萌黄の鳥

短歌を通しての交流

08´9.27吉川宏志『風景と実感』批評会

2008-09-29 08:22:03 | Weblog


08´9.27吉川宏志『風景と実感』批評会  京都都メッセにて

最近は短歌関係の本も、知人から借り受けることが多い。
一読してから、手元に置いておきたいものだけ購入することにしている。
でないと家中、本に埋まるからだ。(私が先に買って友に回すこともある)
今回、話題となっている吉川宏志の『風景と実感』も知人から回ってきた。
購入の目安にしているのは、感動・衝撃受けたもの、今後自身の歌つくりに
役立ちそうなもの、資料的に必要もの等々である、、。

今回の批評会では吉川宏志の『風景と実感』批評会でありながら、同じ時期に
出版したという理由からか、しばしば穂村弘の『短歌の友人』との対比が話題と
なった。

第二部のパネラー・東郷雄二(京都大学)は二人の違いについて次のように
述べていた。
吉川は高性能の酸素ボンベを背負っている。ひと昔前の歌の巧い人の印象が
ある。近代短歌の賞味期限切れが本当なら吉川は近代短歌の延長上にある。
穂村は短歌の歴史的なものを排除し反映させないとしている。

川野里子(コスモス)もそのへんのところを
吉川と穂村は同じものを抱えているが、そこから先が違う。
吉川は実感=身体性へのこだわりがある。結論をつけてアリバイをつけて
証拠隠滅。物言いをつけられやすいのは吉川の方である。しかしこれは信頼
したいという思いにも通じる。
穂村は「むてかつ流」でものいいがつけにくい。
吉川と穂村は年齢的に近いが育った土地・風土が違う。素朴な自分に返るという
近代短歌ではこの部分が不十分だった、、、この部分を吉川は書きたかったのか。


東郷雄二、川野里子ほか会場からの発言、第一部の吉川対花山周子の対談でも
指摘されていた、、。私の中のもやもや感が解明できたように思う。
もちろんかつて評論賞をとった論客の吉川氏ゆえみな遠慮なくむしろ挑発的に
あえて発言された部分もあったのではと思う。
私がこの評論集を購入しなかったの理由のひとつに、吉川氏より穂村氏の論
(まだ読んでいないが)に近いことが原因であったのだ。

多方面から、この日の報告はいくであろうから吉川氏と穂村氏にしぼった。
耳からの聞き取りなので間違った部分があったらご指摘・補足していただき
たい。

東郷雄二 日本の言語学者、
現在京都大学大学院人間・環境学研究科教授



             アリサ/ 佐々木則子


HP「萌黄の鳥」http://www.eonet.ne.jp/~arisa118/