永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(94)

2016年01月29日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (94) 2016.1.29

「かくて八月になりぬ。二日の夜さりがた、にはかに見えたり。あやしと思ふに、『あすは物忌みなるを、門つよく鎖させよ』など、うち言ひ散らす。いとあさましくものの沸くやうにおぼゆるに、これさし寄りかれひき寄せ、『念ぜよ念ぜよ』と耳おしそへつつまねささめきまとはせば、我か人かのおれ物にて向かひゐたれば、むげに屈じはてにたりと見えけむ。またの日も日暮らしいふこと、『我がこころの違はぬを、人の悪しう見なして』とのみあり。いといふかひなし。
◆◆こうして八月になりました。二日の夜分にあの人が急に訪れたのでした。変なことだと思っていると、「明日は物忌みだから、門をしっかり閉めさせよ」などと言い散らかしています。まったくあきれて、胸が煮え返るような気持ちでいますと、だれかれと無く侍女を引き寄せては、
「我慢するのだぞ、我慢我慢」などと、耳元へ口を寄せて、私の口癖のまねをして、ささやき回り、困惑させているので、私はあっけにとられて馬鹿のように向かい合って座っていましたが、それはきっと愚か者に見えたことだったでしょう。次の日も一日中あの人が言うことは、「私は心変わりをしないのに、あなたは私を悪くばかり考えて…」とばかり。まったくどうしようもない、あきれたことでした。◆◆


■物忌み=ものいみの時は、門を閉ざして謹慎し、人に会わない。

■ものの沸くやうに=湯が沸騰するように怒りがこみ上げるさま。本来の愛情ある訪問ではなく。
 物忌みに利用されたことへの、作者の怒り。

■おれ物=おろか者、間抜け。

■わがこころの違はぬを=脛に傷持つ兼家は、作者のもとへ来にくい。しかし一方の北の方であり、作者を捨てる気持ちは毛頭ないので、たまには訪れなくてはならない。物忌みに事寄せて、照れ隠しで狂態を演じたり、兼家の性格が見える。



蜻蛉日記を読んできて(93)

2016年01月26日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (93) 2016.1.26

「おほやけに相撲のころなり。をさなき人、まゐらまほしげに思ひたれば、さうぞかせて出だしたつ。『まづ殿へ』とてものしたりければ車のしりに乗せて、暮れにはこなたざまに物したまふべき人のさるべきに申しつけて、我はあなたざまにと聞くにもましてあさまし。」
◆◆朝廷では相撲の節の頃です。道綱が参内して観覧したそうにしているので、装束を着けさせて出してやります。「最初に本邸へ」ということで出かけたところ、宮中への車に同乗させて連れて行ってくれましたが、帰りにはこちらへお帰りの、然るべき人に子どもを頼んで、あの人自身はあちらの(時姫の住む本邸)方に行かれたと聞くに付け、まったくあきれてしまった。◆◆



「またの日もきのふのごと、まゐるままにえ知らで、夜さりは所の雑色これらかれら、これが送りせよとて、先立ちて出でにければ、一人まかでていかに心に思ふらん、例ならましかばもろともにあらましをと、をさなき心地に思ふなるべし、うち屈したるさまにて入り来るを見るに、せんかたなくいみじく思へど、何のかひかあらん。身ひとつをのみ切り砕く心地す。」
◆◆次の日も同じように、参内すると、道綱のことは放っておいて、夜になると、「蔵人所のだれかれは、この子を送ってくれ」といって、先に帰ってしまったので、あの子は一人で退出して、心中どんなに悲しかったことだろう。夫婦の仲が普通であれば、一緒に帰るだろうにと、幼な心に思っているようで、すっかり心落ちした様子で入ってくるのを見ると、慰めようもなく、辛く思うけれど、どうしようもない。わが身一つを切り砕くような切ない思いがするばかりである。◆◆


■所の雑色これらかれら=蔵人所で雑用をする者。

蜻蛉日記を読んできて(92の解説から)

2016年01月23日 | Weblog
(92)全体の解説(上村悦子著)から  2016.1.23

 石山寺へ作者が突然、供人もそろえず、しかも最初の間、徒歩で家を抜け出るや小走りにどんどん進んで行った理由は何であろう。作者のような貴婦人の行為としてはまったく異常である。道綱も大勢の侍女も伴わないので遊山でないことはむろんであるが、なぜそんなに思いつめて石山詣でを決行したのであろう。


 一説では兼家との仲を断念して出家しようと決意したからだと言われるが、そのすぐ前に、作者が尼になる希望を道綱に漏らした時の子どもの反応の激しさに驚き、出家することを思いとどまっている。(略)そして最後に、「さもあらばれ、今はなほ然るべき身かは」と言っている。その他種々のことを考え合わせ、出家する前提として作者は石山詣でを思いたったとは思われない。
(略)今一度兼家の愛情を取り戻したい。出来たら子宝を得たい。また道綱の将来の出世も祈念したい。こうした願いから霊験あらたかな石山寺に参詣したのではないかと考える。侍女たちから兼家の愛人の名を具体的に種々聞かされただけに、作者は矢も盾もたまらず、急遽でかけたのであろう。
 

次に紀行文として本項をみると、石山寺の御堂の周辺の模様が上下遠近にわたって視野広く、また光や風・色・種々の音を入れて、きわめて克明にビビットに描かれている。日常の苦悩の多い身の上を書く時のあの近接同語の頻出やまわりくどい、わかりにくい、充分洗練されていない文章に比べると、これはまったく渋滞なくすらすらと写生するごとく紙面にうつしとられている。私たちの脳裏に千年前の風景や音が鮮やかによみがえる思いがする。(略)


 作者の自然描写は自然のみを切り離して描写するのでなく、その中に人物の行動と心理をとけこませて描写していくので、主観的な叙情性がたたえられている。(略)
 この旅によって作者自身の人生観照も深まり、人生・自然を見る目もたしかとなり作家としての成長が感じられる。


蜻蛉日記を読んできて(92)の6

2016年01月20日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の6  2016.1.20

「いかが埼、山吹の埼などいふところどころを見やりて、葦のなかより漕ぎ行く。まだ物たしかにも見えぬほどに、はるかなる梶の音して心細くうたひ来る舟あり。行きちがふほどに『いづくのぞや』と問ひたれば、『石山へ、人の御むかへに』とぞ答ふなる。この声もいとあはれにきこゆなり。言ひ置きし、遅く出で来ればかしこなりつるして出でぬれば、違ひて行くなめり。とどめて、男どもかたへは乗り移りて、心のほしきにうたひ行く。」
◆◆いかが埼や山吹の埼などを次々に見やりながら、葦の間を漕いで行きます。まだ物の形がはっきりと見えない頃、遠くの方から梶の音がして心細そうな声で歌ってくる舟があります。行き違うときに、「どこの船かね」と尋ねると、「石山へ、お迎えに」と答えているらしい。その声もとてもしんみりと聞こえるが、それは帰りに迎えに来るようにと言い置いていたのが、遅かったので、あちらにあった舟で来てしまったので、行き違いに行く舟のようでした。それでその舟を止めて、供人の何人かはその舟に乗り移って、気の向くままに歌って行くのでした。◆◆



「瀬田の橋の本ゆきかかるほどにぞ、ほのぼのと明けゆく。千鳥うちかけりつつ飛びちがふ。もののあはれにかなしきこと、さらに数なし。さてありし浜辺にいたりたれば、迎への車率てきたり。京に巳の時ばかり、いき着きぬ。これかれ集まりて『世界にささなど言ひさわぎけること』など言へば、『さもあらばれ、いまはなほ惜しかるべき身かは』などぞ答ふる。」
◆◆瀬田の橋のあたりにさしかかるころに、ほのぼのと夜が明けていき、千鳥が空高く舞いながら飛び交わしています。なにもかもしみじみと悲しいこと、胸いっぱいに迫ること限りもありません。そうして以前の浜辺に着くと、迎えの車をつれて来ていました。京には十時ごろに帰りつきました。侍女のだらかれが集まってきて、「遠い遠いところへ行っておしまいになったのかしらと、(殿が)大騒ぎでございましたよ」などと言うので、「何とでも言わせておけばいいわ。でも今は、そんなことのできる身ではありませんもの」などと答えておいたのでした。◆◆


■いかが埼、山吹の埼=琵琶湖畔のまくら詞。両所とも石山と瀬田の間の名所と思われるが、現在地未詳。

■巳の時(みのとき)=午前九時~十一時ごろ

■さもあらばれ=さもあらばあれ。

蜻蛉日記を読んできて(92)の5

2016年01月18日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の5 2016.1.18

「『明けぬ』と言ふなれば、やがて御堂より下りぬ。まだいと暗けれど、湖の上しろく見えわたりて、さいふいふ人廿人ばかりあるを、乗らんとする舟の指し掛けのかたへばかりに見下されたるぞ、いとあはれにあやしき。御灯明たてまつらせし僧の、見送るとて岸に立てるに、たださし出でにさし出でつれば、いと心ぼそげにて立てるを見やれば、かれは目馴れにたらん心に、かなしくやとまりて思ふらんとぞ見る。男ども『いま、来年の夏ごろまゐらんよ』と呼ばひたれば、『さなり』と答へて、遠くなるままに影のごと見えたるも、いとかなし。」
◆◆「夜が明けた」という声が聞こえたので、すぐに御堂より下りました。まだとても暗いけれど、琵琶湖の湖面は白く見渡され、忍びの参詣とはいえ、供人は少人数ながらも二十人ほどいて、乗ろうとする舟が、差し掛けの沓の片方くらいの大きさに見下ろされたのは、とても心細く貧相な感じがしました。お灯明を仏様にお供えさせた僧が、見送りに出て岸に立っていて、私たちの乗った舟がどんどん棹をさして漕ぎ離れて行ったので、いかにも心細そうな様子で立っています。その姿に目をあてると、あの僧は、おそらく私たちに馴染んで親しみを覚えるようになったと思われるその寺に彼だけ留まって、さぞ寂しく思っていることであろうと察せられました。私の供の男どもが、「すぐまた、来年の七月に参りますよ」と大声で言うと、「はい、承知しました」と答えて、遠く離れて行くにつれて、影のようにぼんやりと見えているのも、ひどく悲しく感じられました。◆◆



「空を見れば月はいとほそくて、影は湖のおもてに映りてあり。風うち吹きて湖のおもていとさわがしうさらさらとさわぎたり。わかき男ども、『声ほそやかにて面やせにたる』といふ歌をうたひ出でたるを聞くにも、つぶつぶと涙ぞおつる。」
◆◆空を見上げれば月はとても細く、月影は湖面に映っています。風が吹いて、水の面がさらさらと波立っています。若い男達が、「声細やかにて、面痩せにたる…」という歌を歌い出したのを耳にすると、ぽろぽろと涙がこぼれました。◆◆


■『さなり』=直訳すれば、「そうです」「はい」に相当する返事。


蜻蛉日記を読んできて(92)の4

2016年01月14日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の4 2016.1.14

「夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいとのどかにて霧たちわたり、川のあなたは絵にかきたるやうに見えたり。川づらに放ち馬どものあさりありくもはるかに見えたり。いとあはれなり。二なく思ふ人をも人目によりてとどめおきてしかば、出で離れたるついでに死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、まづこの絆しおぼえて恋ひしうかなし。涙のかぎりをぞ尽くし果つる。」
◆◆夜の明けるに従って辺りを見やると、寺の東側では、風がのどかに吹いて霧が一面に立ちこめ、川の向こうはまるで絵にかいたような趣きに見えます。川べりには放し飼いの馬どもがえさを探し回っている状景がはるかに見えます。とても心に沁みるものでした。かけがえのない大事なあの子を、徒歩ゆえ人目を気にして京に残してきて、家を離れて出てきたこの機会に、死ぬ思案をしたいと思うにつけても、何よりも先にこの道綱のことが胸に浮かんで、恋しく切なく思えてならない。私は涙が涸れてしまうまで泣きつくしてしまったのでした。◆◆



「男どものなかには、『これよりいと近かなり、いざ佐久那谷見にはいてもくちひきすごすと聞くぞからかなるや』など言ふを聞くに、さて心にもあらず引かれいなばやと思ふに、かくのみ心つくせば物なども食われず。『しりへの方なる池に、しぶきといふ物生ひたる』と言へば、『取りて持て来』と言へば、もて来たり。笥にあへしらひて、柚押し切りてうちかざしたるぞ、いとをかしうおぼえたる。」
◆◆供人の男どもの中には、「ここからはすぐ近くだそうだ。さあ佐久那谷を見てこよう。何でも谷の口からずるずると引っ張りこまれてしまうと聞くが、危なそうだね」などと言っているのを聞くと、そのようにして、自分の意思からではなく引きずり込まれて行ってしまいたいものだと思う。このようにくよくよと心を痛めてばかりいるので、食事ものどをとおらない。「寺の裏手の池にしぶきという物が生えていますよ」というので、「取って持っていらっしゃい」というと持って来ました。器に盛り合わせて柚子を刻んでふりかけたのは、とても風味があって美味しいものでした。◆◆



「さては夜になりぬ。御堂にてよろづ申し泣きあかして、あか月がたにまどろみたるに見ゆるやう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水をいれてもて来て、右の方の膝にいかくと見る。ふとおどろかされて、仏の見せ給ふこそはあらめと思ふに、まして物ぞあはれにかなしくおぼゆる。」
◆◆そうしているうちに夜になりました。また御堂であれこれお祈りしては一晩中泣きあかして、
明け方にうとうとしたときに、夢の中に見えたのは、この寺の別当と思われる法師が、銚子に水を入れて持ってきて、私の右の膝に注ぎかけると思ったそのとき、はっと目を覚まされて、ああこの夢は、仏様がお見せくださったのであろうと思うと、いよいよしみじみと心に深く沁みて悲しく感じられたのでした。◆◆


■放ち馬ども=放牧の馬。石山の対岸は田上牧(たがみのまき)に連なる地。

■いかく=沃かくの字で、注ぐ

■佐久那谷(さくなだに)=瀬田川を石山寺から数キロメートル下った下流にあり、現在、滋賀県栗太郡大石村の所。後世なまってさくら谷ととも言われた。景勝の地である。佐久奈度神社があり、祓え所七瀬の一つ。

■しぶき=どくだみの異名という。あるいはしぶくさ(ぎしぎし)か。

■別当(べっとう)=大寺において一山の寺務を統括する僧。

■銚子(ちょうし)=酒などを注ぐための道具。注ぎ口があり、長い柄がついている。

■絵:道綱母石山寺参籠図 石山寺縁起絵巻模本下図 
  向って左:道綱母  左は侍女、下男が軒下で参籠


蜻蛉日記を読んできて(92)の3

2016年01月11日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の3 2016.1.11

「湯屋に物など敷きたりければ、行きて臥しぬ。心地せんかたしらず苦しきままに、臥しまろびぞ泣かるる。夜になりて湯など物して、御堂にのぼる。身のあるやうを仏に申すにも、涙にむせぶばかりにて、言ひもやられず。夜うちふけて外の方を見出だしたれば、堂は高くて、下は谷と見えたり。」
◆◆湯屋に敷物などが敷いてあったので、そこへ行った横になりました。気分がどうしようもなく苦しいので、臥して身もだえしつつ涙にくれてしまいました。夜になって、湯を浴びて身を清め、御堂に登ります。わが身の上を仏様に訴え申し上げるにも、涙にむせぶばかりで、言葉もとぎれとぎれになってしまいました。真夜中になって外の方を眺めますと、この御堂は高いところにあって、下は谷になっているように見えました。◆◆



「片岸に木ども生ひ凝りて、いと木暗がりたる、廿日の月夜ふけていと明かかりけれど、木かげに漏りて、ところどころに来しかたぞ見えわたりたる。見おろしたれば麓にある泉は鏡のごと見えたり。高欄におしかかりて、とばかりまもりゐたれば、片岸に草のなかにそよそよ白みたるもの、あやしき声するを、『こはなにぞ』と問ひたれば、『鹿のいふなり』と言ふ。などか例の声には鳴かざらんと思ふほどに、さしはなれたる谷の方より、いとうらわかき声にはるかにながめ鳴きたり。」
◆◆片方の崖になっているところには、木々が生い茂っていて大層暗くなっています。廿日の月が夜ふけに明るいので、ところどころ木蔭から洩れて、上ってきた方が見渡せました。見下ろすと、麓にある池は鏡のように見えました。高欄に寄りかかりながら、しばらく見すえていますと、片側の崖の草の中で、かさこそと白っぽい物が耳慣れぬ声を出してします。「あれは何?」と聞くと、「鹿が鳴いているのでしょう」と言う。どうしていつも聞きなれている声で鳴かないのかと思っていると、かなり離れた谷の方で、とても若々しい声で遠く余韻のある鳴き声が聞こえてきました。◆◆



「聞く心地そらなりといへばおろかなり。おもひ入りて行ふ心地、ものおぼえでなほあれば、見やりなる山のあなたばかりに、田守の物追ひたる声、いふかひなくなさけなげにうち呼ばひたり。かうしもとり集めて肝を砕くことおほからむと思ふぞ、はてはあきれてぞゐたる。さて後夜おこなひつれば下りぬ。身弱ければ湯屋にあり。」
◆◆そういうことを耳にする心地と言ったら、心もうわの空になるどころではない。一心に勤行をしている中で、ふとぼんやりしてしまって、なおもそのままでいると、遠方に見える山のあちらで田の番人の獣や鳥などを追い払う何とも無粋な声がひびいてきます。あれやらこれやらに胸をしめつけるようなことが多いのだろうと、終いには途方にくれてぼおっとしてしまっていたのでした。さて、後夜の勤行が終わったので、御堂から下りました。体が疲れきったので湯屋で休みました。◆◆


■湯屋(ゆや・斎屋とも)=参籠者の斎戒沐浴のため、あるいは控えの間として設けられた、寺社の一隅の建物。

■片岸(かたぎし)=片一方が崖になっているところ。

■後夜(ごや)=六時。夜半から朝までの間。勤行としては、最朝、日中、日没、初夜(そや)、中夜、後夜。

蜻蛉日記を読んできて(92)の2

2016年01月08日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の2 2016.1.8

「からうして行きすぎて、走井にて破籠などものすとて、幕引きまはしてとかくするほどに、いみじくののしる物来。いかにせん、誰ならん、供なる人見知るべき物にもこそあれ、あないみじと思ふほどに、馬にのりたるものあまた、車二三ひき続きてののしりて来。『若狭の守の車なりけり』と言ふ。」
◆◆やっとの思いで通り過ぎて、走井(はしりい)というところでお弁当などをするというので、幕を引き回し、食事をしていると、ひどく大声で先払いをする一行がやってきました。どうしたものか、誰であろう。供人を知ってしる者であったら困るし、ああ大変だ!と思っていると、馬に乗ったものを大勢従え、車を二台、3台連ねて、がやがやとやってきます。「若狭の守の車でした」と供人が知らせてきました。◆◆



「立ちもとまらで行きすぐれば、心地のどめて思ふ。あはれ、ほどに従ひては思ふ事なげにても行くかな、さるは明け暮れひざまづきありくもの、ののしりて行くにこそあめれと思ふにも、胸裂くる心地す。」
◆◆一行は立ち止まりもせずに通りすぎたので、ほっと胸をなでおろしたのでした。まあ、受領は受領なりに身分相応に満足しきって行くものよ。その実、兼家の前では常に腰を低くして立ち回っている者が、京を出れば、このように威張り散らしていくことよ、と思うと、胸が張り裂けそうな気がするのでした。◆◆


「下衆ども、車の口に付けるも、さあらぬも、この幕近に立ち寄りつつ水浴みさわぐふるまひの、なめうおぼゆること、物に似ず。わが供の人わづかに、『あふ立ちのきて』など言ふめれば、『例も行き来の人寄る所とは知りたまはぬか、咎め給ふは』など言ふを見る心地は、いかがはある。」
◆◆若狭の守の供の者で、車の口についている者も、そうでない者も、この幕の近くに寄って来ては、がやがやと水浴びをする、その様子の無礼さといったら、例えようがない。私の供人が、「おい、そこからどいてくれ」などと言っているようですが、「いつも往来の人が立ち寄る所だとは、ご存知なさらぬか。とがめだてなどなさって」などと言っているのを見る心地はどんなだったことか。◆◆


「やりすごして今は立ちゆけば、関うち越えて、打出の浜に死にかへりて至りたれば、先立ちたりし人、舟に菰屋形ひきて設けたり。ものもおぼえずはひ乗りたれば、はるばるとさし出だして行く。いと心地いとわびしくも苦しうも、いみじう物かなしう思ふこと、たぐひなし。申の終はりばかりに、寺の中に着きぬ。
◆◆その一行をやり過ごしてから、出発して逢坂の関を越えて、打出の浜にまったく死んだようになって到着すると、先に行った人が菰屋形をつけた舟を用意していました。ぐったりしたままやっとのことで乗って、はるばると漕ぎ出して行く。ひどく気分がわびしいやら、苦しいやら、たいそうもの悲しく思われることといったら、たぐいがありませんでした。午後五時ごろにお寺の中に着きました。◆◆


■若狭の守(わかさのかみ)=当時、若狭の守は藤原元尹(もとただ)か。国司補任。

■なめう=「なめく」のウ音便。無礼に。

■申(さる)の終はり=午後5時ごろ。

■石山寺と文学作品[編集]
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女も寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。 『和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、 和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。

伽藍[編集]
• 本堂(国宝) - 正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県下最古の建築である。内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立されたものである。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造(かけづくり)となっている。懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。
• 多宝塔(国宝) - 建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
• 東大門(重文) - 参道入口の門。入母屋造

蜻蛉日記を読んできて(92)の1

2016年01月06日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (92)の1  2016.1.6

「ともあれかくもあれ、だたいとあやしきを、『入る日を見るやうにてのみやは、おはしますべき。ここかしこに詣でなどもし給へかし』など、ただこのころは異事なく、明くれば言ひ暮るれば嘆きて、さらばいと暑きほどなりとも、げにさ言ひてのみやはと思ひたちて、石山に十日ばかりと思ひ立つ。」
◆◆いずれにせよ、ただもう腑に落ちなでいると、「入り日をみるように、そうふさぎこんでばかりいてはよくありません。あちらこちらに物詣でなどなさいませ」などと勧めるので、このごろは心が他に向かず、夜が明ければ愚痴を言い、日が暮れればため息をついて日々を過ごす始末、
それでは、暑い盛りだとしても、実際嘆いてばかりいてもはじまらないと決心して、石山寺に十日ほどと思い立ったのでした。◆◆



「忍びてと思へば、はらからといふばかりの人にも知らせず、心一つに思ひ立ちて、明けぬらむと思ふほどに出で走りて、賀茂川のほどばかりなどにて、いかで聞きあへつらむ、追ひてものしたる人もあり。有明の月はいと明かけれど、あふ人もなし。河原には死人も臥せりと見聞けど、おそろしくもあらず。」
◆◆こっそりと思ったので、妹という人にも知らせず、自分の胸一つに思い立って、夜が明けかかったと思う頃に小走りに家を出て、賀茂川のあたりに差し掛かった頃、どうして聞き知ったのか、追って来る人もいました。有明の月はとても明るいけれど、行き合う人もいない。賀茂の河原には死骸が転がっているということだけれど、恐ろしくもない。◆◆



「粟田山といふほどに行きさりて、いと苦しきを、うち休めば、ともかくも思ひわかれず、ただ涙ぞこぼるる。人や見ると、涙はつれなしづくりて、ただ走りて行きもて行く。山科にて明けはなるるにぞ、いと顕証なる心地すれば、我か人かにおぼゆる。人はみな遅らかし先立てなどして、かすかにて歩み行けば、あふ者、見る人あやしげに思ひてささめきさわぐぞいとわびしき。」
◆◆粟田山と言う辺りにやってきて、とても苦しいので、一休みすると、心が乱れてただただ涙ばかりがこぼれます。人に見られてはと、涙などをとりつくろって、ただもう小走りに道を急ぎました。山科のところで夜がすっかり明けますと、私の姿はすっかりむき出しで、人目にさらされる感じがして、とてもやりきれない。供人をだれもかれも後にしたり、先に行かせたりして目立たないようにとぼとぼ歩いて行くと、出会う人や、目に止めた人が、怪訝そうにひそひそとささやき合っているので、それがとても辛かった。◆◆

■涙はつれなしづくり=とりつくろって。

■顕証(けむせう)なる心地=(徒歩ゆえの)人目にさらされる感じ。

■粟田山(あはたやま)=京都市東山区と山科区に境の山々の総称。

■石山(いしやま)=石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
『石山寺縁起絵巻』によれば[2]、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『元亨釈書』[3] や、後代だが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある[4]。)
その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。
以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890-953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。

■写真;石山寺

蜻蛉日記を読んできて(91)

2016年01月03日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (91) 2016.1.3

「かくてのみ思ふに、なほいとあやし。めづらしき人に移りてなどもなし、にはかにかかることを思ふに、心ばへ知りたる人の、『うせ給ひぬる小野宮の大臣の御召人どもあり、これらをぞ思ひかくらん。近江ぞあやしきことなどありて、色めく物なれば、それらにここに通ふと知らせじと、かねて断ちおかむとならむ』と言へば、」
◆◆こちらへの訪れが間遠なこのような状態が続くのは、どう考えてもおかしい。新しい女にあの人の心が移ったとも聞かないし、急にこんなふうになったことを腑に落ちないでいると、消息通の侍女が、「亡くなられた小野の宮の大臣様のお召人たちがいます。この人たちに懸想しておいでなのでしょう。中でも近江という女は、けしからぬ振る舞いなどがあって、色気たっぷりの女のようですから、そんな連中に殿がこちらへ通っていると知られたくないと思って、あらかじめ関係を絶っておこうというのでしょう。」と言うと。◆◆


「聞く人、『いでや、さらずとも、かれらいと心やすしときく人なれば、なにか、さわざさわざしう構へたまはずともありなん』などぞ言ふ。『もしさらずは、先帝の皇女たちがならん』と疑ふ」
◆◆そばで聞いていた別の侍女が、「さあ、どうでしょうか。あの連中はまったく気がおけない人だそうですから、そんなに気を使わなくてもよいでしょう」などと言っています。「ひょっとしたら、その女でなければ、先帝の皇女さまたちの許にお通いかしら」などと勘ぐったりしています。◆◆


■御召人ども=女房で主人の寵愛を受けた者をいう。

■近江(おうみ)という女=藤原国章の娘か。兼家の娘綏子(やすこ)の母。つまりこのとき、
兼家は近江の女と関係があった。

■先帝の皇女たち=村上天皇の皇女、保子内親王だという。