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卑弥呼と大日孁について

2022-05-22 21:59:10 | 歴史と政治

 

 前回のブログ「神武天皇はいつ即位したか」の続きとして、今回の「卑弥呼と大日孁について」を書きました。私は戦後にわかに登場した「神武天皇非実在説」やそれ以後の8代の天皇を架空の天皇とする「欠史八代説」などは明らかな謬説であると考えています。

 日本書紀は架空の天皇を追加する、つまり、捏造するというようなことはしていないが、その編纂者は天皇の実年代の決定に大きな誤りを犯していると見るのが正解でしょう。神武天皇の即位年を紀元前660年としたことなどは大きな誤りです。その他、いくつかの箇所で判断のミスがあると思われます。

  この小論は2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した論文を修正したものです。まず、読みにくいところを“減筆”修正し、そのあと、加筆修正しました。

 

卑弥呼(ヒミコ)大日孁(オホヒル メ )について

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

 邪馬台国の女王の卑弥呼は、記紀にあらわれる天照御大神であるとする説がある。安本美典氏は古代天皇の平均在位年を約10年とし、全ての天皇の実在を認めて、第一代の神武天皇の活躍年代を290年頃とする。

そして、神武天皇よりも5代前の天照大御神あまてらすおおみかみの活躍時期を、5代×10年=50年で、50年ほどさかのぼり240年頃とする。卑弥呼は『魏志』倭人伝によると239年に魏に遣使しており、安本氏の年代観に従うと、卑弥呼の活躍時期は天照大御神のそれと重なることになる。

神話の中に史実の核があることは、シュリーマンが紀元前8世紀ころに活躍した詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」から紀元前13世紀に起こったとされるトロイ戦争の舞台となったトロイの遺跡を発見したこと持ち出すまでもなく、世界の歴史家の共通認識である。

日本の神話の中にも歴史的事実があることは確実である。「卑弥呼=天照大御神」説を「歴史的事実と神話を結びつけるものだ」として頭ごなしに非難する人がいるが、それは世界の常識に反することになる。

 

【アマテラスとヒルメ】

  日本古典文学大系本『日本書紀 上』の神代上に、

 既にしてイザナキの尊・イザナミの尊、共に議(はか)りてのたまはく、「吾已に大八洲國(おほやしまのくに)及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」とのたまふ。ここに、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と號す。大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ。・・・・・一書に云はく、天照大神あまてらすおほみかみといふ。一書に云はく、天照大日孁尊あまてらすおほひるめのみことといふ。

というように記述されている。「大日孁貴」の中の「孁」という文字については頭注の中で、

この靈の巫を女に改め、孁とすることによって、女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる。

とし、「靈(霊の旧字体)+女」 で「女巫」を示そうとした、としている。つまり、「孁」という文字は書紀の編者がつくり出した文字、和製漢字、「国字」であると日本文学大系本『日本書紀』の校注者は見ている。

  また、万葉集巻二・167番の柿本人麻呂の歌に

天照日女之命あまてらすひるめのみこと 一云 指上さしあがる日女之命ひるめのみこと

とあり、これらから、

  天照大御神=天照大日孁貴=大日孁貴=(天照)日女之命

となる。今、ここで「天照大御神」をアマテラスと呼ぶことにする。「大日孁貴」の「大」と「貴」は尊称(美称)と考えられるから、アマテラスの実名は、『日本書紀』(以後、“書紀”と表記)によれば、

  日孁=日女=ヒルメ

となる。書紀が「日孁」を、注をつけて「比屡咩(ひるめ)」と訓んでおり、万葉集の「日女」も「ひるめ」と訓めるから、奈良時代には、アマテラスは、「オオヒルメ の ムチ」というように呼ばれていたことになる。

 「日」はふつう「ひ」と訓むが、「ヒル」と訓むこともある。たとえば、万葉集に

   赤根刺あかねさす 日者ひるは之弥良尓しみらに 烏玉之ぬばたまの 夜者よるは酢辛二すがらに (巻十三・3297)

というように「日」をヒルと訓む例が出てくる。3297番の歌の場合、後の「夜」との関連やヒと訓むと六音の字足らずとなるので、この「日」はヒルと訓むのはまず間違いがない。

 『時代別国語大辞典 上代編』は「ひる」について、

ひる[昼](名) 昼。ひるま。日が出てから没するまでの間。ヨルの対。ヨに対するヨルと同じく、日から派生した語か。

というように説明している。「ヒル」は「昼」という漢字を用いるのが普通であるが、「ヒ」と「ヒル」は語源的に同じで異形態(Allomorph)と考えられるものである。

  この「ヒル」の「ル」については、日本古典文学大系本『万葉集 』などは、助詞ノ(“私本”における助詞の“の”こと)と同意の古語であると考えているが、これは語の起源とも関連する問題であり、起源的には単語の末尾についていた“r”音によるものと考える方がよいと思う。

  pir(“日”を意味する非常に古い形)pi (日) 

    pir(“日”を意味する非常に古い形)piru (日)

と考える。(*注1)  

  さて、書紀の編者の考えに従うと、「大日孁貴おほひるめむち」のヒルメは、「日ひる=ヒルメ=日ひる」となる。書紀の編者は「靈(“霊”の旧字体)+女」で「女巫」を示そうとした、ということは前述したのであるが、ここでさらに考えてみたい。

  頭注は、「孁」という文字は書紀の筆者のつくり出したものであると考えているのであるが、もう少し単純に考えることができるのではないだろうか。

 単純に考えると、「霝」と「女」の(意図的ではないかもしれない)合字と考えられないだろうか。つまり、

    霝 + 女 → 孁

となる。「霝」は当時、存在した文字で、「霊(=靈)レイ」と同音で「したたり落ちるしずく」を意味するが、この文字を「霊」として使い(一種の仮借)、下に「女」を続ければ、「霊女」つまり、「ミコ(巫女)」を意味する「孁」ができあがる。  

 

【「日孁」は記紀以前の古い用字ではないか】

  『魏志』「倭人伝」に出てくる国名の「対馬」は現在でもまったく同じ用字で使われている。この用字は、編纂当時に残っていた史料にもとづいて編者の陳寿が使ったものである。「対馬」は邪馬台国と接触していた帯方郡の役人が使った用字とふつう見なされている。が、当時の倭人は魏との外交による接触で、漢字を使いこなせる階級もいたとする説があり、「対馬」もその漢字を使いこなせる倭国側の人間が書いたと見る人もいる。

  小松格氏は「卑弥呼は漢字が読めた」(『季刊邪馬台国 33号』)という論文の中で、

『魏志』「倭人伝」の「対馬」は、中国側が倭人の発音を聞いて文字表記したのではなく、倭人側(たぶん邪馬台国の役人たちであろう)から示された文字をそのまま使用したものと考えられる。・・・・・・・・

 現在でも対馬島は二個の島からできている。つまり「対馬」とは音表記ではなく、訓表記であったのである。

(※下線は筆者の永井による・・・漢字の音を利用した音訳であると同時にその意味を利用した訳(訓訳)も含んでいると考えた方がよい。「訓表記」という表現は「訓仮名」を連想させるので適当ではないように思われる。

という趣旨の記述をしている。

  私も、邪馬台国時代の一部の倭国の役人(官僚)は漢字を自由に使いこなすことができたものと考えている。「対馬」は中国の役人が倭人の発音を聞いて表記したと見ることもできないわけではないが、小松氏が言うように倭人側の用字である可能性が高いように思う。

 「対馬」は上古音、中古音で「トマ」「タイマ」と読め、「ツシマ」に近く読んでも「ツマ」「ツイマ」としか読めないが、対馬の地形をとらえて〝北島と南島が対になっている島〟というような意味を含んでいるとしたら、倭人側の表記である可能性が高くなるように思う。対馬が「倶楽部(クラブ)」のように英語のclubを漢字で音訳すると同時に漢字の意味からその内容を示すようにしたもの(倶楽部=ともに楽しむところ)としたら、中国側の役人の表記と考えるよりも、日本側の役人が島の地形の状態を考えてのつくり出した表記とする方がよいのではなかろうか。

 漢字はそれを母国語としないものには習得が難しいが、いったん習得すると、その漢字を組合わせて新たな漢字を創り出すことが比較的容易にできるようになる。

 「躾(しつけ)」や「榊(サカキ)」、「峠(トウゲ)」「畠(ハタケ)」、「働(ハタラク)」などは日本人が創り出した見事な“和製漢字=国字”である。邪馬台国時代の漢字を使いこなした倭人の役人は「対馬」という用字で「ツシマ」を表記できたと考えてよいのではなかろうか。

  さて、卑弥呼の時代から日本側に漢字を使いこなせる人がいたとしたら、『日本書紀』の「日孁ひるめ」の「孁」をどのように考えることができるだろうか。

 先に示した日本古典大系本万葉集の頭注が説くように、「は書紀の筆者が女巫を意味的に示そうとした文字」であろうか。「対馬」が邪馬台国時代の用字であり、もし倭人側の用字であって後世に伝えられていたものなら、「日孁」も書紀編纂時の筆者の用字ではなく、もっと古い時代から伝えられてきた用字である可能性も出てくる。

  712年に成立した『古事記』の序文には、

日下くさか  帯たらし

というような用字は元のままに使って改めないと書かれている。つまり、『古事記』は参考にした古文献中の〝慣用的な訓み〟はそのままにしていたことが分かる。この慣用的な訓みがどこまでさかのぼれるのかは判然としない面があるが、『古事記』以前の古い時代にこのような慣用的な訓み、表記が存在したのであるから、書紀の「日孁」という用字も、書紀以前の慣用的な表記を示している可能性がかなりあると言えないだろうか。「日孁」の「孁」はかなり複雑で画数の多い漢字である。このような複雑な漢字を書紀の編纂時に創作する必要性がはたしてどれほどあるのだろうか。ヒルメという音を示すだけならば、

   比流売、卑留咩…音仮名を用いた表記

   日留女…訓仮名、音仮名を用いた表記

というように、比較的に画数の少ない簡単な文字を選ぶことができるはずである。もし、「巫女」の意味を示したいのであれば、「孁」という国字をつくらなくても、

  靈女、霊女 

というような文字、当時の“辞書”にも存在する文字を用いることができたはずである。「日孁=日ルメ」とするなら、「ヒルメ」は

  日靈女、日霊女

というように表すこともできたのではないだろうか。が、書紀の編者がそうはせず、「孁」といような文字を創作したように見えるのは、「日孁」が「日下くさか」や「帯たらし」と同様に古い時代から伝わってきたものであったからではないのか。  

 「日孁」が書紀編纂時の用字ではなく、もっと古くからの用字として存在していたと考え、書紀の編者が示す「大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ」というように、「日孁=ヒルメ」とする読みを捨て去ると、

孁=靈女=女巫=巫女=みこ   ∴日孁=日(ひ)巫女(みこ)

と簡単に読める。「日」をヒ、「孁」をミコと訓むのは素直な読み方である。

 『古代日本正史』(同志社刊 平成元年)の中で、原田常治氏は、古事記以前の「天照大御神」は、「天照国照あまてらすくにてらす日子天火明ひこあめのほあかり奇甕玉くしみかだま饒速日尊にぎはやひのみこと」であったと述べ、現在、伊勢皇大神宮に祀られている「天照大御神」は、

御名 大日霊女貴尊おお ひ みこむちのみこと (250頁より)

であるとし、

 「霊女」は今でも「ミコ」と読む。「霊女」を略字で「巫女みこ」とも書く。これに「日」を加えて「日霊女」(ヒミコ)と読むのが正しい。もしも、倭人伝にあるように、女王から中国の皇帝に送った文書が現在残っていたら、きっと「日霊女」と署名されていると思う。それを中国のほうで「卑弥呼」(ヒミコ)と当て字したものと思われる。

と説く。「霊女」という原田氏の用字は「孁」という書記で用いられている文字を原田氏流に書きかえたものと思われるが、「霊」ではなく「靈」を用いて「靈女」という用字にした方がよいように思う。それはともかく、原田氏はアマテラスを邪馬台国の女王の「卑弥呼」とし、書紀に示されているアマテラスの名前の「日孁 (=日霊女)」を「ヒミコ」と読む。原田氏は「日孁」という用字は邪馬台国の時代から使われていたと考えているようである。

 ※※この小論を最初に書いて2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した時には考えていなかったことであるが、「日孁」の「孁」という用字は、先に少し検討したように、

  “霝(レイ、リョウ:雨粒の義)”と“女”の合字 (* 注3)

と考えた方が良いかもしれない。「靈(=霊)」や「霝」に「雨」というかんむりがついているのは語源的に関係があると考えられる。藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(学燈社刊)によると、「靈(霊)」は{LEMG, LEK, LEG}という発音の単語家族に属し、「澄んできれいな」という基本義を持つ。これに密接に関連するのが「令」や「霝」の{LENG,LEK}という発音の単語家族で「数珠つなぎ」という発音を持つ。この二つのグループは発音的にも酷似し、意味的にもつながっていると考えてよいだろう。

 そうすると、「孁」という字は「霝」と「女」の合字であり、「霝」は「靈(霊)」の意味で用いられて、「女」と合わせて「孁」という和声漢字が創られたということになる。つまり、「日孁=日靈女=ひみこ=“卑弥呼(魏志の用字)”」となる。

  神功皇后を『魏志』の「卑弥呼」に比定した書記の編纂者は神代紀のアマテラスの「日孁」が「ひみこ」と読めることに気づいていて無視したのか、まったく気づかなかったのか、どちらであろうか。 

【「ミコ」の語源】

  「巫女(ミコ)」の語源について、『日本国語大辞典』は、

 カミコ (神子)の上略。ミコ(御子)の義。

という二つの語源説を挙げている。『日本国語大辞典』は、「御子」の語源について、

 「み」は接頭語

という語源的説明を述べているだけである。『岩波古語辞典』は、

みこ[御子]《ミは霊力のあるもの、神や天皇を指す》 ①神の子。天皇の子。男女共にいう。・・・②親王。・・・③【神子・巫女】神に仕え、神の託宣を伝える女性。・・・

というように説明をしており、「ミを神や天皇を指すことば」とし「御子」と「巫女」を同源の言葉と見ているようである。

 私も「御子」と「巫女」を同源とする考え方に基本的に賛成であるが、ヒミコの「ミコ」に関しては、さらに考慮すべき点があるように思う。

 「ヒジリ(聖)」という言葉がある。この語源は、

日(ヒ)・知(シリ) [漢字の「智」の構成要素を〝知日〟というように読んだもの](* 注2)

と私は考えている。万葉集の巻一・29番の柿本人麻呂の歌に、

橿原乃かしはら の  日知之御代従ひ じりのみよゆ (橿原の聖天子[神武天皇]の御代から)

とあり、人麻呂は「ヒジリ」を「天皇」の意味で用いており、その語源は「日知り」であるとして、この「日知」の用字を使っているものと考えられる。縄文時代の終わり頃から米の栽培が始まり、弥生時代には「米を制する」ものが支配者となったと考えてよいだろう。日本列島で継続的に安定して稲作をするのには一年のうちのいつ種を蒔くか、いつ収穫するか、いつ水田から水を抜くか、収穫したモミはどういうふうに貯えるか、というような多くの知識と技術の集積が必要であり、そのためには一年の長さを知り、一年の始まりとすべき何らかの時期を正確に知らなければならない。したがって、稲作が行われていた弥生時代には、中国の暦法が日本に導入される以前ではあるが、基本的な(冬至、夏至、特別な星の運行などを知る)太陽暦が存在したと考えるべきであろう。その太陽暦を熟知した人が「ヒジリ(日知り)」と呼ばれたのではないだろうか。つまり、古代においては〝太陽の運行を知る者〟は農耕社会において不可欠であり、

古代の指導者=太陽の運行を知る者=日知り=天皇

というような経過で、「ひじり」が天皇の意味で使われたのではないだろうか。

 さて、「ヒジリ=日知り」として、「ヒミコ(卑弥呼)」の語源はヒジリと意味的に共通で、

ヒミコ=ヒ(日) ミ(見) コ(子)

と考えられないだろうか。つまり、古代の支配者は、太陽の運行を熟知する人物であるから、〝太陽(日)を見る人(子)〟と理解するのである。太陽の運行を知るためには、常に日を見る必要がある。

 四千年ほど前に、古代エジプト人はシリウス(天狼星)が明け方、太陽が出る直前に東南の地平線に見えはじめるころに、ナイル川が増水(氾濫)することに気づき、それを利用して一年の長さが365日であることを知り、ナイル川の増水時期も予想できるようになり農耕開始の時期を誤りなく知ることができるようになった。これは、太陽とシリウスをの関係を利用した「太陽暦」と言えるものである。

 日本ではスバルまんどき粉八合」という俚諺や稲刈りの時期を教える「スバルが二丈ぐらいに達した時」というような言い伝えがあることから、スバル(昴)を利用した太陽暦が中国暦法が入る前には存在した可能性がある。日本は湿度が高く、大陸の乾燥した地域のようには星や星座がよく見えないこともあって、名前が星や星座についていないことも多いのであるが、スバルの名は『皇太神宮儀式帳』に「天須(あまつす)婆留女(ばるめ)命(のみこと)」とあり、古代人の生活にとってスバルが非常に重要な意味を持つ星であったのでこのように固有の名を残しているのであろう。

 邪馬台国の女王のヒミコ(卑弥呼)は、指導者として太陽の運行を知るために日々、太陽(と関連する特定の星)を観察していたので、

日(ヒ)・見(ミ)・子(コ)=邪馬台国の最高指導者  cf. ヒジリ=日知り=最高指導者の天皇

と呼ばれたのではないだろうか。そして、別に、書紀にも示されているように、太陽との深い関連を示す

日(ヒル)・女(メ)

という名前もあったと思われる。もちろん、ミコは「御子」の意味や「巫女」の意味を、邪馬台国の時代にも有していたと思われるので、「ヒミコ=日御子、日巫女」というように理解する人々もいたと思われる。つまり、卑弥呼は、

ヒミコ=日見子、日巫女、日御子

というように重なった意味(語源)を持つ名前として人々に理解されていた可能性がある。

  書紀に出てくる「大日孁貴」の「日孁」は「ヒミコ」と訓まれるべきものではないだろうか。アマテラスは「ヒルメ」と「ヒミコ」という二つの名前を持っていたものと思われる。また、「アマテラス=ヒミコ」ということと、安本年代論から、邪馬台国の女王の卑弥呼は書紀の「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」のことであると考えられる。

 「日孁」をヒミコと読むのは原田常治氏の説であり、「アマテラス=ヒミコ」とするのは安本美典氏などの説である。私はこの二つの説を強く支持している。

 本論文は、「ヒミコ」の語源を中心にして邪馬台国の女王の卑弥呼とアマテラスの関係を追求した。語源的見地から「卑弥呼=ヒミコ=日孁→ヒルメ=アマテラス」となり、安本年代論による結論と一致することになる。

 

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(*注1) 日本語は開音節語(CV語)で英語は閉音節語(CVC語)であるとよく言われますが、厳密な意味での開音節言語は世界に存在しません。英語の“pet”はpとcが子音(Consonant)でaは母音(Vowel)で、子音・母音・子音と並びCVCの形となります。一方、日本語の「蚊(カ:ka)」はそのローマ字をみれば、kは子音、aは母音であるから、CV語となるのですが、厳密には違います。

 大阪や京都では蚊を「カー」と発音することが多く、私は大阪人ですので「カーが飛んでる」などと言う場合が多いと思います。この「カー」は発音記号で書くと「ka:」と書けますが、厳密には、

  kaa ※このa は無声化したaで下に。を付けて表記するのが通常ですが、文字が見あたりませんので aで代用しました。

 このaは無声化したもので/ah/と書く方が正確です。つまり、最後は無声化したaが息の音hで終わり、厳密には母音で終わっていません。次に「カ」と発音し延ばさない方の「蚊」ですが、「kaʔ」というように最後に(軽く、人によっては強く声門破裂音になっている場合あり)声門閉鎖音(glottal stop)が入っています。つまり、人間は厳密な意味で開音節語を話すことはできないのですが、h音(息の音)や声門閉鎖音ʔは考慮せずに日本語は開音節言語であると言っているのです。

  「日」の非常に古い形は“pir”とし、末尾に“r”が付いているのは人間(人類)の発音の仕方として異様なことではありません(むしろ自然なことです)。日本語の非常に古い形の単語には(文献で証明できることではありませんが)“r”や“ng(=ŋ)”などが単語の末尾についていたと考えられます。そして、この末尾子音が、「ろ」や「の(な)」や「が」などの助詞を生み出したのではないのか、と私は考えています。

 

(* 注2) 漢字の構成要素を読んでいると考えられる言葉には次のようなものがあります。

娶…め(女)+とる(取)[取✓女]

袷…あはせ(合)+の+ころも(衣) [つるはみの袷衣~(万葉、巻十二・2965)]

艤…ふな(舟)+よそひ(義) [義✓舟(義=儀よそふ)][(万葉、巻十・2089)]

(* 注3) 合字には二、三種類あると考える方がよいと私は考えています。

① 901年に完成した『新撰字鏡』には「榊」の字が確認できます。この「榊」は、明らかに、「木」と「神」とからつくられた合字で和製漢字(国字)です。

② 海で潜水をして魚介類などをとる「アマ」がいます。表記は、海人、白水郎、泉郎などがあり、書紀では「白水郎」と出てきますが、万葉集では稿本によっては、白水郎ではなく“白と水”が一文字となり泉となって「泉郎」で「アマ」と読んでいます。

③書紀の推古天皇の16年のところに、「僧 日文」という言葉が出てきますが、次の舒明天皇4年のところには「僧 旻」と出てきます。この「日文」と「旻」は仕事の内容、事績から同一人物であることがわかっており、「旻ミン」という一文字表記が正しいとされています。これは一文字の「旻」を二文字の「日文」に分解した例でしょう。

 上の①は明らかな和製漢字(国字)です。②は筆写などによって合字になってしまった例になると思われます。③は合字ではなく、“逆合字”つまり、“分解文字群”ということになります。

 そして、この合字に気づかないために生じている混乱が、日本書紀と古事記で起こっている部分があると私は考えています。それは、次の機会に述べたいと思います。(2022年5月22日記)

 

 

 

 

 

 

 

 


神武天皇はいつ即位したか

2022-05-19 16:42:24 | 歴史と政治

  

神武天皇はいつ即位したか

**神武天皇の即位は291年である**

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  今、日本の歴史、世界の歴史の見直しが大きく行なわれていると言えだろう。とくに、日本において歪んだ近現代史の見方、とくに、戦後、GHQのWGIP(War Guilt Information Program: 戦争犯罪意識埋込計略)によって歪められた自虐史観を正そうとする動きが顕著に見られる。先の戦争は米国GHQが日本人に埋め込もうとした“アジアへの侵略戦争”ではなく、アジアの解放戦争という見方の方が、無法非道の米国が日本人に埋め込もうとした“日本が起こした侵略戦争”という見方よりもはるかに正しく当時の状況を説明する。つまり、大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本人特有の控え目な表現であり、「大東亜解放戦争」と名付ける方がより正確な表現であると私はいま考えている。

  戦後、GHQの教育介入によって歴史教育が大きく変わった。戦前の日本政府と日本軍を悪党にし、欧米がアジアやアフリカで行なってきた残虐非道な植民地支配は棚上げにしたのだ。 戦後の政治体制、政党体制は現行憲法と同様米国GHQの容認のもと、つくられた。本来なら米国で嵐のように起こったレッドパージによって、米共産党と同様に消滅させられる運命にあった日本共産党も、日本の政治を混乱させ日本が再軍備し米国への報復に向かわないために妨害する手駒として米国が残したと思われる。

  私は欧米のアジア・アフリカへの植民地主義とそれを知らないかのように日本を非難すする共産党の志位和夫委員長のツイートに対して次のように批判した。

 ①* 欧米列強の植民地主義、帝国主義の歴史に無知か無視かどちらかわからないが、戦争直後、日本に進駐してきた米国(中心の)軍隊を“”解放軍“”と呼んだだけあってよく世界の歴史を知っているのが日本共産党だ。爆弾と焼夷弾で何十万人という一般市民を虐殺し広島と長崎に原爆を落とし女性と子供を含む ② 一般市民を数十万人殺戮したのが戦争犯罪国・米国だ。その米国の悪辣非道の植民地主義(ハワイ王国とフィリピンで現地住民を数十万人無慈悲に殺害した)を覆い隠すのが、戦後、GHQの言論出版の統制とWGIP(戦争犯罪意識埋め込み計略)による洗脳教育だ。いま85歳以下の日本人は大多数この洗脳教育の呪縛下にいる。共産党から自民党の議員も例外ではない。米国の敷いた ③ レールに乗り 「植民地主義」で米国を非難するのではなく日本を非難するのは、非難の方向が間違っている。わざとやっているなら、日本の政党ではないし、歴史を知らずにやっているならバカと言うしかない。自国民を強制収容所に入れ迫害、弾圧、処刑を重ねる中国や北朝鮮の非道は見聞しないことにし ④ 嘘を重ねる韓国を擁護するのは日本に籍(席)をおく政党のすることではない。日本周辺のヤクザ国や野蛮国(中韓北米露)を擁護したいならこれらの国に行けばよい。これらの国の歴史(過酷な奴隷制の李氏朝鮮史を含めて)をもっと勉強したらどうか。 (2019年8月27日)

  共産党だけではなく、他の野党や、公明党や数多くの自民党議員も大多数の日本人と同様に戦前の悪逆非道の欧米列強の植民地での行動を理解していないうえに、日本を悪党化する米国の戦後政策(WGIP)などに洗脳されている、と言っても過言ではない。

  神武天皇の非実在説も戦後のGHQの教育介入によって生まれてきた。が、このような戦後の米国の政策に沿ったような誤説はその後、多数の研究者の手によって否定された。が、否定と同時に日本書紀(以後、「書記」と表記)の説く年代論をそのまま受入れ、紀元前660年に神武天皇が大和の地で即位した、とする人たちも何人も現れてきた。だが、紀元前660年即位は明らかに間違いである。

  書紀は編集する天武天皇側の正当性を主張する面を強くもっており、その意味では壬申の乱前後の歴史記述はかなり“曲がって”いると考えられる。また、神話の部分にも当時の天皇家とそれを支えていた豪族(貴族)たちの意向にそって(神話に登場する“神々”が自分の先祖に連なることを主張し、その活躍を記述させたいがために)書きかえ、書き加えが行われたところがかなりあるように見える。

  しかし、神武天皇以降、壬申の乱前後の記述を除いては意図的に歴史の記述を天武朝の編纂者はねじ曲げていないと私は考えている(第16代の仁徳天皇の長子の履中天皇から正式な文書を用いての国政が始まっているので、その時々の為政者によって、この辺りの記録が書紀編纂時に残っていたとしたら都合の悪いことは記述されていないか、曲げられている可能性はある)。もちろん、用いる史料の不十分さや判断ミスによって間違っているところはかなりあると考えてよい。そして、最大の誤りは“古代天皇一世60年説”と“辛酉革命説”とによって、古代天皇の治世を過剰に長くし、結果、神武天皇の即位年を紀元前660年の辛酉の年にしたことである。これは意図的な誤り、つまり、捏造というより、編集過程での判断の誤りであろう。

  いま、ここで私は当時の書紀編纂者の古代天皇の治世年代の誤りを正す手段として、次の三つの考え方をとりたい。

①安本美典氏の説く“古代天皇一代の治世は実際の平均は10年”(*注1)を正しい理論として採る。

②辛酉革命説ではなく“辛亥革命説”を用いる(これは私[永井津記夫]の創案)

③書紀は(平均すると)“古代天皇(神武帝から仁徳帝)1代の治世60年”という考えを導入し、結果として各天皇の治世の過剰な嵩上げをしている、という考え方を正しいものと見る。

  

【神武天皇の即位年を推定する】

  さて、ここから本題に移り、神武天皇の即位年を推定してみよう。

  古代天皇の実年代を出すために使う武器は、安本美典氏が提唱する“古代の天皇の平均在位年数は約10年”とする「安本年代論」である。また、私が発見し提唱する「辛亥革命説」は、ここでは確認のために補助的に使うことにしたい。

  書紀の編纂者は、『魏志』の東夷伝倭人条に記述されている邪馬台国女王の卑弥呼を神功皇后に比定し(*注*) 、3世紀のはじめに活躍した人物としている。

 神武帝から仁徳帝まで、16代で平均の在位年数が60年とすれば、仁徳帝の即位年から遡ればいいのであり、これは、安本年代論を用いて、その即位年の確実な天皇(敏達天皇など)から遡ればできるのであるが、今、ここでは書紀が確定している年代から遡ることにしたい。

  書紀は、神功皇后の39年のところに、

    魏志に云はく、明帝の景初三年六月~朝献す。(※景初三年=239年)

とあり、書紀の編纂者が神功皇后を「倭の女王(=卑弥呼)」に比定し、その活躍年代として、239年をもってきていることがわかる。

 日本書記の年代比定にしたがうと、239年が神功皇后の(治世)の39年であるから、その元年は、239-38=201年となる。神功皇后の夫の仲哀天皇の没年はその前年の200年になる。この西暦200年を起点に、その前に統治したの14天皇(神武~仲哀)の合計した統治期間は、

   60年X14代=840年 (※『書紀』が採用したと考えられる“古代天皇一代の治世60年”による)

となる。そうすると、神武天皇の即位年は、200年から840年さかのぼると、

    200―840+1=-641→ 紀元前641年 (※紀元0年がないので“1”を加える)

となる。書紀の採用したと考えてよい「古代天皇一代の治世60年」説に従い、さらに、書記が利用している『魏志』に出てくる客観的な239年を起点にさかのぼると、紀元前641年が出てくる。そして、この641年にもっとも近い“辛酉の年”は紀元前660年となる。

  書記の編纂者は、

1) 古代天皇(神武帝から仁徳帝)一代の治世60年”と考えた。

2) 『魏志』の239年を起点にさかのぼった。

3) 辛酉革命説によって、辛酉の年に初代神武天皇が即位したと考え、紀元前641年に最も近い660年の辛酉の年を神武天皇の即位年とした。

ということになる。しかし、この書記編纂者の判断は大きな誤りである。古代天皇の治世(在位期間)の大きな水増しがあると見える。具体的には神武天皇から仁徳天皇までの天皇に対して「天皇一世60年(天皇一代の治世60年)」で対処し(上記の③)、初代神武天皇の即位年を紀元前六百数十年と(推定)し、最後に「辛酉革命説」にもとづいて、その紀元前六百数十年に一番近い「辛酉年=紀元前660年」を神武の即位年と決定した。

 しかし、現在の私たちから見て、その“推定”は的はずれであると言わざるをえない。第21代雄略天皇の即位年は、有名な稲荷山古墳“辛亥銘の鉄刀”の辛亥年、つまり471年の辛亥年(八白土星の年)であると私は考えている(*注2)。 雄略と初代の神武天皇との代の差は20であるから、「平均在位年10年」で神武の即位年を計算すると、

   20(代)x10(年)=200(年)   471-200=271(年) ・・・①

となる。この計算によると、神武の即位年は271年(ころ)となる。

この271年をさらに検討しよう。

安本美典氏は『新版・卑弥呼の謎』(1988年 講談社刊)の90~92頁の中で、中国、朝鮮、西洋の王の平均在位年数を求め、1~4世紀の世界の王の平均在位年数の10年を導き出した。安本氏は、『東洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末の「中国歴代世系表」から、1~4世紀の中国の王の平均在位年数を、

 *10.04年 (65王のべ965年)

西洋の王の1~4世紀の平均在位年数を、『西洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部西洋史研究室編)の巻末の「各国元首表」から、

 *9.04年 (96王のべ615年)、

という数値をはじきだした。古代王の平均在位年数は約10年を裏づける数字である。さて、安本氏は、5~8世紀の日本の天皇の在位年数が10.88年であることから、1~4世紀の日本の天皇の平均在位年数を誤差の幅をつけて、8.84年11.26年とし、端数をとって、9年から11年とし、まずは10年とされる。

  さらに、安本氏は『新版・卑弥呼の謎』の178頁において、「私は、神武天皇が存在したばあい、その活躍の時代は、おそらく、280~300年ごろであろうと考えている。それは、次のような理由にもとづく。

⑴ 天皇の平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなる傾向が認められる。3世紀末から4世紀ごろの天皇の平均在位年数は、9年ていどではないかと思われる。

⑵ 『古事記』の記事をみると、応神、仁徳、崇神など、比較的在位期間が長かったのではないかと思われる天皇については記事の量が多い。逆に、在位期間が短かったのではないかと思われる天皇については、記事の量が、すくないようである。各天皇のうち、もっとも記事の量が多いのは、応神天皇で、3470字が費やされている。

 これに対して、第2代綏靖天皇以下8帝の記事には、すべてを合計しても、1805字が費やされているにすぎない。応神天皇一代の記事の量におよばない。帝紀的記事のみしか記されていない綏靖天皇以下の八帝は、実在したとしても、その期間は、比較的短かったのではなかろうか。8帝で、50~70年ていどではなかろうかと思われる。」と述べている。

  安本美典氏の考えにそって、当時の(初代から第20代の)天皇の平均在位年を9年とすると、

  20(代)x9(年)=180(年) 471-180=291(年)・・・② (471年は雄略の即位年とする)

となる。つまり、神武天皇は291年(ころ)に即位した、ということになる。

  さて、ここで「辛亥革命説」を持ち出したい。「291年」は「辛亥年」であり、しかも「八白土星年」である。辛亥年に革命が起こりやすい、辛亥年と八白土星年が重なると“革命が激化”し、大革命となりやすい、という「辛亥革命説」(*注3)にしたがえば、この291年はまさに大革命の起こる年である。神武天皇が九州から東征し、大和を征服し服属させ、その覇権を確立した年、「大革命」にふさわしい年と言える。

ただ、大和の征服、支配権の確立は短期間でなされるものではなく、その前の(東征を含めた)征服戦争、勝利の確定(神武の即位年)、その後の支配権の確立、強化を含めて、前後数年間も革命の期間と考える必要がある。つまり、291年が革命の中心年(神武の即位年)としても、その前後数年間は革命の期間とするのが通常の考え方であろう。つまり、

  286年~296年

が広い意味での「辛亥革命」の期間ということになる。

  中国に起こった「文化大革命」を思い出してほしい。革命は1971年(辛亥年)の林彪によるクーデター未遂事件をピークに、1966年に始まり1976年にほぼ終息した。

   1966年~1976年

という期間である。“大革命(=大混乱)”は始まりから終息まで10年くらい要することもあるということである。

 記紀は初代の神武天皇から第十代の崇神天皇まですべて父子継承としているが、安本氏が指摘するように、兄弟継承を父子継承としているばあいもかなりあるように思われる。兄弟継承のばあいは在位年数が短くなる傾向があるし、兄弟継承・父子継承に関係なく、上代になるほど在位期間は短くなる傾向もあるので、3世紀末から4世紀にかけての「平均在位年数」は10年よりも9年のほうが実態に近いように私自身も考える。安本氏の「初期天皇の平均在年数は約九年」という考えにそって導きだした「291年」は、私の提唱する「辛亥革命説」にピタリと重なるということである。ピンポイントに291年といっているけれども、その前後数年の誤差(幅)があることを念頭においていないわけではない。

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(*注1) 「古代天皇の一代の治世は平均10年」とする安本年代論は、安本氏の地道な日本と世界の古代王の治世(在位期間)の研究の成果と考えられる。これを認めると、日本の成立(神武天皇の即位)が3世紀の後半になり、もっと古い時代に日本の成立をもっていきたい人々にとっては断じて容認できない説になる。が、この安本年代論を支持する人も多数いる。

  私が安本年代論を重視して日本古代史の研究をすすめていた1980年代、1990年代には気づかなかったことであるが、印度哲学研究者であり曹洞宗僧侶であり東京大学教授の経歴を有する宇井伯寿氏(1882-1963)が仏滅年代を研究した時に、安本年代論と同様の考え方で釈尊の生没年をはじき出していることを知った。彼は、『印度哲学研究第二』の「仏滅年代論」中で、「アショーカ王当時のセイロン王デーヴィナムビヤテッサの即位年の前247年から、紀元544年にいたる72代の王の平均在位年数は約11年にすぎないのに、仏滅からアショーカ王までの期間にセイロンに在位した5人の王(ヴィジャ王~ムタシーヴ王)の合計の在位年数が218年(一代平均在年数43.6年)は異常で信用できない」として仏滅年代を“平均在位年数11年”をもとにして算出し、釈尊の生年を紀元前466年、没年を紀元前386年とした。仏滅年代に関しては私もこの宇井説がほぼ正しいと考えている。

 安本年代論は日本古代史を解明する大きな武器であるが、彼の考えに先行する宇井白寿年代説(仏滅年代に関して)が大正時代にすでに存在していたということである。

 安本年代論は古代史における天皇の年代の確定に最高の武器になるものであるが、これを無視しようとする勢力の力も大きいように見える。また、宇井白寿説(ほぼ、同様の中村元説)も、釈尊の生没年をほぼ正しくとらえたものであるのに、日本の仏教界も、世界の仏教界もその周りの研究者も認めようとはしていないように見える。残念なことである。

 

(*注2) 471年の辛亥年に“辛亥の変”を起こし、兄弟と従兄弟を皆殺しにして天皇位についたのが雄略天皇であると私は考えている。この考えは私のブログ「雄略天皇のクーデターと辛亥銘鉄刀の銘文の訓み誤り」(https://blog.goo.ne.jp/151144itnagai/e/80b44220dee6360643198bba77274688)に詳述。また、『東アジアの古代文化76号』(大和書房 1993年)所収の拙論「辛亥の変とワカタケル」および、季刊『邪馬台国67号』(梓書院刊 1999年)に再掲載された同名の論文の中で「辛亥の変」と雄略天皇の関係を論じている。これを高く評価してくれる人もいるが、なかなか一般の人々には浸透していかないのは残念なことである。この「471年」が日本古代史の定点となれば、闇につつまれた4世紀と5世紀前半年代の謎を解く一つの大きなカギになるだろう。

 

(*注3) 「辛亥革命説」は、私が日本の奈良・平安時代に存在し、大きな影響力を持っていた「辛酉革命説」に対して、この考え方の「辛酉年」を否定し、この考え方を異なる干支、つまり、「辛亥」に当てはめたものである。

  私の「辛亥革命説」の根幹を簡単にまとめると、

辛亥年に「大事件」、つまり、大きな革命(戦争)、政変、クーデターなどが起こりやすい。

②辛亥年を基点に1260年(一蔀)(*注*+)ごとに大事件が起こりやすい。つぎに、「1260±60」年および「1260±180」年も大事件の起こりやすい年として考慮する。

③辛亥年と八白土星年が重なると「大事件」の度合いが激化する。

ということになる。③の「八白土星年」と革命年の関係は辛酉革命説にはないもので私の新たな付加であり、その意味では新説である。「1260±180」年も私の新たな付加である。

 「辛亥革命説」は占星術の一種であり、“星の動き(十干十二支、九星、二十八宿、七曜など)”に基づいて、個人や国の運命を推測する。推測統計学の一種と考えてよい。かなり“大雑把な=占術者のインスピレーションも必要とする”推測統計学と言える。

 現在の推測統計学無作為抽出された部分集団(抽出集団、標本集団)から抽出元全体(母集団)の特徴、性質を推定する統計学の分野を言う。が、現実問題として“無作為抽出” することは不可能である。抽出した固定電話からの回答、携帯電話からの回答、ネットを利用した回答などはその時点で“無作為抽出された”という推測統計学の原則からはずれている。つまり、固定電話を有する層、携帯電話(スマホ)を有する層、ネットでアンケートに答える層など、その各層がすでに“無作為抽出された”という原則からズレており、推測統計学が正常に機能する条件を逸脱している。私などは政治に対して強い関心を持っているが、マスコミの電話などによる政党などの支持率調査に応じず、意識的に拒否している。嘘か、嘘に近い報道を平気でするマスコミに答える義務はない、と思っている。そして、マスコミの調査はこの回答拒否者の処理が適切にできていないため、昨年10月末の衆院選で出口調査を含めた各党の当選者数の予測数をNHKをはじめ各社が大きくはずしたのである(出口調査では回答者が嘘をつく可能性を考慮していないし、その調査に応じず拒否したものの数もおそらく調査の分母からはずしている)

 現在のマスコミやその周辺の調査機関やそれを支える統計学の専門家のレベルが、“時代の変化”に対応できていないと私は考えている。そうではなく、わざと実態とはズレた統計数字を出しているとしたら、マスコミはますます国民の支持を失い、購読者数をさらに減らしていくことになる。 

(*注*) 書紀は、神功皇后を『魏志』の倭の女王(卑弥呼)と比定したが、これを深く追求することは避けているのかもしれない。書紀は魏が倭を朝貢国と見ている事実にあまり詳しく立ち入りたくなかったのか、それとも「卑弥呼」に対して深く立ち入りたくなかったのか?当時の書記編纂者は「卑弥呼」という用字を簡単に「ヒミコ」と読めたはずである。そして、当時の書紀編纂所には天照大御神に対して「日孁(大日孁貴)」という用字が使われている史料あったと思われ、この「日孁」は「ヒルメ」と読んでいるのであるが、むしろ、「ヒミコ」と読むことができると私は考えている。次のブログは「卑弥呼と大日孁貴」という題で卑弥呼と天照大御神の関係を考えてみたい。 (2022年5月19日記)

(*注*+) “1260年(一蔀)”がなぜ辛酉革命説で重要視されているのかは、占星学的知識があれば容易に理解できることである。占星術には九星(9)を利用したもの、十干十二支(10と12)によるもの、二十八宿(28)によるもの、七曜(7)によるものなどがある。年月日をこれらによって関連付けて未来を予測するのであるが、逆に記録に残っていない過去の出来事も推定できることになる。1260という数字は、9と10と12と28と7の最小公倍数になる。つまり、ある年の占星術的“星”の配置は、その年の1260年前の星の配置と“同じ”になる、ということで“1260”という数字が用いられていると考えられる。1260±60の年の場合は十干十二支が一致し、±180の場合は十干十二支に加えて九星も一致するということである。±60は辛酉革命説では異説などの形で出てくる。±180は私(永井)の付加(創案)である。  (2022年5月30日追記)