後期高齢者の旅とひとりごと

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給食費不払い

2007-01-26 20:01:33 | うんちく・小ネタ

全国の小中学生の保護者の約1%が給食費を払わないらしい。100人にひとりはただ食い・・・・・

信じられん   国民年金の保険料とNHKの受信料の不払いは知っていたが・・

ここまでやるか・・・次は何の不払いがはじまるか

予想されるもの・・・・・ガス? 水道代?あたりどうかな あたるもハッケ

不払い者のなかには金があるのに払わない人も多いと聞く 子供に恥ずかしくないのかな?

本当に生活に困っている人は手続きをすれば払わなくても良いらしいが金があるのに払わないひとのその理由を聞いてみたい

いっそうの事給食を廃止したらどうや


流れる星は生きている

2007-01-24 19:57:49 | 日記・エッセイ・コラム

20年ほど前に読んだことのある藤原ていさんの本 流れる星は生きている を読んだ。最近藤原ていさんと新田次郎さんの次男である藤原正彦さんの 祖国とは国語 を読んでもう一度藤原一家の終戦時満州からの苦難の逃避行を読む気になった。この本は戦後大ベストセラーとなった不朽の名作でるが今読んでも涙なくして読めない本である。

後に自分の半生記として書いた 旅路 のなかでこの本は満州(新京)から5才の長男と3才の次男(藤原正彦)生後2ヶ月の女の子をかかえて一年におよぶ食うや食わずの言語に絶する苦難の記録を子供たちに残すため遺書として書き綴ったものだと言っておられる。日本に帰つてから身体を壊し死の病のふとんのなかでかいたが幸いにも死ぬとおもっていたが、助かり快復したとき、このノートを夫に読んでもらったところ、どんなにつらいときでも涙を見せなかった夫が、水がながれるように涙を流していた、と書いておられる。

このことが気象局を退職し、新田次郎として小説家になるきっかけをつくリ、直木賞作家となり皇太子殿下も新田次郎のフアンであるらしい。 おそらく新田次郎氏は満州の観衆台では責任観の強い人であり仕事の残務整理があると言って残り、新京を妻や子供たちと一緒にすぐに立ちのかなかったために妻や子供に苦難をさせたことへの自己の呵責があったのではないかと思うのだが?新田次郎氏の後の小説 孤高の人 や 八甲田山死の彷徨 を読むとその影響が読み取れるような気がする。

最近毎日のように殺人やわが子への虐待など慙愧に耐えない事件が多いがいったい日本はどうなってしまったのか 戦後日本は世界の経済大国になって、物質的には豊になったが 心は貧しくなってしまったのか?これからの日本がおもいやられる今日この頃でる。ぜひ子をもつお母さんに読んでもらいたい一冊である。       


ゴルフ

2007-01-21 12:00:56 | スポーツ

ここ数年近所のゴルフ練習場で、土曜日曜の早朝(夏は6時冬は6時30分頃)クラブを振っている。プリペードカードを購入し、機械にさしこんで、玉を打つようになっている。一球6円で打てる、昼間(AM9時から)は11円であるので、早朝はいつも満員である。

最近ドライバーの距離が伸びるようになった。毎朝の体操の効果が、でてきたようだ。肩と腰の回転をよくするために、毎朝洗顔の前にベッドの側で、両腕を左右に振り、腰の回転300回 前屈運動300回で、約15分 約1年間続けてきたかいがあって、体の回転がよくなり、フォロースルーが大きくとれるようになった。

2月にタイへゴルフに行くので楽しみである・。後10年 80才までゴルフできるように頑張ろう。<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=ocnblog06-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000BWD8SS&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


祖国とは国語

2007-01-18 19:43:42 | 日記・エッセイ・コラム

藤原正彦氏の 祖国とは国語 を読んだ。敗戦後同じ少年期を過ごした者として共鳴できる本である。幼少期から国語の基礎力をつける事が涵養であり、特に読書を通じてのみ情緒豊な人間形成がなされると説く。最近すぐに切れやすい人が多くなり、短絡的な犯行におよぶ事件が多く発生し、世の中を震撼とさせている。誠に嘆かわしい。今まさに日本は病んでいる。氏のいうように国語はただの情報を伝達するだけのものではない。日本には素晴らしい国語の文化遺産が沢山ある。

万葉集、平家物語,徒然草、方丈記、奥の細道など日本の言葉でしか表現できない情緒に満ち溢れた日本独特の国語文化である。昨今のナシヨナリズムの台頭で他国の文明ばかりを取り入れ、小学生の授業に英語の必要性を説く教育者に批判的である。ゆとり教育、個性尊重教育の偏重が我慢力をつけるのを難しくしていると 親や教育者はもっと子供に厳しくせっすべきだと  

かって、司馬遼太郎さんがなにかの本に書いておられた事が印象に残っている。それは文明は輸入したり輸出したりできるが、文化は輸入も輸出も出来ないと・・・・国語は日本民族固有の文化であり単なる情報伝達の道具ではないと思う。子供たちにはもっと国語を学ばせ基礎力をつける事が教育の再生につながる様な気がする。 美しい言葉 美しいマナー そして美しい日本 この本の解説者である斉藤 孝先生と同じ私も文部科学大臣になってもらいたいのはこの本の作者藤原 正彦先生である。<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4122040639?ie=UTF8&tag=ocnblog06-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4122040639">流れる星は生きている</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ocnblog06-22&l=as2&o=9&a=4122040639" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />

藤原先生の母上である藤原ていさんの 流れる星は生きている 父上 新田次郎さんの八甲田山死の彷徨や孤高の人、風林火山も心に残る作品である。<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=ocnblog06-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000FQUB3U&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


古希のこと

2007-01-14 10:37:58 | 日記・エッセイ・コラム

小生、1938年生まれで今年古希を迎えた。今年自分が古希であることを知らなかったが、この正月同級生から年賀状を貰い、何人かの人が、今年は古希だから記念の同窓会をやろう、とのさそいがあり、初めて自分が古希である事を知った次第である。唐の詩人杜甫の曲江詩にある 人生七十古来稀 に由来するらしい。1200年前の唐の時代は七十まで生きるのが、稀であったらしいが、今は100歳まで生きるのが稀でなくなった。1200年の間に寿命が30年ほど延びたようだ。あと1200年すると人間は130歳まで生きられそうだ。

60歳を過ぎると色んな呼び方や祝い方があり、還暦(数え61歳)から始まり、古希(数え70歳)、_132喜寿(数え77歳≫、傘寿(数え80才)、米寿(数え88歳)、卒寿(数え90歳)、白寿(数え100歳)、皇寿(数え111歳)などうまくつけたものだ。

そこで子や孫からお祝いをして貰う人もいるらしいとのことで、友人に聞いてみると、その友人の父親が米寿を迎えたときに料亭でお祝いの会をしたとのこと、そのとき父親がお礼に、孫たちに一人につき10万円づつ渡したので孫たちが喜んだとのことであった。そんなことを聞くと子供たちには古希祝いについては黙っておこうと思う。家内とどこかへ旅行したほうが安上がり・・・・子や孫のまえでは今年は古希、古希と言はないようにしよう。今はまだ元気だが、喜寿まであと七年、米寿まで18年、生きられるかな?頑張ろう。 <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=ocnblog06-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000FQUB3U&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

         

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タイへ

2007-01-13 17:10:25 | 旅行記

平成15年一月三日から妻と二人でタイバンコクへ行く。バンコク市内のバイヨークスカイホテルに4泊しアユタヤパンパイン離宮~アユタヤ日本人町跡~アユタヤワットプラシーサンペット~バンコク水上マーケット(舟に乗り運河を巡る)~プラバトムチェデイー
~エメラルド寺院~ローズガーデン(象に乗る)を観光する。

アユタヤはバンコクからバスで約一時間半ぐらいかかる。ユネスコの世界遺産に登録されているところで、その昔西暦1,350年から400年にわたって栄華を誇ったアユタヤ王朝の廃墟の町である。ビルマ軍により破壊された寺院や仏塔が無残にのこり当時の華麗なる都の様子が偲ばれる。木の根にはさまれた仏塔はすごく印象的であった。

アユタヤ_079には山田長政で_052_1ご存知の日本人街の遺跡がのこっていた。ただ石碑と記念館、お土産やさんがあるのみであったがその店1でタイシルクの織物が比較的康かったのでシャツとテーブルクロスを買い求める。

    パンパイン宮殿はタイ王室の離宮で中国風の華麗な建物が建ち池の中に立つ建物(見晴台)はすばらしい。タイ在住の華僑たちが寄進したという豪華な中国風の建物も目を楽しませてくる。池のそばに生えていた大きな菩提樹の木がいまでも印象に残る。

水上マーケットは水の都タイの雰囲気のある活気みなぎる運河を小船で果物や野菜、日用品、種々さまざまな食品や商品を売るマーケットである。観光客の観光小船の発着場は舟でごったかえしていた。特に日本と違い果物の豊富さと値段の安さはうらやましい。果物の女王と言われるマンゴースチンを買って食べたがおいしくて廉かった。パパイヤ、ランブータン、ドリアン、リンチー、ドラゴンフルーツなど又大きなジャックフルーツにはびっくりする。

エメラルド寺院(ワット・プラケオ)はさすがバンコクのメーンスポットだけあってかなりの観光客で混雑していた。1782年にラーマー一世が建てた寺院で中央に金色に輝く仏舎利塔が目に飛び込んでくる。寺院の本堂の外装はキンキラキンに綺麗に装飾がほどこされ素晴らしい景観である。本堂の中も見学できたが写真撮影は禁止になっていた。中央_001_1にエメラルド仏が安置されていたが、エメラルド仏といっているが実際は翡翠でできているらしい。寺院を出て歩いていると目の前を若者が警官に追いかけられて逮捕されるその瞬間を見たがタイはすりが多いと聞いていたがビックリした。

ところが翌日バンコク市内のショッピングセンター伊勢丹で、買い物をしてホテルへ帰る途中、舗道に露天が並ぶ人込みの中を歩いていたところ、男の人が突然前かがみになって、私の靴をつついて何かしきりに話すので、びっくりしてうつむいたところ、おかしいと思って買い物袋を持ったままズボンのポケットを押さえていたところ、後ろから突然手がポケットの中に入ってきて、財布を取ろうとするのを、妻が発見し大きな声をだした_023_2ので、私を取り囲む形でいたらしい3~4人の男が逃げていった。財布は盗られず無事であった。

ローズガーデンでは象の背中に乗ることができた。ここでは象ノショーやタイの民族舞踊やムエタイ、などのショーがあり結構楽しむことができた。

タイ料理はタイすきなど日本人好みのものが多く満足した四日間であった。


伊勢神宮

2007-01-08 13:58:06 | 日記・エッセイ・コラム

リンク: カンタン投稿 | Blogzine[ブログ人].

毎年正月になると日本の総理大臣が伊勢神宮にまいる。日本は政教分離の国であるが今年は民主党の小沢さんまでもが参った。

私人として参ったのでしょうが靖国神社は小泉さんが私人として参ってもものぎをかます。伊勢神宮の場合はマスコミは何も言わない。

神社についていつも思うに一応宗教法人になっているが本来神社には他のキリスト教やイスラム教の様な教祖もいなく経典もなく信仰の対象になるものが種々雑多である。時には太陽であったり、山であったり、海であったり、大木であったり、いろんなところに神が宿るという日本古来の神話にもとずく日本独特の文化であり信仰というより自然とともに生きてきた日本民族の平和と安寧を祈り,あがめ又誓いをたてるための単なる神殿もしくは神域のような気がする。

日本人は古来より一神教の国の宗教観と違い日本の家屋には居間に神棚を祭り奥座敷には仏壇を置き神と仏が同居している外国人からみたら不思議な国である。正月には自分の好きな神社へ初詣、お盆には先祖を敬い家内安全を祈る。

今の政治には多少不満もあるが中近東のような宗教争い、民族闘争もない日本の平和に感謝する。不満をいえばきりがない。

昭和13年に生まれ小学一年生の時に終戦を迎え食べる物もなく幾多の苦難を乗り越えて今年古希を迎えた。自分ながらよく頑張ったと思う。自分を褒めてやりたいと思う。


格差社会について

2007-01-07 10:29:32 | 日記・エッセイ・コラム

最近民主党や社民党のブルジョア党首たちが格差社会 格差社会とさけび今の与党の責任であるかのごとく、のたまわっているが、自分たちにもそういう社会を作った責任があるんと違うか・・・資本主義社会である限り昔から格差はあったと思うが・・・・私自身はそんなに格差があるとは思わないが・・・むしろ社会不信がつのるばかりである社会制度や教育制度、家族制度の崩壊により社会秩序が壊れ人間関係が疎通になり親子兄弟間のみにくい死闘 今日本は病んでいる

安陪さんが言う美しい日本を作るためにはまず人間の絆をつよくするための社会秩序の回復にみんなで頑張ろう。おはよう 今日は 有難う ごめんなさい 人と人との美しいつながりに未来があります。今年古希の嘆き・・・・・


旅の思い出(旅と写真その四)

2007-01-06 15:02:14 | 旅行記

古い写真を整理しているとその時々の色んなことが思い起こされる。今年で70才国内外色んなところへ旅したことが懐かしく又旅先で知り合った人のことが偲ばれてくる。写真は人生の縮図と言うべきかタイムスリップの玉手箱か?写真を見ながらその時々の旅を思い浮かべ自分の生きてきたあかしとして記してみたい。

1995年(平成7年)7月仕事仲間とオーストラリアへゴルフと観光に出かける。

第一日目(7月28日)

関西空港21時40分の直行便でブリスベンへ翌朝7時5分着

第二日目(7月29日)

観光バスでブリスベン市内観光に出る。ブリスベンを見下ろせる小高い丘の上にあるマウント・クーサ展望台へ、ここからはブリスベン川を挟んだ町並みが一望できる。碁盤の目のように作られた町並みは見事なたたづまいである。その後、ローンパインコアラ保護区へ行き代わる代わるパンダをダッコして記念写真におさまる。この公園にはコアラ以外にもオーストラリアのいろんな動物が飼われておりかなり広い公園になっている。_030 _042

昼食後バスでゴールドコーストに向かう。役一時間ほどでゴールドコーストの宿泊予定ホテッル ハイアットリージェンシーサクチュアリーコープにチェックインする。

ホテルでくつろいだり、繁華街を散策したりと気ままに過ごし、夕方夕日を見ながら海岸べりのレストランでシーフードや焼肉バーベキュウで乾杯し夜遅くまで酔いしれる。日本と違いオーストラリアは乾燥しているためかビールは格別旨い。

第三日目(7月30日)

朝からPARADISE SPRINGUSE GOLF場へ行きゴルフをして楽しむ。フラットなコースで池とバンカーを多くとりいれたレイアウトである。日本と違い空気が乾燥しているせいかボールがよく飛ぶ。ゴルファーは比較的少なくプレーの途中で適当に休んでコーヒーや_0051 _007_1 ジュースを飲みながらの、のんびりとしたゴルフであった。日本のようにスタート時間が何時何分と決まっているのでなく適当な時間にプレーし楽しむことが出来た。夜ホテルで入浴後シーフードレストランで食事してからカジノへくりだす。

カジノはコンラッド・ジュピターズホテルに併設されており24時間営業している。スロット、ブラックジャック、ルーレットなどさまざまな遊びができる。少し小使いを増やした人も損をした人もいたが楽しく遊ぶことが出来た。夜が更けるのも忘れてしまう。

第四日目(7月31日)

朝ホテルで昼食後バスでブリスベンのクーランガッタ空港へ行き国内便でシドニーへ向かう。シドニー着後マッコーリ岬やオペラハウス、ロックス地区などを観光とショッピングで楽しむ。シドニーは世界三大美港のひとつ(香港・リオデジャネイロ・シドニー)と言われるだけあって本当に美しい港である。シドニーブリッジやオペラハウス、マッコーリ岬など素晴らしい橋や施設に目を楽しませる。国際都市だけあって大変多くの観光客で賑わっていた。ロックス地区にあるシドニールネッサンスホテルにチェックインしくつろぐ。夜はシドニーの夜の街を探索しオージービールとワインでシーフード料理に舌ずつみ、酔いしれる。_015_1 _018_1 _023_1 _026

第五日目(8月一日)

朝ホテルのレストランで朝食をすませて、歩いていると、MさんMさんとわたしを呼ぶ声がするので、振り返ると、昔いた会社の人であった。久し振りに出会ったのが、シドニーとはびっくりする。観光でこのホテルに泊まっている、とのこと、偶然の出会いに、二人とも奇跡かな???

この日は一日シドニータワーに昇ったり、シドニー湾のクルーズや水族館を見物したりショッピングしたり、のんびりとシドニーの街を散策し過ごす。シドニー泊

第六日目(8月二日)

シドニー11時5分初JALにて関西空港へ20時20分帰国


旅の思い出(旅と写真その三)

2007-01-05 18:37:27 | 旅行記

1990年(平成2年)8月夫婦でシンガポールへ行く。

第一日目(8月24日)

大阪空港12時30分シンガポール航空にて17時45分シンガポールチャンギ空港着。チャンギ空Exteriorが昔来た時よりも大きく立派になっていたのには驚く。入国手続き後オーチャード通りにあるマンダリンホテルにチェックイン、夕食はマンダリンホテルの35階にある北京料理店パインコートで食べる。なにはともあれパインコートでの一番の料理ペキンダックを食べる。パリパリに焼けた鴨の皮がとても香ばしく、いろんな香草を巻いてたべたががおいしかった。食後ホテルの周辺(オーチャード通り)をぶらついたが、16年前(1974年)に初めて来たときよりも大きなビルやホテル、ショッピングセンターなど沢山立ち並び観光客も多くすっかり街並みかわっており、びっくりした。マンダリンホテル泊

第二日目(8月25日)

ホテルで朝食後市内観光にバスで出かける。マーライオン(頭が獅子で胴体が魚の変わPhoto06 った像)公園周辺やアラブ人街、中国人街、マウントフェーバー(小高い丘の上にあり眺望がよくセントーサ島へのケーブルカーの発着駅がある)などを観光.し昼食は飲茶料理を食べる。その後オーチャード通りのショッピングセンターや伊勢丹などでショッピングしたりお茶を飲んだりしてすごす。夕方友人家族がペナン島からの観光帰路シンガポールに立ち寄りマンダリンホテルでデートする。 マンダリンホテル泊

第  日目(8月26日)

朝からマンダイ蘭園へランの観賞に行く。日本にない素晴らしいランが数多く栽培され見事であった。その後マレーシアのジョホールバルへバスで 行く。シンガポールからマレーシアの最南端の町ジョホー_045ルバル_048に行くにはシンガポールとマレーシアの間に流れるジョホール水道にかかる長い橋(コーズウエー)を渡りマレーシアに入国する。橋の真ん中あたりが国境になっていたように思う。マレーシアへ向かう車で道はかなり渋滞していたが橋を超えたところでマレーシアへの入国手続きを済ます。

マレーシアはシンガポールの街と違いイスラム国家だけあって街の雰囲気がちがう。王宮やイスラム教寺院、王宮博物館などを見学する。王宮博物館に広い日本庭園があり赤い鳥居を見たとき18年前に友人と初めて来た時偶然にも別のツアーで来られていた友人の親父さんにバッタリ出合ったことを思い出しその当時が懐かしくよみがえってくる。夕刻ホテルで入浴後夕食にニュートンサーカスへ行く。ニュートンサカスとはホーカーズセンターのことで屋台村のようなものである。中華料理や中国料理が中心であるが廉くて結構おいしい。昔来たときはまだ舗道のそばに夕方になるとさまだまな屋台を立てていた。その頃はカーパークと呼んでいたように思う。いつの頃からかしらないが固定式の屋台村に変わっていた。カニやエビのチリソースいためがおいしかった。

第四日目(8月27日)

ホテルで朝食後ホテルをチェックアウトしベルカウンターに荷物を預けてクス島へデイクルーズに出かける。このクルーズは世界貿易センターからクス島~セントジョーンズ島を回り約2時間ほどで世界貿易センターへ帰ってくる。乗船してしばらくすると中国のお菓子と飲み物のサービスがあった。

クス島に上陸すると池があり、池の真ん中を中国風の橋がかかり、亀の像があった。亀はクス島の守り神で、クスは中国語で亀の意味である。30分ほど島を散策後セントジョーンズ島へ向かう。この島にはココナッツ、マグローブなどの亜熱帯植物や花がさいており、バンガローやキャンプ場、海水浴場などがありみどりにおおわれた島であった。_049 _050 _051 _052

クルーズを終えて世界貿易センターのすぐ近くにあるタイガーバーム・ガーデンへ行く。この公園は香港でもおなじみの万能薬タイガーバームで億万長者になった胡文虎が作ったことで有名である。日本の大相撲の若乃花と栃錦の土俵入りの人形があったのには驚く。その後クロコダイルパラダイスでワニの飼育とショーを見学しすぐ近くにある野鳥園のヂュロンバードパークでオームやインコなどの鳥を見学しマンダリホテルへ帰る。

夜シンガポール最後の夕食はマンダリンホテルの39階にある回転展望レストランでシンガポールの夜景を見ながら食べる。深夜1時頃チャンギ空港を飛び立ちまもなく妻のお腹の具合がおかしくなり夕食に食べたものがよくなかたのか食中毒にかかたようだ。スチュアデスに薬をもらい飲むが一向に良くならず頻繁にトイレに通うこととなる。朝8時ごろ大阪空港に到着すると検疫にまわされて空港にしばらく、かんづめとなる。

ようやく検疫治療も終わり昼過ぎ自宅に帰ったが、まもなく保健所から検疫結果が出るまでどこへも外室しないで下さいと言われ2,3日自宅に監禁状態となる。結果単なる食中毒でセキリ等のうたがいもなくほっとする。この旅の最後がいやな記憶に残る旅になった。