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卑弥呼と大日孁について

2022-05-22 21:59:10 | 歴史と政治

 

 前回のブログ「神武天皇はいつ即位したか」の続きとして、今回の「卑弥呼と大日孁について」を書きました。私は戦後にわかに登場した「神武天皇非実在説」やそれ以後の8代の天皇を架空の天皇とする「欠史八代説」などは明らかな謬説であると考えています。

 日本書紀は架空の天皇を追加する、つまり、捏造するというようなことはしていないが、その編纂者は天皇の実年代の決定に大きな誤りを犯していると見るのが正解でしょう。神武天皇の即位年を紀元前660年としたことなどは大きな誤りです。その他、いくつかの箇所で判断のミスがあると思われます。

  この小論は2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した論文を修正したものです。まず、読みにくいところを“減筆”修正し、そのあと、加筆修正しました。

 

卑弥呼(ヒミコ)大日孁(オホヒル メ )について

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

 邪馬台国の女王の卑弥呼は、記紀にあらわれる天照御大神であるとする説がある。安本美典氏は古代天皇の平均在位年を約10年とし、全ての天皇の実在を認めて、第一代の神武天皇の活躍年代を290年頃とする。

そして、神武天皇よりも5代前の天照大御神あまてらすおおみかみの活躍時期を、5代×10年=50年で、50年ほどさかのぼり240年頃とする。卑弥呼は『魏志』倭人伝によると239年に魏に遣使しており、安本氏の年代観に従うと、卑弥呼の活躍時期は天照大御神のそれと重なることになる。

神話の中に史実の核があることは、シュリーマンが紀元前8世紀ころに活躍した詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」から紀元前13世紀に起こったとされるトロイ戦争の舞台となったトロイの遺跡を発見したこと持ち出すまでもなく、世界の歴史家の共通認識である。

日本の神話の中にも歴史的事実があることは確実である。「卑弥呼=天照大御神」説を「歴史的事実と神話を結びつけるものだ」として頭ごなしに非難する人がいるが、それは世界の常識に反することになる。

 

【アマテラスとヒルメ】

  日本古典文学大系本『日本書紀 上』の神代上に、

 既にしてイザナキの尊・イザナミの尊、共に議(はか)りてのたまはく、「吾已に大八洲國(おほやしまのくに)及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」とのたまふ。ここに、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と號す。大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ。・・・・・一書に云はく、天照大神あまてらすおほみかみといふ。一書に云はく、天照大日孁尊あまてらすおほひるめのみことといふ。

というように記述されている。「大日孁貴」の中の「孁」という文字については頭注の中で、

この靈の巫を女に改め、孁とすることによって、女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる。

とし、「靈(霊の旧字体)+女」 で「女巫」を示そうとした、としている。つまり、「孁」という文字は書紀の編者がつくり出した文字、和製漢字、「国字」であると日本文学大系本『日本書紀』の校注者は見ている。

  また、万葉集巻二・167番の柿本人麻呂の歌に

天照日女之命あまてらすひるめのみこと 一云 指上さしあがる日女之命ひるめのみこと

とあり、これらから、

  天照大御神=天照大日孁貴=大日孁貴=(天照)日女之命

となる。今、ここで「天照大御神」をアマテラスと呼ぶことにする。「大日孁貴」の「大」と「貴」は尊称(美称)と考えられるから、アマテラスの実名は、『日本書紀』(以後、“書紀”と表記)によれば、

  日孁=日女=ヒルメ

となる。書紀が「日孁」を、注をつけて「比屡咩(ひるめ)」と訓んでおり、万葉集の「日女」も「ひるめ」と訓めるから、奈良時代には、アマテラスは、「オオヒルメ の ムチ」というように呼ばれていたことになる。

 「日」はふつう「ひ」と訓むが、「ヒル」と訓むこともある。たとえば、万葉集に

   赤根刺あかねさす 日者ひるは之弥良尓しみらに 烏玉之ぬばたまの 夜者よるは酢辛二すがらに (巻十三・3297)

というように「日」をヒルと訓む例が出てくる。3297番の歌の場合、後の「夜」との関連やヒと訓むと六音の字足らずとなるので、この「日」はヒルと訓むのはまず間違いがない。

 『時代別国語大辞典 上代編』は「ひる」について、

ひる[昼](名) 昼。ひるま。日が出てから没するまでの間。ヨルの対。ヨに対するヨルと同じく、日から派生した語か。

というように説明している。「ヒル」は「昼」という漢字を用いるのが普通であるが、「ヒ」と「ヒル」は語源的に同じで異形態(Allomorph)と考えられるものである。

  この「ヒル」の「ル」については、日本古典文学大系本『万葉集 』などは、助詞ノ(“私本”における助詞の“の”こと)と同意の古語であると考えているが、これは語の起源とも関連する問題であり、起源的には単語の末尾についていた“r”音によるものと考える方がよいと思う。

  pir(“日”を意味する非常に古い形)pi (日) 

    pir(“日”を意味する非常に古い形)piru (日)

と考える。(*注1)  

  さて、書紀の編者の考えに従うと、「大日孁貴おほひるめむち」のヒルメは、「日ひる=ヒルメ=日ひる」となる。書紀の編者は「靈(“霊”の旧字体)+女」で「女巫」を示そうとした、ということは前述したのであるが、ここでさらに考えてみたい。

  頭注は、「孁」という文字は書紀の筆者のつくり出したものであると考えているのであるが、もう少し単純に考えることができるのではないだろうか。

 単純に考えると、「霝」と「女」の(意図的ではないかもしれない)合字と考えられないだろうか。つまり、

    霝 + 女 → 孁

となる。「霝」は当時、存在した文字で、「霊(=靈)レイ」と同音で「したたり落ちるしずく」を意味するが、この文字を「霊」として使い(一種の仮借)、下に「女」を続ければ、「霊女」つまり、「ミコ(巫女)」を意味する「孁」ができあがる。  

 

【「日孁」は記紀以前の古い用字ではないか】

  『魏志』「倭人伝」に出てくる国名の「対馬」は現在でもまったく同じ用字で使われている。この用字は、編纂当時に残っていた史料にもとづいて編者の陳寿が使ったものである。「対馬」は邪馬台国と接触していた帯方郡の役人が使った用字とふつう見なされている。が、当時の倭人は魏との外交による接触で、漢字を使いこなせる階級もいたとする説があり、「対馬」もその漢字を使いこなせる倭国側の人間が書いたと見る人もいる。

  小松格氏は「卑弥呼は漢字が読めた」(『季刊邪馬台国 33号』)という論文の中で、

『魏志』「倭人伝」の「対馬」は、中国側が倭人の発音を聞いて文字表記したのではなく、倭人側(たぶん邪馬台国の役人たちであろう)から示された文字をそのまま使用したものと考えられる。・・・・・・・・

 現在でも対馬島は二個の島からできている。つまり「対馬」とは音表記ではなく、訓表記であったのである。

(※下線は筆者の永井による・・・漢字の音を利用した音訳であると同時にその意味を利用した訳(訓訳)も含んでいると考えた方がよい。「訓表記」という表現は「訓仮名」を連想させるので適当ではないように思われる。

という趣旨の記述をしている。

  私も、邪馬台国時代の一部の倭国の役人(官僚)は漢字を自由に使いこなすことができたものと考えている。「対馬」は中国の役人が倭人の発音を聞いて表記したと見ることもできないわけではないが、小松氏が言うように倭人側の用字である可能性が高いように思う。

 「対馬」は上古音、中古音で「トマ」「タイマ」と読め、「ツシマ」に近く読んでも「ツマ」「ツイマ」としか読めないが、対馬の地形をとらえて〝北島と南島が対になっている島〟というような意味を含んでいるとしたら、倭人側の表記である可能性が高くなるように思う。対馬が「倶楽部(クラブ)」のように英語のclubを漢字で音訳すると同時に漢字の意味からその内容を示すようにしたもの(倶楽部=ともに楽しむところ)としたら、中国側の役人の表記と考えるよりも、日本側の役人が島の地形の状態を考えてのつくり出した表記とする方がよいのではなかろうか。

 漢字はそれを母国語としないものには習得が難しいが、いったん習得すると、その漢字を組合わせて新たな漢字を創り出すことが比較的容易にできるようになる。

 「躾(しつけ)」や「榊(サカキ)」、「峠(トウゲ)」「畠(ハタケ)」、「働(ハタラク)」などは日本人が創り出した見事な“和製漢字=国字”である。邪馬台国時代の漢字を使いこなした倭人の役人は「対馬」という用字で「ツシマ」を表記できたと考えてよいのではなかろうか。

  さて、卑弥呼の時代から日本側に漢字を使いこなせる人がいたとしたら、『日本書紀』の「日孁ひるめ」の「孁」をどのように考えることができるだろうか。

 先に示した日本古典大系本万葉集の頭注が説くように、「は書紀の筆者が女巫を意味的に示そうとした文字」であろうか。「対馬」が邪馬台国時代の用字であり、もし倭人側の用字であって後世に伝えられていたものなら、「日孁」も書紀編纂時の筆者の用字ではなく、もっと古い時代から伝えられてきた用字である可能性も出てくる。

  712年に成立した『古事記』の序文には、

日下くさか  帯たらし

というような用字は元のままに使って改めないと書かれている。つまり、『古事記』は参考にした古文献中の〝慣用的な訓み〟はそのままにしていたことが分かる。この慣用的な訓みがどこまでさかのぼれるのかは判然としない面があるが、『古事記』以前の古い時代にこのような慣用的な訓み、表記が存在したのであるから、書紀の「日孁」という用字も、書紀以前の慣用的な表記を示している可能性がかなりあると言えないだろうか。「日孁」の「孁」はかなり複雑で画数の多い漢字である。このような複雑な漢字を書紀の編纂時に創作する必要性がはたしてどれほどあるのだろうか。ヒルメという音を示すだけならば、

   比流売、卑留咩…音仮名を用いた表記

   日留女…訓仮名、音仮名を用いた表記

というように、比較的に画数の少ない簡単な文字を選ぶことができるはずである。もし、「巫女」の意味を示したいのであれば、「孁」という国字をつくらなくても、

  靈女、霊女 

というような文字、当時の“辞書”にも存在する文字を用いることができたはずである。「日孁=日ルメ」とするなら、「ヒルメ」は

  日靈女、日霊女

というように表すこともできたのではないだろうか。が、書紀の編者がそうはせず、「孁」といような文字を創作したように見えるのは、「日孁」が「日下くさか」や「帯たらし」と同様に古い時代から伝わってきたものであったからではないのか。  

 「日孁」が書紀編纂時の用字ではなく、もっと古くからの用字として存在していたと考え、書紀の編者が示す「大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ」というように、「日孁=ヒルメ」とする読みを捨て去ると、

孁=靈女=女巫=巫女=みこ   ∴日孁=日(ひ)巫女(みこ)

と簡単に読める。「日」をヒ、「孁」をミコと訓むのは素直な読み方である。

 『古代日本正史』(同志社刊 平成元年)の中で、原田常治氏は、古事記以前の「天照大御神」は、「天照国照あまてらすくにてらす日子天火明ひこあめのほあかり奇甕玉くしみかだま饒速日尊にぎはやひのみこと」であったと述べ、現在、伊勢皇大神宮に祀られている「天照大御神」は、

御名 大日霊女貴尊おお ひ みこむちのみこと (250頁より)

であるとし、

 「霊女」は今でも「ミコ」と読む。「霊女」を略字で「巫女みこ」とも書く。これに「日」を加えて「日霊女」(ヒミコ)と読むのが正しい。もしも、倭人伝にあるように、女王から中国の皇帝に送った文書が現在残っていたら、きっと「日霊女」と署名されていると思う。それを中国のほうで「卑弥呼」(ヒミコ)と当て字したものと思われる。

と説く。「霊女」という原田氏の用字は「孁」という書記で用いられている文字を原田氏流に書きかえたものと思われるが、「霊」ではなく「靈」を用いて「靈女」という用字にした方がよいように思う。それはともかく、原田氏はアマテラスを邪馬台国の女王の「卑弥呼」とし、書紀に示されているアマテラスの名前の「日孁 (=日霊女)」を「ヒミコ」と読む。原田氏は「日孁」という用字は邪馬台国の時代から使われていたと考えているようである。

 ※※この小論を最初に書いて2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した時には考えていなかったことであるが、「日孁」の「孁」という用字は、先に少し検討したように、

  “霝(レイ、リョウ:雨粒の義)”と“女”の合字 (* 注3)

と考えた方が良いかもしれない。「靈(=霊)」や「霝」に「雨」というかんむりがついているのは語源的に関係があると考えられる。藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(学燈社刊)によると、「靈(霊)」は{LEMG, LEK, LEG}という発音の単語家族に属し、「澄んできれいな」という基本義を持つ。これに密接に関連するのが「令」や「霝」の{LENG,LEK}という発音の単語家族で「数珠つなぎ」という発音を持つ。この二つのグループは発音的にも酷似し、意味的にもつながっていると考えてよいだろう。

 そうすると、「孁」という字は「霝」と「女」の合字であり、「霝」は「靈(霊)」の意味で用いられて、「女」と合わせて「孁」という和声漢字が創られたということになる。つまり、「日孁=日靈女=ひみこ=“卑弥呼(魏志の用字)”」となる。

  神功皇后を『魏志』の「卑弥呼」に比定した書記の編纂者は神代紀のアマテラスの「日孁」が「ひみこ」と読めることに気づいていて無視したのか、まったく気づかなかったのか、どちらであろうか。 

【「ミコ」の語源】

  「巫女(ミコ)」の語源について、『日本国語大辞典』は、

 カミコ (神子)の上略。ミコ(御子)の義。

という二つの語源説を挙げている。『日本国語大辞典』は、「御子」の語源について、

 「み」は接頭語

という語源的説明を述べているだけである。『岩波古語辞典』は、

みこ[御子]《ミは霊力のあるもの、神や天皇を指す》 ①神の子。天皇の子。男女共にいう。・・・②親王。・・・③【神子・巫女】神に仕え、神の託宣を伝える女性。・・・

というように説明をしており、「ミを神や天皇を指すことば」とし「御子」と「巫女」を同源の言葉と見ているようである。

 私も「御子」と「巫女」を同源とする考え方に基本的に賛成であるが、ヒミコの「ミコ」に関しては、さらに考慮すべき点があるように思う。

 「ヒジリ(聖)」という言葉がある。この語源は、

日(ヒ)・知(シリ) [漢字の「智」の構成要素を〝知日〟というように読んだもの](* 注2)

と私は考えている。万葉集の巻一・29番の柿本人麻呂の歌に、

橿原乃かしはら の  日知之御代従ひ じりのみよゆ (橿原の聖天子[神武天皇]の御代から)

とあり、人麻呂は「ヒジリ」を「天皇」の意味で用いており、その語源は「日知り」であるとして、この「日知」の用字を使っているものと考えられる。縄文時代の終わり頃から米の栽培が始まり、弥生時代には「米を制する」ものが支配者となったと考えてよいだろう。日本列島で継続的に安定して稲作をするのには一年のうちのいつ種を蒔くか、いつ収穫するか、いつ水田から水を抜くか、収穫したモミはどういうふうに貯えるか、というような多くの知識と技術の集積が必要であり、そのためには一年の長さを知り、一年の始まりとすべき何らかの時期を正確に知らなければならない。したがって、稲作が行われていた弥生時代には、中国の暦法が日本に導入される以前ではあるが、基本的な(冬至、夏至、特別な星の運行などを知る)太陽暦が存在したと考えるべきであろう。その太陽暦を熟知した人が「ヒジリ(日知り)」と呼ばれたのではないだろうか。つまり、古代においては〝太陽の運行を知る者〟は農耕社会において不可欠であり、

古代の指導者=太陽の運行を知る者=日知り=天皇

というような経過で、「ひじり」が天皇の意味で使われたのではないだろうか。

 さて、「ヒジリ=日知り」として、「ヒミコ(卑弥呼)」の語源はヒジリと意味的に共通で、

ヒミコ=ヒ(日) ミ(見) コ(子)

と考えられないだろうか。つまり、古代の支配者は、太陽の運行を熟知する人物であるから、〝太陽(日)を見る人(子)〟と理解するのである。太陽の運行を知るためには、常に日を見る必要がある。

 四千年ほど前に、古代エジプト人はシリウス(天狼星)が明け方、太陽が出る直前に東南の地平線に見えはじめるころに、ナイル川が増水(氾濫)することに気づき、それを利用して一年の長さが365日であることを知り、ナイル川の増水時期も予想できるようになり農耕開始の時期を誤りなく知ることができるようになった。これは、太陽とシリウスをの関係を利用した「太陽暦」と言えるものである。

 日本ではスバルまんどき粉八合」という俚諺や稲刈りの時期を教える「スバルが二丈ぐらいに達した時」というような言い伝えがあることから、スバル(昴)を利用した太陽暦が中国暦法が入る前には存在した可能性がある。日本は湿度が高く、大陸の乾燥した地域のようには星や星座がよく見えないこともあって、名前が星や星座についていないことも多いのであるが、スバルの名は『皇太神宮儀式帳』に「天須(あまつす)婆留女(ばるめ)命(のみこと)」とあり、古代人の生活にとってスバルが非常に重要な意味を持つ星であったのでこのように固有の名を残しているのであろう。

 邪馬台国の女王のヒミコ(卑弥呼)は、指導者として太陽の運行を知るために日々、太陽(と関連する特定の星)を観察していたので、

日(ヒ)・見(ミ)・子(コ)=邪馬台国の最高指導者  cf. ヒジリ=日知り=最高指導者の天皇

と呼ばれたのではないだろうか。そして、別に、書紀にも示されているように、太陽との深い関連を示す

日(ヒル)・女(メ)

という名前もあったと思われる。もちろん、ミコは「御子」の意味や「巫女」の意味を、邪馬台国の時代にも有していたと思われるので、「ヒミコ=日御子、日巫女」というように理解する人々もいたと思われる。つまり、卑弥呼は、

ヒミコ=日見子、日巫女、日御子

というように重なった意味(語源)を持つ名前として人々に理解されていた可能性がある。

  書紀に出てくる「大日孁貴」の「日孁」は「ヒミコ」と訓まれるべきものではないだろうか。アマテラスは「ヒルメ」と「ヒミコ」という二つの名前を持っていたものと思われる。また、「アマテラス=ヒミコ」ということと、安本年代論から、邪馬台国の女王の卑弥呼は書紀の「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」のことであると考えられる。

 「日孁」をヒミコと読むのは原田常治氏の説であり、「アマテラス=ヒミコ」とするのは安本美典氏などの説である。私はこの二つの説を強く支持している。

 本論文は、「ヒミコ」の語源を中心にして邪馬台国の女王の卑弥呼とアマテラスの関係を追求した。語源的見地から「卑弥呼=ヒミコ=日孁→ヒルメ=アマテラス」となり、安本年代論による結論と一致することになる。

 

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(*注1) 日本語は開音節語(CV語)で英語は閉音節語(CVC語)であるとよく言われますが、厳密な意味での開音節言語は世界に存在しません。英語の“pet”はpとcが子音(Consonant)でaは母音(Vowel)で、子音・母音・子音と並びCVCの形となります。一方、日本語の「蚊(カ:ka)」はそのローマ字をみれば、kは子音、aは母音であるから、CV語となるのですが、厳密には違います。

 大阪や京都では蚊を「カー」と発音することが多く、私は大阪人ですので「カーが飛んでる」などと言う場合が多いと思います。この「カー」は発音記号で書くと「ka:」と書けますが、厳密には、

  kaa ※このa は無声化したaで下に。を付けて表記するのが通常ですが、文字が見あたりませんので aで代用しました。

 このaは無声化したもので/ah/と書く方が正確です。つまり、最後は無声化したaが息の音hで終わり、厳密には母音で終わっていません。次に「カ」と発音し延ばさない方の「蚊」ですが、「kaʔ」というように最後に(軽く、人によっては強く声門破裂音になっている場合あり)声門閉鎖音(glottal stop)が入っています。つまり、人間は厳密な意味で開音節語を話すことはできないのですが、h音(息の音)や声門閉鎖音ʔは考慮せずに日本語は開音節言語であると言っているのです。

  「日」の非常に古い形は“pir”とし、末尾に“r”が付いているのは人間(人類)の発音の仕方として異様なことではありません(むしろ自然なことです)。日本語の非常に古い形の単語には(文献で証明できることではありませんが)“r”や“ng(=ŋ)”などが単語の末尾についていたと考えられます。そして、この末尾子音が、「ろ」や「の(な)」や「が」などの助詞を生み出したのではないのか、と私は考えています。

 

(* 注2) 漢字の構成要素を読んでいると考えられる言葉には次のようなものがあります。

娶…め(女)+とる(取)[取✓女]

袷…あはせ(合)+の+ころも(衣) [つるはみの袷衣~(万葉、巻十二・2965)]

艤…ふな(舟)+よそひ(義) [義✓舟(義=儀よそふ)][(万葉、巻十・2089)]

(* 注3) 合字には二、三種類あると考える方がよいと私は考えています。

① 901年に完成した『新撰字鏡』には「榊」の字が確認できます。この「榊」は、明らかに、「木」と「神」とからつくられた合字で和製漢字(国字)です。

② 海で潜水をして魚介類などをとる「アマ」がいます。表記は、海人、白水郎、泉郎などがあり、書紀では「白水郎」と出てきますが、万葉集では稿本によっては、白水郎ではなく“白と水”が一文字となり泉となって「泉郎」で「アマ」と読んでいます。

③書紀の推古天皇の16年のところに、「僧 日文」という言葉が出てきますが、次の舒明天皇4年のところには「僧 旻」と出てきます。この「日文」と「旻」は仕事の内容、事績から同一人物であることがわかっており、「旻ミン」という一文字表記が正しいとされています。これは一文字の「旻」を二文字の「日文」に分解した例でしょう。

 上の①は明らかな和製漢字(国字)です。②は筆写などによって合字になってしまった例になると思われます。③は合字ではなく、“逆合字”つまり、“分解文字群”ということになります。

 そして、この合字に気づかないために生じている混乱が、日本書紀と古事記で起こっている部分があると私は考えています。それは、次の機会に述べたいと思います。(2022年5月22日記)

 

 

 

 

 

 

 

 


神武天皇はいつ即位したか

2022-05-19 16:42:24 | 歴史と政治

  

神武天皇はいつ即位したか

**神武天皇の即位は291年である**

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  今、日本の歴史、世界の歴史の見直しが大きく行なわれていると言えだろう。とくに、日本において歪んだ近現代史の見方、とくに、戦後、GHQのWGIP(War Guilt Information Program: 戦争犯罪意識埋込計略)によって歪められた自虐史観を正そうとする動きが顕著に見られる。先の戦争は米国GHQが日本人に埋め込もうとした“アジアへの侵略戦争”ではなく、アジアの解放戦争という見方の方が、無法非道の米国が日本人に埋め込もうとした“日本が起こした侵略戦争”という見方よりもはるかに正しく当時の状況を説明する。つまり、大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本人特有の控え目な表現であり、「大東亜解放戦争」と名付ける方がより正確な表現であると私はいま考えている。

  戦後、GHQの教育介入によって歴史教育が大きく変わった。戦前の日本政府と日本軍を悪党にし、欧米がアジアやアフリカで行なってきた残虐非道な植民地支配は棚上げにしたのだ。 戦後の政治体制、政党体制は現行憲法と同様米国GHQの容認のもと、つくられた。本来なら米国で嵐のように起こったレッドパージによって、米共産党と同様に消滅させられる運命にあった日本共産党も、日本の政治を混乱させ日本が再軍備し米国への報復に向かわないために妨害する手駒として米国が残したと思われる。

  私は欧米のアジア・アフリカへの植民地主義とそれを知らないかのように日本を非難すする共産党の志位和夫委員長のツイートに対して次のように批判した。

 ①* 欧米列強の植民地主義、帝国主義の歴史に無知か無視かどちらかわからないが、戦争直後、日本に進駐してきた米国(中心の)軍隊を“”解放軍“”と呼んだだけあってよく世界の歴史を知っているのが日本共産党だ。爆弾と焼夷弾で何十万人という一般市民を虐殺し広島と長崎に原爆を落とし女性と子供を含む ② 一般市民を数十万人殺戮したのが戦争犯罪国・米国だ。その米国の悪辣非道の植民地主義(ハワイ王国とフィリピンで現地住民を数十万人無慈悲に殺害した)を覆い隠すのが、戦後、GHQの言論出版の統制とWGIP(戦争犯罪意識埋め込み計略)による洗脳教育だ。いま85歳以下の日本人は大多数この洗脳教育の呪縛下にいる。共産党から自民党の議員も例外ではない。米国の敷いた ③ レールに乗り 「植民地主義」で米国を非難するのではなく日本を非難するのは、非難の方向が間違っている。わざとやっているなら、日本の政党ではないし、歴史を知らずにやっているならバカと言うしかない。自国民を強制収容所に入れ迫害、弾圧、処刑を重ねる中国や北朝鮮の非道は見聞しないことにし ④ 嘘を重ねる韓国を擁護するのは日本に籍(席)をおく政党のすることではない。日本周辺のヤクザ国や野蛮国(中韓北米露)を擁護したいならこれらの国に行けばよい。これらの国の歴史(過酷な奴隷制の李氏朝鮮史を含めて)をもっと勉強したらどうか。 (2019年8月27日)

  共産党だけではなく、他の野党や、公明党や数多くの自民党議員も大多数の日本人と同様に戦前の悪逆非道の欧米列強の植民地での行動を理解していないうえに、日本を悪党化する米国の戦後政策(WGIP)などに洗脳されている、と言っても過言ではない。

  神武天皇の非実在説も戦後のGHQの教育介入によって生まれてきた。が、このような戦後の米国の政策に沿ったような誤説はその後、多数の研究者の手によって否定された。が、否定と同時に日本書紀(以後、「書記」と表記)の説く年代論をそのまま受入れ、紀元前660年に神武天皇が大和の地で即位した、とする人たちも何人も現れてきた。だが、紀元前660年即位は明らかに間違いである。

  書紀は編集する天武天皇側の正当性を主張する面を強くもっており、その意味では壬申の乱前後の歴史記述はかなり“曲がって”いると考えられる。また、神話の部分にも当時の天皇家とそれを支えていた豪族(貴族)たちの意向にそって(神話に登場する“神々”が自分の先祖に連なることを主張し、その活躍を記述させたいがために)書きかえ、書き加えが行われたところがかなりあるように見える。

  しかし、神武天皇以降、壬申の乱前後の記述を除いては意図的に歴史の記述を天武朝の編纂者はねじ曲げていないと私は考えている(第16代の仁徳天皇の長子の履中天皇から正式な文書を用いての国政が始まっているので、その時々の為政者によって、この辺りの記録が書紀編纂時に残っていたとしたら都合の悪いことは記述されていないか、曲げられている可能性はある)。もちろん、用いる史料の不十分さや判断ミスによって間違っているところはかなりあると考えてよい。そして、最大の誤りは“古代天皇一世60年説”と“辛酉革命説”とによって、古代天皇の治世を過剰に長くし、結果、神武天皇の即位年を紀元前660年の辛酉の年にしたことである。これは意図的な誤り、つまり、捏造というより、編集過程での判断の誤りであろう。

  いま、ここで私は当時の書紀編纂者の古代天皇の治世年代の誤りを正す手段として、次の三つの考え方をとりたい。

①安本美典氏の説く“古代天皇一代の治世は実際の平均は10年”(*注1)を正しい理論として採る。

②辛酉革命説ではなく“辛亥革命説”を用いる(これは私[永井津記夫]の創案)

③書紀は(平均すると)“古代天皇(神武帝から仁徳帝)1代の治世60年”という考えを導入し、結果として各天皇の治世の過剰な嵩上げをしている、という考え方を正しいものと見る。

  

【神武天皇の即位年を推定する】

  さて、ここから本題に移り、神武天皇の即位年を推定してみよう。

  古代天皇の実年代を出すために使う武器は、安本美典氏が提唱する“古代の天皇の平均在位年数は約10年”とする「安本年代論」である。また、私が発見し提唱する「辛亥革命説」は、ここでは確認のために補助的に使うことにしたい。

  書紀の編纂者は、『魏志』の東夷伝倭人条に記述されている邪馬台国女王の卑弥呼を神功皇后に比定し(*注*) 、3世紀のはじめに活躍した人物としている。

 神武帝から仁徳帝まで、16代で平均の在位年数が60年とすれば、仁徳帝の即位年から遡ればいいのであり、これは、安本年代論を用いて、その即位年の確実な天皇(敏達天皇など)から遡ればできるのであるが、今、ここでは書紀が確定している年代から遡ることにしたい。

  書紀は、神功皇后の39年のところに、

    魏志に云はく、明帝の景初三年六月~朝献す。(※景初三年=239年)

とあり、書紀の編纂者が神功皇后を「倭の女王(=卑弥呼)」に比定し、その活躍年代として、239年をもってきていることがわかる。

 日本書記の年代比定にしたがうと、239年が神功皇后の(治世)の39年であるから、その元年は、239-38=201年となる。神功皇后の夫の仲哀天皇の没年はその前年の200年になる。この西暦200年を起点に、その前に統治したの14天皇(神武~仲哀)の合計した統治期間は、

   60年X14代=840年 (※『書紀』が採用したと考えられる“古代天皇一代の治世60年”による)

となる。そうすると、神武天皇の即位年は、200年から840年さかのぼると、

    200―840+1=-641→ 紀元前641年 (※紀元0年がないので“1”を加える)

となる。書紀の採用したと考えてよい「古代天皇一代の治世60年」説に従い、さらに、書記が利用している『魏志』に出てくる客観的な239年を起点にさかのぼると、紀元前641年が出てくる。そして、この641年にもっとも近い“辛酉の年”は紀元前660年となる。

  書記の編纂者は、

1) 古代天皇(神武帝から仁徳帝)一代の治世60年”と考えた。

2) 『魏志』の239年を起点にさかのぼった。

3) 辛酉革命説によって、辛酉の年に初代神武天皇が即位したと考え、紀元前641年に最も近い660年の辛酉の年を神武天皇の即位年とした。

ということになる。しかし、この書記編纂者の判断は大きな誤りである。古代天皇の治世(在位期間)の大きな水増しがあると見える。具体的には神武天皇から仁徳天皇までの天皇に対して「天皇一世60年(天皇一代の治世60年)」で対処し(上記の③)、初代神武天皇の即位年を紀元前六百数十年と(推定)し、最後に「辛酉革命説」にもとづいて、その紀元前六百数十年に一番近い「辛酉年=紀元前660年」を神武の即位年と決定した。

 しかし、現在の私たちから見て、その“推定”は的はずれであると言わざるをえない。第21代雄略天皇の即位年は、有名な稲荷山古墳“辛亥銘の鉄刀”の辛亥年、つまり471年の辛亥年(八白土星の年)であると私は考えている(*注2)。 雄略と初代の神武天皇との代の差は20であるから、「平均在位年10年」で神武の即位年を計算すると、

   20(代)x10(年)=200(年)   471-200=271(年) ・・・①

となる。この計算によると、神武の即位年は271年(ころ)となる。

この271年をさらに検討しよう。

安本美典氏は『新版・卑弥呼の謎』(1988年 講談社刊)の90~92頁の中で、中国、朝鮮、西洋の王の平均在位年数を求め、1~4世紀の世界の王の平均在位年数の10年を導き出した。安本氏は、『東洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末の「中国歴代世系表」から、1~4世紀の中国の王の平均在位年数を、

 *10.04年 (65王のべ965年)

西洋の王の1~4世紀の平均在位年数を、『西洋史辞典』(東京創元社刊、京都大学文学部西洋史研究室編)の巻末の「各国元首表」から、

 *9.04年 (96王のべ615年)、

という数値をはじきだした。古代王の平均在位年数は約10年を裏づける数字である。さて、安本氏は、5~8世紀の日本の天皇の在位年数が10.88年であることから、1~4世紀の日本の天皇の平均在位年数を誤差の幅をつけて、8.84年11.26年とし、端数をとって、9年から11年とし、まずは10年とされる。

  さらに、安本氏は『新版・卑弥呼の謎』の178頁において、「私は、神武天皇が存在したばあい、その活躍の時代は、おそらく、280~300年ごろであろうと考えている。それは、次のような理由にもとづく。

⑴ 天皇の平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなる傾向が認められる。3世紀末から4世紀ごろの天皇の平均在位年数は、9年ていどではないかと思われる。

⑵ 『古事記』の記事をみると、応神、仁徳、崇神など、比較的在位期間が長かったのではないかと思われる天皇については記事の量が多い。逆に、在位期間が短かったのではないかと思われる天皇については、記事の量が、すくないようである。各天皇のうち、もっとも記事の量が多いのは、応神天皇で、3470字が費やされている。

 これに対して、第2代綏靖天皇以下8帝の記事には、すべてを合計しても、1805字が費やされているにすぎない。応神天皇一代の記事の量におよばない。帝紀的記事のみしか記されていない綏靖天皇以下の八帝は、実在したとしても、その期間は、比較的短かったのではなかろうか。8帝で、50~70年ていどではなかろうかと思われる。」と述べている。

  安本美典氏の考えにそって、当時の(初代から第20代の)天皇の平均在位年を9年とすると、

  20(代)x9(年)=180(年) 471-180=291(年)・・・② (471年は雄略の即位年とする)

となる。つまり、神武天皇は291年(ころ)に即位した、ということになる。

  さて、ここで「辛亥革命説」を持ち出したい。「291年」は「辛亥年」であり、しかも「八白土星年」である。辛亥年に革命が起こりやすい、辛亥年と八白土星年が重なると“革命が激化”し、大革命となりやすい、という「辛亥革命説」(*注3)にしたがえば、この291年はまさに大革命の起こる年である。神武天皇が九州から東征し、大和を征服し服属させ、その覇権を確立した年、「大革命」にふさわしい年と言える。

ただ、大和の征服、支配権の確立は短期間でなされるものではなく、その前の(東征を含めた)征服戦争、勝利の確定(神武の即位年)、その後の支配権の確立、強化を含めて、前後数年間も革命の期間と考える必要がある。つまり、291年が革命の中心年(神武の即位年)としても、その前後数年間は革命の期間とするのが通常の考え方であろう。つまり、

  286年~296年

が広い意味での「辛亥革命」の期間ということになる。

  中国に起こった「文化大革命」を思い出してほしい。革命は1971年(辛亥年)の林彪によるクーデター未遂事件をピークに、1966年に始まり1976年にほぼ終息した。

   1966年~1976年

という期間である。“大革命(=大混乱)”は始まりから終息まで10年くらい要することもあるということである。

 記紀は初代の神武天皇から第十代の崇神天皇まですべて父子継承としているが、安本氏が指摘するように、兄弟継承を父子継承としているばあいもかなりあるように思われる。兄弟継承のばあいは在位年数が短くなる傾向があるし、兄弟継承・父子継承に関係なく、上代になるほど在位期間は短くなる傾向もあるので、3世紀末から4世紀にかけての「平均在位年数」は10年よりも9年のほうが実態に近いように私自身も考える。安本氏の「初期天皇の平均在年数は約九年」という考えにそって導きだした「291年」は、私の提唱する「辛亥革命説」にピタリと重なるということである。ピンポイントに291年といっているけれども、その前後数年の誤差(幅)があることを念頭においていないわけではない。

****************************

 

(*注1) 「古代天皇の一代の治世は平均10年」とする安本年代論は、安本氏の地道な日本と世界の古代王の治世(在位期間)の研究の成果と考えられる。これを認めると、日本の成立(神武天皇の即位)が3世紀の後半になり、もっと古い時代に日本の成立をもっていきたい人々にとっては断じて容認できない説になる。が、この安本年代論を支持する人も多数いる。

  私が安本年代論を重視して日本古代史の研究をすすめていた1980年代、1990年代には気づかなかったことであるが、印度哲学研究者であり曹洞宗僧侶であり東京大学教授の経歴を有する宇井伯寿氏(1882-1963)が仏滅年代を研究した時に、安本年代論と同様の考え方で釈尊の生没年をはじき出していることを知った。彼は、『印度哲学研究第二』の「仏滅年代論」中で、「アショーカ王当時のセイロン王デーヴィナムビヤテッサの即位年の前247年から、紀元544年にいたる72代の王の平均在位年数は約11年にすぎないのに、仏滅からアショーカ王までの期間にセイロンに在位した5人の王(ヴィジャ王~ムタシーヴ王)の合計の在位年数が218年(一代平均在年数43.6年)は異常で信用できない」として仏滅年代を“平均在位年数11年”をもとにして算出し、釈尊の生年を紀元前466年、没年を紀元前386年とした。仏滅年代に関しては私もこの宇井説がほぼ正しいと考えている。

 安本年代論は日本古代史を解明する大きな武器であるが、彼の考えに先行する宇井白寿年代説(仏滅年代に関して)が大正時代にすでに存在していたということである。

 安本年代論は古代史における天皇の年代の確定に最高の武器になるものであるが、これを無視しようとする勢力の力も大きいように見える。また、宇井白寿説(ほぼ、同様の中村元説)も、釈尊の生没年をほぼ正しくとらえたものであるのに、日本の仏教界も、世界の仏教界もその周りの研究者も認めようとはしていないように見える。残念なことである。

 

(*注2) 471年の辛亥年に“辛亥の変”を起こし、兄弟と従兄弟を皆殺しにして天皇位についたのが雄略天皇であると私は考えている。この考えは私のブログ「雄略天皇のクーデターと辛亥銘鉄刀の銘文の訓み誤り」(https://blog.goo.ne.jp/151144itnagai/e/80b44220dee6360643198bba77274688)に詳述。また、『東アジアの古代文化76号』(大和書房 1993年)所収の拙論「辛亥の変とワカタケル」および、季刊『邪馬台国67号』(梓書院刊 1999年)に再掲載された同名の論文の中で「辛亥の変」と雄略天皇の関係を論じている。これを高く評価してくれる人もいるが、なかなか一般の人々には浸透していかないのは残念なことである。この「471年」が日本古代史の定点となれば、闇につつまれた4世紀と5世紀前半年代の謎を解く一つの大きなカギになるだろう。

 

(*注3) 「辛亥革命説」は、私が日本の奈良・平安時代に存在し、大きな影響力を持っていた「辛酉革命説」に対して、この考え方の「辛酉年」を否定し、この考え方を異なる干支、つまり、「辛亥」に当てはめたものである。

  私の「辛亥革命説」の根幹を簡単にまとめると、

辛亥年に「大事件」、つまり、大きな革命(戦争)、政変、クーデターなどが起こりやすい。

②辛亥年を基点に1260年(一蔀)(*注*+)ごとに大事件が起こりやすい。つぎに、「1260±60」年および「1260±180」年も大事件の起こりやすい年として考慮する。

③辛亥年と八白土星年が重なると「大事件」の度合いが激化する。

ということになる。③の「八白土星年」と革命年の関係は辛酉革命説にはないもので私の新たな付加であり、その意味では新説である。「1260±180」年も私の新たな付加である。

 「辛亥革命説」は占星術の一種であり、“星の動き(十干十二支、九星、二十八宿、七曜など)”に基づいて、個人や国の運命を推測する。推測統計学の一種と考えてよい。かなり“大雑把な=占術者のインスピレーションも必要とする”推測統計学と言える。

 現在の推測統計学無作為抽出された部分集団(抽出集団、標本集団)から抽出元全体(母集団)の特徴、性質を推定する統計学の分野を言う。が、現実問題として“無作為抽出” することは不可能である。抽出した固定電話からの回答、携帯電話からの回答、ネットを利用した回答などはその時点で“無作為抽出された”という推測統計学の原則からはずれている。つまり、固定電話を有する層、携帯電話(スマホ)を有する層、ネットでアンケートに答える層など、その各層がすでに“無作為抽出された”という原則からズレており、推測統計学が正常に機能する条件を逸脱している。私などは政治に対して強い関心を持っているが、マスコミの電話などによる政党などの支持率調査に応じず、意識的に拒否している。嘘か、嘘に近い報道を平気でするマスコミに答える義務はない、と思っている。そして、マスコミの調査はこの回答拒否者の処理が適切にできていないため、昨年10月末の衆院選で出口調査を含めた各党の当選者数の予測数をNHKをはじめ各社が大きくはずしたのである(出口調査では回答者が嘘をつく可能性を考慮していないし、その調査に応じず拒否したものの数もおそらく調査の分母からはずしている)

 現在のマスコミやその周辺の調査機関やそれを支える統計学の専門家のレベルが、“時代の変化”に対応できていないと私は考えている。そうではなく、わざと実態とはズレた統計数字を出しているとしたら、マスコミはますます国民の支持を失い、購読者数をさらに減らしていくことになる。 

(*注*) 書紀は、神功皇后を『魏志』の倭の女王(卑弥呼)と比定したが、これを深く追求することは避けているのかもしれない。書紀は魏が倭を朝貢国と見ている事実にあまり詳しく立ち入りたくなかったのか、それとも「卑弥呼」に対して深く立ち入りたくなかったのか?当時の書記編纂者は「卑弥呼」という用字を簡単に「ヒミコ」と読めたはずである。そして、当時の書紀編纂所には天照大御神に対して「日孁(大日孁貴)」という用字が使われている史料あったと思われ、この「日孁」は「ヒルメ」と読んでいるのであるが、むしろ、「ヒミコ」と読むことができると私は考えている。次のブログは「卑弥呼と大日孁貴」という題で卑弥呼と天照大御神の関係を考えてみたい。 (2022年5月19日記)

(*注*+) “1260年(一蔀)”がなぜ辛酉革命説で重要視されているのかは、占星学的知識があれば容易に理解できることである。占星術には九星(9)を利用したもの、十干十二支(10と12)によるもの、二十八宿(28)によるもの、七曜(7)によるものなどがある。年月日をこれらによって関連付けて未来を予測するのであるが、逆に記録に残っていない過去の出来事も推定できることになる。1260という数字は、9と10と12と28と7の最小公倍数になる。つまり、ある年の占星術的“星”の配置は、その年の1260年前の星の配置と“同じ”になる、ということで“1260”という数字が用いられていると考えられる。1260±60の年の場合は十干十二支が一致し、±180の場合は十干十二支に加えて九星も一致するということである。±60は辛酉革命説では異説などの形で出てくる。±180は私(永井)の付加(創案)である。  (2022年5月30日追記)

 


無法非道の中米ソ軍

2021-08-12 08:46:47 | 歴史と政治

 NHKをはじめとするマスコミが8月に入ると終戦特集のような番組を放送しますが、十年一日の如しでまったくの無知蒙昧ぶりを晒しているように見えます。私は、戦後のGHQが残した呪縛を解くために、また、その状況を利用して日本を悪役にしようとする勢力の消滅を期してツイッターで発信しています。以下は私のツイッターに掲げている文章を少し敷衍したものです。

無法・非道(=戦犯)の中米ソ軍

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  広島・長崎に原爆を投下し、主要都市を焼夷弾等で焼き尽くし数十万の女性子供を含む一般市民を虐殺したのが米軍であり、8月15日の終戦後も満州の日本兵を攻撃、奴隷労働させるべくシベリヤに送り満州から避難する邦人女性をレイプしたのがソ連軍だ。

  通州事件(1937年7月)で二百数十名の居留邦人を惨殺し、日本軍の追撃を逃れるため黄河を爆破し(黄河決壊事件 1938年6月)、現地住民を百万人近く水死させたのが蒋介石の中国国民党軍(中国共産党軍[=中共軍]も住民を盾に戦う軍)である。この黄河決壊事件の時、1千万人を超える被災住民を必死で助けたのが日本軍で住民から中国軍(国民党軍と中共軍)には有り得ない感謝と支持を受けたのが日本軍だ(この支持を抹殺するために中共は事後法によって日本に協力したと見なした中国人を容赦なく監獄送りにした。韓国・北朝鮮も同じことをやった。民衆から支持されず憎悪される政府は同じことをして人々を圧迫する)。蒋介石の国民党軍も毛沢東の共産党軍(中共軍)も自国の住民を支配下の奴隷くらいにしか考えず、住民の被害が出ないように戦う日本軍の“弱点”を利用して自国住民を盾にして日本軍と戦った無法非道の軍(はっきり言えばヤクザ以下の組織)だ。ISIS(イスラム国)の軍が非道にも現地住民を盾に(現地ヤジディ教徒女性を性的奴隷としていたとされる) 2019年の米軍等の掃討活動を阻んだのと同じだ。

  無法非道の中米ソ等の軍に比して高潔な日本文化を基盤とする日本軍は規律高い世界一の立派な軍である(もちろん、聖人君子のみの集まりではない日本軍内部には下級兵士に対するイジメもあり、“嫌な奴”は稀ではなくいたが、それはどの組織、社会にもあることだ)。

  自国の軍の無法非道を隠蔽するために、戦後 中米ソ等が東京裁判で“南京事件”を捏造し、日本(軍)を戦犯として裁き、悪党化したのだ。真に人道に対する罪で裁かれなければならないのは当時の米ソ中の軍(中国の軍は国民党軍と中共軍の両方)の幹部と当時の政権の中枢にいた連中である。東京裁判は米ソ中の出来レース、茶番であり私は与民者として日本国民の利益(安全・名誉・幸福・平和)のために、また、その洗脳を解くために“再審”(注*)要求する。(戦後の東京裁判でインドのパール判事が日本人被告の全員無罪を主張したのも当然である。)

  日本軍の名誉と日本国民の名誉は回復されなければならない。が、それを阻んできたのがGHQが残したWGIP(War Guilt Information Program 戦争犯罪意識埋込計画→戦争犯罪意識埋込計略)である。おそらく、脅され取り潰しの恐怖からこのWGIPを忠実に守り身に沁みついているかのようになっているのが朝日新聞であり、NHKである。“満州は日本の生命線”“鬼畜米英”などと戦争を煽り、日本(軍)を戦争に駆り立てるようにした朝日新聞などや“血のメーデー事件”を起こした共産党などは当時の米国の力をもってすれば簡単に取り潰せたはずなのにそうはしなかった。おそらく、日本を弱体化させ二度と立ち上がれないようにする駒として潰さず生かしたのであろう。

 朝日やNHKなどのマスコミはその活動として日本政府の国防などに関する重用政策に(常に)反対する組織として、共産党などは政府の政策に常に反対する政治勢力として活用するのが得策と判断したのだろう(この操作の裏には米側の“脅し”と“金”がおそらく存在すると考えてよい)。当時の米政権(民主党)と米軍は非常に狡猾であり、悪辣な組織である(今も変わらない部分がある)。

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※ 日本軍が太平洋戦争(=大東亜戦争→大東亜解放戦争)において進軍し、欧米の軍を追い払った地域、侵攻した地域(タイ、マレーシア、ビルマ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、インドなど)は戦後、すべて欧米軍(英米仏蘭)が撤退し植民地のくび木から解放された。日本が戦争(=大東亜解放戦争)に踏み切った大目標は達成されたと言ってもよい。これを若い世代に伝えず、国を守ることが何か、に無知なのが日本の与野党の多数の国会議員であり、当面の金儲けのみに目がくらんでいる経済人であり、腰抜け反民マスコミである。

通州事件(1937年)は中国共産党の工作活動(中共は悪辣狡猾で日本軍と国民党軍を戦わせ、両者の力を削ぐために手段を選ばなかった)の可能性が高い。国民党軍は撤退するとき一時的に駐屯した地域で兵士が中国人住民と衝突(窃盗、殺害、強姦:つまり、国民党軍はこの時、強盗、ギャング集団と何ら変わらない)を起こし、激怒した住民に多数の兵士が殺害される事件も頻発した。通州事件後、追撃する日本軍は南京まで国民党軍を追い詰め、南京を攻略した。もし、南京住民に対する殺害や強姦があったとしたらそれは日本軍に攻略される前の南京を守備していた国民党軍の兵士によるものだ。国民党軍や共産党軍は自分の犯した住民に対する無法非道を全て覆い隠すためにそれを日本軍の非道にすりかえたのだ。南京事件は無法非道の中国軍のでっち上げである。 (2021年8月12日記) 

  これに協力(=共謀)したのが無法非道の米ソである。米国は原爆投下と焼夷弾による主要都市の攻撃によって数十万の一般市民を虐殺したことを覆い隠すため、ソ連は日本軍兵士をの奴隷労働をさせるためシベリア等へ連行したこと、満州から引き上げる邦人女性をレイプしたことなどを覆い隠すために日本軍を“非道の悪役”に仕立てる必要があった。無法非道の中米ソ(軍)は共謀して日本軍を悪党にし、東京裁判という茶番を強行したのだ。

「大東亜解放戦争」というのは私が「大東亜戦争(太平洋戦争はGHQが使用を強制した名称)」に対して戦争の内容を勘案して新たにつくった名称である(注*)。「太平洋戦争」という名称を嫌がる人が少なくないのは知っていたが、一般に用いられる「太平洋戦争」を使ってきた。ただ、東条英機戦時内閣が定めた「大東亜戦争」という名称もよく考えれば(日本人の美点でもあり欠点でもあるが控え目過ぎる表現であり)不十分な面がある。「大東亜解放戦争」がいちばん適切な名称であると現在考えている。

 中国共産党(中共)は自分の軍を「人民解放軍」と名付けているが、6千万人(もっと多く1億人に達すると言う人もいる)の人民を虐殺してきた軍の名前としては笑止千万、噴飯極まりない名前だ。嘘と捏造の国ならではの名前だ。が、日本のこの「大東亜解放戦争」はまさに文字通りの戦争であり、横暴な傲慢な欧米を東南アジアから追い払う戦争であった。 

(注*) 「再審」というのは正規の裁判手続きによる再審を意味しているわけではない。心ある日本人の手によって当時の状況や証拠を集め、日本軍の戦いが当然(正義)の戦いであり、中・米・ソの軍が当時の戦時法に照らしてもいかに非道の“戦犯”組織であるかを明らかにする裁判を行なうのである。それを戦後に洗脳された中高年に示し(現在、80代半ばの高齢者も戦後の小学生低学年時に“墨塗の教科書”で「日本悪党論」を教え込まれ洗脳された世代だ。今、百歳前後の人でないと1937年に始まった支那事変から大東亜解放戦争の経緯は理解していない)、10代、20代、30代の若者にも正しく伝えるのである。

(注**) 「大東亜解放戦争」は岩間弘氏が『大東亜解放戦争 上・下』(岩間書店刊 2004年)の中で本の題名として使われており、他にも用いられている人もいたものと思われる。「( 「大東亜解放戦争」という名称は私が)新たにつくった」というのは私の錯誤であり、ここに訂正する。

(2021年8月16日追記)

 

 

 


地勢国家学

2021-06-14 14:35:18 | 歴史と政治

  次の小論は私のホームページに今年(2021年)3月末まで載っていましたが、突然、プロバイダー側からホームページの枠を廃止するとの通知があり、別のプロバイダーと契約することも考えたのですが、このブログともう一つブログの発表枠を持っていることもあり、HPで発表した重要な文章はブログに再掲していきたいと考えています。下の小論「地勢国家学」は1992年に書き、2006年に私のHPに載せたものです。

    永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

地勢国家学(地勢的国家成立論)

“Geonationology,” or “Geographical-territoriology”

---The Study of the Relationship between a Nation’s Territory and its Geographic Features---

 

 先に書いた「日本の戦争責任と『平和戦略論』」において、「戦争攻防論」「革命攻防論」「クーデター攻防論」「テロ攻防論」に言及した。私は日本古代史の研究をしており、国家の成立条件を考究したことがある。地勢国家学はその考究に有効である。また、“国家が安全に成立する条件”をも地勢国家学は考察する学問であるから、「戦争攻防論」等には不可欠のものである。以下に、1992年に書いた論文の一部を掲載したい。

 

【地勢と国家と三度の戦国時代】

 各国家にはそれぞれまとまりやすい統治領域というものがある。一つのまとまった支配領域は、地勢的影響を強く受けていると考えないわけにはいかない。 これを逆に言うと、ある領域は一定の条件下では二分裂、もしくは三分裂した方が政治的には治まりやすいということである。

 例えば、朝鮮半島を例にとると、ここはその地勢的影響から分裂しやすい地域と見ることができる。北からの圧力、南からの圧力を受けやすいのである。

 現在、北朝鮮、南朝鮮と分裂しているのも、北からはソ連(+中国)、南からは米国(+日本?)の圧力が存在してきたためであり、ソ連が崩壊した今もなお、分裂状態が継続しているのである。 が、一九九二年現在、中国が健在とはいえ、北からの力が弱まったのであるから、南北は統合に向かう大きなチャンスであろう。

 朝鮮半島は統一を保っていた時代もあるが、それは南からの圧力がなくなり、北の圧倒的な力の傘のもとにいたとき、失礼な言い方になるかもしれないが、中国を宗主国とする〝半〟独立の状態にあった時(統一新羅、高麗、李氏朝鮮の時代)と一九一〇年から一九四五年までの日本の植民地となっていた時が統一を保っていた時期である(念のため付言するが、私は客観的事実を述べているのであって、半独立の状態や日本の植民地支配を是としているのではない)。

 朝鮮半島は統一政権が領域を支配していた時期も長いけれど、分裂していた時期もかなり長いのであり、現在は南北に分裂した状態が続いているのである。

 このような歴史的事実から言えることは、朝鮮半島はその地勢的傾向からそこに存在する政治権力の支配領域、つまり、国家は分裂しやすいのであり、逆に言うと、分裂してはじめて安定する傾向があるということである。古代に、馬韓、弁韓、辰韓と三分裂していたり、百済、新羅、高句麗と分裂していたり、現在のように南北朝鮮に二分裂しているのも、朝鮮半島という領域の持つ地勢的傾向のためではないだろうか。

 中国もまた、場合によっては二つか三つに割れる可能性のある地勢的傾向を持つ領域の上に成立する国家である。それは、統一の時代と分裂の時代を見ると明らかであろう。魏、呉、蜀の三国時代、南朝と北朝に二分裂した南北朝時代、また金及び元と南宋の時代、一九三二年に満州国が成立し、太平洋戦争で日本が敗れるまでの日本の支配下にあった中国領域と重慶政府の支配する領域の二分裂時代が分裂の時代である。

 中国の領域は時代によって大きさも異なるのだけれども、南北に二分裂したとき、それぞれに核となる部分、つまり、黄河流域の華北穀倉地帯(北)と揚子江流域の華中穀倉地帯(南)を中心にまとまることが可能である。そのため、逆に二分裂しやすいとも考えられる。

 日本は周囲が海で囲まれているため、外からの圧力を受けることが非常に少ないため、一つに統一されやすい地勢的傾向を持つ領域である。もちろん、統一の方向へ行く過程として、戦乱状態は応仁の乱後の約一世紀の間の戦国時代のように存在する。

 付言すると、この戦国時代は第三次戦国時代というべきもので、第一次戦国時代は、『後漢書』に記されているように「桓(在位147-167)・霊在位(168-189)の間」であるから最大に見積もって、四十年ほど、中をとれば二十年ほどである。 第二次戦国時代は第十代の崇神天皇から第十四代の仲哀天皇までの四十年ほどの期間に起こったと私は考えている(およそ、三四〇年~三八〇年くらいまでの約四十年間)。つまり、四道将軍から日本武尊の時代は第二次戦国時代なのである。

 この三回の戦乱の時は日本でも小国に分裂していたであろうが、周囲を海という大きな高い城壁がめぐっている日本は、その地勢的傾向から分裂していることが安定にはつながらず、統一への求心力がはたらくのである(第一次、二次戦国時代はもともと統一されていた状態から分裂して戦乱状態になったのではなく、小国分立から一つに統一される過程と理解すべきであろう)。

 

【地勢国家学と古代九州王朝】

 国家の支配領域の地勢的傾向が国家の成立にどのように影響しているかを考察することを、いま仮に「地勢的国家成立論」と呼んでおきたい。 また、まだ未完成ではあるが、これを学問体系としてとらえると「地勢的国家成立学」、略して「地勢国家学」と呼ぶことができよう。「地勢国家学」は“地勢”と“国家の支配領域との関係”、及び、“地勢”と“国家が安全に成立する条件”をも考察する学問である。

 いま、この「地勢国家学」から日本を見ると、日本は二分裂や三分裂の分裂状態のままであることが非常に困難な地勢的傾向を持った領域であることが分かる。

 例えば、二分裂して、一方が本州に支配領域を持ち、他方が九州に支配領域を持って対立したとしても、その軍事的バランスが十年も二十年も拮抗するということは有り得ないし、どちらも自分を滅ぼす可能性のある存在を放置しておくことはできないから、必ず一方は他方を滅ぼしにかかることになる。

 その時、軍は日本列島内を容易に動くことができる。

本州政権が近畿から軍を出すとして、下関ないしはその手前の九州島に上陸しやすいところまで、軍を移動させるのは陸路をとるにせよ、海路をとるにせよ、むずかしいことではない。

 地勢的に軍の移動をはばむ要素がない。また、九州島への上陸も船を使うことになるが、それほど困難なことではない。逆に、九州政権が本州を攻略するのもむずかしい要素はない。下関付近に上陸し、後方の補給路を確保しながら、本州政権の中枢部に攻め込むこともできるし、瀬戸内海を通って、海路から本州政権の中心に迫ることもできる。

 いずれにしても、両者にとって必要なのは相手を攻撃する体勢をととのえる期間だけであると言ってよい。

 いわゆる銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏の対立を政治的対立ととらえ、大和を中心とする政治権力と九州を中心とする政治権力が対立していたとする研究者がいるが、これは二つの勢力の重なる広島ないし岡山あたりにその国境を設定するのであろうが、地勢的に軍の移動をはばむ要素のない国境を古代に想定するのは困難である。

 「地勢国家学」から、銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏を政治権力(国家)間の対立と見るのは誤りと考えられるし、古田氏の主張するような「九州王朝」が存在したとしても、その国境を広島や岡山のあたりに持ってくることは誤りであろう。

 軍隊の移動のしやすさ(補給路や退路の確保、兵士の健康の確保を含む)と国家の支配領域が密接な関係を有していることは明らかである。ユーラシア大陸に大帝国を築いたモンゴルの軍は豊富な騎馬と移動食料としての家畜群を有し、移動能力がすぐれていたためあのような大帝国を築くことができたのである。

 日本は小さな島国であり、軍隊の移動を根本から妨げる要素はほとんどない。古代においては、道路も整備されておらず、原生林等の植生も今とは比較にならないほど繁茂していて、人々の移動をはばむ要素であることを考慮したとしても、それは強い意図を有する軍隊の移動を根本的に妨げるものではない。

 最近、縄文時代の遺跡の発掘が相次いでいるが、その発掘によって明らかになってきていることは、縄文時代の集落は閉鎖的な集落ではなく、広範囲に交易活動を行なっていたことである。 例えば、青森市の三内丸山遺跡は、今からおよそ五千五百年前から四千年前までの約千五百年間続いた縄文の村の跡であるが、これまでの常識に反するような大きな木造建築物が建てられていたことが確認されており、遠く離れた新潟県の姫川産のヒスイ玉や岩手県久慈産のコクク玉や北海動産の黒耀石製石器などが発掘されており、当時の交易活動の範囲が非常に広いものであることが分かる。

 当時は、原生林や繁茂する植物のために、人々は広範囲に移動できなかったと考えるならば、大きな誤りである。動物がどんな山奥にも獣道を作るように、古代人も交易の道(海上の道の場合も陸上の道の場合もある)を作って広範囲に交易活動を行なっていたのである。古代の日本は他の地域への移動ができなかったと考えることは誤りである。

 日本は、地勢国家学から言って、基本的に分裂状態が続きにくい国なのである。地勢国家学の立場からは、古田武彦氏が主張する古代の九州王朝説は成立しがたい説と断ぜざるをえない。

 古田氏は、倭の五王は九州王朝の王であり、しかもこの王朝はいわゆる「磐井の乱」をおこした〝近畿天皇家〟から反逆者と見なされている「磐井大王」を経て、七世紀末まで連綿とつづいている、と主張する。しかし、このような見解が成立しがたいことは明白である。日本は二つの勢力(国)が長期間共存できる地勢的傾向を持っていないのである。

 もし、二つの勢力の間に大規模な軍が越えるのが困難な大砂漠や大山脈があるか、あるいは二つの勢力の後方にそれぞれを支える大きな勢力が存在するのなら、長期間その二つの勢力が共存する可能性はある。 例えば、戦後米ソが名古屋あたりで日本を東西に分けて分割統治したなら、東西ドイツや南北朝鮮のようになっただろうし、二分裂ではなく多分裂なら戦国時代のように互いにからみあって牽制しあうためにある程度の期間は分裂状態が継続する可能性はある。

 しかし、日本には軍の移動を不可能にするほどの地勢的に困難なところはない。ゆえに、古田氏の主張する九州王朝は存在することが不可能であろう。

 『長谷川慶太郎の世界はこう変わる』(徳間書店刊 一九九二年)によると、欧米の知識人は将校訓練課程を履修しており、最低の軍事教育を受けている。知識人に軍事的教育がなかったら、軍隊のシビリアンコントロールは不可能であり、軍事教育=軍国主義と考えるのは誤りだと長谷川氏は言う。

 私も全く同感で、古田氏の九州王朝説に少なからぬ同調者がいるのは軍事的思考の欠如を示していると言って過言ではない。現在の世界情勢を軍事的視点からとらえ、的確に分析し、不法な軍事的侵略を許さぬためにも軍事的教育・教養は必要であろう。日本には、軍事的教養を身につけたり、後述する〝革命攻防論〟を学ぶ場が皆無であるのは残念であるし、日本人が日本に安心して暮らしていくための重要な要件を欠いていて、危険である。

 

【古代の秀吉】

 もし、倭の五王が九州王朝の王者であるとした場合、一方で〝近畿天皇家〟と対立し、他方で朝鮮半島に大軍を送り込んで戦うことができるだろうか。

 私が近畿天皇家の指導者なら、朝鮮半島に出兵して手薄になった九州王朝を絶好のチャンスと背後からおそう。つまり、九州王朝は同盟でも結ばないかぎり、このような両面作戦をとることはできない。好太王の碑文に示されている、三九一年や四〇〇年や四〇四年の倭軍の朝鮮半島への出兵は通説のように日本の統一に成功した〝大和朝廷(大和政権)〟と見るのが自然である。

 たとえ、大和朝廷でなくても、日本の統一なしには朝鮮に出兵できない。つまり、四世紀末には日本の統一に成功し、朝鮮半島に出兵できる勢力があったということである。

 豊臣秀吉は一五九二年に朝鮮に大軍を送り込んだ。これは、一五九〇年に小田原の北条を降し、奥州の伊達を服従させ、日本全国の平定に成功したからである。秀吉は国内に敵をかかえて朝鮮に出兵したのではない。全国統一の半ばで、たおれた織田信長では朝鮮出兵はできない。統一に成功した秀吉であったから、朝鮮出兵が可能となったのである。

 同様に、三九一年に大軍を朝鮮に送り込んだ倭の指導者も日本の統一(関東より北は蝦夷の住む辺境の地として平定の枠外にあったと思われる)に成功したから、派兵ができたと考えるのが自然である。

 秀吉が長い戦国時代を勝ち抜いて最終的に日本の統一に成功し朝鮮に出兵したように、当時の倭の指導者も崇神天皇から仲哀天皇までの〝第二次戦国時代〟を勝ち抜いて日本の統一に成功し、その後、朝鮮に出兵したのだと私は考えている。つまり、当時にも〝秀吉〟がーーーー歴史は繰り返されるのであるーーーーいたから、朝鮮半島への大規模な出兵が可能となったのである。

 三九一年に高句麗軍と戦った倭軍についてであるが、私は、最初、武器や戦法も騎馬民族系の高句麗軍に比して劣ったのではないか、と考えていたのであるが、秀吉の軍との比較からそのようには思えなくなったのである。

 日本の平定に成功した豊臣秀吉は朝鮮の出兵を決意するのであるが、戦国時代をようやく終えた日本には当時の全ヨーロッパの全ての鉄砲の数に勝る数の鉄砲があっただろうと言われている。もちろん、実戦的な刀、槍、鎧、兜などの武器も多量にあったから、当時の日本は世界有数の軍事大国であったのである。

 一五四三年にポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えてから日本人はまたたく間に鉄砲を製作する技術を習得し、一五九二年に秀吉軍が朝鮮に出兵する時には多量の鉄砲があったのである。これは過酷な戦国時代を経て、生き延びるための必死の技術革新とともに生まれたのであろう。このことを考慮に入れると、四世紀末の倭の軍は〝第二次戦国時代〟を経た後の優秀な武器を携えて朝鮮に侵攻したのではなかろうか。

 五世紀に造られたと考えられている大阪の古市や中百舌の古墳や陪塚から多量の鉄製の刀や剣や甲(よろい)や冑(かぶと)が見つかっているし、馬用の冑も見つかっている。これは、倭の五王の時代に倭軍が高句麗軍と戦う過程で輸入または開発製造されたものと私は考えていたのであるが、四世紀末の倭軍はすでに優秀な武器を持っていて多年の戦闘経験のもとに朝鮮に出兵したと考えるべきではなかろうか。単なる蛮勇だけでは海を渡り「百済や新羅を臣民とする」ことはできないし、強敵の高句麗と戦うこともできない。

 紀によると、倭王讃に比定される応神天皇より四代前の第十一代垂仁天皇の時代に、「鍛(かぬち)の川上に大刀一千口を造らせた」という記述があり、これから応神天皇よりだいぶ前に刀剣の製作がすすめられていたことが分かる。『魏志』の「東夷伝」の弁辰の条に「国は鉄を出だす。韓、濊(わい) 、倭はみな従(ほしきまま)にこれを取る」とあり、卑弥呼の時代から倭は南朝鮮の鉄を手に入れていたようであるが、〝第二次戦国時代〟に倭(の中の有力国、つまり大和政権)は南朝鮮の鉄の産地から鉄を何らかの方法で確保し、生き残りをかけて必死に鉄製武器、武具の開発、改良に努めたのではないだろうか。

 その結果、倭軍は三九一年に朝鮮に出兵した時点ですでに優秀な武器を開発し持っており、それらが高句麗軍との戦闘を通してさらに改良され、五世紀の古墳の中に埋められるようになったのだと私は思う。

 日本人は外国の技術を習得しそれに研きをかけてさらに優秀な製品をつくることに長けている。これは、太平洋戦争の後もそうであったし(多数の分野で米国の技術を追い抜いた)、秀吉の時代の鉄砲製作においてもそうであった。おそらく、四世紀末の時代においても同様で、当時の日本人も優秀な武器を製作していたのであろう。

 倭の四世紀末の朝鮮半島への侵攻は、百済、新羅、高句麗の三国が互いに覇を競って勢力をそぐ中で、〝第二次戦国時代〟を終え、倭を平定した大和朝廷がその軍事的優位を背景にして朝鮮半島に出兵したと考えられる。日本(倭)は地勢国家学から言って、分裂してもまとまりやすいが、朝鮮半島は分裂していた方がむしろ安定する傾向があり、その分裂に乗じて軍事的優位に立つ倭は比較的劣勢な百済と新羅を屈服させ、高句麗と激戦を展開したのである。

 付言すると、十六世紀末の日本軍の朝鮮侵攻は、日本の平定を終えた秀吉がその余勢と圧倒的軍事力を背景に朝鮮出兵を実行したのである。中国の庇護のもとに、隣国日本との軍事バランスが大きく崩れたことに朝鮮側は気づかなかったため秀吉軍の侵略を許してしまった。

 さらに付言すれば、一九一〇年の日韓併合は、江戸幕府を倒し、内乱を平定して日本の統一に成功した明治政府が欧米から移入した各種技術、軍事技術を習得し、圧倒的に優位な軍事力の下で朝鮮の支配に乗りだしたのである。

 李氏朝鮮は宗主国の中国(清)の庇護の下に、現在のどこかの国のように平和ボケしていたためか、隣国日本との軍事バランスが大きく崩れたことに気づかず、しかも日本が内乱を平定した後は拡張政策をとり、朝鮮に侵攻する可能性が高いことを歴史の教訓から学びそこねたために日本に完全に侵略、支配されてしまった。日本は内乱を終えた後は軍国主義国家になり、隣国朝鮮にとっては危険な存在なのである。

 倭の五王、秀吉、日韓併合を見て私が思うことは、日本人(の支配層)はなぜ朝鮮半島の支配に対して執念のようなものを持っているのか、ということである。倭の五王は宋に対して南部朝鮮の軍事支配権を認めることを執拗に迫った。

 朝鮮半島は日本人(の支配層)にとって先祖の住んでいた故地ゆえに執念を燃やすのであろうか、それとも、紀が記すように神功皇后の時に手に入れた領土(官家)を二度と手離したくないという執念であろうか。

 

 

〈地勢国家学と原子力発電問題〉

 

 「地勢国家学」から、原子力発電問題を考えるとどうなるか。

 日本で原発を設置することは大きな問題がある。 米国のスリーマイル島の原発事故や旧ソ連のチェルノブイリ原発の事故は非常に恐ろしい致命的とも言える事故であったが、国家の領域を考慮すると、日本であのような原発の事故が起こった場合ほど、深刻ではないと言えよう。

 広大な領土を有した旧ソ連のようなところで原発事故が起こっても、放射能汚染の問題は残るけれども、人口の密集地でもないかぎり、事故で汚染された地域を放棄すれば国家の機能はマヒしてしまうことはない。

 特に、ソ連は国内に大きな〝海〟をもっている国なのである。極北のツンドラ地帯などは陸の形はしているけれどもほとんど人の住まない海と同じなのである。海の中に造られた原発はたとえ致命的な事故を起こしても大きな〝海〟が人間の集中する都市部への直接的な被害を最少限度におさえる働きをすることになる。

 同様に、米国の本土から離れた島に造られたスリーマイル島の原発事故も本物の〝海〟の壁が米本土への被害を最少限度におさえたのである。

 他方、日本の原発はどうであろうか。日本はソ連や米国に比して国土が非常に小さい。そして、人口密度は非常に高いから、原発事故がもし起こったら致命的な打撃を日本に与えるだろう。

 例えば、京都の北にある福井県若狭湾の小浜の原発で水素爆発から大量の死の灰を噴出するような大事故が起こったらどうなるだろうか。京都、大阪、兵庫、奈良、滋賀という大人口をかかえる近畿地方は死の灰によって莫大な死者を出し、すべての生産活動や商業活動は完全に停止してしまうだろう。死の灰による直接的な被害地の大きさを予測することはむずかしいが、かなりの範囲を人間の住むことが不可能な場所として放棄せねばならないだろう。

 近畿以外の県は安全かと言えば、だれが考えても明らかなように狭い日本のどの場所も完全に安全ではないし、死の灰を含む降雨によって農作物を食べることができない状態が続くだろう。つまり、一基の原子力発電所の重大事故で日本のような小さな国は致命的な打撃をうける可能性があるのである。

 一九八六年のソ連のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故は、その周辺だけではなくヨーロッパの各国に大きな放射能汚染をもたらし、農作物や食肉に甚大な被害を与え、一九九二年現在、その影響は消えていないが、ソ連は日本の何十倍の国土を有する国であるから、あの程度の被害ですんだのである。

 その一部(近畿地方などソ連の広大な領土に比してほんの一部であろう)が使用不能で放棄しても、ソ連ならそれほど通痒を感じないだろうが、日本は地勢がソ連とは異なるのである。日本での大きな原発事故は日本国の存亡にかかわるほどの重要問題である。狭い日本で原発を造ることは、広大な支配領域を持つソ連や米国で原発を造ることとはまったく意味が違うのである。

 この点を日本の為政者はどのくらい理解できているのだろうか。「地勢国家学」は〝地勢的傾向から国家の成立する条件を考察する学問〟であるが、「国家が安全に成立すること」もその主要な研究テーマとなる。「国の安全」なくして国家は成立しない。国家を壊滅に追い込む可能性のあるものを国家の領域内に置くことはまちがっている。

 ソ連や米国や中国なら、メルトダウン(炉心溶融)のような重大原発事故でも国土の広大さゆえ、致命的とならない可能性が高いから原発設置もゆるされるであろう(もちろん、もっと安全なエネルギーを開発して原発を廃止する方向で考えた方がよいと私は思っている。そのエネルギーは既に開発されていると思われるが…)。

 しかし、国土の狭い日本やフランスやイタリアや英国で原発を設置し稼動させることは国家を壊滅させる可能性があるゆえ間違っていると私は考える。どうしても、日本で原発を造りたいなら、本土から遠く離れた島にでも造るべきである。もちろん、原子炉攻撃をされないという条件がつく。この場合も地勢的にいくつかの条件を考えなければならない。

 ついでに言うと、原発を海のすぐそばに設置することは、国土の安全を主要テーマとする「地勢国家学」の立場からは、信じがたい愚かな行為であると断定せざるをえない。

 なぜかと言うと、敵対する勢力が出現した場合にその敵の大砲がすぐ飛んでくるところに、武器弾薬庫を設置する馬鹿がどこにいるだろうか。原発は、攻撃側から見れば、いわばむき出しの火薬庫である。原発は平和的施設であると思われているから、防御態勢などないに等しいだろう。

 日本を滅ぼすのに原爆や水爆は要らない。通常兵器で原子力発電所を攻撃すればよい。 日本を取り巻く海は外堀であり外敵を防ぐ一つの要素であるが、あらゆる方向に通じていて攻撃意図を持つ外敵の接近手段を完全に封じることは不可能である。

 外堀である海の防御の手薄なところから潜水艦か高速艇で原発に接近し、何らかの手段でTNT火薬を原発に命中させて爆発させれば日本を滅ぼすことができる。首都圏を壊滅させるために福島県の原発を、関西を破滅させるために福井県の原発を爆発させれば、日本はほぼ壊滅状態となるだろう。より確実性を期するのなら、九州と北海道の原発も攻撃しておけばよい。

 日本は、人口の密集しているところのごく近くに(領土が狭いからそうならざるを得ないのであるが)、なぜ、危険な、攻撃爆破されれば致命的な原発を設置するのか。「非武装中立」を国是とし、軍隊も保有せずに世界のすべての国を友好国と見なしてやっていこうとしているのなら、原発を海に面したところに設置するのも理解できないことではない。

 しかし、毎年、莫大な国防予算を軍事兵器の購入等に使い、自衛隊という名の軍隊を擁する政府が無思慮にも原発という名の最も危険な火薬庫を海岸に設置するのを容認しているのはどういうつもりなのか。私には理解できないところである。

 

 

【革命と地勢国家学】

 地勢国家学は国家が安全に成立する条件をも考察する学問であるから、当然、革命やクーデターについても考察の対象としなければならない。 どのような時にどのようにして革命が起こるのか、成功の条件はなにか、また、どのような時に失敗するのか。クーデターについてもまた同様なことを考慮する必要がある。

 私は、何年も前から (正確にいうと、三島由紀夫が割腹自殺した昭和四十五年以来) 疑問に思っていることがある。日本の自衛隊は幹部候補生に革命とは何か、革命の起こし方、防ぎ方、つまり、〝革命攻防論〟とでも言うべきものを教えているのだろうか、という疑問である。また、〝クーデター攻防論〟はどうであろうか。

 軍隊の主要な役目は、諸条件の設定をせずに一言でいうと、内外からの国家の存立をおびやかす敵の攻撃を粉砕することであろう(内外の敵が実際には国民にとって〝解放軍〟であることも有り得るが、ここではそのような考慮をしていない、念のため)。

 したがって、軍隊は内からの攻撃である革命やクーデターについて、少なくとも幹部たちは熟知している必要がある。〝敵〟のことを知らずして、戦えるはずがない。今の日本の自衛隊の幹部や幹部候補生は「革命攻防論」「クーデター攻防論」を学んでいるのだろうか。

 戦前の旧日本軍ではその点どうだったのだろう。軍人のみならず、政治家や何らかの組織のリーダーたらんとする者は、その組織を守るためにも攻めるためにも、ある程度の革命攻防論、クーデター攻防論の知識が不可欠であると私は思うのであるが、大学では教えていないし、いったいどこでこの知識は身につけることができるのだろうか。 あまり役に立ちそうもない心理学や経済学よりも大切であると思うのだが・・・。

 1991年8月19日早朝、ソ連でクーデターが起こり、ゴルバチョフ大統領を排して、ヤナエフ副大統領が八人のメンバーからなる国家非常事態委員会を代表して大統領に就任した。ヤゾフ国防相もこの委員会の一員であった。 しかし、クリミヤで静養中のゴルバチョフ大統領の拘束には成功したものの、エリツィンロシア大統領の拘束には失敗し、通信やマスコミの掌握を行なったけれども、一般の電話やファックス回線はそのまま使える状態にしておいたり、一部マスコミの掌握にも漏れがあったりして、結局、クーデターは失敗し、8月21日にはゴルバチョフが復権した。

 国家非常事態委員会の八人組のクーデターは三日天下で終わったわけである。この失敗を見て、私は友人のA氏に、「本当に、へたくそですね。信長や秀吉や家康のような戦国時代の武将なら皆知っていたような基本的な手法も知りませんね。私でももう少し上手にできそうですが・・・」と嘲笑いながら言わないわけにはいかなかった。

 私の尊敬するB氏は、「私が仮に指導者だったとしたら、ゴルバチョフやエリツィンやモスクワ市長などといった人物は、事の是非はともかく、逮捕したらすぐ殺し、マスコミや通信は完全に掌握し遮断して、テレビを通じて大演説を国民にぶって国民の心をゆり動かして・・・」と言われた。

 確かに、革命側やクーデター側にとっては、もし生き残ったら、倒そうとする政府の〝精神的支柱〟となるような人物は行動を起こした直後に抹殺する必要があるだろう。 人は主義・主張に動かされるけれども、人によってもっと動かされる。振り子をゆりもどす危険性のある政府側の指導者たちは殺しておいた方がよい(これが、人間として正しいかどうかを論じているのではない。革命を成功させることのみに主眼を置いている)。 また、マスコミや通信を完全に掌握し、国民にはクーデター側の一方的情報しか流れないようにすることが絶対的に必要である。

 ソ連の八人組のクーデターは、電話やファックス回線が自由に使えたし、ハム無線による通信や西側ラジオの傍受も自由であり、新聞やラジオといったマスコミの掌握も不十分であった。 マスコミと通信関係の機関・機能の完全掌握はクーデター成功のための必要不可欠な条件である。 それによって、国民に前政府の〝腐敗・堕落・無能〟を訴え、クーデター政権の登場を納得させる、少なくとも仕方がないと諦めさせることができるのである。

 人心をゆり動かし、クーデター政権を受け入れさせるための〝大演説〟は必要である。革命やクーデターは〝人の心〟が起こさせるものであるから、人の心をつかむことが絶対必要なのである。 ソ連の八人組はこれらのことができていなかったのだから、失敗しても当然である。

 ソ連の八人組の中にはヤゾフ国防相も含まれていたし、ソ連の指導者階級の中の超エリートと思われるのに、革命やクーデターのことは何も学んでいなかったのだろうか。 私の言う「革命攻防論」や「クーデター攻防論」をソ連のエリートたちは学ぶ機会がなかったのだろうか。

 私がここで、革命やクーデターについて論じるのは、「革命学」や「クーデター学」が人の指導者(大小を問わない)たらんとする者にとって、不可欠の「学問」であると考えるからである。 また、歴史を考察する者にとっても必須の学問であろう。軍事的視点を身につけることのできる有用な「革命学」の登場を期待してやまない。  

 (1992年に書いた拙論「辛亥の変とワカタケル」より抜粋[大和書房の『東アジアの古代文化76号』と『季刊邪馬台国67号』の「辛亥の変とワカタケル」は1992年の拙論の一部である]・・・2006年5月5日 永井津記夫) ※『辛亥の変とワカタケル』の全文章を載せた本は未出版である。


徳川幕府の「武装鎖国」

2020-12-25 23:42:59 | 歴史と政治

    

徳川幕府の「武装鎖国」

名付けること(命名)によって生まれる新認識

言葉を新たに付けないと理解、継承されない事実(事象)がある。

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

 この世の中の事象は無数に存在し、それに対して整理・整頓し、名称を与えて区別することが“分かる(=分ける)”ということであり、学問の始まりである。無数に近く存在する動植物も命名、分類することによって、その性質・傾向がよく分かるようになる。つまり、命名・分類はあらゆる学問を進める基本、出発点である

 が、適切な分類(分けること)と分類に対しての正しい考え(=哲理)を持たないと大きな誤りを犯しかねない。新型コロナウィルスが大きな問題となっているが、ウィルスは生物と無生物の境界にある存在で、従来の分類では細胞膜を有しないので生物に属さないが(他の生物の体内で)自己増殖するという点で生物としての特徴も持っている。つまり、AかBかに分類することはAとBの中間の存在をうまく説明できないか、その存在を認めることを放棄したり無視したりすることに通じ、学問上の妨げになることも稀ではない。

 たとえば、大人と子供をどのように分けるか。今は通常、年齢で分ける。江戸時代には(武家の)男子は15歳で元服(成人)していた。戦国時代には13歳から16歳で元服した。現在の日本では法律的には一応、20歳で成人とされる。生物学的に人間は男(オス)と女(メス)に分類されるのだが、男と女の両方の特徴を持っている人たちがおり、精神的にも自分が女であると意識する男がおり、自分が男であると意識する女もいる。

 このように、分類することは境界線上にいる存在をどのように考えるのかの理論(哲学)(注1)が必要になってくる。と同時に、人間に関することでは、この分け方、考え方に片寄りがあると、差別や怨念の巣になりかねない。

  善と悪という分類法がある。これに人間がからむと、善人と悪人という分類、二元的分類となる。どこからどこまでが善でどこからどこまでが悪か。善悪で分けきれない様々な事象がある。善人と悪人を分けるのも非常に難しい場合がある。時代劇でもどこから見ても悪人であるが、瀕死の子供の命を救う行為をする者が登場する。善人と悪人の二分法は分かりやすいが、正確に人間をとらえ切れていない場合もある。

  さて、“分類”して新しい概念、領域を創り出すことがいかに難しいかを理解して、ここに私が切り開いた(と考えている)新しい概念(命名)を出したい。

  それは、江戸時代の鎖国制度は「(圧倒的な軍事力による)武装鎖国ということである。江戸時代の鎖国制度に対して「武装鎖国」と命名したことである。ユーチューブなどの動画では「不思議の国・日本 世界で唯一欧米列強の植民地にならなかった国」というようなタイトルで戦国時代から江戸時代にかけて日本が欧米の植民地にならなかったのは“奇跡”であるかのように説明する。が、これは当時の状況に対する認識不足である。日本は当時、世界最強クラスの軍事大国であったのだ。

 スペインやポルトガルが日本の軍事力を前に、植民地にすることが不可能であることを理解していたのである。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出した後の1592年に宣教師6名(スペイン人4名、ポルトガル人1名、メキシコ人1名)を含む26名を処刑した。また、徳川家康もキリスト教に対する不信感から禁教に舵を切り、息子の秀忠は1622年に十数名のスペイン人やポルトガル人を含むキリスト教徒55名を処刑した(元和の大殉教)。これに対してスペインやポルトガルは日本に対して何の制裁もできなかった。当時、スペインは衰退しつつあったがまだ世界最強クラスの軍事力(海軍力)を誇る大国であった。が、日本の武力(軍事力)の前に何もできなかったのだ

 織田信長は全国の統一の完成を前にして本能寺の変で自害するが、その頃には日本の軍事力は恐らく世界最高水準に達していた。そして、秀吉を経て家康の時代には世界のどの国も日本を武力で脅すことはできなかったのだ。これが、日本が植民地にされなかった理由である。つまり、江戸幕府の“鎖国政策”は“(世界最強の軍事力による)武装鎖国なのである。

  幕末に米国から“黒船”に乗ったペリーが来て開国を迫ったが、この時、蒸気船と高性能の大砲によって武器を中心にした軍事力では米国(英、仏も)が日本より勝っていたが、当時の欧米の海軍の輸送力では100万人を超えるような兵力を日本に送り込むことは不可能で、たとえ上陸して海岸線付近を中心に一定の地域を占領できても、起伏に富んだ(山が多い)地形を活用し、銃も武器(刀剣、槍)も有する日本の武士団に駆逐されるだろう。これが、英米仏が幕末前後にも日本を植民地にできなかった理由である。

  「武装鎖国」という言葉とその意味するところは私が1999年に『季刊邪馬台国69号』(梓書院刊)の「隅田八幡神社人物画像鏡と継体天皇」という小論(注1)の中で発表したものである。誌上発表は1999年であるが、その数年前にこの考えに至っていた。が、この「武装鎖国」という言葉も私の小論「隅田八幡神社人物画像鏡と継体天皇」もそれほど反響を呼び起こさなかったように思われる。

 が、私は2017年の後半からツイッターを始め、2018年の半ば頃からユーチューブも見始めた。1年ほど前のことであったと思うが、私がよく視聴している武田邦彦氏のユーチューブ動画(私はいくつかの武田氏の動画の中にコメントを残し、私のブログも示していた)の中で「インドネシア等の東南アジア諸国が英仏蘭などに植民地にされたのはイヤだと言っても武力がなかったのでその侵略を防ぐことができなかったが、日本は武力があったので植民地にされなかった。鎖国ができたのも日本に(強力な)武力があったからだ」という趣旨の講演をしておられた。

  日本の江戸時代の鎖国が“超強力な軍事力による「武装鎖国」”であるという考えから、他の植民地にされた国々には“強力な軍事力”がなかったことは容易に推察できる。

  今年(2020年)、NHKが制作した「NHKスペシャル 戦国―激動の世界と日本」というテレビ番組は、戦国時代(1467~1615年 *江戸時代初期も含む)の日本の対外政策について説明し、当時の日本の軍事力が鉄砲の性能を含めて、世界最強クラス(世界屈指の軍事力)であったとし、(1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えてから)日本で進化した高性能の鉄砲が当時のヨーロッパに輸出されていた、また、戦国時代に戦闘力を高めた日本兵が傭兵として海外で雇われて活躍したという新知見を伝えた。

 この番組が伝えていなかったことは、秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止した理由を、スペインがキリスト教の布教を通じて世界征服(日本の“軍事力を利用して”中国を征服)を企んでいることは言及していたが、宣教師たちを運んできたスペイン船の商人たちがキリシタン大名の容認の下、日本人を奴隷売買していたことに秀吉が激怒したことにはふれていない。キリスト教に対する遠慮(忖度)であろうが、歴史において外国や特定の組織に遠慮していては歴史の真実に到達することはできない。また、日本が世界最強級の軍事力(高性能の鉄砲と兵員動員力)を有していて日本を武力的に征服することは不可能である、ということにも言及していない。

 この番組はどの研究者が主導(監修)しているのか定かではないが、バチカンのイエズス会ローマ文書館の記録を紐解くことによって、戦国日本と当時の海洋大国ポルトガルやスペインとの密接な関係を掘り起こし、戦国日本の歴史に新たな視点を提供する優れた番組であるが、そのきっかけとなっている“(戦国時代の)日本が世界屈指の軍事力を持っていた”という考えをどこから導き出した(仕入れてきたのか)を明らかにしていない。もちろん、テレビ番組やユーチューブは論文ではないので厳密な引用(引用元)の明示は必要ではないのかもしれないが、完全な“新概念(新発見)”を提示する時は自分の考えであるのか、他者の考えであるのかは示す必要がある。また、この番組はキリスト教に遠慮して言うべきことを言わないが、NHKのニュース番組と同じこと(中国や韓国、北朝鮮などの日本周辺国の非道や不法行為には言及せず、それらの国の流してほしい映像は垂れ流す)を行なっていて残念に思う。

 “(無償の)愛”を説くキリスト教は立派な世界宗教であるが、その布教を担う組織は玉石混交の人間の組織である。人間は(神仏ではなく)時には大きな過ちも犯す。“奴隷売買”の容認は“奴隷制度”の容認と同じであり、これが当時のキリスト教教団(カトリック、プロテスタント)の最大の誤りであり、近代に入っての米国の汚点とも言うべき (南北戦争の原因となった) 奴隷制度にもつながっている。

 徳川幕府の鎖国政策を“戦国時代を通じて培った強力な軍事力による「武装鎖国」である”という概念を言葉で初めて示したのは私だと思うが、その言葉の“発明者”にはもう少し敬意を表してくれたらと思うのであるが、傲慢な考えであろうか。

 このNHKの番組は戦国時代を“日本が初めて世界とかかわった時代”と述べているが、これは古代の歴史に無知な者の発言か朝鮮半島の国々など外国ではない(日本の領土、または属国)という傲慢な考えに陥っているためであろうか。確かに、朝鮮半島の国々や中国大陸は西洋ではないが、当時の航海術から見ると世界(天下)であり、日本はすでにこの世界に恐らく紀元前から深くかかわり、4世紀後半から5世紀前半にかけて朝鮮半島北部の強国・高句麗と激しく戦っていた。高句麗の広開土王の碑文に「391年に倭の軍隊が海を渡って攻め寄せ百済と新羅を屈服させ、高句麗軍と交戦した」ことが記されている。これは“古代戦国時代”の覇者となった仲哀天皇・神功皇后政権の倭軍(日本軍)が統一の余勢を駆って朝鮮半島に攻め込んだものと思われる。この時代、日本は大きく“世界(=天下)”とかかわっていたと考えてよい。“古代戦国時代“は、15世紀半ばから17世紀初頭の戦国時代と類似する部分があり、そのクライマックスは朝鮮出兵であり、歴史の繰り返し(歴史の反復)現象という言葉で説明すべきもののように思われる。(さらに古い“戦国時代”は邪馬台国の女王卑弥呼が共立される前に起こった“倭国大乱”(注2)である。日本には三度の戦国時代があったと私は考えている。※幕末から明治維新までの混乱を“戦国時代”と見ることも不可能ではないし、これも入れれば日本に四度の戦国時代があったことになる。そして、維新前後の混乱(鳥羽伏見の戦い、西南戦争など)を収拾したあと朝鮮半島に進出して朝鮮を併合した。戦乱を経て朝鮮半島に出て行くのは三度繰り返された。”歴史は繰り返す“のだ。[この小字の部分、2021年1月5日追記、1月24日再追記])

  徳川幕府の鎖国政策が(戦国時代から続く)強力な軍事力による「武装鎖国」であるという考えが行き渡ってきたのは、それが歴史の事実(真実)の基づく正しい理解・認識であるからだ。この認識はなんとなく解明されてきたのではなく、「(強力な軍事力による)武装鎖国」という言葉がこの認識を生み出したものと私は考えている。

  新たな「命名」は“新発見”と言ってよいものであり、新たな世界の認識につながる。すでに、日本または世界でよく知られている学説や理論にいちいち提唱者の名前は挙げなくてもよいが、そうではない者の考え方(命名)を利用しながらその提唱者を無視し、あらたな説の展開を図るのはまともな研究者の態度ではない。 (※私の「(強力な軍事力による)“武装鎖国”」という考えが(武田氏やNHKの番組を通じて)広まるのは嬉しいことであり、感謝すべきことであると考えているが、“世界初(日本初)”の考えに対してその出処を示すことは必要なことであると思う。)

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(注1) 私が物事を考え分類したりするときに常に念頭に置いていることは、

    千島喜久男博士の“哲科学”の第8原理の⑤「凡ては連続的であり、限界は人為的である

という考えである。良性腫瘍(おでき)と悪性腫瘍(ガン)も厳然と二分できるものではなく、連続的であり、魚などがメスからオスにに変異するのもこの“連続性”から異様なことではないということが理解できる。

(注2)「倭国大乱」はいわゆる“銅剣銅矛文化圏”と“銅鐸文化圏”とのあいだの宗教戦争と考えてもよいのではないかと私は考えている。北九州のいくつかの遺跡(吉野ケ里など)から銅鐸とその鋳型が出土し、昔は近畿地方を中心とする銅鐸文化圏と北九州地方を中心とする銅剣銅矛文化圏の対立という主張が日本史の教科書から消えてしまったが、出土数の片寄りを考慮すればこれは文化圏の衝突、宗教文化圏の衝突と(古代は祭政一致であるから宗教的対立は同時に政治的対立でもある)考えられる。倭国大乱は、卑弥呼を(後に)擁する勢力とそうではない勢力の宗教戦争と考えたほうがよいのではないか、と思う。これが正しいとすると、日本での宗教戦争は、三度の戦国時代と絡んで起こったことになる。

  • 第1次戦国時代(*一回目の宗教戦争)・・・「倭国大乱」:桓霊の間;桓帝(146~167年)、霊帝(168~189年)で最大で53年間(146~189)となるが、常識的には中をとって150~180年の30年間の大乱ということになろうか。 
  • 第2次戦国時代・・・4世紀中頃(崇神天皇、大彦)~5世紀初頭(仲哀天皇、神功皇后) 
  •    *二回目の宗教戦争(597年) 崇仏派(蘇我氏)と廃仏敬神派(物部氏)との仏教導入をめぐる戦い
  • 第3次戦国時代(1467~1590年) 応仁の乱から秀吉による全国統一まで(戦国時代の終わりを大坂夏の陣の1615年までとする人もいる)。 *三回目の宗教戦争 この期間に天文法華の乱、石山合戦(信長と浄土真宗本願寺勢力との戦い)のような戦国大名と宗教武装勢力との凄惨な戦争が起こった。
  • 第4次戦国時代・・・幕末から明治維新後の西南戦争まで (これは戦国時代に入れない方がよいかもしれない) ※(注2)は1月31日追記

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※※ 以下は私のブログ「テロをいかにして根絶するか」の“注”に書いた文章である。

  1543年にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられてから、戦国時代ということもあって、あっというまに、鉄砲は日本中に広まり、その技術改良もすすみ、豊臣秀吉が天下を統一した1590年の時点では鉄砲の数はヨーロッパの全ての国の鉄砲の数の合計したものより多かった、つまり、世界一だったとする研究者もいる(戦後三十数年で日本の自動車は自動車王国の米国の車を性能やその他の面で完全に追い抜いてしまったし、コンピューターの集積回路や液晶技術、工作機械の技術においても日本は現在、世界のトップの座にある。太平洋戦争初期の零戦の戦闘性能は世界最高水準であった)。1600年に関ヶ原の戦いが行なわれたが、その時の東西両軍の総兵力は約30万人とされており、当時のヨーロッパ各国の軍隊は最大でも数万であり、10万を越える常備軍を持っていた国は一つもなかった。鉄砲の数や実戦的な刀・槍・鎧・兜の数や動員兵力から見て、日本は世界有数の「軍事大国」であり、同時に「軍事技術大国」でもあったと考えてよい。徳川幕府が、他国との外交交渉なしで鎖国政策をとることができたのも、軍事戦略論的にいえば、改良のすすんだ鉄砲の数と動員兵力などによる圧倒的な軍事力を背景にしていたからである。つまり、これは「武装鎖国」というべきものである。この「武装鎖国」によって徳川幕府は270年近くの戦争のない平穏な世をつくり出したのである(が、蒸気船の出現と強力な大砲、銃器の開発によって欧米と日本の軍事力のバランスがくずれ、優勢な軍事力を持つ米国に江戸幕府は「武装鎖国」を解除されたのである)。 (2017年10月11日記)  ※※私がコメントを投稿したユーチューブの動画が削除されていた。“【衝撃】列強国が日本を植民地にできなかった理由がとんで~" この動画に関連付けられていた YouTube アカウントは、著作権侵害に関する第三者通報が複数寄せられたため削除されました”との表示があり動画が削除されており、当然、私のコメントも見ることはできなかった。「いいね」が十数個ついていただけに残念である。私のコメントの内容は「軍事武装鎖国」と軍事戦略的に当時の列強が日本を植民地にすることは不可能だった、とするものであった。他のユーチューブ動画に対する私のコメントもその後三件ほど削除され、まさか、私をねらい打ちにしたのではないだろうがいったいどうなっているのかと思う (この小字の部分、2019年3月21日追加)。

 

※※ 「テロと宗教戦争と日本なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか (2017年11月2日記)」というブログでは“武装鎖国”について次のように言及している。

(注1) 秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止した。キリシタン大名の大村純忠が長崎港とその周辺地区をイエズス会に寄進し、そこがローマ教皇領になっていたが、秀吉はそれを簡単に取り戻すことができたのであるが、それはなぜか。前のブログでも書いたように徳川幕府がいわゆる鎖国政策を行ない(朝鮮と中国とオランダとは貿易は許可していた) 、他国と通商を禁止することができたのは、秀吉から家康の時代にかけて日本の軍事力が世界最高水準にあったからである。鉄砲の総数はスペインやポルトガルの比ではなく、おそらく世界最高であり、動員兵力数もヨーロッパ諸国の数よりも圧倒的に多かったことがある(関ヶ原の戦いにおける東西両軍の総数30万、一方、スペインなどの国はせいぜい数万)。つまり、スペインもポルトガルも日本の世界最高水準の軍事力の前に引き下がらざるを得なかったのである。当時、スペインやポルトガルは南米やインドなどを武力征服し植民地としていたが、自国の国力を背景にした宣教師や貿易商人たちも、日本の軍事力を背景にした秀吉や家康や徳川幕府の命令に従わざるをえなかったのである。徳川幕府の “鎖国政策”は軍事力を背景にした“武装鎖国”であったと言える(これはどの歴史研究者も言及していない。拙論「隅田八幡鏡銘文の解読」(『季刊邪馬台国69号』1999年冬号)に「(軍事)武装鎖国」についての説明がある)。(この部分2017年11月12日追記)

 

※※拙論「隅田八幡鏡銘文の解読」(『季刊邪馬台国69号』1999年冬号)では武装鎖国について次のように述べている。

 (隅田八幡神社の鏡[503年製作説が有力]に言及して)

  現在の日本人は古代の日本の技術をどうしても低く見る傾向があるが、外国の技術を習得しそれを改良するのが得意であるという日本人の傾向は、昔も現在と変わらなかったのではなかろうかという思いが私にはある。

  戦後三十数年で日本の自動車は自動車王国の米国の車を性能やその他の面で完全に追い抜いてしまったし、コンピューターの集積回路や液晶技術、工作機械の技術においても日本は現在、世界のトップにある(※1990年代にはトップの座にあったが、米国民主党クリントン政権によってたたき潰された。2019年7月に日本が韓国に対しフッ化ポリイミド、フッ化レジスト、高純度フッ化水素の輸出を厳格化した。これらを他国から輸入できず日本からしか輸入できない韓国の状況は日本が当時、半導体技術でトップに立っていたことの証左である。―この部分2020年12月24日追記)。

  同様に、1543年にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられてから、戦国時代ということもあって、あっというまに、日本中に広まり、その技術改良もすすみ、豊臣秀吉が天下を統一した1590年の時点では鉄砲の数はヨーロッパの全ての国の鉄砲の数の合計したものより多かった、つまり、世界一だったとする研究者もいる。1600年に関ヶ原の戦いが行なわれたが、その時の東西両軍の総兵力は約三十万人とされており、当時のヨーロッパ各国の軍隊は最大でも数万であり、十万を越える常備軍を持っていた国は一つもなかった。鉄砲の数や実戦的な刀・槍・鎧・兜の数や動員兵力から見て、日本は世界有数の「軍事大国」であり、同時に「軍事技術大国」でもあったと考えてよい(江戸幕府が、他国との外交交渉なしで鎖国政策をとることができたのも、軍事戦略論的にいえば、改良のすすんだ鉄砲の数と動員兵力などによる圧倒的な軍事力を背景にしていたからである。つまり、これは「武装鎖国」というべきものである。が、蒸気船の出現と強力な大砲、銃器の開発によって軍事力のバランスがくずれ、優勢な軍事力を持つ米国に江戸幕府は「武装鎖国」を解除されたのである)。 

     

※※ 戦国時代の日本の軍事力が世界最強級であったのに対して幕末には戦艦(蒸気船) の性能や武器(大砲、鉄砲)の性能において欧米列強(英米仏)が上回っていたため、堺事件のような“情けない”事件が起こった。  以下は、私のブログ「テロと日本―なぜ日本にテロや宗教紛争がほぼないのか 2」 に書いたものである。上記の説明と重なる部分があるが、その 注3で「堺事件」に言及している。

  (注3) 江戸から明治になる直前の1868年3月に「堺事件」が起こった。当時、江戸幕府の大坂町奉行所は治安機能を失っており、住民の苦情をうけた土佐藩兵がフランス人水兵が堺市内を歩き回るのを止めさせようとしたが従わず反抗したため11名のフランス人水兵を殺害した。これに対応した明治維新政府は賠償金と20名の関係土佐藩兵を処刑(切腹)することで和解し、最終的には11名が切腹したところで、残りの9名は助命された。

 豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、スペイン人宣教師4名、ポルトガル宣教師1名、メキシコ人宣教師1名を含む20名の日本人キリスト教徒を処刑したが、スペインもポルトガルも秀吉の政権に何のクレームもつけることができず、秀吉の命令に従わざるを得なかった。当時、英国が台頭しスペインと海洋帝国の覇権をかけて争っていたが、秀吉の“蛮行(スペイン側から見た)”に対して大国のスペインが対応することができなかったのは、日本の軍事力に対抗する海軍力と兵力がなかったためである。徳川家康の後を継いだ秀忠の行なった宣教師を含むキリシタンの処刑(京都の大殉教、元和の大殉教)に対してもスペインもポルトガルも何もできなかった。この点についても日本人(歴史家)は日本の軍事力をきちんと理解していないように思われるし、当然のごとく歴史教科書にも説明がない。

 幕末に江戸幕府が英米仏に対して弱腰だったのは、海軍力(蒸気船と高性能の大砲)と銃器の性能などにおいて、日本側と外国諸国との間に大きな差が生じていたためである。この部分でも歴史教科書も専門家もきちんとした理由を示していない。秀吉、家康の時代には日本と西洋諸国との間に軍事力の差はなかった、というよりも日本が上回っていたのだが、幕末には逆転していたのだ。

   ただ、欧米列強が日本を植民地にできなかったのは、偶然にそのようになったのではなく、軍事的理由がある。 

   幕末当時の日本を完全に占領しようとすれば、地上軍は日本は山国であり、強力な火器や大砲を持っていたとしても、山岳地帯を拠点に日本の武士に反撃(ゲリラ闘争)されれば日本側にも銃は多数あり、制圧はかなり困難である。当時の西洋の海軍力(輸送力)では100万を超えるような兵員を日本に対して送り込んで日本を完全に制圧することは不可能である(一時的な拠点制圧なら可能であろうが、永久に制圧をつづけることは不可能)。つまり、軍事的視点から判断して、英米仏は日本を植民地にすることができなかったのである。(※この段落は本文に続いて原文にあるものであるが、2021年1月17日追記)

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                                                           (2020年12月25日記)