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48 ひとがた

 人形を「ひとがた」と読み、人間の身代わりであると考えてきた日本人の発想には、「生命のない物質の中へ」魂を入れると、その魂が発育し、物質である容器も育ってくる、という「産霊(むすび)」の信仰がもたらした根強い宗教観が示されていると佐々木幹郎*01はいう。この「むすひ」という言葉は古く日本書紀にも出てくるというが、こうした考え方がいったいいつの時代からあったのかはわからない。しかし縄文の女神たちがつくられた縄文中期から後期(約4~5000年前)にはすでにそうした考え方が人々の間に根付いていたのではないだろうか。「縄文のビーナス」や「仮面の女神」たちは繰り返し祭祀に使われていたという。そして彼女たちを使っていた者の死とともに、土の中に葬られたのではないかといわれている。「仮面の女神」はその時、足を故意に壊されて埋葬されていた。それは彼女が一人で勝手に歩き回らないようにするため、だったかのようである。彼女たちには魂が宿っていたのである。

仮面の女神(重要文化財)/中ッ原遺跡 縄文後期(約4000年前)/茅野市尖石縄文考古館

魂の“いれもの”としての「ひとがた」
 「ひとがた」の“かたち”のデザインには、二通りの方向性があるのではないか。ひとつは魂をもつヒトとの相似性をリアルに追求していく方向性。もうひとつは抽象的な“いれもの”として追求する方向性である。ヒトとの相似性の追求、リアルな表現の追求の過程では、リアルに限りなく近づいた時点で“不気味の谷”が生じることを森正弘は見出した。
 「古来、人は人の形をしたものによって癒されてきただけではない。畏怖を感じ、神として怯え、あるいは呪いを込め、また崇めてもきた。」*01と佐々木幹郎がいうように、“人の形”をしたものが、リアルにヒトに近づけば近づくほど、親しみも増し、癒されてもくるのだが、さらにリアルに近づくと突然、そこにヒトではない違和感を強く感じるようになる。その時、人は、その「ひとがた」に対し、畏怖や怯え、あるいは恐怖さえ感じてしまうのだ。ヒトとは違う“なにものか(神のようなもの)”がそこに宿っているのではないか、ということをそれは見る者に直感させるのである。物質である「ひとがた」に(神のような)魂が宿り、育ってくるという感覚。ヒトと「ひとがた」の間に、そのような心的効果を“不気味の谷”は生み出してきたのではあるまいか。

「不在の眼差し」をもつ埴輪人形
 一方、抽象的な“いれもの”としての「ひとがた」の代表は、埴輪であろう。埴輪はもともと円筒形の容器のような形状のものが中心で、そこに眼、鼻、口、手などを付けた「ひとがた」がつくられた。

埴輪 翳(さしば)/群馬県伊勢崎市豊城町権現下出土 古墳時代/東京国立博物館
円筒形のいれものとしての埴輪に宿る魂は、ヒトとは違う何ものかであった。


 和辻哲郎は不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められる縄文土器や土偶などに比べ、こうした埴輪人形の稚拙に見える造形について、次のように指摘*02する。
 「注目すべき点は、この造形が必ずしも人体を写実的に現わそうなどと目ざしていないという点である。それは埴輪の円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無造作な取り扱い方によく現れている。」
 ところがその稚拙な人物像を異様に生かしているのが、実はぽっかりと空いたその眼にあると和辻はさらに指摘する。
 「そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面に出てくる。それが異様な生気を現してくるゆえんなのである。」
 その眼球がない埴輪の眼の奥には、暗い穴に吸い込まれている闇があって、そこには「不在の眼差し」がある*01と佐々木幹郎はいう。

踊る人々/埼玉県江南町野原出土 古墳時代/東京国立博物館
ぽっかりと空いた「不在の眼差し」をもつ「ひとがた」


“そこにいる”神と“はるかかなたにいる”神
 ヒトとの相似性の追及、リアルな表現の追求の中で「ひとがた」に憑依してきた魂は、日本の自然のなかのあらゆる事象・事物に宿る命、生き物に変化する神であり、“そこにいる”神であろうか。それに対し、埴輪人形は、その「不在の眼差し」を通して、“はるかかなたにいる”神を見据えているのではないだろうか。
 円筒形のいれものとしての埴輪に宿る魂は、ヒトとは違う何ものかであった。ところがその埴輪が「ひとがた」として「不在の眼差し」を持った途端、そこに和辻のいう魂の窓が開く。その窓の奥には、はるかかなたへと続く闇がある。その闇の奥にいるのは、抽象的な神、そこではない、別のところに存在する神であって、埴輪人形はヒトとその“神”とをつなぐメッセンジャー、あるいは通信手段の役割を果たしていたのではないだろうか。
 魂の宿った縄文の女神たちは、「個」としての存在感を持っていた。そして人々もそのような生ける「ひとがた」として、彼女たちを愛で、畏怖を感じ、怯え、崇めたのである。そして彼女たちはヒトに近い存在でありながら、ヒトではない存在であるために、よりリアルの追求が必要であった。それに対し、はるかかなたにいる神との通信手段にすぎない埴輪人形は、その「不在の眼差し」のみが必要であり、「ひとがた」としてのリアルな追及など必要なかったのではあるまいか。
 神のいる場所の違いだけではない。神の性質の違いがそこに表れている。“はるかかなたにいる”神は、“そこにいる”神のように、「個」としてのおのれの存在を必要としないし、また「個」の重要性も意識しない。その神においては個々のヒトへの関心は失われ、それらを束ねる集団への関心が強まるかのようである。
 この違いは古代国家の成立と密接につながっているように思われる。それまでの民衆の“どこにでもいる”神から、国家の、より“抽象的、象徴的”な神へ移り変わっていくプロセスと「ひとがた」のデザインの方向性の違いが重なっているようだ。
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*01:人形記-日本人の遠い夢/佐々木幹郎  淡交社 2009.02.11
*02:人物埴輪の眼(1956)/和辻哲郎 和辻哲郎随筆集 岩波書店 1995.09.18


人形記―日本人の遠い夢
佐々木 幹郎
淡交社

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和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)

岩波書店

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47 縄文の女神たち

 長野県茅野市にある尖石(とがりいし)縄文考古館には、八ヶ岳周辺で出土した縄文時代中期、後期の大型土偶の実物(日本最古の国宝と重要文化財)とその発掘時の状態を写した二枚の大きなパネル写真が展示されている。「縄文のビーナス」と呼ばれる棚畑遺跡で1986年9月に発掘されたものと、「仮面の女神」と呼ばれる中ッ原遺跡で2000年8月に発掘された二体である。

縄文のビーナス(国宝)/棚畑遺跡 縄文中期(約5000年前)
発見時の状態(1986年9月)/茅野市尖石縄文考古館


仮面の女神(重要文化財)/中ッ原遺跡 縄文後期(約4000年前)
発見時の状態(2000年8月)/茅野市尖石縄文考古館


 日本における遺跡の発掘作業というのは、テレビや新聞などでその様子をうかがうと、たいへん地道な作業のようである。土器や石器の断片や柱の穴の跡、食物の痕跡など繊細で地味な作業が続く。インディー・ジョーンズはまさに映画の中の世界としても、早大・吉村教授たちのエジプトのファラオの発掘などとはまるで別世界の出来事のようだ。そうした日々の地道な活動の中でこの二つの女神像の発見は、いかに衝撃的で、感動的な出来事であったことか、この二つのパネル写真からも想像に難くない。
 「仮面の女神」の発掘の様子を記録した冊子*01が考古館で販売されているが、土の中から初めてその姿を現した時の様子から、徐々にまわりの土を取り除き、ついに地面から取り上げられた様子。さらにそのレントゲン撮影などの詳細な調査から、壊れた部分の復元作業を経て考古館に展示されるまでを実に淡々と時系列的に記録している。この冊子のこうした“静かな”構成ぶりから、逆にこの作業に携わった人々の興奮の度合いが、いかに高かったかがひしひしと伝わってくる。

上書きされる地上の痕跡
 日本には古代ギリシャやエジプト、マヤなどの古代遺跡にみられるいわゆる“廃墟”に相当するような廃墟がない。(廃墟エクスプローラー*02に登場するのは“廃屋”である。)木と石という使用された素材の耐久性の違いもあるが、日本では人々の活動や生活の証が、データがメモリーに上書きされるように次から次へと積み重ねられ、地上にその痕跡を留めない。それらの証拠を見つけようとすれば、まさに土の中に埋められた断片を根気よく寄せ集める作業しかないのである。
 狩猟民の原始時代という印象の強かった縄文文化のイメージを、完全に一新したあの三内丸山遺跡でさえ、地面に残る巨大な柱の痕跡から、地道な作業の繰り返しによる復元というプロセスを経て初めてあの巨大建造物群の全貌が出現したのである。

“もの”を残さない民族
 日本人は地上に“もの”を残すことへのこだわりがあまりなかったように思われる。エジプトやマヤのピラミッドのように彼らが存在したという証を地上に残そうという確固たる意志がなかった。銅鐸や銅鏡などの祭器も最終的にはそれらを土の中に埋葬することを手順としていたようであり、文字の残し方も石碑に刻んで永久に残そうという意図よりも、竹簡、木簡などのように実用として使用したものがたまたま発掘されるという程度である。
 人々の間に積み重ねられた歴史・文化が、地上の“もの”に物理的に刻み込まれ、堆積している都市(文明)においては、人は外界である“もの”を容易に参照することによって、堆積した“歴史”の認知がよりスムーズに展開する。そこでは人々の“歴史”は、自らの廻りにある“もの”の姿とともに日常的にあるといってよい。
 しかし日本では自らの歴史・文化を“もの”に刻みこんで残すことはほとんどなかった。それは、民族どおしの混淆はあったものの、一つの民族が他の民族に完全に駆逐されるという事態がいまだかつてなかったことが、そうした“もの”を残すという必然性を生まなかったからなのかもしれない。いずれにせよ、日本では、みながそれらを「知っているはずだ Feeling of knowing(FOK)」で通り過ぎてきたのである。そして実はそうした記憶はすべて抜け落ちてしまい、我々には何も残っていないかのように思われてきた。

「妊婦」の女神と「胎児」の神
 ところが八ヶ岳周辺で出土したこの二体の太古の像が、胎内に子どもを宿した妊婦姿の女神像であったことに、この地方に伝わる、ある「古層」の神との関連性を感じざるを得ない。それは諏訪神社を中心とした諏訪信仰圏にいまなお残るミシャグチ信仰である。
 日本の各地にミシャグチと呼ばれる神が出現するのは、弥生時代後半から古墳時代の初期にかけてといわれている。それが古代国家の成立とともに次第に姿を消していったのだが、その「古層」の神の信仰が、いまだこの諏訪信仰圏には残っているという。
 このミシャグチ(御左口神)は「胞衣(えな)をかぶって生まれてくる子供」、けっして「胞衣」を脱がない神なのであり、その本質は「胎児」である*03といわれている。
 縄文の女神たちが土に埋葬され、地上からその痕跡が消えてから、ミシャグチ神が出現するまでには数千年の隔たりがある。また人間の誕生という出来事は普遍的な感動、畏怖、畏敬の念を与えるものであり、常に信仰の対象となるものでもある。にもかかわらず、ほとんどのミシャグチ信仰が消えていったなかで、わずかに残ったこの地を選んだかのように出現した妊婦の女神たち。それはまるで彼女たちが古代からそこにいたからこそ、「胎児」の神がいつまでもこの地に居続けているのだ、とでもいうかのようである。それはこの地方に、人々の記憶にすら上ってこない奥深いところで、数千年の時を経てもなお脈々と流れる古代との何らかのつながりがあることを感じさせるものでもある。

時を飛翔する縄文の女神たち
 この二体の縄文の女神たちは、4000年と5000年という時を超えて、タイム・トンネルを通ってきたかのように、突然、現代にほぼ完全なかたち*04でその姿を現した。古代エジプトやマヤの遺跡や遺物は数千年の時を経て〈今〉〈現在〉に現前化している。それよって、われわれは、それらを時を飛翔する寄り代とすることができる。それと同じように、この二体の女神たちもわれわれを数千年の時をへた縄文の世界へと飛翔させる。
 いまだかつて日本の中にはこのように時を越える遺物はほとんど存在しなかった。たしかに銅鐸や鉾、銅鏡、勾玉といった遺物たちがそうした役割を担ってはいるが、この二体はそれが“ひとがた”であるところに意味があるのである。
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*01:仮面土偶 発掘の記録/茅野市尖石縄文考古館 2001.09.14
*02:廃墟Explorer
*03:精霊の王/中沢新一 2003.11.20 講談社
*04:左足が壊れた状態で出土した「仮面の女神」は実は、故意に壊して埋められたといわれている。*01参照

 

精霊の王
中沢 新一
講談社

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