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穴賀篤鱈から羽入鱒粘へ

折々の写真なども

ギリシャ3

2021年10月25日 | 日記
1月14日(土)

アメリカ人は朝早く起きて7時前に出て行った。俺も今日は出発。
バスでトリポリスまで行き(130キロ 152Dr 高い!)乗り換えてスパルタまで(60キロ 71 Dr 高い)。
オリンピア→トリポリの山越えは素晴らしい景色であったがバス代があまりにも高すぎるのではないかね。
トリポリでの乗り換えに1時間ほどあったのでカメラの電池を買おうと思いカメラ屋を数軒訪ねたところ東芝のがあったのだが
一つの値段がなんと95 Dr 700円以上もするではないか。ローマで聞いたときは約500円だったのに(これはイタリア製)。
結局アテネまで買うのをあきらめた(アテネでも同じぐらいだったらどないしょう)。くそっ!1年ぐらいは持つと思っていたのに。
なんと不便なカメラじゃ。(貰い物だからそう文句も言えず)

スパルタには夕方4時に着。小さな町である。皆が俺を珍しそうに見ている。ポリスに荷を預け宿を探したが(半分は泊まる気はなし)
3人部屋で一人100 Drと言うのがあったがバス代が響いているので野宿に決定。
ポリス近くの大きな教会の入り口に適当な場所があったがあまりにもポリスに近すぎる。町の外れに学校があった。
門も何もなく開けっぴろげなので出入り自由。6時頃ここで飯を食い(例のおじや)8時前には寝た。校舎の3階の階段の上。

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1月15日(日) 小雨

熟睡できず。夜中に警備員が階段を上がってくる夢を見た。可笑し。
7時過ぎに起き8時過ぎには出た。荷をツーリストポリスに預け4キロほど離れたMistrasに行った。ここの遺跡は大したことはなかったなぁ。
Pantanassa修道院の壁画がまあまあ良かった。土などが付いている壁画を保存作業の人がナイフで削り落としている最中であった。
夕方 スパルタに戻ってきたらグラウンドでサッカーの試合をやっていた。ギリシャのプロリーグか? 
スパルタのチームはへたくそで負け試合のようだった。夜 再び例の場所に行き飯を食い寝た。8時前。

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1月16日(月)

朝6時過ぎに起きて早速支度をした。8時には授業が始まるらしい。7時45分のバスでトリポリまで。汽車でミケーネ(ミキナイ)。
駅から約2キロの所に村がありそこまで歩いて行く途中 オレンジを出荷する最中のオヤジたちが俺を見て
「日本人か? あっちがミケーネや。これ持ってけ。」と言ってオレンジを10数個くれた。
YHはレストランの2階にあった。ひどい所だ。ポルトガル人(仕事で)カナダ人がいて俺の後から米国人とオーストラリア人がやってきた。
遺跡(アクロポリス)はそれほど良くはなかった。(アテネの神殿跡 ライオンの門 円形墓地など)

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1月17日(火)

今日はアテネまで。 オーストラリア人のアベックがナフリオンに行くと言っていたのをやめて(雨のため)アテネに戻るらしい。
昨日 彼らにSTUDENT HOUSEの場所を教えてやったので俺と一緒に行くことになった。
汽車でアテネには2時過ぎに着いたのだが 俺が「徒歩(2キロ)で行く」と言うと彼らは「バスで行く」と言うのでそこで別れた。
STUDENT HOUSEは6人部屋で60Dr。 なんと同じ部屋にナフリオンで会ったカゲ氏のバッグが置いてあるではないか。他にもう一人日本人がいるようだ。

さっそく街に出てみた。プラカ地区のほうは面白そうだ。マドリーでシマ氏に教えてもらったSTUDENT HOSTELを見つけたので入ってみたら
なかなか感じの良い所だったので明日からここに移ることにした。10人部屋(二段ベッド五つ)で50Dr 7人部屋60Dr 4~5人部屋65Dr の他2人部屋がある。
60Drの部屋に泊まることにした。 STUDENT HOUSEのほうはビルの3階(実は4階)にあり上り下りのらせん階段がしんどいし受付の女が
気に食わん奴だったからでもある。
夜 部屋で縫物をしていたら なんとパリ マドリーで会ったモロッコ商人(ウチ氏)と再会した。もう とっくの昔に下ったと思っていたのに。
聞いてみたら家からの荷物が遅延していたらしくひと月ほど待ったそうだ。その間にエジプトへ行ってきたらしい。金があるなぁ。
 エジプト 強制両替1カ月150$(US)


   マドリ―でシマ氏が描いてくれた地図
   
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ギリシャ2

2021年10月06日 | 日記
1月11日(水)

朝 10時ごろの汽車に乗ったらそれが急行であった。もちろん俺はこのインターレイルカードで急行も乗れるものと思っていたが
車掌が「だめだ」と言って12Dr(ドラクマ)を請求してきた。俺は絶対に支払わないつもりでいたが 彼が実力行使に出て次の駅で
俺のバッグを降ろそうとするので 仕方なく次の駅に停まった時にそこの駅員に聞いたところやはり急行券を買わなければならないと言う。
その間 請求されて以来 俺はずっと頭に来ていたが考え直して(気を静めて)奴に「支払ってやるよ」と言った。
100Dr札で釣銭が無かったのでBARのある車両に行って両替をして釣りをもらったところ89Dr返って来た。1Drまけてくれたのだ。
(だが駅で急行券を買った場合は10Dr)

乗り換え駅のZevgolatioまでは山あり谷ありのなかなか美しい風景。ゼヴゴラティオで2時間待ってピルゴス(オリンピア方面)行きに乗った。
当然ピルゴスで乗り換えるはずであったが一駅手前で降りろと言われ(この列車が遅れているらしくピルゴスから来るオリンピア行きの列車がここを通るらしい。)
ホームに降りて15分待って汽車が来た。オーストラリア生まれの兄妹(両親がギリシャ人で彼らは両方の言葉を話す)がいろいろと説明してくれた。
オリンピアに着いてからもYHの場所を近くのホテルで訪ねてくれてわざわざその場所まで案内してくれた。ありがとう。

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1月12日(木)

雨である。朝は9時前に起きた。寒い。ナフリオンもそうだったがギリシャのYHには冬用の暖房設備がないのか! こんなに寒いのに。
それに加えてHOTシャワーも浴びることができない。もちろん湯は出ない。毛布の数も少ない。
そのくせ値段は50Dr~60Dr(オリンピア)もする。高いのではないかね。
良いことを言えば昼間の閉め出しが10時(11時)~13時ごろまでで何時でもYH に出入りできることか。それに起床が無いので寝坊ができる事。

オリンピアの村(オリンピックの選手村とは関係ない)から400メートルぐらいのところに遺跡はあった。
今日は木曜と言うことで入場無料であった。他の日は50 Drもする(高い!)。学生はなんと5Drと言う安さ。
切符売りのオヤジたちが 時計がどうの セイコーがどうの とうるさかった。雨ふりで客も少ない。俺が入った時は他に二人程いただけ。
10分後には俺一人になってしまった。貸し切りか! 
遺跡自体は狭い地域(そんなに広い所ではないと言う意味)にあるのだがなかなかすごかった。特にゼウスの神殿。
直径2メートル弱の柱がバラバラになってゴロンゴロンと転がっているのだ。

   

   

   

   

   

   

雨が本降りになってきたので適当に切り上げ近くのNEW MESEUMに入った。まあまあ。 観覧が終わった後入口近くにある電気ストーブのそばに座って
雨に濡れたズボンを乾かしていたら 暫くしてく客が誰も居なくなったので係員が4~5人やって来て自分の時計を見せ(SEIKOとなっている)
「これは日本ではいくらぐらいするのか」等いろいろと質問してきた。彼らはアフリカでそれらの時計を安く買ったらしいのだ。
あと ヒマなついでに彼らにギリシャ語を教わった。主に数字。別れるときに「日本に帰ったら手紙を書いて寄こせ」と博物館の住所を書いてくれた。

   

   

   

   

今日のYH の泊まり客は俺の他に 南アフリカ人二人とオーストラリア人 カナダ人の合計5人。
オーストラリア人がもうすぐ国に帰るらしく(本当はガスの燃料が無くなったので)インスタントライスやスープ 砂糖などをくれた。

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1月13日(金)

朝 皆は出て行ってしまった。俺は今日も遺跡と古い博物館に行くために泊まり。今日は晴天で良かった。
しかし残念なことにカメラのバッテリーが切れてしまい写真を撮ることができなくなった。
YH に午前中にまた一人やってきた。アメリカ人。夕方トランプをいじくっていたら彼がやって来てGINと言うゲームを教えてくれた。
つまらんゲーム。二人でする賭け事。

   

   






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ギリシャ1

2021年09月23日 | 日記
1月9日(月)

夜中の1時頃 ギリシャのテッサロニキに着いた。ユーゴの軍人たちは国境の1時間ほど手前で降りて行った。その後 俺一人で寝ていたら
テッサロニキから男三人女一人が入って行きた。旅行者でフランス語を話している。あまりにしょうもなさそうなことをこの夜中に話しているので
「静かにせい!」と英語で言ったらすぐにおとなしくなり寝たようだった。
テッサロニキ→アテネ間はすごい雪であった。朝方7時ごろ。アテネに入ってからはそうでもなかったがとても寒かった。
アテネ辺りでは太陽がさんさんと輝いていて暖かいのではないかと思っていたのに。アホか。1月の9日 真冬やぞ!!
アテネに着いてからさっそく他の駅から汽車に乗ってアルゴスまで。そこからバスでナフリオンまで。YHに4時ごろ着。 
小さな町。近くにとんがり山がありその上に昔の城がそびえている。YHで日本人に会った。東京芸大。10月に日本を出て陸路で来たらしい。
これからエジプト 中東と廻ってまた陸路で帰るらしい。しんど。


【「昔の城」は18世紀のパラミディ城跡】

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1月10日(火)

早速 城に登った。すごく高い石段が休みなし。上のほうはなかなか良かった。
今日の晩から米を食うことにした。鍋が無いのでYHのおばちゃんにコーヒーの空き缶(大)をもらい それで米をおかゆのように炊いて食った。
人参 玉ねぎを刻んで放り込み塩とコンソメで味付け。最後に玉子を落として出来上がり。美味かった!

明日でインターレイルが切れるのでオリンピアまで行く。

   
   

   

   

   

   

   

   

   

   




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ユーゴスラビア2

2021年09月14日 | 日記
1月4日(水)

朝6時前にザグレブ着。やはりユーゴスラビアは感じが違う。色が少ないと思った。明るくない。
9時の列車でオーストリア近くにあるYHに向けて出発。BLEDの駅から1キロと書いてあったのになんと約3キロはあるではないか。騙された。
駅から出ているバスで降りてから1キロらしい。2時過ぎに着いたがYHは閉まっていた。客が来ないかららしい。昨日までグループが来ていて開けていたそうだ。
ペアレントがYHの向かいの家と知り合いらしく俺を連れて行って泊めてやってくれないかと頼んでくれた。結局OKがでて暖房こそないが
割と広い部屋(シングルベッドが3つもある 電気毛布あり))に泊まることができた。朝メシ付で45DIN(ディナール)これはYHの値段らしいが高いか安いか。


     【ユースホステルの「ペアレント」は経営者や管理者のことで世話人のようなもの】

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1月5日(木)

BLEDはアルプスの山々(東の端っこ)の近くで 傍に小さな湖がある村だった。 特に何かをするつもりでやってきたわけではなかったので朝からブラブラ。
屋外のアイススケート場を見つけた。急にやりたくなったので午後2時~4時の部に滑ることにした。結果は無残!! 腰は打つわ 胸は打つわ 顎は打つわでみじめ。
初めてのホッケーシューズであったが。スケートは約5年ぶりぐらいか。(7年ぶり?) 夜になって痛みが激しい。

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1月6日(金)

今日は出発。リュブリアナ ザグレブと越えてベオグラードまで。うまい具合に汽車の便が無くBLEDで2時間 LJUBLJANAで2時間 ザグレブで3時間の無駄ばかり。
結局BEOGRADには7日の朝6時に着いた。

それにしても 昨日 一昨日と泊めてもらった家はなんと気持ちが良かったのだろう。60歳ぐらいのおばあちゃんは大変親切でやさしかったなぁ。
愛犬の黒い大きな犬も主人に似ておとなしい。初日には日本式に熱い湯を張った風呂に入ることができた。体を洗うのは湯船の中であったが。
初日の朝食で俺が食卓に出されたパンを全部平らげると次の日には少し多めに焼いてくれたし。 心が和んだ。景色も良いよ。

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1月7日(土)

朝6時前にBEOGRADに着いただろうか。まだ夜が明けないうちに起きて動き出すのはなんとも嫌な感じである。
インフォメイションで地図をもらいたかったがもちろん開いているわけはなく その場でぼんやりしていたらひとりの日本人がリュックを担いでやってきた。
彼も夜行でウィーンからやって来たらしい。9時20分の汽車でアテネまで行くという。しんど。後 まる1日乗らなくてはならない。ようやる。
が しかし明日 俺も恐怖の24時間列車に乗るのだった。 そうしているうちに7時前になりインフォメに女性の姿が。なんと早起き! 
さっそく地図をもらってYHの場所を確かめたあと日本人と別れた。トローリー(路面)電車で15分 市の郊外にある。
正式のYHではなく「ユースゲストハウス」となっている。ホテルのようになっているのだ。(どこが?) 値段も高い! 
旅が終わりに近づいてきているから泊まれるのだ。これがもし初めの頃ならとてもとても。

9時過ぎにチェックイン。俺のYH(ユースホステル)のカード有効期限が1977年までで78年のスタンプがないから無効だと言ってきた。
これは実は日本ではそうなのだが(12月31日まで)外国を旅しているときは1月末まで有効である とYHの案内書に書いてあったはず。
これからギリシャでもYHを利用するのでその度にまたもめなくてはならないのか?国際的なカードなのだからその説明も英語で書いておいてほしいものだ。まったく。
今日は 幸いなことに近くにいたアメリカ人が俺のブロークンめちゃめちゃな英語をよく理解してくれてホテルマンに説明してくれたのだった。ありがとう。
さわやかな奴であった。生まれはカリフォルニアで現住所はなんとアラスカ!!

早速 ベオグラードの街に出た。ムーチョフリーオ!寒い! 凍えている。風はないのだが。 KAREMEGDAN(昔の要塞)や賑やかなところをブラブラして帰った。
街を歩いていると俺は皆の注目の的である。やはり珍しいからか。参った。ベオグラード 大してみるべきものはない。街は寂しいと言う感じ。
8月にここを通った時は感じなかったが物価はあまり安くない。パン(1キロだと思う)が約150円。これはとても軟らかくて美味しい。
魚の缶詰(サルジナ)最低で約120円 などなど。


    【1$=18.23DINER(ディナール) 1ディナール=約16円】

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1月8日(日)

9時20分の汽車に間に合うように駅に行った。が 列車は遅れてやってきた。出発時 時計を見なかったのでわからなかったが約45分から1時間は遅れて出発しただろう。
車内は座れない客が一両に10人ほどの混み具合。初めは俺も座れないはずであった。若い兵隊3人がいて3人分の席が空いているコンパートメントがあったので
「座れるか?」聞いたところ「ダメだ」と言うので「何故か」と聞いたら「あと3人の友人が来る」と言ってきた。
そこで俺は「あなたたちが降りた後俺が席につきたい」と言ったところOKであった。そして俺が他の車両に置いてあった荷物を取りに行って帰ってみると
彼らの友人は一人だけであった。あと二人はどうしたのかと言うよりも最初から一人だけで 彼らだけでコンパートメントを占領したかったようだった。
そうして俺も座れることになった。もう一つ空席がある。部屋の外の通路では若者の旅行者が一人立っている。彼もこいつらに「満席」と言われたのだろうか。
俺が荷物を取りに行っている間に奴らはなぜ彼を部屋に入れなかったのだろうか。 ユーゴスラビアのフシギ。


   

   

   

   

   



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イタリア4

2021年09月11日 | 日記
12月31日(土)

朝早く起き8時55分発のVenezia行きに乗った。昼過ぎ着。早速Firenzeのホステルで一緒だった日本人から聞いていたStudent Hostelに行ってみた。
2軒あって両方とも閉まっていた。夕方から開くかもしれないと思って後でまた行ってみたがダメ。
ペンション Lokadoを数軒あたってみたがどこも正月で休んでいるようだ。入り口には「FULL」「COMPLEAT」の張り紙がしてある。くそっ。
ベネチアに宿が無ければFerrara(ベネチアからフィレンツェ方面に急行で1時間半ほど)のYHに行くしかないと思い夕方乗った。
だがここも正月休みらしい。ふざけてやがる。YHのガイドブックには一年中OPENしていると載っているのに。勝手に休むな。
仕方がないので再びベネチアに戻って駅の待合室で寝ることになった。10時頃はそうでもなかったが12時半になると俺と似たような連中が
続々とやってきたようだった。女子もたくさん。
灯りはつけっぱなし。30分おきぐらいに発車の放送 と寝ることを妨げるようなことばかりであるがヒーターが入っていて暖かかったのがせめてもの慰め。

ベニスには車が1台も走っていない。良いことだ。

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1978年1月1日(日) 正月

   
   

   

   

   

という雰囲気は全くなし。昨晩午前零時になるとともに駅に停車している数台の列車が警笛を鳴らしていた。
全然眠られず。年越しの夜らしい。こっちも正月は休みなのか。日曜のせいなのか店は全部閉まっている。
ベニスの町を徘徊。昼前にサンマルコ寺院に行ってみたら新年のミサ(だと思う)をやっていた。静寂そのもの。
こっちはキリスト教とは関係ないが邪魔は出来ないので静かに見物(そのもの!)していた。
この寺院にはサンマルコの遺体が納められているらしい。 天井や高い壁にはキンキラキンのモザイク画があって素晴らしい。


   

   

   

   
   
   

夕方 広場の横 ベニスの玄関口である港のそばに座ってぼんやりしていたら一人の日本人女性(マガリカドすぎ トランクを持っている)
が話しかけてきた。今日 ミラノから来てホテルを探しているらしい。右も左もわからんので俺に一緒に探してほしいと言ってきた。
こっちは暇だったのでOKして歩き出した。「1日10$」の本に載っているペンションに行きたいらしい。幸い俺がホテルのリストを持っていたので
簡単に見つけることができた。部屋も空いていて(屋根裏部屋らしいが)5000リラであった。即決定。夕食を一緒に食うことになった。
こっちは宿泊費がタダなので何とか良いものを食うことができた。比較的安そうなレストランで2700+300(サービス料)で
スパゲッティ サラダ メイン皿。高い! 一応ツーリストメニューとなっているが本当に上等向けのツーリストメニューである。10時半に彼女と別れた。
俺は今晩は待合室で寝ることをやめ200メートルほど離れた所にあるメンザの入り口近く(大屋根付き)で寝ることにした。
羽毛服 シュラフ+カバーで寒くない。人がやってこないのが嬉しい。そばを流れる運河を走る船のエンジン音が少しうるさいくらいか。

   
   

   

   
   

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1月2日(月)

商店が開きだした。早速 パンやなんかを仕入れた。今日も1日ブラブラと。
船で1キロほど離れたムラーノ島(ベネチアングラスで有名)に行ってみた。たいして良いとは思えない。夜 再び例の場所で寝た。


   

   

   

   

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1月3日(火)

朝起きて駅の便所で顔を洗った後 待合室で朝食にしようかと思っていたら掃除の時間らしく追い出された。
そこで偶然 列車から降りてきたDEI君(フィレンツェのStudent Hostelで一緒だった 京都芸大生)と再会。
彼もベニスに宿を見つけることができなかったそうで急行で30分程のパドバで朝食とシャワー付きで5000リラで泊っているらしい。
今日はアカデミア美術館に行って勉強するとのこと。3時にまた会うことになった。俺はそれまでブラブラ。
昼はスパゲッティ(メンザで600リラ)。おいしく感じた。
港の近くで再び彼と会いBarに行ってお茶を飲んだ。ミルクコーヒー300リラ 白ワイン300リラ 高い。店は日本の喫茶店風。
1時間半ほど絵について芸術について話した。

夜9時半の汽車でザグレブに向けて出発。DEI君も明日ミラノに行くらしい。


   


   



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イタリア3

2021年09月06日 | 日記
12月27日(火)

11時発でFirenzeまで。最初 バスで3キロほどのYHに泊まろうかと考えていたが駅のINTOで聞いたら町の近くにStudent Hostelがあるという。
4時前に行ったがチェックインが未だで6時までブラブラ。キャンピングガスのボンベ600リラ。
夕方 Food Shopでタイ人の女性(学生みたい)と知り合う。明日会うことにした.
スチューデントホステル2000リラ。日本人が二人いた。京都芸大の学生らしい。大阪と神戸。壁画を専攻していてイタリアをゆっくりと廻っていると言う。
イタリアの大学も休みに入ったらしくクリスマスから宿屋も混んできているようだ。特にここはすごい。

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12月28日(水)

朝 タイ人を訪ねたが出掛けた後でいなかった。
午前中 Uffizi画廊とPitti宮殿 国立美術館に行った。IDカードですべて無料。ウフィツではボティチェリの「春」や「ビーナスの誕生」などの他に
キリストの絵や壁画 彫刻など。
昼過ぎからアカデミア美術館に行ってダビデの像を見るつもりであったが2時前に閉まってしまい見ることができなかった。明後日また来る。
Firenzeの中央にあるでっかいDuomo(ドゥオーモ・カテドラル)に行った。中にはミケランジェロの晩年の作である「ピエタ」の大理石像があった。
ちょうど日本人の団体が来ていたので俺も一緒にガイドの説明を聞かせてもらった。

   【Duomoは サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂】


   

   

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12月29日(木)

今日はPisaに行った。日帰り。見たかったのはかの有名なピサの斜塔だけである。
昼ごろ着いたのだがちょっと勿体を付けてマーケットで買い物をしたりMuseumに行った。1時間半ほど後にやっと斜塔のほうに出向いて行ったが
曲がり角を曲がったときに突然 彼方にグラッと傾いている円柱形の塔が見えるではないか。異様であった。しばらくいろいろな方向から眺めてみた。
やはり奇妙である。なぜかとてもユカイになって一人でニヤニヤしてしまった。なぜか。

もうすぐ1978年である。だが全く実感がわかない。マスコミと全く接していないからか。街にしてもそれらしい雰囲気は全くなし。
奴ら(イタリア人)はクリスマスは静かに祝って新年はドンチャン騒ぎをするのだろう。

   

   

   

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12月30日(金)

Firenzeの街をぶらぶら。アカデミア美術館でミケランジェロのダビデ像他 力作を数点見ることができた。
昼前 アカデミア美術館に行く前 通りでばったりとバルセロナで会って一緒にメシを食ったパリのパーマ屋に再会した。
彼はフィレンツェで知り合った日本人夫婦と一緒に行動しているらしい。彼らと一緒にメジチ家の礼拝堂に行った。
やはり日本人の団体が来ていてガイドの説明を聞かせてもらった。ミケランジェロ作の有名な「昼と夜」「曙と黄昏」があった。

   

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イタリア2

2021年08月31日 | 日記
12月23日(金)

朝7時半ごろのローマ行きに乗ろうと思って45分前に駅に行ったら7時何分発の汽車が遅れていたのでそれに飛び乗った。
2時間ちょっとでRoma。駅に荷を預けようとしたらバッグとシュラフで2ピーシーズだと言う。一つの背負子に納まっているのに。
今までどこの国に行っても一つで通って来たのに。それにイタリアではコインロッカーを見かけない。硬貨が100リラ(約33円)以下しかないので
作れないのか。まあとにかくシュラフを外し“ひとつ”にしてペンションを探しに出掛けた。
「ヨーロッパ1日10$」の本に乗っていた所をあたったが一つ目はいっぱい。そこにいた若者が教えてくれたが行かずにその他のペンションを探した。Locadoと言うのがPensionの下。安宿街にある一つのペンションを訪ねたところ出てきた彼女の母親がしていると言う2階上の部屋に案内してくれた。
そこは「1日10$」の本に載っていた所だった。3人部屋で1日2000リラ 約700円弱。 決めた。
 
夕方 コロッセオとフォロロマーノ カラカラ浴場に行った。コロッセオでは30分ぐらいの間に二組も若い日本人団体が来ていた。
先のほうは女子大生風40人ぐらい。後のほうは聞いてみたところ東京にあるデザイン学校の生徒で研修旅行で来ているらしい。一緒に写真を撮った。


   

   

   

      
これは絵ハガキ
      一番上の写真の上下中央あたりがこの剣闘士のいるところの地上にあたる。
      地下には小さい部屋がいくつもあり猛獣や剣闘士 奴隷などが入れられていて
      人力のエレベーターで地上に送られていた (見てきたような本当の話)
   

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12月24日(土) クリスマスイブ

   

トレビの泉 ナントカの階段 サンアンジェロの城 バチカンに行った。トレビの泉で男のガキ二人が水の中に何か投げ込んでいるので
「何かいな?」と思ってよく見ていたらどうも磁石らしくて それをテグスに結び付けて泉に投げ込まれたコインを採っているのだ。
しばらくしてポリスが来たので二人は逃げて行った。10分後 近くをぶらついていたら車の陰で金を数えている二人を見つけたので
いくら稼いだのか聞いてみたところ一人は1850リラ もう一人も1800リラ 約600円である。
これが正午のことだから1日中していたらこの3倍は軽いのではなかろうか。観光客がコインを投げ入れている前で堂々とやっているのが
ちょっと悲しかった。

   【その時は特に何も思わなかったのだが いま改めて「硬貨が磁石に付くのか?」という思いから
    1978年に持ち帰ってきた各国のコインを引っ張り出してきて調べたら写真左側の5枚に加えて
    ついでに調べた日本の硬貨の旧50円玉が「バチッ!」と吸い付いた。
    流通している日本の硬貨で磁石に付くのは昭和30年~41年に作られた50円硬貨(2種)のみである。
    残念ながら手持ちのイタリアコインはアルミの10リラしかなくて それより高額のコインでは検証できなかった。
    おそらく100リラあたりがニッケルを多く含んでいて磁石で採ることができたのではないかと思う。
    写真のドイツの小さいコインは日本の10円や5円と似たような色で銅や黄銅に見えるので磁石に付いたときはびっくりした。
    他はトルコの1リラとルクセンブルグの10フラン。
    トルコは行ったがルクセンブルグは行っていない。かすかな記憶だがガキどもと話していた時にこの外国のコインは彼らには無用だったので
    私にくれた物なのかもしれない。】

    

    


    ついでに形が面白いインドのアルミの硬貨 1パイサ~3パイサをご紹介。この形には何か理由があると思う。1パイサ胴貨は1957年鋳造。 

    

   
   
バチカンのサンピエトロ寺院では明日の式のための準備で忙しそうであった。寺院の中で椅子にぼんやり座っている日本人二人を見つけたので
近づいて行ったらなんとリスボンカシアスのYHで会ったウエさんではないか。ひと月ちょっとぶりである。
パリで車を売った後(安かったらしい)ジュネーブからヒッチでここまで来てあとナポリ ギリシャ イスラエルと行くらしい。
YHに泊まっていると言う。20分ぐらい話して別れた。 寺院近くのお土産物屋で絵葉書を買った。同じハガキでも店によって20リラから
100リラまで値が様々である。どうなってんの? 20リラ2枚 25リラ8枚買った(中世の町で暮らしている人々の絵)。安いと思う。
夕方 街の一番の繁華街であるスペイン広場の周りに行ってみたところ土曜の夜に加えてイブと言うことで賑やかである。
日本人もたくさん 手にはいっぱい買い込んだ品物の山。日本の女は化粧がドギツイなあとつくづく感じた。誰のせいやろか。


   

   

   

これは絵ハガキ こんなにきれい


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12月25日(日) クリスマスの日 小雨

近くの国立博物館に行ってみたら閉まっていた。残念。バスでバチカンまで(市バス100リラ)。バチカンの博物館も閉まっていた。
そうか 今日は祭日なのだ。昼前にバチカンに行ったのだがそろそろ人々が集まってきている。
寺院の中に入ったら法王が何やら読んでいる。人がいっぱい。15分ほどで終わり法王は拍手に送られて消えて行った。
外に出たらまたまた人がいっぱい。法王が建物のテラス(高い)の所から顔を見せるらしい。暫くしてやってきた。何やら読み上げた後
各国の言葉で「クリスマスおめでとう」と言ってのけた。日本語でも言ってくれたのが嬉しかったなぁ。式は1時ごろに終わって皆は帰って行った。
今日は日曜日とクリスマスが重なって街も静か。平日はブーブーとうるさい車もほとんど走っていない。毎日これくらいだと良いのだが。

  
   

   

   

   

   
   
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12月26日(月)

今日も祭日らしく商店は皆閉まっている。朝10時のEXPでアッシジまで。San Francesco聖堂はGood。壁画がすごい。日帰り。


   

   

   

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イタリア1

2021年08月22日 | 日記
12月20日(火)

朝 山を下りた。ベルンに出てフィルム コダカラー36EX 5.5F エクタクローム36EX 12.6F 高い。正午近くに出発するイタリア行きに乗った。
これでスイスの山々ともおさらば。 国境近くも最高の風景。 イタリアに入って景色はがらんと変わった。スイスに有った青い色が無くなり
茶色がほとんど。
ミラノまで行くはずの汽車は途中の修復工事のため通ることができないのでその間をバスで行くのだ。最初 何のことやら分からず迷った。 
夕方 ミラノで両替。1ドル845リラ。少し安いのではないか。シシリア行きの汽車を2時間ほど待って乗った。ナポリには朝早く着いた。

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12月21日(水)

中央駅まで行かず何コか手前で降り(「ナポリなんとか駅」と言うのがたくさんあってよくわからない)メトロポリタン(国鉄に)乗って
YH近くの駅まで。YHまでは300メートルである。 開館が7時なので1時間ほど待ってから入ったがチェックインは夕方とのことで
荷を預け早速ポンペイに行くことにした。
中央駅から私鉄で30分。遺跡はIDカードで無料。オーストラリア人のオジサン二人とオバサン一人に付いて歩いた。ガイド付き。
2時間ほどでガイドは終わり彼らはガイド役に1万リラ(3人分)払った(約3300円)。ぼっている。俺は学生と言うことで払わずに済んだ。ありがとう。
あとは一人で3時過ぎまで約5時間歩きまわった。

  【朝早く着く汽車はいつまでもボケーと寝ているわけにはいかない。終点のターミナル駅だったら大体の感じで起きることは出来るが
   途中駅での下車はそれは神経ピリピリ。日本のように停車駅での車内放送がないのでかろうじてプラットホームの駅名表示板だけが頼りになる。
   子供のように窓ガラスにへばりついて顔を動かしていたことを思い出す。】

   

   

   

   

   

   

   

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12月22日(木)

昨日の夜は何もすることが無く 加えて疲れていたので9時過ぎに床に就いた。朝7時に目が覚めた。同室のアメリカ人 オーストラリア人 
フランス人は今日出るらしくもう起きて支度をしている。ブレクファーストはみじめ。ココア パン2枚 バターとジャムのみ。
ゆで卵が2個付いてきたので喜んでいたら200リラ出せと言う。これ無しでは余りにもみじめなので200リラ払った。半分押し売りである。 
どこの国でもそうだがこんなパン数切れ(あるいは数個)と飲み物ぐらいでは腹がふくれるわけがない。呆れる。
玄関が閉まる前までロビーに座ってゆっくりしていたら階段から一人の日本人が降りてきた。昨日シシリーから来て今日はこれから
ブリンジスまで行ってギリシャに渡るらしい。阪大の学生である。道理でどこかおかしなところがあると思った。
ナポリの下町を歩き美術館に行った。 ピザ(ピッツァ)1枚200円ぐらい。円かった。

  【道端の屋台では大きな四角い鉄板の全面に粉を引きいろいろな具を乗せたお好み焼きのようなものを作って焼いていた。
   それを四角く切って売っていたがこれがナポリ式のピッツァなのかどうかは今もわからない。】 

   

  【ナポリの細く薄暗い下町を歩いていて屋台の雑貨屋があったのでこれを買った。キーホルダー(スゥィベル)とエジプト?の香水。
   キーホルダーはその後現在まで手放さず愛用している。これもヨーロッパの若者の真似だったがジーンズの斜め後ろのベルト通しに
   引っ掛けていた。彼らはジャラジャラさせていたが用心深い私はキーの部分のみ後ろポケットに挿して使っている。
   現在は5種類ぐらいの鍵を付けている。それにしても困るのは車のスマートキーである。マッチ箱状の黒いものは重いし嵩張るしで
   まったくスマートではない。「スマート」と言う言葉が出たついでだが携帯電話を「スマホ」と言っている段階でもう全然スマートではない。
   「スマフォ」と言いましょう。】


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スイス4

2021年08月18日 | 日記
12月18日(日)

今日は日曜で店がどこも閉まっている。よってアーミーナイフを買えない。Bernに行って両替。1ドル2.3SF. 手数料を取らなかった。
インターラーケンOst.に昼前着。グリンデルワールドまで往復9.4Fだが学割で半額の4.7F。グリンデルワールドに3時前に着いた。快晴である。
アイガー北壁が目の前。寒い。寒暖計は零度を指している。YHは歩いて20分の所にあった。部屋の窓からアイガーが真正面。
YHは泊まり5F 地方税0.9F 暖房1F 夕食5.5F 高くついた。



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12月19日(月)

金物屋でアーミーナイフを買う 59F。 昼間 山の麓と言うか街の外れを歩いた。道は凍っていて滑りやすい。樹氷がすごい。
山の陰で一日中陽が当たらないと思われるところを歩くと余計に寒く足の指も凍えそうだ。
3時頃疲れたのでアイススケート場でポケーと子供たちが滑っているのを見ていたら暫くしてひとりの日本人の男が声を掛けてきた。
場内のレストランでコーヒーとサンドイッチをおごってもらった。彼は26歳でグリンデルワールドのホテルでコックをしているらしい。
ここに来たのは5月頃で過去2年間はドイツのデュッセルドルフで働いていたと言う。休憩時間でブラブラしていたらしいのだ。約45分ほど話して別れた。
その後 駅で帰りの時間を調べていたらひとりの日本人女性に会った。大阪の旅行代理店に勤めていて無料の切符が手に入ったのでこっちに来ていると言う。
10日程の日程で1日1万円使い 5万円で土産 5万円は予備の計20万円を持ってきたらしい。いろいろと面白い話を聞かせてくれた。
ユングフラウヨッホに登りたいけど明日チューリッヒに行って あさって日本に帰るので時間的にどうしても無理だと言っていた。またの機会にするらしい。
彼女にヨーロッパの簡単な時刻表をもらった。 夜の雪景色はまた格別で雪を被った(と言うかくっ付いた)山々が月明かりに照らされて異様な感じである。

   
   

   

   

   

   

   

   


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スペイン7

2021年08月05日 | 日記
12月11日(日)

昼の列車でコルドバへ。
いやー まったくひどい列車であった。横揺れが激しいのだ。7時過ぎ着。さっそく宿を探したのだが最低で150p。高い。
何時間も考えた挙句 夜行でマドリードまで行くことにした。時間があったので荷を駅に預け街をぶらぶら。
賑やかなところから離れた所にあった立ち飲みのバルに入ったらオッサンばっかし。ビノ・ブランコ(モンティージャ)を頼んだ。そしたら
それを飲み終わらないうちに一人のオヤジからもう一杯おごってもらった。しばらくして片足のオヤジが入ってきて彼からも一杯。
またしばらくして若者が入ってきた。英国人ロンドンから。彼はヒッチハイカーでほぼ無銭に近い旅行をしているようだ。
昨日は血を400㏄売ってきたらしい。すごい。今夜も公園で寝るらしい。

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12月12日(月)

昨日の汽車は12日の午前1時だったので12時前から予約のため並んでいたが結局座席は売り切れ。セビージャからの汽車だから
そこで既に無くなってしまったようだ。だから予約をせずに乗り込んだのだがやってきた車掌から167p請求された。何故かわからない。
「次の駅で降りろ」と言うので「ハイハイ」とそのまままた通路に座り込んで眠ったが結局その後からは何も言ってこなかった。
朝8時 マドリード着。さっそくYHに行った。シャワーを浴び大使館に行ってみたが手紙は来ていなかった。ロスクアトロでシマ氏と再会。
夜 一緒にメシを食いに行った。

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12月13日(火)

朝7時過ぎに起きてトレドに行った。この時期の朝7時はまだ夜中で8時過ぎにならないと夜が明けない。トレドまで汽車で2時間弱。
この町はスペインの偉大なる画家グレコが住んでいたところである。
その他 スペインの革命の時の重大な舞台である と以前一緒の部屋に泊まっていたトク氏が教えてくれたことがある。
時間を持て余し夜6時前の汽車でマドリーに戻った。

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12月14日(水)

今日はセゴビア。やはり汽車で2時間弱。風景が山あり谷ありで昨日より良い。ローマ水道橋は良かった。
夜 ロスクアトロのシマ氏と安食にメシを食いに行った。彼はあと10日程でカナリア そして南米へと行くらしい。
リオのカーニバルと共にペルーのインカである何百年(たしか500年)に一度の祭りを見に行くためだ。くそっ 羨ましい。

   

   

   

   

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12月15日(木)

今夜の汽車でバルセローナまで。 YHを出てチャマルティンに行きにロッカーに荷を預け 郵便局に行き撮影済みのフィルムを約30本
(Just1キロ)日本へ送った。航空便で572pts。無事に届きますように。
安食堂に行きメシを食った。今夜は食事ができないので腹いっぱい食べた。186pts 最高。パエジャ40p サラダ30p 肉と玉子のチップ60p 
デザート50p パン6pである。満腹。
午後 考古学博物館へ行ってアルタミラの洞窟壁画の模写したものを見ようと思ったが既に1時半で閉まっていた。無念!

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12月16日(金)

朝8時過ぎバルセローナ着。荷を預け駅のベンチに座って地図を見ていたら一人の日本人若者が話しかけてきた。
着ているものは我々のような旅行者と違ってヨーロピアンタイプでキメている。聞いたらパリでパーマ屋をやっているらしい。20歳前後。
1年だけの滞在だそうだ。一緒にコーヒーを飲み 俺の今夜の宿探しに付いてきた後昼メシを食った。
夕方の急行でパリに戻るらしい。何か気色の悪い奴だった。 
夕方6時過ぎピカソ美術館に行った。入った時 最初は 建物も狭く「なんやこんなもんかいな」と思ったが もう一軒あると聞いて行ってみたら
なんと広々とあって見るのに疲れるほど。デッサンやベニヤ板に描いた下絵 青い絵 ぺラスケスの絵の模写などいっぱい。
とてもゆっくり見ていられないので(閉館間近か)また明日来ることにした。 明日の夜行でスイスのジュネーブへ。

   【彼は「パーマ屋」とは言ってなかったと思う。私がまだ「美容師」と言う言葉を知らなかっただけだったのか。】

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12月17日(土)

朝 さっそく宿を出て荷を駅の一時預かりに置いた後 まずは残った400ptsをスイスフランに替えた。コミッション込みで443ptsで10sfであった。
昼 ピカソ美術館に行き昨日の続きを見た。昼メシは昨日の夕方に入ったレストラン(ボデガ)で再度コース(メヌー・デルディア)をとった。
サラダ パエジャ 羊の肉とポテト デザートとパンで125pts。安い。腹いっぱい。 
午後再びピカソ美術館に行こうと思ったがヤメ。街をぶらついた。クリスマスが近いので街も何やら賑やかな感じ。
カテドラルの周辺ではツリーや飾り物などの店がいっぱい並んでいる。
19時10分 国境行き。国境でトク氏と再会した。イタリアに行くらしい。22時40分発でジュネーブには朝の8時ごろに着いた。
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