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52+1 リアルの変容


リアルに踏み込まないデザイン/アニメキャラのフィギュアたち

コミュニケーションの効率性が参照するもの
 芸術は虚構を模倣すると市川浩*01は述べる。その時の虚構とは「現実」からのわずかのズレが引き起こすものであり、そのベースにあるものは、あくまで「現実」の写生にある。ところが現代(東浩紀流にいえばポストモダン)にあらたに登場した小説(キャラクター小説等)では、描写するのは「現実」ではなく、アニメやまんがのようなもう一つの「仮想現実」なのだ、と大塚英志*02はいう。
 稲葉振一郎や東浩紀は、リアリズム小説や映画が「現実世界」と些細なところでしか食い違わない世界を舞台とする(すなわち市川浩のいうところの現実(虚構)を模倣する)理由は、まず基本的にはコミュニケーションの効率性の問題であると指摘する。*03*04
 「いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない」*04と東は述べ、それ故、自然主義文学(リアリズム小説等)の作家を取り囲んでいた近代社会の、人々のイデオロギーや世界観を調整し、構成員がひとつの「現実」を想像的に共有するように強制していた社会環境という前提の中にあっては、「現実」を模倣することがもっともコミュニケーションの効率がよいために、そうされたのであり、同じように、大塚が指摘するポストモダンのキャラクター小説の作家たちは「現実」を共有するという前提が崩壊しているポストモダンの現代という社会環境の中にいるために、もっともコミュニケーションの効率がよいキャラクターを参照しているのだという。
 こうしたコミュニケーションの“効率性”への着目は、オタク現象全般についての東浩紀の次のような理解にもつながる。
 「オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか(中略)その有効性が天秤にかけられた結果である。」*05

日常そのものの在り方
 いまあらためてコミュニケーションの“効率性”、あるいは人間関係の“有効性”の重視ということに注目が集まっているのは、実は日常の人間関係の“在り方そのもの”がいま問われているからに他ならない。ポストモダンの現代では、日常そのものがポストモダン以前の日常とは異なり、人々は日常そのものの在り方を模索しているといっても過言ではないだろう。たとえば、東浩紀のいう通りだとすれば、オタクにとってはすでに「仮想現実」が日常化しているといってもいいのではないだろうか。そうだとするならば、彼らのつくりだすものにも「仮想現実」の日常化と同じレベルの日常性が色濃く反映していてもおかしくはない。

リアルに踏み込まないデザイン
 現代(ポストモダン)の「ひとがた」の製作者たち。特に現実(リアル)から離れてアニメなどの二次元のキャラクターから三次元の立体像=フィギュアをつくる人達のデザインを見ると、そこには「ひとがた」のデザインを仮想現実の日常を映すものとして捉えていることを見て取ることができる。

 彼らのデザインは、あえてリアルに踏み込まない。彼らは不気味の谷が発生する一歩手前でリアルの追求を止めてしまう。リアルに近づいて行くときに見える深い割れ目に彼らは近づこうとしない。彼らの創作の動機を、ポストモダンにおける社会状況の変化の中でのコミュニケーションの“効率性”にあるとするならば、「不気味の谷」のようないわばコミュニケーションの断絶、あるいは拒絶するようなものは“必要ない”のである。
 ゆえに彼らの「ひとがた」には「不気味の谷」が発生しない。あるいは、その存在自体が疑われる*06ことになる。不気味の谷が、創造の特異点だという意味でいえば彼らのデザイン過程には、創造の特異点それ自体が生まれてきていないといえるのかもしれない。

芸術の変容
 東が言うように、製作者の個々の表出である“芸術”は、発信者と受信者のコミュニケーション抜きには存立しない。しかし、そのコミュニケーションにおける“効率性”の過度の重視は “芸術”そのものの変容を強いるようになる。

 石膏の型取りによるラオコーン像のコピーが盛んに行われた理由には、オリジナルを直に見ることを妨げていた距離を取り払い“究極”の芸術作品をより多くの人々が鑑賞できるようにする、という大義名分があった。しかしその背後にはヴァチカンの威光をより広範囲の人々に知らしめるという意図も見え隠れしていた。コピーの作成は、より多くの人々に発信者(これにはオリジナルの作品自身とその製作者だけではなく、コピーを企画・製作した人々も含まれる)の意図を伝えるための、いわばコミュニケーションの“効率性”を高める手段でもあった。芸術作品“そのもの”の流通と、芸術作品を利用しようとする人々の“意図”の流通の、双方の促進がその背景にあったのである。

「作品」と「言説」
 芸術におけるコミュニケーションの“効率性”ではオリジナルだろうとコピーだろうと関係なく、その“意図”の速やかな流通がもっとも重視される。それゆえ、複製技術の進歩によって、より大量に、より正確に、オリジナルの複製がつくられるようになると、人々がオリジナルとコピーの見分けがつかなくなるのは必然であった。そのため今度はその区別をつけるために作品に「言説」が付け加えられるようになる。
 ラオコーン像のように、物質である「作品」それ自体が芸術を表出*07していた時代から、大量複製技術時代の到来に伴い、物質である「作品」とその言葉による解説である「言説」とをセットにせざるをえない時代となった。「作品」それ自体ではもはや十分なコミュニケーションの機能を果たすことができなくなったのである。
 芸術作品につけられた「言説」は、芸術作品が伝えるコミュニケーションの効率性を飛躍的に高めた。20世紀の現代美術では、すぐれた「言説」がつけられた「作品」は、たとえそれが「複製技術」そのものを駆使したものであっても、一級の芸術作品とみなされるようになった。「作品」の解説であったはずの「言説」が、「言説」の説明を補強するための「作品」という風に主客の逆転が生じるようになる。そしてついには、当初「作品」とセットであった「言説」は、バラバラに機能し始めるのである。
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*01:身体論集成/市川浩/岩波書店 2001.10.16
*02:キャラクター小説の作り方/大塚英志/講談社 2003.02.20
*03:モダンのクールダウン―片隅の啓蒙/稲葉 振一郎 NTT出版 2006.04.06
*04:ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2/東浩紀 講談社 2007.03.20
*05:動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会/東浩紀 講談社 2001.11.20
*06:「不気味な谷」という現象そのものが錯覚であり、存在していないと主張する人々もいる。
*07:ラオコーン像ももとはといえば、神話という物語(言説)を題材にしていた。しかしながらその物理的表現は、現実を超えた“現実(リアル)”をつくりだした。


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