200年先を見越してプランを作ると、「大風呂敷を広げる」という表現で、バカにされるのが落ちで、人々の賛同が得られない。
鳩山政権の予算の仕分け作業ではないが、100年先200年先を見越してプランを作ると、「無駄だ!」と言われ、「そんな余分な金があるとするならば他に回すべきだ!」と言われるわけで、これが我々の民族の基本的なスタンスなわけである。
だから我々には確たる計画にもとづく都市計画というのはありえないわけで、行きあたりばったり、その場その状況に合わせた対処療法でことをなしてきたため、出来上がったものは無計画、無秩序、無節操ということになるのである。
結果として、皇居を核として無限に横の広がりをもったアメーバ―の自己増殖のような有り体であって、それが県境を越えて、横へ横へと広がっていった。
このことは結果としてメガロポリスを形成してしまったわけで、その現実を勘案してそれをこの先も伸ばしていこう、という発想に至ったわけだが、これこそ見事な対処療法そのものであって、完全に計画性の欠如そのものを指し示している。
鳩山政権になって成田空港と羽田空港の一元的な運用ということが話題になっているが、これも話の始めは、羽田が満杯になって機能不全になったから、新しく成田に国際空港を作り、羽田は国内線専用にするというコンセプトであった筈である。
長い年月の間には時代状況も変わり、周囲の社会的な状況も変わるということは十分に理解しているが、この二つの空港を一元化運用するということは、成田空港が国際線として中途半端な存在であったからであって、この場において100年先200年先を見通しが甘かったということを如実に語っているが、その根底には反対運動を完全に制圧できなかったということも大きな遠因ではある。
空港に関していえば、石原慎太郎は横田の米軍基地の空域の返還を求めているが、これは至極まっとうな論理だと思う。
基本的には横田から米軍そのものが撤退出来ればそれに越したことはないが、それが簡単ではないとなれば、せめて空域だけでも日本の自由裁量権を大きくするという要求は、的を得た施策だと思う。
それもこちらの思うようにはいかないとなれば、せめて災害の時の総合的な協力体制の確立を得るところまで話を詰めるということは極めて有効な施策だと思う。
彼は極めて有能なアイデアマンのようにも見受けられる。
如何なる自治体でも、財政にゆとりの在る自治体というのはありえない筈だ。
そもそも予算を立ててあらゆる行政を施行する組織で、予算にゆとりが生ずる施策ということはあり得ないわけで、予算を立てる段階から、その予算を全部使い切ることを前提としていることから考えて、毎年毎年予算が余ってそれを積み立ててプールするということはあり得ないわけで、あらゆる行政組織で予算不足なのが常態なのである。
彼の場合、それを是正するために新しいアイデアを採用して、斬新な発想で以ってそれを克服したという点が従来の首長とは大きく違う面であった。
こういう新しい思考、新しいアイデアをひねり出すというのは、やはり個人の資質であって、その個人の資質を機材適所で発揮させる能力の源泉は、彼の知的好奇心のなせる技ではなかろうか。
人間の身体的な能力は、加齢とともに衰退するのが普通であるが、脳の働きだけは加齢とは別なものらしく、年齢には関係ないともいわれている。
つまり、我々のような凡人は、年をとるとその年にふさわしい行動を心掛けるように知らず知らずのうちに自主規制をしがちであるが、その自然の摂理に逆らって、身体も適当に動かし、知能も激しく働かせることによって年寄りという概念を吹き飛ばしているということなのであろう。
彼の生涯がそういうものであったということは、彼の生い立ちがそういうレールを用意していたということでもある。
田舎の貧乏人が苦学して社会の階梯を汗水垂らしたよじ登ったわけではない。
最近では氏素性という言葉は死滅してしまったが、現実には立派に生きていると思う。
ところが、本当の意味でそういうことが判る人が少なくなってきたのは事実であろうと思う。

「さらばアメリカ」

2009-11-15 07:52:10 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「さらばアメリカ」という本を読んだ。
著者は大前研一。
彼の顔はテレビにも登場するし、彼のコラムは週刊誌によく掲載されているので、そういう意味ではよく知っている人物であるが、彼もやはり戦後世代の知識人なのであろう、彼の論旨は極めて軽佻浮薄の感を免れない。
アメリカに留学したので、英語が得意なことは当然としても、物の根源を掘り下げた思考にはなっていないような気がする。
アメリカの一流の週刊誌、あるいは新聞、あるいはメデイアの書きたてていること、それらが口角唾を飛ばして言いたてていることの中から、目新しいキーワードを見つけてきては、さも自分のアイデアかのように振舞っているように見える。
私に言わしめれば「知に溺れている」という言い方が成り立つ。
なまじ英語が得意なものだから、英語のメデイアからの情報を鵜呑みにして、言葉の表層面のみを追い求めているような気がしてならない。
アメリカの没落は確かに現実の問題として誰の目にも明らかだと思う。
しかし、アメリカの強さはそういう波を幾度も経験してきたところにあるはずだ。
私は英語もろくにしゃべれず、21世紀においては無学文盲に近い人間であるが、だからこそ極めて単純明快なアメリカかぶれである。
アメリカという国を、自分の身の回りにあるメデイア、つまり新聞、雑誌、テレビ、映画等々から直感的に判断すると、どうしてどうして侮れない国のように見える。
20年程前、日本の高度経済成長華やかりし頃、日本企業がアメリカ企業を買収したことが大きく報道されたが、こういう日本企業の態度は明らかに「身の程知らず」というものだと思う。
だいたいが日本は有史以来日本列島に営々と生き続けてきたわけで、その意味ではアメリカのネイティブ・アメリカンと同じである。
ところがアメリカ・USAというのは、1783年のアメリカ独立戦争で初めて建国した国であって、今からわずか約230年前に出来た国である。
この約230年間に世界一の大国になったわけで、それは歴史がないからこそ大国になりえたと言わなければならない。
ここのところを我々は深く深く考察しなければならない。
約250年前、アメリカ大陸に渡った人は、ヨーロッパを食い詰め、伝統に打ちひしがれ、古い因習に辟易しそこから逃れようと、死を覚悟して大西洋を渡ったわけで、死をも恐れぬ気もちで新天地を求め歩いたので、新しい世界が開けたのである。
そのことは過去を綺麗さっぱり断ち切ったからこそ新たなエネルギーが蘇生したといえる。
悠久の歴史を抱えた国は大国に成り得ないが、歴史を持たない国は大国になり得るのは何故か、という設問の答えを探さねばならない。
地政学的に見たアメリカ大陸には、アジア大陸から移り住んだモンゴロイドのネイティブ・アメリカンという人々がいたわけだが、彼等はアメリカ建国のヨーロッパ人に追われて居留地に押し込められてしまった。
これはどういうことかというと、アメリカの国民というのは、人種の寄せ集めの集合だからこそ地球上で最強の国になりえたということを如実に示しているわけで、純粋培養の民族は淘汰され、人種のるつぼと表現される混合的な民族は、世界最強の国になり得るということを表している。
大前研一氏がアメリカの大学で勉強して、その結果としてアメリカの批判をし、アメリカの悪口を言いながらそれを飯の糧とすることを許しているアメリカの寛容さ。懐の深さ。
銃による犯罪が多発しているにもかかわらず、銃を規制しようとしないアメリカ社会の寛容さ、こういうものがアメリカの強さなのである。
これが我々日本人には理解しがたい点だと思う。
民主化の遅れた国ならば、祖国の悪口、政府批判をするものは即刻牢屋にぶちこまれるのが常態であるが、そうしない寛容さがアメリカの強さである。
確かにこの10年アメリカの経済は失墜して見る影もないが、この原因は明らかに経済人のモラルハザードにあるわけで、狂気の沙汰であることは論をまたないが、必ずその揺り戻しもくると思われる。
この地球上に住むすべての人が、教育とは良い事だ、高等教育は高ければ高いほど良いに違いない、という認識にを持っており、その信念は揺るぎない強固ものがあると思う。
ところが不思議なことに、世の中、あるいは社会を奈落の底に転がり落とすのは、こういう高等教育を受けた人たちであって、無学文盲の大衆が社会を転換させるようなことはあり得ない。
今回のアメリカの経済的没落の最大の原因は、サブプライムローンの破たんということが言われて、破たんを招くようなサブプライムローンを考案したのは、アメリカの高等教育を受けた銀行や証券会社の人たちであって、彼等の受けた高等教育は社会の安定や市民に対する奉仕になにも貢献していないということになる。
彼等の受けた高等教育は、個人の私利私欲の獲得にのみ貢献しているに過ぎず、その事がモラルハザードの原因であり結果である。
有名な、あるいは著名な銀行や証券会社の高級幹部が、貧乏人を騙す目的でサブプライムローンなるものを考え出し、その罠に嵌った貧乏人は当然ローンが払えず、その結果として銀行や証券会社も不良債権を抱え込むという形になったわけである。
そもそも貧乏人相手に金儲けしようという魂胆が間違っているわけで、金を儲けようとしたら金持ちを相手にしなければ儲かるわけがないにもかかわらず、アメリカの有名で著名な銀行や証券会社の高等教育を受けた経営トップが、そういう思考に走ったということをどう説明するのだ。
問題は、こういう簡単な論理がわからなくなる高等教育を受けた知識人の存在である。
世の中のすべての人が、教育はあるに越したことはなく、高ければ高いほど良いと考えているが、教育が個人のモラルを向上に貢献したという話はあまり聞いたことがなく、それはあくまでも個人の立身出世のツールに過ぎないのではなかろうか。
一人一人の個人がレベルアップして、社会全体が底上げ出来ればこんなに素晴らしいことはないが、そうはならずにモラルハザードになってしまうところが問題である。
資本主義体制の中の自由主義なのだから、個人が富を追求ということは許されているが、あまりにもそれに熱心になるあまり、モラルを逸脱するところが最大の問題である。
そこでその個人の欲望をコントロールするのがその人の持つ教育の効果としての理性でなければならないと思う。
如何なる国でも、社会を傾かせるのは、こういう高等教育を受けた知識人ではないかと思う。
社会の底辺にうごめいている人たちには、社会を転覆させるエネルギーはありえないので、その従来の規範を変えようというわけで、オバマ大統領が登場したわけだが、こういうダイナミズムがアメリカのバイタリテーだと思う。
大統領が変われば、それぞれに評価が変化するわけで、その変化が経済の揺り戻しの効果を伴うケースが往々にしてある。
オバマ大統領はチェンジを旗印にして大統領の座を射止めたが、アメリカはこの地球上で一番文化的にも経済的にも、社会生活の面においても、娯楽の面においても進んでしまっているわけで、変化のしようがないようにさえ思える。
確かに、サブプライムローンに端を発した経済的な不況の真っただ中にいることは確実で、そこから抜け出すということはチェンジには違いないが、今よりもなお先に進むということは一体何をどういう風に変えれば答えが出るのであろう。
同じことは我々の日本にも言えているわけで、鳩山首相の政治理念は「友愛」ということであるが、こんなキャッチフレーズは大昔からあるわけで、今更「お互いに仲よしましょう」と言ってみたところで、当たり前のことを当たり前に言っているだけのことで、何も目新しいものではない。
アメリカや日本というのは明らかに完全に成熟しきった社会ではなかろうか。
成熟しきった社会なので、今更、社会的基盤整備も必要なわけではなく、福祉もある程度行きわたっているので、中身の微調整が問題化している。
こういう社会になると経済的には投資の対象がなくなってしまったわけで、何をどうすればいいかわからないということに尽きてしまう。
日本やアメリカはもう既に成熟し切ってしまったので、右肩上がりの経済成長というのはこの先ありえないにも関わらず、経済という生き物は従来の規範から脱しきれずに、右肩上がりの成長を夢見ているという構図ではなかろうか。
この本の中で大前研一氏が言っているように、社会が成熟して、社会的な不具合個所を是正するための投資先がなくなってしまったため、金がだぶつくようになり、その金がサブプライムローンのような不確かな投資先に向かった結果ではないかと思う。
日本やアメリカのたどった後を、中国やインドが追いかけてきているわけで、今では中国がかっての日本のようにアジアの工場として、安い労働力を武器に経済大国にのし上がろうとしてきている。
そうなればなったで、我々は新たな対応を迫られるが、ここで活躍すべき人たちが、外国に留学した高度な教養知性の持ち主であるところ知識人でなければならない。

「トオサンの桜」

2009-11-11 10:59:14 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「トオサンの桜」という本を読んだ。
トオサンというのは日本統治下の台湾で、日本語教育を受けて日本語に堪能なお年寄りを総称する言葉ということだ。
そういう世代はもう73歳以上の人たちだということで、それを日本の若い世代の著者がインタビューして、彼等の本音を引き出そうと試みた作品がこのドキュメンタリーということだ。
日本の統治下で教育を受けた台湾の人々の間には、日本に対する郷愁というか、愛惜の情というか、ある種の捨てがたい感情が払しょくし切れないものがあるようだ。
彼等、台湾の人々にしてみると、日本の敗戦というのは何が何だか訳のわからない事態ではなかったかと思う。
日本の統治下の台湾であってみれば、当然日本軍の基地もあったので、それに対する米軍の攻撃もあるにはあったが、米軍にしてみれば、日本に抑圧された土地というわけで、内地に比べれば甘い措置であったにちがいない。
台湾在住の日本人も、中国に進攻した日本軍も、自分の祖国が戦争に負けたという実感のないまま、天皇陛下の一言で戦闘を止めざるを得ず、その後に入ってきた中国の国民党政府軍の質の悪い兵隊たちに蹂躙されてしまったわけで、その地にいた人たちにしてみれば、何が何だか訳の分からないうちに、蒋介石に牛耳られてしまったということなのであろう。
ヨーロッパがEUとして大きなまとまりを見せるようになって久しいが、「それと同じようなものがアジアで出来るか」と提案が出されたとき、「アジアは多様性に富んでいるので無理であろう」という答えがあった。
ここでいうアジアの多様性というのは、それぞれの民族の存在を指しているものと考える。
あの小さな台湾でさえも、幾つもの民族が混在しているわけで、我々の祖国も厳密に民族学的に掘り下げれば、複数の民族の混合した存在ということになるらしいが、アジアの多様性という言葉が存在する限り、アジアの統一ということはありえないと思う。
台湾を日本が統治しようとした時は、彼の地は中国、正確には清の女真族から見放された「化外の地」であって、日清戦争に負けた清は惜しげもなく日本にくれてやった土地なのである。
当然、その地には蛮族が跋扈しており、疫病が蔓延しており、清の管理者は誰一人真面目に任務を全うする気の欠けた土地であったわけで、日本の台湾植民地化という行為は、そういう地に文明の何たるかを教えさとした行為であったわけである。
こういう行為でも、視点を変えて故意に意地悪な見方をすれば、「日本の帝国主義的思考が台湾の原住民を抑圧し、原住民の伝統文化を破壊し、日本の皇国史観を押し付け、搾取の限りをつくした」という言い方も、言葉の上では成り立つ。
同じことは朝鮮にも言えているが、朝鮮も日本が統治しようとした時期においては、台湾とほぼ同じような状態であったわけで、もし日本がああいう行為に出なかったとすれば、おそらくロシアに蹂躙されていたに違いない。
アジアは確かに歴史の中ではヨーロッパ系の宗主国に搾取され続けたわけで、そういう視点でロシアを眺めれば、ロシアも立派なヨーロッパ系の帝国主義国であった筈で、不凍港を求める民族的欲求の行く着く先は、朝鮮半島ということにならざるを得ない。
日本の台湾と朝鮮半島の統治に関しては、日本は彼の地から富の搾取にまい進したのではなく、基本的には日本国民の血税の先行投資の結果、膨大な支出超過であったわけで、言い方を変えて表現すれば、台湾や朝鮮半島の社会的インフラ整備は日本国民の血税で行われたということである。
搾取の全くの逆である。
ヨーロッパ系の宗主国としては、植民地はあくまでも富の草刈り場として捉えていたわけで、彼等は自分達が利益を生み、儲けが出せるように、儲かるように現地の人々を使い、統治してきたのである。
何度も強調するように、ヨーロッパ系の宗主国の人々、ヨーロッパ系の先進国の人々は、キリスト教文圏に属していないアジアの人々を最初から人間とは見なしていなかったわけで、キリスト教徒でないという理由だけで、犬か豚なみの家蓄ぐらいの認識しかなかったのである。
そういう点から我々日本人の悪行とされる植民地支配を眺めてみると、我々は自分達の血税を持ち出して、彼の地の社会的インフラ整備を行ったわけで、この相違をどう考えたらいいのであろう。
1945年昭和20年8月、日本が連合国に敗れ、敗戦を迎え、銃を地に置いた時、入れ替わりに台湾に入ってきた軍隊が、蒋介石の国民党政府軍であったわけだが、彼等には日本精神というものがないので、台湾人の顰蹙を買ったわけである。
日本が支配していた時はきちんとした社会的モラル、社会的規範が機能していたが、蒋介石が入って来た途端そういうものが一切合財破たんしてしまったわけで、その落差には台湾人もほとほと混迷したに違いない。
蒋介石自身が、政治とは権力の敷衍と領土の拡張以外の何物でもないという思考の持ち主だったので、国民の社会的インフラ整備など眼中になく、ただただ混沌が渦巻くだけであった。
そういう中でも如何に効率よく金儲けに専念出来るかということを考えた時、必然的に社会的基盤整備というのは出てくるわけで、そういう意味ではインフラ整備というのは遅ればせながらでも進んでは来る。
人々がより良い社会を作るには、どうしても教育の向上ということが欠かせない要因になるわけで、その目的のために、日本は台湾の教育には熱心に取り組んだに違いない。
しかし、台湾の現地人と日本社会から赴任してきた人たちの間には最初から格差があるわけで、多少の矛盾の存在は否めないものであった、と考えざるを得ない。
これも意地悪な言い方をすれば、地元の伝統文化を抑圧して、皇国史観を押しつけたということにもなるが、この本の言わんとするところは、にもかかわらず、日本人から受けた教育が戦後63年経っても未だに心の支えとして台湾人の心の中に在り続けているということである。
日本の場合、あまりにも民主化の進んだ世の中となってしまって、人々は言いたいことが言える環境を、水か空気のように勘違いしている向きがあるが、蒋介石の台湾統治はそんな安易な治世ではなかったはずである。
秘密警察が跋扈して、何の罪もないのに冤罪で何年も牢獄につながれることが常態となっている国などというのは、明らかに常軌を逸しているが、日本が中国大陸で戦っていた相手というのは、こういう相手であったわけである。
我々の価値観からすれば、蒋介石の国民党政府などというものは、野蛮極まりない統治であって、我々はこういう3等国以下の中華民国に敗北したということが何とも不可解千万である。
敗北したという言い方もおかしなもので、日本軍は蒋介石の国民党軍に海に突き落とされたわけではなく、点と線であったとしても、二本足で中国の地に立っていた事に違いはない。
蒋介石の中華民国の内情が戦後台湾を治めた国民党政府の統治で見事に暴露したわけだが、ソビエットのスターリンの粛清も、蒋介石の統治と似たり寄ったりであったわけで、アメリカ、イギリス、フランスというヨーロッパ諸国は、こういう汚くて野蛮な国と連合を組んで、日本を敵に回して戦っていたわけである。
日本との戦いが終わってみれば、次の敵は中国とソビエット連邦という野蛮な国で、密告と、秘密警察と、暗殺と、粛清が横行する社会的規範の欠けた野蛮で、汚く、モラルの崩壊した独裁政治の国が新たな敵として浮上してきたわけである。
如何なる相手であろうとも、ある主権国家に武力で以って侵略していいわけはないが、人の口に戸は建てられないので、中国本土の混迷の原因も日本帝国主義の所為にされかねない。
「風が吹くと桶屋が儲かる」式の論理で以って、民主化の進んだ地域では、何でもかんでも日本の所為にしておけば、誰一人傷つくものがいないので、まことに便利は方便である。
台湾でも朝鮮半島でも、過去において日本が統治したことはまぎれもない事実であるが、だからと言って我々が彼の地の人々を抑圧したとか、搾取したという言辞は当てはまらないと思う。
むしろ、日本は彼の地の民主化に大きく貢献し、社会的インフラ整備に貢献し、その後の彼の地の発展に大きく寄与したものと考える。
如何なる地域、如何なる民族でも、旧態依然たる体制から大きく飛躍するには大きな変革を伴うわけで、ヨーロッパ諸国はその変革を内側から沸き上がったエネルギーで成就したが、そういう基盤の整っていないアジアの民族は、その変革のきっかけを外圧に頼るほかなかった。
日本の場合、「たった四杯で夜も眠れず」というペリーの来航という外圧があったわけだが、台湾や朝鮮半島では、日本の統治というものが旧態依然たる従来の支配体制に大きな風穴をあけたわけで、これが外圧となりアジアの歴史を大きく変化させた。
そういう視点で捉えればアジアの多様性もうんと垣根が低くなると思う。
アジアの民の中には、アジアの立ち遅れを弁護するのに、かっての日本の支配を理由にあげる人がいるが、そういう見解に立っている限りアジアの飛躍はありえない。
地球上における有史以来のヨーロッパ人とアジア人の対立の中で、ヨーロッパ人に敢然と正面から立ち向かったのは、我々日本人だけではないか。
漢民族がヨーロッパ人に戦いを挑んだか、朝鮮族がロシアに戦いを挑んだか、インド人はイギリスに戦いを挑んだが、それは日本がイギリスの牙を全部抜き去って後のことではないか。
インドネシアの戦いでも、日本がフランスの戦力を全部削いだ後のことで、アジア諸国の独立は日本の戦争の結果から生じたことは紛れもない事実だと思う。
もしこれがなかったとしたら、それこそ未だにヨーロッパ諸国の搾取が続いていたかもしれない。
台湾の人々は、日本の統治から蒋介石の統治に変わった途端に感じた違和感は察して余りある。
台湾の人々、あるいは朝鮮半島の人々にとって、日本の統治が万全でなかったことは当然で、同じ同胞の日本人でさえも、自分の政府に何の不満も持たないということはあり得ないわけで、統治するものとされるものの間には、不満が蔓延することは自然の人間の在り方そのものだと思う。
民主化された国では、そういう不満を声高に叫んでも、それだけの理由では身柄を拘束もされることもないので、それを政治的なパフォーマンスとして使うということが往々にして起きる。
統治するものとされるものという関係の中で、統治されるものが、「今の政治は極めて善政だから十分に満足している、政府首脳に足を向けて寝れない」などということはあり得ない。
日本が台湾を統治する、朝鮮半島を統治するという中で、その地に住む人々が心底満足する統治などということはあり得ないわけで、そういうことを口にする段階で、既に考え方がいびつだということになる。
ただそうはいってもそれが政治的なパフォーマンスだとすると、「風が吹くと桶屋が儲かる」式の支離滅裂な論理でも誇大に吹きまくらねばならないのである。
台湾でトオサンと称せられる一部の人達は、日本の統治を素直に受け入れて、それが故にその後の日本の生き方に大いに不安と不満を持っているようで、その事実を我々が有り難く受け止めなければならないと思う。

「亡国の日本大使館」

2009-11-10 07:54:35 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「亡国の日本大使館」という本を読んだ。
著者は古森義久氏であるが、この人もジャーナリスト出身の物書きなので、作品が品位に欠けている点は否めない。
インテリ―・ヤクザの本質をまがまがと見せつけられているようで、我慢ならない部分も多々あるが、内容的には随分共鳴するところが多い。
新聞記者上がりの物書きの作品が品位に欠けるという点は、若い時に身につけた習性が生涯消えないということなのであろう。
新聞記者として、突撃インタビューをこなすためには上品ぶっていては仕事にならないわけで、不本意ながらも傲慢な振る舞い、横柄な態度、厚かましく傍若無人、人の意に介さない不遜さを身上としなければ自分自身が生きておれなかったわけで、その生活臭がその後の作品にもおのずと滲み出てくるということなのであろう。
事実をこれでもかこれでもかと積み上げて、週刊誌の記事的な文章にしてしまうわけで、書かれたことは確かに事実であろうとも、それは事実の一部にすぎないにもかかわらず、その一事で以って全体を括ろうとするから品位が欠落するのであろう。
とはいうものの、日本国の外務省の失態は、彼でなくとも憤慨の極地にあることは論をまたない。
この本を読むまでもなく、普通の新聞やテレビを見ていれば、当然のこと、今の外務省の不祥事は自然と目に入ってくる。
話は唐突に飛躍するが、日本があの戦争に敗北して今年で63年を経過したことになるが、日本の敗北は軍部が今の外務省のように、完全に官僚主義に汚染されていたからではないかと思う。
この本を読んでいると、外務省そのものが自分達の存在意義を完全に見失っているように見える。
63年前の日本の敗戦も、戦争のプロであるべき軍人たちが、戦争そのものを全く知らなかった結果だと私自身は考えている。
戦争を知らない軍人が、兵学校や陸軍士官学校の卒業年次で、作戦の指揮官・司令官を割り振っていたとすれば、勝てる戦争も負けて当然ではないか。
63年前、我々が経験したことは、兵学校や陸軍士官学校の卒業年次で作戦の指揮官・司令官を割り振っていたわけで、それはまさしく外務省が入省年次で任地をたらい回ししている構図と瓜二つである。
戦争に勝つために適材適所に合理的に個人の持つ才能を発揮させるべく指揮官、司令官の人事を司っていたわけではなく、誰が先輩で誰が何年後輩だから何処どこの指揮官に任ずるという具合に、戦争に勝つための作戦に有能な人間を配置するという発想ではなかった。
この段階ですでにこの当時の軍人、特に高級将校には近代の戦争の実態というものが全く解っていなかったと言わざるを得ない。
あの軍国主義華やかりし頃の日本の軍人が、国家総力戦の実態も知らずに、ただただ掛け声のみで、専門学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)の卒業年次で、作戦の指揮官をたらい回しして、その作戦の整合性など全く無視して戦争を私物化していたことになる。
軍官僚が、官僚なるが故に、官僚の為の仕事として戦争をしていたわけで、自分達は誰が何のために戦争をしているのかという自意識は全く存在していなかったに違いない。
自分達は軍人だから、軍人としての存在意義を示すために、ただ無目的に、意義もなく、蟻や蜂が右往左往しながら何となく巣を形をつくるように、なるようにしかならないという刹那的な思考のもとで戦場に駆り出されていたわけである。
軍の上層部においては自分達の存在意義というものを一刻たりとも考えたことはないものと思う。
自分達は何のためにここに存在しているのか、ということを自問自答したことはないと思う。
自分達は天皇の為に戦っているにしろ、国民の為に戦っているにしろ、自らの存在意義、自らの戦うための目標が確立しておれば、戦争に対する対処の仕方も随分と変わっていたに違いないと思う。
そもそも政府の言うことを聞かない軍部というのは、もう何とも処置のしようがなかったことは事実だと思う。
問題は、こういう状態の中で軍部の中ではどういう思考、発想になっていたのかという点である。
そういう意味では数多くの書籍が出回って、ほんとんど語り尽くされている感がするが、当時の軍官僚の官僚意識という点に絞った言辞はあまり見られないように思う。
誰それがどこそこでああ言ったこう言ったという話は沢山出回っているが、作戦の指揮官、司令官を選出するのに専門学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)の卒業年次を参考にして選出する愚について言及したものはいないのではないかと思う。
ということは、日本の国民の大半が、そういう事態に対して疑問を感じていないわけで、それは我々の仕事の仕方が合理主義で貫かれているのではなく、人治主義で、温情的な人情の機微で左右されるということである。
この本を読んでいて、私は外務省というのは昔の日本軍の官僚主義をそのまま踏襲しているなと感じた。
そのことは旧軍のみが官僚主義であったわけではなく、日本の全ての官庁が官僚主義に侵されているということでもある。
しかも、今に始まったことではなく、明治時代からこの思考方式が連綿と生き続いていたわけで、その事によって日本の軍隊は消滅し、外務省は戦後の敗戦でも生き残ったが故に、戦前の風潮がそのまま維持され続けたわけである。
外務省の職員、外交官ともなれば、自分の置かれた立場、自分のなすべき職務、自分の発する言葉の重みというものは自ずと分からなければおかしいと思う。
普通の一般人の常識でも、外交官の職務などというものは大方想像がつく。
大使館、領事館の仕事といえば、当然のこと同胞の生命財産の保護が一番重要なことは一目瞭然であるが、その他にも国益の保護と、自国のPRということも当然彼等の大きな仕事である。
ところがこの本の指摘するところによると、本来現地にいる同胞の生命財産の保護が最重要にもかかわらず、彼等の視点は常に政治家にだけ向いていており、政治家の接待に振り回されている構図が浮き彫りにされている。
この指摘で、彼等、外務省の人間が本来の自分の任務と仕事を履き違えている構図が白日の下に晒されているのである。
この構図が先に述べた戦争を知らない軍人が卒業年次で作戦を練ったのと同じ愚昧さを露呈している。
適材適所に合った人材を配置するという合理精神の欠如以外の何物でもないが、どうして我々の組織にはこういうことが罷り通っているのであろう。
旧の日本軍の高級軍人でも、外務省のキャリア―組でも、普通の人以上に優れた人間のはずなのに、どうしてこういう不合理に気がつかないのであろう。
国を挙げて戦うべき作戦の司令官に、専門学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)の卒業年次を参考して司令官を選出する愚にどうして気がつかなかったのであろう。
戦いである以上勝たねばならないのに、そういう場面で何故適材適所の人選をしなかったのであろう。
大使や領事の選出に、何故専門知識を持った人をその知識の生かせる地域に配属しなかったのだろう。
普通の常識で考えれば明らかに不合理と思われるようなことを何故ごり押ししたのであろう。
旧日本軍の消滅から、この本が言う外務省の不祥事に至るもろもろの欠陥に至るまで、基本的には官僚主義のなせる技だと思う。
ならば官僚主義とはどういうもんかと掘り下げてみると、私の思う所では、官僚というのは自分達、官僚のために仕事を捏造する人たちだと思う。
官僚というのは今の言葉で言えば国家公務員であって、本来ならば国民にサービスすべき立場でなければならないが、国民を統治する立場にすり替えてしまっている。
このすり替えの場面で、国民のためというフレーズが欠落してしまって、官僚が官僚の為に新たに仕事を作るという形態になってしまったわけである。
だから旧軍隊の司令官の選出でも、自分達の身内の中の内輪の人事異動なわけで、彼等にしてみれば国民のことも天皇のこともそっちのけで、「戦争に勝たねばならない」という大命題は2の次3の次の課題でしかなかったわけである。
同じことが外務省にも言えるわけで、外務省としての本来任務は対象が国民向けであって、外地にいる邦人の為に通常業務をこなすだけでは立身出世のインパクトが弱いなものだから、彼等にしてみればあまりメリットがないわけである。
彼等にとってメリットがないということは、自分の立身出世に何ら寄与するものがないということに他ならない。
任地で困り果てた同胞を救済しても、それは何ら評価の対象にならないが、政治家の接待を遺漏なく努めれば、立身出世の糸口をつかむチャンスは拡大するわけで、そちらの方に精を出したくなるのは当然の帰結だと思う。
この本を読んで新たに知った事実は、駐米日本大使館が要人のメッセージを外注に出し、各種調査も外注に依頼しているという事実である。
これが事実だとすると、開いた口がふさがらないということになる。
外務省の本来の仕事には自国のPRと相手国の情報収集ということが立派な任務なわけで、それを相手国に丸投げしておいては、自らの任務を放棄するに等しく、外交官としての意味そのものが成り立たないではないか。
まさしく自分の本業を忘れているとしか言いようがない。
先の戦争で、戦争を知らない軍人が、学校時代の卒業年次や成績順に司令官・指揮官の官職をたらい回ししていたのと全く同じ轍を踏んでいるわけで、自分は何のためにここのいるのだ、ということを全く自覚していないということである。
相手国の情報を自ら探ることこそ、外交官の主たる仕事であるにもかかわらず、それを外注に出すという感覚は、国益の何たるかも解っていないことである。
普通の常識では考えられないことである。
旧軍人でも、今の外交官でも、どうしてこういうことになるのであろう。
その理由の一つは、私の考察では国家試験というペーパーチェックにあると思う。
高級軍人でも外務省の高官でも、必ず一度は国家試験をクリア―しているわけで、これをクリア―することによって彼等は特別な地位を得たことになる。
彼ら自身、「俺は他の有象無象の輩とは違うんだ」という自負心が沸き上がり、それは同時に傲慢さを生み、不遜な態度を併せ持ち、自分の職務を忘却させてしまうのである。
そして彼等の住む小宇宙というのは、他の世界との軋轢に対しては極めて団結力が強く、その内部は極めて温情主義が横行し、仲間意識が強固で、お互いの互助精神も旺盛なのである。
前にも述べたように、彼等は自分で自分の仕事を作って、自分が国民の血税で国益の擁護を任された身分だということを忘れてしまっているということなのであろう。
軍の官僚、外務省の官僚になったということを、普通の国民より数等偉い地位に就いたことによって国民の存在を忘れてしまって、自分達の小宇宙のなかだけで仕事をしている振りをしてさえおれば我が身は安泰だということを悟りきってしまったものと推察する。

「女たちが経験したこと・昭和女性史3部作」

2009-11-09 08:12:42 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「女たちが経験したこと・昭和女性史3部作」という本を読んだ。
著者は上坂冬子女史である。
彼女はことしの4月に亡くなっているが、私は彼女の論調が好きであった。
世間に媚を売らない毅然たる保守主義の持ち主だと思う。
ところがこの本を読みだしてみると、字は細かい上に、上下二段組みの活字で、彼女の単項本3冊分をひとまとめにしたものであって、読み終えるのにそうとう苦労した。
サブタイトルにも3部作となっているように「男装の麗人・川島芳子伝」、「奄美の原爆乙女」、「ハル・ライシャワー」と、それぞれが一冊の単項本にあたるものがひとまとめにされているので、その分読むのに時間がかかるのは当然であった。
そして、その一つ一つが私の好奇心を刺激する代物で、蔑にはできない読み物であったため、手を抜くことなく読み通さねばならなかった。
川島芳子の話も、私なりに非常に興味あるものであったが、彼女が男装になった理由というのは俄かには信じられない話だと思う。
川島浪速がいくら養女にしたからとはいえ実質は自分の娘であり、血はつながっていないとはいえ、年端もいかない小娘に欲情を催して襲いかかるなどということは信じられない。
それを契機に彼女は男装になったと語られているが、上坂冬子女史もすぐにばれるような根も葉もない嘘を書くわけもなかろうから、それが真実だとすると人ごとながら暗澹たる気持ちになる。
それが川島芳子の波乱に満ちた人生の出発点であったかもしれないが、彼女の場合生まれ落ちた時点から、既に歴史の波に翻弄される人生航路が用意されていたのかもしれない。
「人は生まれながらに平等だ」ということがまことしやかに言われているが、そんなことは嘘八百だ。
確かに母親の胎内から出た時は皆一様に裸であるが、問題は生まれ落ちたところである。
生まれ落ちた地域、国、場所、家柄、兄弟の有無によって、人間の人生は大きく左右される。
それは人間の英知や知恵では何とも動かしようのない運命で決まっているわけで、他人の幸運をいくら羨んでも詮ないことである。
人が出来ることは、自分の置かれた状況の中で精一杯努力することで、自らの立場をいくらかでも向上すべく、上を向いて歩むことのみである。
「東洋のマタ・ハリ」川島芳子の場合、清皇帝の高級幹部の末裔といったところで、昭和初期の時代には何ら価値も伴っていないわけで、それは過去の栄光に過ぎなかったわけである。
清の王朝が革命で倒れたということは、基本的に清王朝が組織疲労していたということであって、組織そのものをスクラップ・アンド・ビルドしないことには中国の人々の平安はないということであった。
歴史はその通りの軌跡を歩んだが、20世紀初頭の中国はまさしく混沌としていたわけで、その混沌の原因を究明しない限り、アジアの曙は到来しないと思うが、それは一重に中国の人々の民族意識の覚醒に他ならない。
問題は、この中国の人々の民族意識であるが、中国の人々は明らかに我々日本人よりも数段と個人意識が強く、個の確立という意味で我々よりも先を歩んでいる。
個人の意識が強いということは、言い方を変えれば「自分さえ良ければ後はどうでもいい」という発想になりがちであって、集団という形を作ったときでさえもそれが前面に出がちであって、自己の利益のみを優先させるので、他の顰蹙を買いがちである。
要するに他との共存に価値を見出そうとしないので、広大な国土が何時まで経っても安定化しないのである。
あの広大な国土を単純な中央集権国家にしようとするからいつまで経てもスクラップ・アンド・ビルドを繰り返しているのであって、中規模の周辺国家を容認して、それを緩やかに統括する合衆国にすればアジア全体がより平和的になるように思うが、あくまでも覇権を指し示そうとするからトラブルが絶えないのである。
周辺の部族の独立を認め、それを緩やかに統括する合衆国のような形態の国家というアイデアは、中国の歴史の中には存在していないような気がする。
天下統一というイメージは、どこまで行ってもアジアの統一以外にあり得ないわけで、これがある限りにおいてアジアの平安はありえない筈である。
川島芳子はこういうアジアの混迷の中で、それぞれの民族の利益が複雑に入り混じった生き馬の目を抜く国際社会の中を巧みに生き抜いたわけであるが、そういうことが出来たということは彼女自身、相当に頭脳の働きが素早く、状況判断に的確に反応し、行動力にも長けていたに違いない。
ただ惜しむらくは、彼女もメデイアの犠牲になった、という部分は非常に気の毒だと思う。
彼女のキャリア―が極めて日本人離れしていたので、村松梢風によって「男装の麗人」という小説で日本のみならずアジア全域に喧伝されてしまったが、それは虚像のみがあたかも真実のように独り歩きしたということだ。
小説を書く側としては、話を少しでも面白おかしくするために、ほんの些細な事実でも、それこそ針小棒大にとり上げるわけで、読む側にそれがあたかも事実であるがごとく思わせるテクニックを使うわけである。
すると時が経つにしたがい、世間ではそれが事実となってしまって、独り歩きしてしまうのである。
これと同じことは例の南京大虐殺にも言えているわけで、この時の「100人切り」の話も、ほんの軽い冗談で言ったことを戦意高揚のための戦国美談としてメデイアが吹聴しまくったために、二人の将校は大いなる濡れ衣を背負わされたが、メデイア側は一向に自分達の非を認めようとしなかった。
川島芳子の場合も、それと同じことが言えているわけで、ほんの些細な情報提供を面白おかしく小説として脚色されて世間に出回ってしまうと、それを後から否定することが出来なくなってしまうわけで、敵側からすれば、「此処に書いてあるではないか」という論理になってしまう。
それは小説の為の脚色だと言ってみたところで、責任転嫁と取られるのが関に山で、敵側にすれば、鬼の媚でもとった気分でおれるのである。
昭和20年という時期において、あの頃の中国が果たして主権国家であるかどうかも厳密にいうと言い切れない部分があるが、そのことを今ぶり返したとしても、敵側も政体が変わってしまっているので、その整合性は何の意味も持ち得ない。
まして今の中華人民共和国が、自分達の犯した非を認めるなどということもありえないだろうし、歴史を検証するなどということも彼等にはありえないことで、ただただ金の亡者となるのみであろう。
それに引き替え次の作品の「奄美の原爆乙女」の話も身につまされる話ではあるが、この原爆の被害者に対する補償というのも少なからず考えさせられる問題である。
現実には、原爆の被害者がそれに応じた補償を受けるという面では、いささかも異議を唱えるつもりはないが、これを何時まで続けるかという点になると、少なからず考えさせられる。
なんだか原爆の被爆者というのは、あの戦争の中でも特別に優遇された被害者という感じを免れない。
東京空襲で、焼夷弾で家を焼かれ隅田川に飛び込んで亡くなった人と、広島・長崎で原爆で亡くなった人々の間で差別が存在していていいものだろうか。
生きていた人間が戦争で死んだとき、原爆で死んだ人と、通常爆弾、あるいは焼夷弾通で死んだ人の間に、その補償の面で格差があっていいものだろうか。
原子爆弾には、確かに後遺症というものが付きまとっていることは承知しているが、原爆の後遺症と加齢による身体機能の劣化をどう見分けるのか、という問題もあると思う。
原爆による被爆者は可哀想だから、気の毒だから救済するという思考は、極めて人間的で温かいものの考え方ではあるが、ならば他の都市の空襲で亡くなった方々は、気のどくでもなければ可哀想でもないのか、という理屈になると思う。
被爆者を救済するということは、基本的に金をばら撒くということであって、金を受け取る側としては、何時までもいつまでも未来永劫、金が天から降ってくればそれに越したことはない筈である。
戦後既に63年を経過していることを考えれば、被爆した当時母親の胎内にいた人でも60歳代にはなっているわけで、それだけの年数人間が生き続ければ、原爆の被爆が有ろうが無かろうが、人間誰しも多少なりとも故障を抱え込むのが普通であって、100%健康な人でもあちらこちらに身体の不具合を呈するのが自然の摂理だと思う。
被爆しようがしまいが、60歳ともなれば体のあちこちに不具合が出るのが普通であるとするならば、そういうケースまで原爆の後遺症として認定して金をばら撒くというのは、普通の国民の立場としては納得できるものではない。
国家の忠実な国民の一人として、国の定めた方針に従って、国家に貢献すべく勤労動員についていて原爆にあったのだから最大限の補償をするという方向に異議を申すものではないが、問題は、我々の同胞の中にあるわけで、加齢による疾病までも原爆の後遺症として金をだまし取ろうとする人間がいるのではないかという危惧である。
一般論として、普通の生活保護でさえも、暴力団がだまし取っている例もあるわけで、金がもらえるとなれば、なんとかしてその恩典に浴し、貰えるように研究する人間も必ずいるわけで、被爆者の全員が善意の人ではないと思う。
我々はともすると可愛そうな人を救済することは良いことだと頭から信じ込んでいるが、それの裏をかこうとする人間も数えきれないほどいるわけで、この部分に逆差別ということを注意して見守らなければならない。
原爆被爆者の救済ということは、我々はもっともっとアメリカに強力にPRする必要があると思う。
アメリカもその研究に多額の費用を負担していることは想像できるが、金そのものものよりも、原子爆弾の被害状況、もう一歩踏み込んで原爆の悲惨さ、無意味さというものをアメリカをはじめとする世界に向けて大いにPRすることが必要だと思う。
3番目のハル・ライシャワー女史については、これはもう毛並みの良さをそのまま具現化したような女性であって、まさしく上流階級、貴族の部類に入る。
世界中には、金持ちは掃いて捨てるほどいるに違いなかろうが、同じ金持ちでも金持ちとしての品位を兼ね備えた人というのは案外少ないように見受けられる。
金持ちも最初から金持ちであったわけではなく、金持ちの状態を何世代も引き継ぐというのは、1代で産を築くよりももっと難しいかもしれない。
経済活動はサイン・カーブのようなもので、常に高値と低値の間を行きつ戻りつしているが、それを高値安定のまま何世代も維持するということは並大抵のことではないと思う。
その為には子孫に対する教育が大きな必須条件になると思うが、もともと人間の頭脳には個性があって、教育や躾に耐えられる人とそうでない人がいるものと考えられる。
金持ちの人は子息の教育において、それぞれの個性に合わせて「得手に帆を上げさせる」ことが出来るわけで、いくら金持ちでも親の側にこういう思考がないことには、ただの金持ちのボンボンで終わりかねない。
ハル・ライシャワー女史に関しては、そういう面でも非常に恵まれていたわけで、彼女の幸せは彼女自身が自分の思考を酷使した考察の結果導かれたものだと思う。
恵まれた環境と、自分自身の決断力と、もろもろの幸運が彼女をそうあらしめたものと私は考える。
この最後の部分を読んでいて私が不満に思ったことは、ライシャワー夫妻の安保闘争の深層心理の分析について、私の見解と異なっていることだ。
ライシャワー氏の見解は、当時の為政者の政治手法の誤りを正すために、無産階級が議会制民主主義擁護のための行動だと分析しているが、この見解は私に言わしめれば間違っていると思う。
あの騒動は私に言わしめれば、日本の無産階級の無知と無責任の発露であって、12歳の民主主義を見事なまでに露呈した稚気に等しいものだと思う。
ライシャワー夫妻も認めているように、あのデモに参加した大衆は、それこそ思想信条抜きで、お祭りに参加する雰囲気で、デモ行進したり角棒を振り回したりしたわけで、参加する意義がないものだから「為政者の政治手法を是正する」などという理由をこじつけていたに過ぎない。
夫妻も認めているように、彼等は当時の日本の指導的な立場の人たちと会ってこういう意見に集約したと述べているが、そもそも取材の対象が社会の上層部であったわけで、デモをしたり、角棒を振り回した人たちと会っているわけではないと思う。
実際にそういう人の言い分は、後に冊子として出回っているが、その文章から敷衍し、デモをした人々の当時の心境を垣間見てみると、彼等はそれこそ思想信条抜きで、安保条約の中身も知らずに、ただ「あいつがやるから俺もやる」という程度の意識でしかなかったわけである。
ただし、こういう無責任な若者のグループをそういう方向にリードする手法については、共産主義にねざした確固たる思想信条に裏打ちされた指導的な人達に操縦されていたということはいえると思う。
考えなければならないことは、こういう運動を民主化の成果だと見なして、反政府運動や反体制運動を煽り、社会秩序の破壊に迎合する知識人の存在である。
政府、為政者を批判するということは、民主主義社会の大きなファクターではあろうが、この世の中に国民から全く批判されない善政などというものが果たしてありうるであろうか。
統治するものとされるものという立場の相違があるとするならば、国民の全てが納得する政治などというものがあるはずもなく、批判が底流に流れている状態こそ正常な社会ではなかろうか。
ただこの底流を見誤るということは往々にしてあるから注意が肝要である。
ライシャワー夫妻の安保闘争に対する見解は、その底流を見誤っていると私は思う。