母校桐蔭学園の同窓会イベントで奔走した。疲労困憊的に帰宅して、昼寝していたら両足太ももが攣って、HELP ME!的に大騒ぎして家族に迷惑を掛けた。
頑張っている(つもりの)家事の手伝いも(ワタシ的には全力投球しているんですが)、家人にはまだまだ不満のようで、私の母校OBと恩師への感謝の意を込めた奮闘ぶりも、家人には「遊び」としか映らない。
ま、私の説明不足とキャパ不足が原因なので、家族を責めるつもりは毛頭ない。
ただ、これを機に「仕事」と「遊び」(や趣味)の違いを考えてみたい。
ゼニを稼ぐのが「仕事」で、それ以外は「遊び」なのか。
でも、営業マンがゴルフをするのは、それが売上に繋がり得るから、「仕事」とも「遊び」とも言い難い。
それと同様、同窓会の幹事ってのは、最も人脈を広げる手段にはなりうる。私がそんな下心を持って幹事をしているわけではないが、「下心がゼロか」と問われると、YESとは言えない。
自営業者・経営者は、いろんなところに顔を出し、いろんな人に接するのも「仕事」。地域のボランティアとかも含めて。
私は「袖振り合うもポテンシャルクライアント」と思っており、かつて自転車通勤をしているときに交通事故に遭遇した際も、その加害者さんをついでにクライアントにできないか、とほぼ瞬間的に思ったくらい。
要は、経営者にとって、「仕事」と「遊び」の区別はない。人生が公私混同なんですね。
これは自己正当化のためで言っているのではなく。
一方、会社に9時5時で働いていても、その7時間、きっちりすべて「ゼニ」に繋がる「仕事」をしているかというと、みんなそんなことはあるまい。サボっている時間もあるはずだ。
だから、「仕事」に見せかけた「遊び」の時間はたくさんある。
そこで考えてみたい。
そもそも、「仕事」ってなんだろう。
金を稼ぐこと?
そうは定義したくない。
私の人生における「仕事」は、「人様のお役に立つこと」である。「人を幸せにすること」でもある。
そのための一手段として、弁護士をして、国際法律事務所を経営している。
また、最近は認定コーチとして、コーチングの「仕事」もしている。人様のお役に立っているという自負がある。
ただ、それのみならず、20年の長きにわたって、渋谷で大人に空手を教えている。新極真会渋谷道場の指導員として。
これも、請求すれば指導料はいただけるのですが、空手と師範に対する恩返しとして、今は指導料を請求していない。完全なるボランティアである。
でも私としては、お金をもらっていないものの、「仕事」の使命感と責任感を持って行っている。
他に、プロボノ(ボランティア)的活動としては、IPBAっていう国際弁護士団体がある。この団体の役員等の役職に長く就いていたが、それにより報酬を受けたわけではない。
でも、創業者の遺志を継ぐ一人として、「仕事」の使命感と緊張感とともに、誇りを持ってボランティアをしている。
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長くなりましたが、ワタシ的には、「人様のお役に立つこと」は、お金をもらえようがもらえまいが、貴重な「仕事」なんですよね、ある意味。
だから、同窓会の幹事をしてたくさんの人に楽しんでもらえることも、私にとっては貴重な「仕事」であり、「遊び」とはわけが違う。
私の昨日の(及びそれまでの)幹事ぶりをご覧頂いた方には、私の言わんとすることが通じるはずである。
それこそ、家庭において、家事を負担したり、子どもの面倒を見るのも、父親及び夫としての、「仕事」。お金はもらえなくても。
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これ以上書くとどうしても言い訳っぽくなりますが、傍から見たら「遊び」に思える営みを、一種の「仕事」と思って、嬉々として、それなりの使命感を持って行っています。
これは、「仕事」をどう英語で表すかって問題ともいえますね。
work, task, vocation, calling,,,
私は、人様のお役に立つこと、世のため人のために貢献することを、広く私のcalling (天職)だと思って、引き受けています。
おって別稿で書きますが、悪名高い笹川良一も、似たようなことを考えていました。