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49 5000年をへだてた類似性(あるいは共通性)

 4~5000年の時を経て現代に出現した縄文の女神たち。彼女たちの姿を我々はどう受け止めるのか。意外なことに彼女たちの姿かたちから受ける印象は、現代のサブカルチャーの中で隆盛な「ひとがた」のデザインと非常に近いものがある。
 「縄文のビーナス」が現代に出現した(発掘された)前年にあたる1985年に開催された「つくば科学博」に登場した、ルイジ・コラーニがデザインした丸みを帯びた流線型のロボットたち。そしてそれにつづくポケモンなどのアニメキャラとそのフィギュアたち。それらに共通するのは丸みを帯びた体形と誇張された手足、目鼻などだ。そうした特徴は縄文の女神たちにもあてはまる。

縄文のビーナス(国宝)/棚畑遺跡 縄文中期(約5000年前)/茅野市尖石縄文考古館


ルイジ・コラーニデザインの流線形のロボット/TUKUBA EXPO’85/CYBERDYNE STUDIO

 「縄文のビーナス」のどっしりと誇張された足と腰。極端に短い手。ハート形の顔など。また「仮面の女神」の同じく全体が丸みを帯びたかたちの中で、とりわけ特徴的な幾何学的な逆三角形の仮面は、ガンダムのようなマシンイメージにもつながるといってもいいのではないだろうか。同じ縄文時代の遮光器土偶などは、さらに宇宙人や未来のロボットに近いもののようでもある。この土偶はドラえもん*01の中でまさにそのようなものとして登場する。
 4~5000年の時を隔てたこの「ひとがた」のデザインの類似性(あるいは共通性)は、はたして本質的なものなのだろうか、それとも表面的なものなのだろうか。

遮光器土偶(重要文化財)/宮城県田尻町恵比須田出土縄文晩期(前1000~400)/東京国立博物館
その特徴的な目の形が、エスキモー(イヌイット族)の、雪の反射光を遮り、眩しさから眼を守る、細い横スリットの入った雪めがね(遮光器)に似ていることからこの名前がついたといわれている。

「おむすび」をつくる手のひらの感触
 現在は「リアル」なものが何であるのかが見えにくくなり、「リアル」の根拠が変貌し続けているという佐々木幹朗は、現代のフィギュアの製作者たちの「かつての『リアル』とは遠く隔たった位置でフィギュアを作る、あるいは作りたいという欲求の根本にあるものは、触りたいという人形作りのモチーフ」*02であると述べている。二次元の漫画やアニメの世界から、三次元の立体を作る作業は、『おむすび』をつくる手のひらの感触と同じなのだという。
 「産霊(むすび)」の神々が、自然のあらゆるもの、一本一草の中に霊魂を付与し、生命の素となるものを発育させたように、生命の源である“お米”を、様々な思いを込めて握ること、その行為と現代の「ひとがた」づくりの根本にある行為は同じだ、というのである。
 そこには「ひとがた」づくりを超えた創造活動における、時を超えた共通性、類似性を見出すことができる。

縄文は創造活動の原点
 縄文の世界は日本人の創造活動の原点と考えてよいのではないか。縄文の人々は常に自然と向き合い、対話することにより、身体的にも精神的にも自然から深い影響を受けていた。自然素材に人の手が加えられることにより、創り出されたもの達には、「むすび」という考え方だけではなく、様々な意味で自然が色濃く映し込まれていた。手応えのある力強さ、存在感があった。縄文は自然から恵みを受け、自然の中でものを創り出すことを学んだ出発点であったといえるだろう。

現代はもののない創造活動の原点
 ものづくりは、常に素材という物理的存在との対話の中で生まれてきた。しかし近代になり写真などの複製技術等の進歩により、物理的素材との関係性があいまいになりつつある。そしていま、コンピューターの登場により、ものという物理的存在そのものがない創造世界へと突き進みつつある。
 自然からものを創り出していくことを学んだ我々は、次から次へとものを創り出し、ついには自然から遊離し始めた。自然の恵みである素材という物理的存在だけではなく、自然から受け継いだ精神的なものさえ失われ始めている。特に産業の分野では、物理的にも精神的にも自然から遊離したものづくりは、自然そのものを破壊していくまでになった。
 いま地球規模の環境問題がクローズアップされているなか、創造活動の中における自然とのかかわりあいがあらためて問われている。特に自然(ここには当然、自然の一部としての“ヒト”自身も含まれている)と向き合い、対話することの重要性、自然との精神的なつながりが求められている。
 縄文は、いわばもののある創造活動の原点であった。そうだとすれば現代は、もののない創造活動の原点であるといえるのかもしれない。縄文は創造活動の、同じ“原点”として、この自然との精神的なかかわりあいの重要性をあらためて示している。

受け継がれる縄文精神
 一方で、縄文世界を原点とする創造活動の精神は、風土を代表する芸術家や祭りの中に脈々と受け継がれてもいる。それは人と自然の深い関わり合いから生まれた素朴で、ダイナミックなエネルギーにあふれた精神である。
 そしてもののない創造活動においても、その根本において縄文精神との共通性を見出すことができる。もののある創造活動では、その出発点に自然―現実(リアル)があり、それを己の中に取り込むことから創造活動が出発するのだが、もののない創造活動においては、もののある創造活動でつくりだされたものそのものが創造の出発点になる、という状況も含まれる。すなわち自然―現実(リアル)の“参照”から生まれた“虚構”や“模倣”そのものが出発点になる創造行為だ。
 ポストモダンの世界をデータベース型世界と規定し、創造活動の結果として現れる表層は、深層(=大きな物語=プログラム)だけでは決定されず、インターネットのウェブ・ページのように、そのユーザーの読み込み次第で、原作や二次創作などいくらでも異なった表情を表す*03とした東浩紀は、ポストモダンの世界では、(キャラクターなどの)データベースによる大きな想像力の環境がつくりだされている*04という。
 しかし、その創造活動の具体的な担い手たち(特にフィギュアなどの立体形をつくる作家たち)が、無意識にしろ「おむすび」をつくる手のひらの感触と共通する行為を伴っている、という佐々木の主張は、そうしたものづくりの根本に、縄文から連綿と続く創造活動の“源泉”が潜んでいることを示しているのではないだろうか。
todaeiji-weblog

*01:ドラえもん のび太の日本誕生 1989
*02:人形記-日本人の遠い夢/佐々木幹郎/淡交社 2009.02.11
*03:動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会/東浩紀/講談社 2001.11.20
*04:ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2/東浩紀/講談社 2007.03.20


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